WEB連載

出版物の案内

会社案内

統合失調症治療の精神医学的過失
いわき病院と病院長の精神医療


平成20年10月24日
矢野啓司
矢野千恵


医療法人社団以和貴会いわき病院(以下、いわき病院)および病院長である渡邊朋之医師が、野津純一に対して行っていた精神医療過誤に関連した未必の故意と過失を行うに至った事象の展開を以下の通り指摘して、その論理的背景を解析する。

いわき病院は平成18年6月23日に提訴され、その後2年4カ月の間に答弁書と準備書面を法廷に7通提出した。現時点で最後に提出された書面は平成20年10月20日付第6準備書面であるが、原告(矢野啓司・矢野千恵)は記述内容を精査して大きな失望を覚えた。いわき病院はこれまでに蓄積された議論を踏まえた弁明をしておらず、2年前に遡った堂々巡りの論議を展開した。その内容は、野津純一に対して行われた精神障害医療に関して、証拠や論理的根拠に基づかずいわき病院長の個人的な思い込みと見解を押しつけるものである。その上で、原告の意見を歪曲して、「原告の主張が道理と理屈に合わず人道上間違ったものである」と決めつけた。いわき病院は原告が挑発に乗って感情的に対応して、中傷の言葉の投げ掛け合いを開始するという、裁判を泥仕合のケンカに持ち込むことを狙っているのではないかと推察される。ケンカ両成敗になればいわき病院に過失責任が問われる可能性が低下して、実質的に勝訴となる。

原告はいわき病院の医療上の過失を項目別に具体的に指摘してある。いわき病院が入院患者として治療していた野津純一が重大な他害(=殺人)事件を引き起こすという結果予見性と、結果回避可能性があったにもかかわらず、いわき病院はそのいずれも実行せず、未必の故意と過失責任がある。また原告はいわき病院が犯した社会的責任が問われるべき数々の違法行為や不法行為および反社会行為を具体的に指摘してある。いわき病院が自らに責任がないと主張するのであれば、原告の意見を歪曲して批判するという対応をするのではなくて、自らの行為の弁明をしなければならない。いわき病院は、目の前の事実から目を背けて回答を避ける行動を取ったとしても、問われている責任を回避することは不可能である。


◎いわき病院と病院長の医療過誤(概容)

1、優良精神科病院であるはずのいわき病院

いわき病院は、香川県下では最初に、日本病院評価機構から機能評価を認定された優良精神科病院であると信じられていた。野津純一はいわき病院に入院中の、罹患歴20年余の統合失調症患者である。

野津純一は、いわき病院長に統合失調症治療を故意に中断され、同時に攻撃性の出る危険性のある薬剤を過剰連続投与され、自ら顔面につけた自傷行為の瘢痕にもいわき病院職員に気付いてもらえず、統合失調症治療再開も検討されなかった。野津純一は、切実に望んだ主治医診察要求が却下された2時間後に、いわき病院長の言によれば「許可による社会復帰訓練のための実地訓練」で外出して、100円ショップで万能包丁を購入して通り魔殺人を実行した。矢野真木人が生まれて初めて野津純一と出会った時に彼の人生は強制終了させられた。

矢野真木人はいわき病院の入院患者でも通院患者でもない。矢野真木人はいわき病院に入院中の患者に通り魔殺人された。被害者は「いわき病院の患者ではないため、矢野真木人殺人は医療過誤事件では無い」とする見解もある。しかしながら、原告である私たち矢野真木人の両親は、「いわき病院の野津純一に対する精神医療に過失があったために、いわき病院は自傷他害の可能性がある結果予見性を見逃がして、必要な診察および診断と治療を全うせず、結果回避可能性を実行せず、野津純一は殺人事件を引き起こすに至った」と考えて、いわき病院を提訴した。


2、いわき病院が裁判に臨む姿勢の基本的な問題

いわき病院が責任を課せられたくないという方針を持っていることは十分に理解できる。しかしそれも、社会の中で尊敬を受ける地位を保つ病院としての尊厳があってのことである。いわき病院および代理人は責任逃れだけを最大の目的として、原告の主張を歪曲し、人倫と道理にかけ離れた弁解を繰り返して、日本の精神医療と精神保健指定医に関連する制度の信頼性を損なう対応をしており、極めて残念な姿勢である。


1)、客観的な根拠に基づいた精神障害理論展開ができてない

いわき病院と代理人が主張する精神障害理論は精神保健指定医であるいわき病院長の私的な思い込みのレベルであり、ICD-10やDSM-IVおよび精神保健福祉法などの原典や文献など根拠文書等のどこが根拠となっているか不明である。いわき病院長と法廷代理人は、議論に耐える客観性と論理性を持った主張をしていない。


2)、事実に基づいた理論展開ができてない

いわき病院と代理人の主張は根拠となる事実を正確に引用しないか事実に基づいてない。主張が飛躍し、前後の矛盾も頻発し、「AかBか」という二分論の弊害も甚だしい。また、いわき病院長の医学的知識には誤認や錯誤が多いことは本文書(参考例:CPKとアカシジア)及びこれまでの原告文書で指摘してある。更に、いわき病院長の見解はころころと変動して専門家の意見としては信頼できないことは、すでに「意見陳述(矢野)-4」で「専門医師としての信頼性の欠如」として指摘してある。いわき病院長は事実認識がいい加減で論理的でなく、自らが権威であると主張できない。


3)、原告の主張を歪曲した

いわき病院および代理人の主張は、思い込みによる原告に対する根拠のない批判に走りすぎており、原告の意見に対して多数の歪曲が認められる。原告の主張に至らない点があるとすれば、その指摘を受けることはやぶさかではない。しかしながらいわき病院は原告の具体的な論点を元にせず、また批判の根拠を明確に提示せず、自らの思い込みによる専断で、かつ飛躍と歪曲による決めつけた批判を多用している。具体的な事実に基づかない批判をするいわき病院の姿勢は、社会的正義から逸脱している。


