村の大きな時計は、
ひねもす動いていた
その字板のペンキは
もう艶が消えていた
近寄ってみると、
小さなひびが沢山にあるのだった
それで夕陽が当ってさえが、
おとなしい色をしていた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴った
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった
「村の時計」は、1937年『四季』3月号に発表された。長男文也の死後、奇異な言動が現われるようになった中也は、この年の1月、千葉寺の中村古峡療養所に強制入院させられた。2月15日、療養所を無断で退院し、27日鎌倉に転居する。扇ヶ谷の寿福寺境内にある6畳二間と4畳半の台所のある小さな家である。
「村の大きな時計は
ひねもす動いていた
その字板のペンキは
もう艶が消えていた」
「村の時計」は、最初「或る夜の幻想」の第2節として書かれた。後半の4、5、6節は、「或る男の肖像」1、2、3として発表されている。
「字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかった」
この詩は、この2行で終わっている。
ご感想
感想を書き込む