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いわき病院事件というのろし火


平成21年2月22日
矢野啓司
矢野千恵


医療法人以和貴会いわき病院(いわき病院)を被告として、いわき病院の医療過誤と過失責任を問い、私たち矢野夫妻が提訴した民事裁判に、矢野真木人を殺害した野津純一の両親(野津夫妻)が同調して、いわき病院と渡邊朋之医師の過失責任を問い提訴しました。二件の裁判は、平成21年2月2日に高松地方裁判所で開催された公判で併合されて一件の訴訟案件とされました(原告の私たちは、本件を「いわき病院事件」と仮称します)。


1、裁判の雰囲気

2月2日の高松地方裁判所民事裁判はラウンドテーブル法廷でしたが、訴訟関係人の着席位置が変わりました。これまで原告側は矢野夫妻と矢野代理人で、被告側にいわき病院と野津の各代理人が着席していました。ところが今回は、ラウンドテーブルで裁判長の対面に矢野が着席して、両側に野津代理人といわき病院代理人が着席しました。いわき病院代理人は野津代理人とは反対側に着席することになったために、孤独感を感じていたようにも観察されました。これまでの法廷との最も大きな違いは、原告矢野夫妻と野津夫妻代理人がいわき病院代理人の前で協議を行えるようになったことでしょう。

民事裁判では珍しく、沢山の報道関係者が傍聴して、殺人犯人の両親が殺された被害者の両親と一緒になっていわき病院の責任を追及する裁判の展開を見守りました。そして、「殺人した入院患者の両親が治療していた病院を訴えた」というニュースは香川県内で新聞報道され、インターネットで多方面に伝達されました。


2、精神科の動揺と危機感

私たちが精神科病院を訴えていることに関して、精神科医師の間で動揺と危機感があるようです。本件は、精神障害者が社会復帰訓練で精神科病院の許可を得て外出している間の街頭における健常者殺害事件ですが、「刑事裁判で懲役25年が確定したことは犯人に完全責任能力が認定されたことであり、民事裁判で犯人を入院治療させて外出許可を与えていた精神科病院が過失責任を問われることは、許されてはならない」と考えるようです。しかし医療過誤が発生した場合には、その医療過誤の事実を受け入れて自ら正すべきを正すことで、医師の仕事はより大きな信頼を獲得して、社会的責任を果たし、社会に貢献することができる、と私たちは確信します。

ところが、いわき病院は「仮にいわき病院に過失責任が問われるならば、今後精神科医師は誰でもまたどこの病院でも事故が発生すれば過失責任を問われて賠償責任を負わされたり、刑事責任を問われることになり、安心して精神科医療を行えない。精神科医師には診察の裁量権の幅が広く認められることが正しい社会的運用である。精神科医療で安易に責任が問われるならば、精神科医師になる者がいなくなる可能性があり、社会的損失である」という論理です。この見解は、多くの精神科医師や他科の医師にも支持されています。

私たちが本HPで掲載している記事を、ほとんどの医師は読む前には素人の戯言にちがいないと予断して、「素人の原告が、高度な専門教育を受けた医師の診断を医療過誤として過失を指摘するなんて、許せない」と考えるようです。ほとんどの医師は最初は私たちを批判します。しかし事実関係を詳細に知ると考えが改まります。私たちからたとえば犯人野津純一の顔面の「根性焼の瘢痕」の写真等の明白な証拠を提示されると、ショックを受けてしまい、多くの医師は私たちに対する批判を止めます。そして黙って私たちから遠ざかる方が多いのですが、中には医師として誠実に意見を述べてくれる方もいます。このような医師の助言は、私たちが精神医療的な問題点を解析する上で大変役立ちました。

精神医療の関係者、中でも精神科医師の皆様にお願いします。本HP記事を読んでいただきたく存じます。時間が無い場合には、以下の文章を先ず読んでください。私たちは闇雲に精神医療を批判しているのではありません。私たちは日本で適切な精神医療が実現されることを願います。私たちは日本で精神障害者が社会復帰を果たして、健常者とともに安心して生きられる社会が実現されることを願い、その条件を模索しています。

