WEB連載

出版物の案内

会社案内

高松高等裁判所平成25年(ネ)第175号損害賠償請求事件
いわき病院の精神科医療の過失


平成27年3月2日
控訴人:矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


4、いわき病院の法的過失責任


3. 常識論に基づく北陽病院事件判例

北陽病院事件判決で、最高裁は犯人の岩手県内の病院からの無断離院と4日後の横浜市内における殺人事件に対する病院の過失責任に関連して、弁護側が提出した無理難題論を棄却して、常識的で妥当性ある判決を行った。


1)、最高裁は十中八九までの高度の蓋然性は要求していない

いわき病院は北陽病院事件で議論の対象とならなかった十中八九の高度の蓋然性の論理を持ち出して、過失責任を否定しているが、最高裁は過失を認定する前提としてそのような具体的な数値を上げていない。

本件で、いわき病院が「(薬剤処方変更が)本件殺人事件の原因となり得たか否か」と主張する前提は、救急救命率を参考にして、「高度の蓋然性=十中八九の(80〜90%以上の確率で)殺人」(いわき病院地裁第11準備書面、平成22年12月17日、P.14 、P28)で「本件殺人事件の原因となり得たか否か」と定義した。いわき病院は「十中八九(80〜90%以上の確率で殺人)の高度の蓋然性」という主張を持ち出して、殊更に困難で、現実的でない条件を頭の中で創りあげて「原告は因果関係の高度の蓋然性を証明できていない」との主張を行った。いわき病院が「原告は因果関係を証明できない」とした主張は「原告は80〜90%以上の確率での因果関係を証明できない」に等しい。しかし精神科医療ではそのような高度の確率で治療できる向精神薬は存在しない。いわき病院は精神という多様性を相手にする精神科医療ではあり得ない高度な確率値を持ち出して、患者の病状の変化に対応する臨床医療を軽視した主張を行っている。

控訴人矢野は「11月23日に実行された複数の向精神薬の同時突然中止は一連の事件を開始した重要な転機であった」と指摘しているが、「引き続く12月6日の野津純一による矢野真木人殺人事件を、高度の蓋然性(80〜90%以上の確率)でも、通常の論理でも、必然的かつ不可避的に発生した」と主張していない。いわき病院の過失の基本は治療放棄である。法的過失に至る重要な問題は、いわき病院と渡邊朋之医師の医療と看護に怠慢があり、野津純一氏に対して医療放棄を行っていたことである。普通の医療を行えば、いわき病院は野津純一氏の精神病状悪化に気付いて対処し、本件事件は発生しなかった。治療放棄があれば、仮に極めて低い生起率であったとしても、不幸な事件の発生を防止することはできない。


2)、高度の蓋然性とは常識的な起承転結の論理

相当因果関係が認定される「高度の蓋然性」とは、一般人が常識的に理解できる起承転結の論理である。「高度」という言葉が示唆する可能性がある「高級技術」とか「難解な論理」を意味しない。「誰でも、普通に、理解できる」、また「高度=殆どの人間が納得する」という程度の「高度」の意味である。現実にあり得ない「高度の蓋然性=高度の特殊性」をことさらに要求することは、発生した殺人事件の原因解明と、より良い精神科開放医療の実現を願う社会の要請を否定する。実現性が無いことを要求することは、何もやらない、もしくは、非道なことでも何をしても良いという論理である。それは、精神科医療という社会事業の担い手として、極めて反社会的な弁明である。本件裁判では、このことに着目しなければならない。この様な論理が精神科臨床医療で通用するならば、人権の普遍性が否定されることになる。


3)、殺人事件の発生は希な事象

殺人事件の発生は、(要因や要素を限定しても、1%未満の生起率に遙かに至らない)極めて希な事象である。そもそも高度の蓋然性で殺人事件の発生を予見することは不可能である。また高度の蓋然性で殺人事件が発生する事態は異常である。10人中8人以上でなくても、10人中1人、いや100人中1人でも殺人する可能性が想定されるような状況は異常事態であり、医療機関はその発生を未然に防ぐべく直ちに対応しなければならない。しかしながら、極めて希であっても不幸な殺人事件が発生し得ることは社会的な経験則である。いわき病院が主張した「高度の蓋然性で野津純一氏が矢野真木人を殺人する予見性を控訴人は証明できないので病院に責任は無い」という論理は間違いであり、個別事件の予見は万人に不可能である。そもそも生前の矢野真木人が野津純一氏に殺人されることが高度の蓋然性で予見可能であれば、その場所に出向かないなどの、回避行動を取ることも可能になる。また、矢野真木人でなくても、「不特定の人間に対する殺人を高度な蓋然性で予見できた」のであれば、いわき病院は自ら対応する義務があった。仮に、「殺人する確率が70%以下であるとしても、更に殺人確率が1%であるとしても、病院は殺人事件が発生する可能性を予見したが、高度な数値でないので、対応しなかった」のであれば、犯罪である。

