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高松高等裁判所平成25年(ネ)第175号損害賠償請求事件
いわき病院の精神科医療の過失


平成27年3月2日
控訴人:矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


7、付記:精神科医療と賠償責任

本項を記載する目的は、日本の精神障害者による重大犯罪に関連する制度的な問題に関する視点であり、いわき病院と渡邊朋之医師の過失責任に焦点を当てたものではない。


1. 被害者遺族のなげき

控訴人矢野には精神障害者に家族を殺人された遺族から「民事裁判を提訴したい」という相談が時折舞い込んでくる。しかしながら残念なことに、裁判を提訴することは極めて困難である。第一段階で、精神障害者による殺人事件被害者は病院から治療を受けた患者ではないので、医療事故の被害者ではないとして弁護士に拒否されて、受任する弁護士を探せない。また、弁護士の多くは「これから精神科医療を勉強するのは大変で、とてもできない」と尻込みする。

そもそも、殺人した犯人は、既に「心神喪失者医療観察法で『心神喪失者等』」と認定されていて、個人情報である医療記録を入手することが困難である。また、精神科医療記録を入手できたとしても、その解読には多大の困難がある。控訴人は現実に何人かの精神科医師と相談し、助言を求めたが、SSRI抗うつ薬パキシルの突然中止を明確に指摘する精神科医の出現は控訴人矢野が問題点を絞り込んだ後である。精神科医師の多くは、自らは解っていても他の精神科医が不利になる情報を提供しようとはしない職業倫理を持っている。

精神科医療に素人の精神障害者犯罪被害者が民事裁判を維持することは極めて困難である。この経験を踏まえて、日本の精神科医療制度には以下の制度的欠陥があると指摘できる。



2. 専門中立機関の原因調査が必要

精神障害者による殺人事件は年間120人〜140人であるが、その原因や要因解析は体系的に行われていない。特に精神科医療の専門的な視点から、問題点を解析と分析を行うことが行われていない。精神医学界もしくは公的機関が精神障害者の原因者となる全ての殺人事件に関する調査を行い、報告書を公表することが望まれる。これにより、わが国の精神科医療が抱える問題点や改善を要する所を明らかにすることが可能となり、わが国の精神科医療の発展を促進する事になる。またひいては、精神科開放医療に対する国民の信頼を向上し、精神障害者の社会参加を欧米先進諸国並みに達成することが可能となる。

わが国では精神科医療で発生した重大事故に関連した調査や情報提供は行われていない。このことは、事件や事故に関する客観性を持った視点や世論が形成されないままで放置される結果となっている。情報に客観性がないところでは市民社会の安全と精神障害者の人権に配慮した精神科医療を期待することはできない。精神障害にかかる世論が成熟するには情報の公開が必要である。



3. 精神障害者による殺人事件に対する賠償

現在では犯罪被害者給付金制度があり、殺人事件被害者に対してわずかな金額の公的給付は行われている。しかしながら、わが国の制度として精神開放医療を促進するのであれば、第三者に対する全ての精神科医療事故に関して治療していた病院は医療過失証明の有無にかかわらず保険金賠償を支払うことを義務とすることが正当な社会制度である。これは交通事故では当然のことであり、保険金で賠償する体勢を持たない運転手はそれだけで社会的制裁の対象となる。交通事故では運転者の過失の有無にかかわらず、被害者は保険金による損害賠償支払いが行われる。また、運転者の過失は公的機関により調査解明される事が、社会として当然の手続きである。これに対して、運転者の過失や事故原因を被害者側が調査と解明することが義務とされるならば、道路交通の安全を確保することはできないことになる。

精神科医療は精神科開放医療を促進することが責務である。この場合、社会の仕組みとして、先ずは、医療機関側の責任の有無にかかわらず、全ての第三者の被害者に対する保険金による損害賠償を行う事を義務とすることが、社会として備えるべき制度である。精神科医療の知識を持たない素人の被害者遺族に過失証明責任を課した現行の制度は、ある日突然前触れもなく命を奪われた被害者に対して極めて苛烈な制度である。この様な制度は改善されることが望まれる。