私たちは真面目に精神医療の実現に励んでいる医師が些細なミスをとがめられて過失責任を問われたり自由を奪われて拘束される未来像は望んでいません。どのような優れた医療を誠心誠意実践していても、患者による殺人事件などの事故が発生する可能性はゼロにはなりません。私たちは「全ての事故に対して医師は責任を取るべきである」とまで主張しません。しかし「いわき病院のような不充分な精神医学的知識で、患者からの診察要望にも応えず、医療上の過失を繰り返すような精神科医師や医療機関までも責任を問われなくて済むとしている慣行が成立しているかに見える現状は社会正義に反しており、公正な社会の実現を妨げている」と主張します。「いわき病院に過失責任を問うことは間違いである」と日本の精神科医師、精神科医師団体もしくは精神科病院団体が主張するのであれば、それは、「日本では非常識な精神科医療が普遍的に行われている」と自ら認めることに等しいでしょう。それこそ、改善されるべきであり、放置されてはなりません。いわき病院で現実となったことは果たして偶発的な片隅の事例でしょうか。それが問われます。


◎、いわき病院医療の問題点を指摘したもの
  29、■いわき病院の精神医療の問題点(要旨) (2007年11月14日更新)
  28、■いわき病院の精神医療の問題点(全文) (2007年11月14日更新)

◎、いわき病院医療の過失責任を問うもの
  40、■統合失調症治療薬を中断する精神医療 (2008年12月26日更新)
  39、■統合失調症治療の精神医学的過失 (2008年10月28日更新)
  38、■精神障害者による殺人犯罪被害者の立場と視点 (2008年8月20日更新)
  37、■いわき病院の過失と違法行為 (2008年7月28日更新)
(上記の文書は総論的です。個別事象の多くは初期の報告書で記述解析されています。)


3、いわき病院事件の論点

いわき病院事件の民事裁判における論点を整理すれば以下の通りです。

  (1)、いわき病院は医療過誤をしたか否か?
  (2)、医療過誤を犯していた場合には、その事で過失責任を問えるか否か?
  (3)、医師法違反などの法律違反を犯したか否か?
  (4)、レセプトの不正請求などの反社会行為を犯したか否か?

上記の(1)、(2)、(3)は民事裁判の最終目的である賠償責任と過失責任の認定に関係する事項です。要点はいわき病院が医療過誤を犯したか否かで、医療過誤が「結果予見性」と「結果回避可能性」の二点に照らし合わせて、「賠償責任を伴う過失と言えると判断できるのか否か」が問題になります。いわき病院は、純粋に医学的な判断として医療過誤を犯したのかどうか、またその医療過誤が過失責任の要件になるか否かは、事実と証拠に基づく裁定事項です。更に、いわき病院が医療行為の中で法律違反を犯していた場合には、医学的要素以外の法律違反もいわき病院の過失構成要素となります。

また(3)、と(4)、は被告渡邊朋之医師の精神保健指定医といわき病院の病院設置許認可等の行政処分に関係します。いわき病院が違法行為と反社会行為を行っていた場合には、仮に民事裁判では過失責任が問われない判決がある場合でも、独立した問題として、行政処分など社会的制裁の対象になり得ます。


4、いわき病院との法廷論争

私たちは矢野真木人が殺害されて、「犯人は精神障害者である」と伝えられるまでは、精神障害者と健常者の違いすら理解しない全くの素人でした。私たちは事件直後から刑法第39条と精神障害に関係する勉強を始めました。私たち矢野夫妻は、いわき病院の犯人野津純一に関する診療看護などに関する医療記録を詳細に調査して医療過誤の事実を法廷で指摘しました。これには薬剤師である原告矢野千恵の解析が基本部分を構成しています。

民事医療裁判では、原告が自ら調査して証拠資料を整えなければならず、これまでの裁判では原告に決定的に不利な場合が多い状況でした。これが医療関係者の常識であるため、批判者のほとんどは「原告は証拠も無く、ただ思い込みだけで病院を提訴しているに違いないので、けしからん」と思い込みの判断をするようです。しかし、私たちは矢野夫妻の名前で裁判で指摘した事項に関しては責任を持って対応しています。また私たちの主張は、警察が押収したいわき病院とその他の医療機関で診療や入院治療を受けた診療録等の医療記録、および裁判でいわき病院が主張した事項および提出した文献や証拠、並びにレセプトなど公的記録などの根拠に基づきます。私たちの論理からは、推察や決めつけや思い込みなどは排除されています。