いわき病院は精神医学的な裏付けがある現実論に基づかなければならない。野津純一氏には放火暴行履歴があり、事実いわき病院内でも平成16年10月21日に看護師襲撃事件があった。従って、いわき病院は病状が悪化した時の野津純一氏に暴力行動が発現する可能性を前提として、精神科開放医療を行う責任があった。渡邊朋之医師は野津純一氏に抗精神病薬プロピタンを中止して慢性統合失調症の治療を中断する際には、抗妄想抗幻覚作用が失われて、病状の再燃再発や悪化する可能性を、仮に低い確率であるとしても、予見する義務があった。また、低い確率だからこそ慎重に経過観察しなければならない。その上で、同時にSSRI抗うつ薬パキシルを突然中止したので、断薬症状の発現は高い確率(高度の蓋然性)で予想できた。渡邊朋之医師は主治医として病状の変化を慎重に確認する必然性があった。そしてアカシジア症状の発現などの兆候があれば治療的介入(向精神薬の投薬量を元に戻す簡単な対応である)を行う事で、自傷他害行動に発展する可能性を未然に防止することが可能であった。

現実に看護報告には12月1日以降に「イライラ、ムズムズ、手足の振戦」などの記載が増えていた。11月30日の渡邊朋之医師の診察でも「患者、ムズムズ訴えが強い」また「クーラー等への本人なりの異常体験(人の声、歌)等の症状はいつもと同じである」と、主治医自ら再発兆候のアカシジアと幻聴を確認していた。いわき病院は野津純一氏の病状の悪化を知らなかったから責任を回避できるのではない、いわき病院と渡邊朋之医師は知っていたが、治療的介入を行わなかったのである。渡邊朋之医師には精神科臨床医として自傷他害行動の発現は十分に予見可能な状況であった。渡邊朋之医師は「高度の蓋然性で野津純一氏が矢野真木人を殺人する予見性」等という空論をもてあそぶ必要は無い。

被控訴人以和貴会はUD鑑定人に対する質問外としたが、日常の患者の病状の変化に関する経過観察を行う医療的対応と、患者の顔面を正視する基本を徹底した看護が行われることが臨床医療の大前提である。被控訴人以和貴会の過失の本質は、入院患者野津純一氏に対する、SSRI抗うつ薬パキシルと抗精神病薬プロピタンの同時かつ突然に中止した精神薬理学的錯誤と、その後に患者の経過観察を主治医が行わなかった治療放棄である。治療放棄を行わず、誠実に医療と看護を行えば、精神科医療は殺人事件の発生に対して無力ではない。

いわき病院が主張した高度の蓋然性とは10人中7人までの殺人を容認する非人道的な意見である。このような現実的でない証明を要求することは、殺人事件の原因究明と責任の解明を不可能にして、殺人事件に対策をとることを否定して、基本的人権である生存権をないがしろにする反社会的な行為である。『「高度の蓋然性とは10人中7人までの殺人容認」に関連して、この主張は「いわき病院法定代理人」の弁論のために持ち出した主張であり、「いわき病院」の主張ではない、従ってこの主張を根拠にしていわき病院の責任を問うことは間違いである』という論理でいわき病院の責任を法廷が回避することはあり得る。しかし法廷代理人が法廷で行った主張や証言を、都合が悪くなれば依頼者の主張や事実関係ではないと、後から他人である法廷関係人が不明瞭な形で論理や認識を訂正することが容認されるのであれば、法廷は架空の議論の場となる。法定代理人の議論が効果的であればその議論を有効とするが、都合悪くなれば依頼人とは関係ない、誰も責任を取る必要ないとすれば、法廷審議は被控訴人に一方的に有利なご都合主義となる。



   
上に戻る