みなさん今夜は静かです
薬鑵の音がしています
僕は女を想ってる
僕には女がないのです
それで苦労もないのです
えもいわれない弾力の
空気のような空想に
女を描いてみているのです
えもいわれない弾力の
澄み亙ったる夜の沈黙
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みているのです
かくて夜は更け夜は深まって
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいわれないカクテールです
空気よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 来るのです
空気よりよいものはないのです
寒い夜の痩せた年増女の手のような
その手の弾力のような やわらかい またかたい
かたいような その手の弾力のような
煙のような その女の情熱のような
炎えるような 消えるような
冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです
『在りし日の歌』より
「冬の夜」は1933年2月に安原喜弘宛の手紙に最初現われ、1935年『日本詩』4月号に発表された。1933年の2月と言えば、中也が神経衰弱に苦しんでいた頃である。
「えもいわれない弾力の
澄み亙ったる夜の沈黙
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みているのです」
ここで中也は、夜の空気と薬鑵という卑近なものによって、自分の宇宙を作っている。「影と煙草と僕と犬」……自分の身の回りのありふれた物だけで詩の世界を作った中也は、この作品では夜の空気の素晴らしさを歌っている。「冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです」と。
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