警察が押収したいわき病院の医療記録と、いわき病院が裁判で任意提出した医療記録では情報量で3〜4倍の違いがありました。いわき病院は任意提出した資料を基にした主張を展開しましたが、私たちは警察押収資料と照合することで「隠された意図や事実」を発見することが可能でした。また、いわき病院の医療過誤を解析するために最も有効であったのは、いわき病院が裁判所に提出した答弁書や準備書面および証拠文献です。いわき病院の主張は前後で矛盾していることが多く、主張の矛盾を丹念に追及して、いわき病院の医療記録と照合することで多くの隠されていた事実が発見されました。いわき病院は自らの主張で自らの墓穴を掘ったところが多分にあります。


5、いわき病院の主張が破綻している事例


(1)、事例1 老人性痴呆と精神障害者に対する医療

原告の矢野夫妻は「統合失調症の犯人野津純一は痴呆老人の治療を主目的とする第2病棟に入院していたために、統合失調症の治療を十分に受けられなかった」と指摘しました。これに対して、いわき病院は「原告は知らないようであるが、老人の痴呆も同じ精神障害である」と回答しました。ところが、いわき病院が提出した宇都宮事件に関連して日本で調査を行った国際法律家委員会報告書は「痴呆老人と統合失調症患者などの精神障害者を一緒にして治療する日本の精神病院医療は病院資源の無駄使いであり、改善されるべき」と指摘していました。国際法律家委員会報告書をいわき病院は「開放医療促進は阻害されてはならない」という目的で提出しましたが、その中に自らの医療の問題点を指摘する記述があることまでは読み至ってなかったようです。いわき病院は「原告も従いなさい」として提出した文献で、自らの正当性を否定する根拠を原告に与えました。


(2)、事例2 犯人顔面の根性焼き瘢痕

野津純一の顔面に本人がつけたタバコの焼け焦げ「根性焼き」について、矢野夫妻は検察官から説明を受けていました。また刑事裁判は事件後4カ月して開始されましたが、矢野啓司は野津純一の近くまで接近して左頬に治癒が進んだ複数の瘢痕跡があることを確認しました。また額と右頬はきれいで、左頬の瘢痕はニキビの跡ではありませんでした。

いわき病院は複数の職員の目視であるとして、野津純一顔面の根性焼きを否定しましたが、いわき病院の表現を詳細に読むとどの目視証言も近距離から顔面を直視したものではないことは明白でした。いわき病院は「犯人が逮捕されたときに顔面に根性焼きの瘢痕があったとするならば、事件の翌日に犯人が病院を出て逮捕されるまでの僅か30分の間につけたものに違いない」とまで主張しました。「医療従事者であるいわき病院関係者は誰も根性焼きは確認していない。従って、根性焼きは原告の創作である。」と反論したほどです。ところが、その後発言を微修正して、顔面に瘢痕はあったが「根性焼きではなく、ニキビ跡である」と主張しました。野津純一はいわき病院に1年2カ月入院しました。その間、医師も看護師も患者野津純一の顔面を一度も正視しなかったとしたら、驚くべきです。

野津純一の顔面の写真を見てください。瘢痕は新しいものから古いものまで多数あり、僅かの時間でつけられた「真新しい瘢痕」でも「ニキビ跡」でもありません。野津純一はいわき病院に入院中に繰り返して左頬にタバコの火を押しつけて皮膚を焼き続けていました。精神科の診察では顔面の観察は重要です。ところが、いわき病院の医師や看護師は誰も野津純一の顔面にある大きな火傷の瘢痕を観察していません。そして追いつめられると、36歳男性の左頬だけにあるニキビ跡の可能性を示唆しました。いわき病院の主張はこの様な、医療従事者とは思われない矛盾と不自然のかたまりです。これは、いわき病院の精神医学的主張の全てに言えることで、にわかには信じがたいけれど真実です。

【写真1】左頬の「根性焼」瘢痕群
【写真2】額・右頬・左頬のちがい
(▲テレビ朝日「テレメンタリー」放映画像より)

6、いわき病院が犯した医療過誤

殺人犯人野津純一の主治医を平成17年2月14日に交代した渡辺医師は、統合失調症を疑い強迫神経症と診断することに強く傾いていました。主治医は手足の振戦がある患者の判定には使われないCPK(クレアチンホスホキナーゼ)検査を行い「CPK値が低いので野津純一のアカシジアは、心気的なもの」と判断しました。主治医は平成17年11月22日に「野津純一は統合失調症ではない」と診断して、抗精神病薬投与を中止するとともに「手足の振戦は心気的なもの」として症状を抑えるアキネトンの代わりにプラセボ(擬似薬)として薬効が全くない生理食塩水の注射に変更しました。

