風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間、小さな紅の花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
酷白な嘆息するのも幾たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛え、
去りゆく女が最後にくれる笑いのように、
厳かで、ゆたかで、それでいて佗しく
異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまえに腕を振る。
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃があればよい!
その余はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!
私の聖母!
とにかく私は血を吐いた!……
おまえが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直でなかったからでもあるが、
それというのも私に意気地がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母!
いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披いてくれるでしょうか。
その時は白粧をつけていてはいや、
その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射していて下さい。
何にも考えてくれてはいや、
たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土の径を昇りゆく。
「盲目の秋」は、1930年4月『白痴群』第6号に発表した。
「風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。」
という2行でⅠは始まる。Ⅰで印象に残っているのは、「去りゆく女が最後にくれる笑いのように、」「厳かで、ゆたかで、それでいて侘しく/異様で、温かで、きらめいて胸に残る……」である。そしてⅡに移るが、ここで転調する。
Ⅱでは「人には自恃があればよい!」が中心である。Ⅲで再び転調して、「私の聖母!/とにかく私は血を吐いた!……」と始まる。そして「ごく自然に、だが自然に愛せるということは、/そんなにたびたびあることでなく、」と歌う。
中也が泰子に求めていたものが、「母性」そのものであったこと、再求愛のモチーフが母性への回帰で終わることを物語っている。
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