お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は、
まるで、金や、銀ではないか
金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬の端に
やって来たれど金や銀は
なおもとおのき、沖で光った。
岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々していた
しかも工場は、音とてなかった
煉瓦工場に、腰をば据えて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴ってた。
沖の方では波が鳴ろうと、
私はかまわずぼんやりしていた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだった
ポカポカポカポカ暖かだったよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた
鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジッとしていた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけていた
窓の硝子は陽をうけてても
ちっとも暖かそうではなかった
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
* *
* *
煉瓦工場は、その後廃れて、
煉瓦工場は、死んでしまった
煉瓦工場の、窓も硝子も、
今は毀れていようというもの
煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は来ない
煉瓦工場に、僕も行かない
嘗て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、ただ立っている
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
相当ぶきみな、煙突でさえ
今じゃどうさえ、手出しも出来ず
この尨大な、古強者が
時々恨む、その眼は怖い
その眼怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯き、案じていれば
僕の胸さえ、波を打つのだ
「思い出」は初出が1936年『文学界』8月号である。この頃中也は、『四季』『文学界』『改造』『紀元』などに詩、訳詩を多数発表した。
「思い出」は、次の4行で始まる譚詩である。
「お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は、
まるで、金や、銀ではないか」
春のはじめお天気の日の岬の端の煉瓦工場が現われる。ポカポカポカポカ暖かだった。鳥は啼いていて窓のガラスは陽をうけていた。
けれども煉瓦工場は今は廃れて、かつて煙を吐いていた煙突も今は不気味だ。「金や銀の沖の波」で始まったこの詩は、この不気味さで終わっているのである。
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