野津純一は20年以上の長期に渡り統合失調症に罹患しており、平成13年にいわき病院に入院した時にも統合失調症で治療を受け、平成16年10月に再入院した際にも、渡辺医師以外のいわき病院医師は統合失調症と診断していました。いわき病院は本裁判における確定証言でも「統合失調症だった」と確認しましたが、統合失調症の患者に対して事件の2週間前から抗精神病薬を中断していました。いわき病院は「統合失調症である」と確定証言しても「懲役25年の実刑が確定した野津純一は精神障害ではなかった」と主張します。その主張が正しければ、「精神障害ではない人間を入院させていた」と証言したことになり、これは人権侵害です。いわき病院は事の重大性を認識して反論しているのか疑問があります。なお、いわき病院は野津純一が逮捕された直後に拘置所内の野津純一に対して処方を変更して抗精神病薬投与を再開しましたが、「抗精神病薬を中断していた間違いに殺人事件発生で気がついた」と自らの行動で認めたことになります。

精神保健指定医のいわき病院長は主治医として野津純一を強迫神経症と診断し、抗不安薬であるレキソタンを過剰投与しました。レキソタンには奇異反応の可能性という重大な副作用があることが薬添付文書に明記されていますが、渡辺朋之医師は患者に異常が発生する可能性を想像もしなかったのです。そして裁判では「奇異反応の発現機序が不明である、また発現頻度が非常に低いのだから、臨床で考慮する必要はない」と抗弁しました。

そもそも主治医はCPK検査値が低いので野津純一の手足振戦は症状に実体がない心気的なものと確信していました。事件当日12月6日の午前10時に野津純一は激しい手足の振戦に耐えきれなくなって、看護師を通して主治医に診察を願い出ました。その時外来患者を診察していた渡邊朋之医師は、「診察の手を中断して、野津純一を診察するかしないかを検討して、その結果、診察しない決断をした」と法廷提出文書で証言しました。主治医の診察を受けられないと伝えられた野津純一は「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるのやけど」と不満の声を発したことが看護記録に記載されています。そして2時間後の12時頃に、いわき病院から許可を得た社会復帰訓練のための外出をしました。その時までに野津純一は「誰でも良いので、誰かを殺す」と強い意思を形成していました。

主治医の渡邊朋之医師はいわき病院長です。野津純一は権威に弱い性格ですので、もし主治医が要望に従って診察をして、優しい声をかけていたら、仮に主治医の診断が間違いであったとしても、「院長先生様に診察を受けた」野津純一の心は渡辺医師が持つプラセボ効果で緩和されていたでしょう。主治医が奇異反応等の医学的知識を欠いていたとしても、自ら患者を診察することで野津純一の精神が異常状態にあることに気がついていたでしょう。また仮に医師として観察眼が乏しい場合であっても、院長先生の診察を受けたことで、野津純一に他害攻撃性が発現する可能性は抑制された筈です。主治医は違法な診察拒否をすることで、自ら過失の発生を未然に防ぐ大切な機会を失いました。

野津純一はショッピングセンターの100円ショップで、店員に包丁売り場まで案内させて、先が尖り肉厚でしっかりした刃渡り15.5センチの包丁を購入しました。野津純一は「店内で包丁を盗むと捕まるので、自制した」と証言しています。統合失調症で異常興奮の状態にあっても、他人と対話が成立し目的意識と自制力を維持して、心神喪失状態ではありません。その後、店外に出て包丁の包装を破り、駐車場を約100メートル歩いて犠牲者を物色して、12時25分頃に自車に乗り込む直前の矢野真木人の右胸に包丁を振り下ろして17センチ刺し込みました。野津純一は事件現場を離れて、直ちにいわき病院の自室に帰り返り血を浴びた服装のままでベッドに伏せていました。13時までには野津純一がいわき病院に帰り着いていたことは、検察が病院の監視カメラ画像から確認しています。

事件後に主治医の渡邊朋之医師は「野津純一を診察するべく15時頃に野津純一の部屋を訪ねたが、本人は帰っていなかった(別の証言では、15時30分頃に母親が訪ねてきために自分は会えなかった)」と発言しています。いわき病院の裁判における証言はしばしば変動します。野津純一は夕食を採るように勧めた職員に「警察がきたんか?」と聞きました。翌日の12月7日に野津純一が怪しいと睨んだ警察はいわき病院を訪れて捜査への協力を要請しますが、その間に野津純一は再び外出許可を得て、昨日と同じ服装のままで外出して、昨日の事件現場を訪れて逮捕されました。