ここで明らかにしたいポイントは経済的な損失回復に限るという視点で、病院の責任追及とは全く別の問題として、取り組む必要性がある。精神障害者を治療して精神科開放医療を促進していた病院に過失があったか否かの問題と切り離して、ともかく事故が発生した後では、被害者の経済的損失に社会として対応する事が求められる。それは犯罪被害者給付金のようなわずかな一時金ではなく、被害者が生きていた時の経済的価値に見合うものである必要がある。

本件の民事裁判は「損害賠償請求事件」であるが、沢山の精神障害者による殺人事件被害者が「訴えること」を希望するが、現実には民事裁判提訴にすら至らない。病院が行った過失を証明する事を被害者が証明する事を要件とすれば、実質的に、殺人されたほぼ全員が命の代償を賠償されないことになる。控訴人矢野は法廷で戦えているが、他の被害者は戦えない、実質的に不可能である。命の損失があったにもかかわらず、法廷で賠償責任を議論する前に、提訴できないのが今日の日本の現実である。従って、少なくとも「損害賠償請求」の部分は、保険金で対応すれば、殺人事件後に多くの被害者が持つ満たされない心が緩和される可能性がある。

本件裁判を控訴人矢野が行う目的は、いわき病院医療の錯誤と怠慢及び医療拒否を指摘して、日本の精神科医療の改善を促進することである。日本で精神障害の有無にかかわらない普遍的な人権尊重が実現することを願っている。



4. 制度改革の必要性

日本では刑法第39条で心神喪失者の法的無責任能力が規定されているが、現実には「心神喪失者」の法的適用は拡大的な運用が行われている。日本では「心神喪失者等」として「心神喪失でない者」も「心神喪失と同等」にして、幅広く心神喪失の法適用が行われている。特に、犯行時点に一時的に心神喪失であったと認定される場合、精神鑑定医は、心神喪失ではない犯罪者の作為や嘘を精神鑑定で見抜くことが可能とは思われない。積極的に心神喪失を認定することは人権擁護ではない。罪に課せられない本人は人間として法的権利が安易に制限されることでもある。人権を守る制度の中で、安易な人権侵害や人権制限が行われることは考慮すべき点である。

英国では心神喪失として認定される者は日本より二桁少なく、心神喪失者と認定される事は、高度保安病院に残る一生涯の間強制入院される事を意味する。ところが、心神喪失と認定されなければ、死刑のない英国では殺人事件の犯罪者はいずれ開放される期待を持つことができる。わが国で、殺人者が心神喪失者等として罪に問われない場合、市民である第三者の殺人被害者には、命の代償がない。また病院の過失責任を証明する事は、99%不可能である。それは、控訴人が体験している、本件裁判の経過を見ても明らかである。心神喪失を心神喪失者等として安易に拡大することは心神喪失者等とされる者の法的権利の制限であると共に、心神喪失者等の犯罪により被害を受けた者に対する法的権利擁護を抑制することでもある。何人も、国家により基本的人権が制限されることがあってはならない。

精神科開放医療の促進と実現は日本社会が国連などの国際社会から課せられた政策課題である。しかしながら日本では精神科病床数は人口1万人あたり30床程度で、これを下げる政策は実現していない。他方眼を欧米諸国に転じれば、多数の諸国が日本の3分の1以下の水準まで引き下げを達成した。英国で解析された事例では、精神科開放医療を促進して、精神障害者による殺人数は減少した。日本も「精神障害者は危険」という「思い込み」から社会が認識を転換する必要がある。そのために精神科医療は医療技術の改善が求められ、看護体制も充実する必要がある。しかしながら、現実に目を向ければ、精神障害者の社会参加を拡大する過程で、矢野真木人の死のような不慮の事故は必ず発生し、それは、統計的な現実である。その時に、国家政策を理由にして、命の代償を賠償しないのは、制度として片手落ちである。また、日本が「心神喪失者等」として心神喪失の認定範囲を国際的な水準より拡大するのであれば、「心神喪失者等」による殺人事件被害者の権利回復を行わない事は、健常者の人権を無視することになる。精神障害者の人権問題は、健常者の人権問題でもあり、日本における人権認識と制度運用の普遍性が問われる。

