あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のように仄かに淡い
決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女の眼のように遥かを見遣ってはならない
たしかに此処で待っていればよい
それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛の音のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない
そうすればそのうち喘ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜の空にたなびいていた
言葉なき歌
「言葉なき歌」は、1936年『文学界』12月号に発表された。
「あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のように仄かに淡い」
この詩は、中也が希求しながら、しかも到達できないでいる詩法の核心を、「あれ」という指示代名詞によって暗示しているようにも思える。が、ここに歌われる「あれ」は、「彼岸」あるいは「他界」そのものを指しているのではあるまいか。
はるかな時空の距離にもかかわらず「此処」で待つ以外に方途がないという逆説は、確かに中也の詩法の核心でもあったが、「死」という負の種子を抱いている私たちの「生」がかかえこんだ捩れの中心でもある。
「それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛の音のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない」
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