高松高等裁判所平成25年(ネ)第175号損害賠償請求事件
いわき病院の精神科医療の過失
「心神喪失者の法的無責任能力」の法的原理を私たちは尊重します。しかしその事は「心神喪失ではない者に対する心神喪失者等として心神喪失者の法的無責任能力を拡大適用することではありません。私たちは、人間としてこの世に生を受けた以上は、人間として法的権利をどこまでも尊重されることが必須の条件です。精神障害を発症しても、人間としての権利は安易に精神科医師に委ねて好いものではありません。また心神喪失は一時の精神の状態ではなく、恒常的な状況を確認して認定されるべきです。殺人事件の現場を想像して下さい。殺人行為を行う時、殺人者のほとんどは正常心ではなく、異常な興奮や心理状態にあることがほとんどでしょう。その状態は「心神喪失等」と認められるのでしょうか。法的無責任能力を拡大して適用することは、人権擁護ではありません。安易に行われる個人の法的責任能力の制限と剥奪です。法的責任能力を守らないところで、人権が尊重されません。医療保護を大義名分にして、人権侵害を安易に行う事を容認してはなりません。
いわき病院は「外出許可者の10人中8〜9人以上が殺人する高度の蓋然性を原告(控訴人)が証明できなければ、外出許可を出した病院に法的責任を問えない」と主張しました。これは「10人中7人以下の殺人危険率であれば、殺人事件が発生しても、外出許可を出した病院は責任を取る必要は無い」という反社会的な論理です。心神喪失者の法的無責任能力は精神科病院の社会に対する法的無責任ではありません。精神科病院は市民に命の犠牲を要求できる権利を持ちません。しかし、おかしいことに、精神科医療機関が「10人中7人までの殺人容認」を主張した場合、「その主張はおかしい」、「殺人を容認する、飛んでもない主張だ」という反論の声が巻き上がりません。何故誰もが黙るのでしょうか?日本の社会は、心神喪失者の法的無責任能力の原理を主張されると、思考停止になるように思われます。10人中1人が殺人すれば、異常事態です。100人中1人の殺人でも同様です。殺人を容認する論理は間違いです。知っていて放置することは犯罪です。大切なことは全て人間の生命の保全であり、生きる権利です。それが、いわき病院事件裁判の課題です。
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- いわき病院の相当因果関係の論理と狙い
- いわき病院の過失の本質は医療放棄
- 国策を主張しても免責理由にはならない
- 精神科開放医療を改善する課題
- 病院外の第三者殺人に対する賠償責任
- 高度の蓋然性の残酷さを審議することなく判決するのは間違い
- 裁判の目的は常識的な精神科医療の実現
- 裁判の教訓を日本の精神科開放医療の実現に役立てる
- いわき病院入院と精神科開放医療
- いわき病院代理人の10人中7人までの殺人を容認した弁論
- 渡邊朋之医師が主治医を引き継いだ時の不始末
- 風邪症状の診察と離脱症状の見逃し
- 野津純一氏に対して行った精神科開放医療と看護
- 地裁IG鑑定人の事実誤認
- いわき病院は自ら地裁判決を否定した
- UD鑑定意見
- NS鑑定意見
- デイビース医師団鑑定意見
- FJ鑑定意見
- いわき病院は鑑定論争で敗北した
- 最終段階のいわき病院の戦術
- 複数の向精神薬の同時突然中止
- 経過観察の怠慢と医療拒否
- 野津純一氏の病状の悪化
- 自傷他害の危険性を亢進する処方変更の後で患者を守らなかった
- 医師としての基本的素養の欠如
- 精神障害者野津純一氏のための精神科医療
- 北陽病院事件裁判
- 法廷恫喝とサボタージュ宣言
- 常識論に基づく北陽病院事件判例
- 著しく不適切な以和貴会の精神医療行為
- 過失免責の歴史と渡邊朋之医師の医療水準
- 「開放医療」は免罪符ではない
- 渡邊朋之医師は誤診を押しつけて患者と対話が成立してなかった
- 統合失調症診断に不安な主治医と患者の対立
- 渡邊朋之医師は野津純一氏の病状を正確に把握してない
- 渡邊朋之医師は野純一氏の中断症状悪化を無視した
- 薬剤師の離反を地裁は認識していない
- いわき病院に過失責任を問うことに対する地裁の迷い
- 地裁判決の誤り箇所
- 法廷は日本の精神科開放医療を促進できる
- 本件裁判の国際性
- 裁判の結果として普遍性がある精神科開放医療の実現を願う
- 被害者遺族のなげき
- 専門中立機関の原因調査が必要
- 精神障害者による殺人事件に対する賠償
- 制度改革の必要
- いわき病院の場合
※「いわき病院事件の高裁鑑定論争」はPDF版もご用意しております。
必要な方は下記リンクからダウンロード・印刷等をしてご覧ください。
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