控訴人はいわき病院を相手にして民事裁判で戦えている。しかし被害者の大多数は、被害者側に過失を証明させる現在の体制では戦えず、泣き寝入りする。控訴人は矢野真木人の死後9年以上継続して法廷に臨んでいるが、多くの人はその経済的負担に耐えられない。また、控訴人は、外国の世界的な権威者を持つ学者集団の助けがあるので戦えている。この様な人脈を持てる精神障害者殺人事件被害者は今後出現することは困難であろう。被害者遺族に病院の過失責任を証明させる現在の法廷手続きはむごたらしい制度であり、改善の余地がある。交通事故であれ、精神障害者の殺人であれ、第三者の市民に対して発生した人命の損耗に社会が対応するという視点では同一であり、制度をこのままで放置することは許されない。



5. いわき病院の場合

矢野真木人が殺人された直後に、控訴人矢野は検察官に「いわき病院を起訴していただきたい」とお願いしたが、検察官から「証拠不十分で、事件として起訴できない」と言われた。当時の控訴人矢野は医療記録を見ることができず、証拠を持たず外面的な蓋然性からでは、いわき病院の刑事事件性を主張することはできなかった。当時捜査していた検察官にしても、仮に医療記録から抗精神病薬プロピタンとSSRI抗うつ薬パキシルの突然中断の事実をつかんだとしても、精神科医療知識が不足しており確信を持って医療放棄を主張することは困難であったと思われる。そもそも検察官の専門は刑法であり、精神科臨床医療ではない。

控訴人は本件を平成18年6月に提訴してから、今日で8年9ヶ月を経過した。その間に行った精神医学や精神薬理学の勉強の成果として、今日ではいわき病院の精神科医療を正当に行ったとは言えない精神薬理学の錯誤、看護師の怠慢、そして医師の知識不足、不勉強及び治療放棄を指摘できる。また、控訴人矢野千惠が薬剤師であることも幸いした。更に、控訴人矢野はデイビース医師を中心とする英国側の精神科医師5名の協力を得られたからこそ、ここまで解明することできたと言える。デイビース医師団は日本の精神医学界の国内事情に左右されることがなかったことは、強みであった。しかしながら、これらの状況はほとんどの精神障害者による通り魔殺人事件被害者には可能なことではない。すなわち泣き寝入りするしかないのである。

いわき病院が野津純一氏に対して行った精神科医療は、精神障害者に心神喪失が安易に認められるという現実に安住した、恐ろしいまでの医療の退廃である。これが、いわき病院が野津純一氏個人に対してたまたま行った特殊事例であれば未だ救われるところがある。しかしながら、いわき病院代理人が弁明する論理の背景には、一いわき病院の特集事例とすることができない、日本における普遍的な事実や事例が沢山ある実態が推察できる。そもそも、精神科開放医療を推進していた病院に責任を問うことが間違いという論理、及び、10人中8〜9人以上が殺人するのでなければ責任を問われないとした高度の蓋然性の論旨の背景には、多数の責任を問われなかった殺人事件が埋没していると見るべきである。

控訴人矢野は、重大な社会問題を認識している。しかしながら、控訴人矢野が行い得る事は、本件裁判でいわき病院に民事過失責任を求めさせることである。そして、日本の精神科医療の改革は、控訴人矢野勝訴の後に始まると確信する。なお、控訴人矢野は民事裁判を提訴するに当たって、最初から「原告勝訴で決着」という甘い展望を抱いてはいない。日本の法廷の現実は厳しいものであると想定した。このために、デイビース医師団に参加を求めたのである。

控訴人矢野は日本の精神医療制度改革の歴史を学び、日本で精神医療に改善を求めるには、持続的な国際的な批判の眼が必要であると確信した。日本人として、日本の自己改革、自己改善能力に限界があるかも知れないと認識することは悲しいことである。しかしながら、控訴人矢野は長男矢野真木人が通り魔殺人された背景に許されざる精神医療の退廃を見た。本件裁判は、現段階における、私たちに与えられた宿命として対応している。



   
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