逮捕後の記者会見で、主治医のいわき病院長は「犯人は、2時間の外出許可のところ、2時間遅れ(16時ころ)で病院に帰った」と発言しました。いわき病院は病院内にいる野津純一の所在を3時間も確認してません。また15時に野津純一の病室を訪問したと主張するいわき病院長の証言は真実性が損なわれます。


7、原告矢野夫妻が裁判後の社会に願うこと

私たち矢野夫妻は「精神障害者は危険な存在であるので病院に閉じこめて外に出してはならない」と主張したことはありません。精神障害者の大多数は、脳に病気を持った善良な市民であり、寛解して市民生活に復帰することが可能です。精神障害者の社会参加を促進する精神医療こそ積極的に促進されなければなりません。ところが、裁判でいわき病院は「原告がいわき病院の精神医療の過失と問題点を根拠を持って指摘する行為は、精神障害者に対する差別である」かの如く主張しています。事実を事実として正確に認識する事までも、否定する行為です。私たちがこれまで経験したところ、精神医療の専門家の多くはいわき病院の主張に容易に同調します。それは事実に目をつぶる行為です。自分たちの専門家ギルドの都合を優先して、社会に生じる弊害を改善することを阻害する行為です。

私たちが「レキソタンの過剰使用で犯人野津純一に奇異反応が発現していた可能性」を指摘したことに関連して、いわき病院は「レキソタンによる奇異反応の発現機序が明確でないので、医師はレキソタンを投与した患者に奇異反応が発現する可能性を予見しなくても良い」と主張しました。これは「患者に対して薬を処方する場合、重大な副作用が発現する可能性が薬添付文書で注意喚起されている場合でも、その副作用発現メカニズムを医師本人が不明であると考えておれば、その薬を患者に投与するに当たって、副作用が発現する危険性を主治医は予見する必要はなく、無視して良い」という主張です。この弁明が許されると、重大な副作用情報を医師は無視して良いことになり、不勉強な医師が不勉強であるが故に、深刻な医療過誤を引き起こしても「知らなかった、理解できなかった」等の理由で責任が回避されます。これでは、悪貨が良貨を駆逐する状態であり、社会正義に著しく反します。私たちは健全な社会に貢献する医療倫理を本件裁判を通して求めます。

私たちがいわき病院の医療過誤を指摘していると、「息子を殺された私怨のために、精神障害者の社会参加という人権を無視している」と批判されます。あたかも「精神障害者の社会参加促進のためには市民の命が突然奪われるという悲劇は無視されても良い必要悪である」かの如く説得されます。私たちは精神障害者の人権が阻害されて良いとは考えません。しかし、それを理由として「第三者が命を奪われるという最大の人権侵害の発生を容認しても良い」とも考えません。一度殺人されると人間は生き還えれず、本質的に現状復帰はありません。殺人は最大の人権侵害です。人権侵害は放置されてはなりません。

刑法第39条が日本にもたらした現実は、健常者と精神障害者に対する法執行上の実体としてできあがった法曹界と精神医学会の慣習に基づく人権格差です。刑法は明治40年(1907)に公布された、全日本国民に適用される基本的人権を唱える日本国憲法が成立する前の法律です。刑法第39条が本当に日本国憲法の人権規定に則して運用されているのか、疑問を持ちます。刑法第39条が制定された時は、精神障害は治療できない病気でした。しかし現在では向精神薬が開発されて、精神障害者も寛解して社会生活が可能とする精神医療水準が達成されています。現実に即した法律運用をすることが、日本で現実的な視点で万民に等しく享受される人権を実現する事です。私たちは、法曹界と精神医療の専門家が専門職能世界の都合を優先した、社会無視の慣行が介在していることを疑います。

私たちが提訴している裁判は民事裁判の判決が最終目的ではありません。私たちは民事裁判の結果を足がかりにして、日本社会が取り組むべき刑法第39条と精神障害者医療の課題を明確にしたいのです。専門家の皆様には職分の基本倫理に忠実であって欲しいとお願いします。そして世界に誇れる健全な人間社会が日本で実現されることを希求します。いわき病院事件裁判は日本の人権問題に現実的な方向性を示す「のろし火」です。


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