4)、医師の間の情報の積み重ねが無い

いわき病院の医療には日常の観察と事実と実績の積み重ねが欠如しており、日常に変遷する患者の症状を観察した事実の正確な積み重ねが活かされていない。いわき病院では同じ患者を診察した医師の間の情報の共有がなく、患者の検査データも有効に活用されない。その上かんじんの医療知識にも間違いがあり、いわき病院長が医療過失を行う背景にある。なお、この積み重ねの欠如は、議論を堂々巡りさせて空転させる、本件裁判におけるいわき病院の対応の基本的な特徴でもある。


3、患者の毎日の状態把握が杜撰である実態

いわき病院は、精神科専門病院であるのに、日常の運営で入院患者の毎日の状態を観察せずまた評価しない精神医療活動を行っている。特に「任意入院患者に対しては毎日の観察をしないことが正しい」とまで主張している。いわき病院内では主治医はたまにしか入院患者を診察せず、受け持ち患者からの緊急の診察要求には診察拒否して対応しない。それにも関わらず、毎日患者と接している看護師などの医療スタッフの毎日の観察が患者の治療に有効に活用される仕組みが整えられていない。このため、入院患者の異常が発生する事態があっても、精神科専門病院として適時に有効な機能をしない。いわき病院は患者の状況を正確に把握した臨床医療を行う精神科専門医療機関として体を成しておらず、これがいわき病院が過失を発生させる原因である。


4、社会復帰の訓練という実地訓練

原告は「いわき病院で、薬物療法と共に、患者の症状を改善する社会生活技能訓練(SST)と作業療法(OT)が行われることが効果的な精神障害者医療を実現する必須の条件である」と指摘している。しかるに、いわき病院長は警察官調書では「野津純一に対するSSTと作業療法は効果が大してない」と証言していた。

いわき病院は第6準備書面で「野津純一の日常の買い物などの外出も、患者に対する治療効果を上げるための目的を有していた」と強く主張した。いわき病院は、「いわき病院の治療活動の一環の中で、野津純一が通り魔殺人行為を犯した事実」を本件裁判で確定証言した。「矢野真木人殺人事件はいわき病院の精神障害治療活動の一環として患者を外出させている中で発生した」ことが確定した。


5、「野津純一は統合失調症」と確定証言

いわき病院は、第5準備書面で「野津純一は統合失調症である」と確定証言した。野津純一は罹患歴20年余りで放火歴があり幻聴も消えない統合失調症患者である。いわき病院の勤務医である前主治医N医師の抗精神病薬投与によって症状が改善されていたことに主治医を交代したいわき病院長は思い至らなかった。また、入院前父母問診や前医の治療記録を読まず、「統合失調症ではない他の疾患(=強迫神経症)」と誤診していた過失がある。これが主治医が野津純一に対する統合失調症薬の処方を中止し、そして処方再開をしなかった理由であると指摘する。


6、アカシジアをCPKで判定した誤診

いわき病院長は、野津純一の主治医を交代した直後の診断で「アカシジアにしてはCPK(クレアチンホスホキナーゼ)の値が低い」と診療録に記載しておりCPKを拠り所にして「野津純一のアカシジアは心気的なもの」と診断したと推察される。CPKは筋肉破壊の目安となる指標であり、アカシジアやジスキネジアのような「脳よりつながる自らの神経刺激による筋肉の運動」の診断基準として用いることはできない。いわき病院長が答弁書、準備書面および診療録で「野津純一のムズムズは心気的なもの」と執拗に診断するが、その原因はCPKの意味を取り違えた誤診である。

いわき病院長が日常の診察でCPK検査を行うことが異常である。CPK検査を必要とするような悪性症候群の患者はごくまれであり、異常は容易に視認できるもので、精神科の医療現場でアカシジアのような多くの患者に発症する症状とは異なる。いわき病院長がCPKをアカシジアの診断に用いた行為は、単純な記憶違い程度の安易な間違いではない。精神保健指定医として資質の本質に関わる過失である。


7、統合失調症薬の中断とレキソタンの大量連続投与

いわき病院長は、長年の抗精神病薬投与で野津純一に出現していた薬原性副作用の遅発性ジスキネジア改善のため、「再発エピソードが複数回の統合失調症患者」には通常は行わない統合失調症治療中断(抗精神病薬の中止)をするとともに、「依存性」及び「精神障害者に使うと奇異反応をおこす重大副作用」の危険性がある抗不安薬(レキソタン)の大量連続投与を行った。これは重大かつ大幅な処方変更である。なおかつ「抗精神病薬の中止による精神症状の悪化」、および「ベンゾジアゾピン系抗不安薬大量連続投与による攻撃性の副作用出現の可能性」を予見すべき状況であった。ところが精神保健指定医であるにも関わらずいわき病院長はどちらも全く予見しておらず過失がある。


8、法的に無効な薬事効果判定

いわき病院長は、処方変更の最大の目的であった遅発性ジスキネジアが改善されたか否かという薬事評価を、法的に認められている有資格者(医師または薬剤師)により行ってない。いわき病院が薬事効果を第5準備書面で判定したとする主張の根拠は、法的資格のない看護師と作業療法士の単なる感想であり、法的に適正な薬事効果判定ではない。


9、遅発性ジスキネジアは改善しなかった

いわき病院の看護記録および第6準備書面によると、野津純一の遅発性ジスキネジアは全く改善しなかった。主治医は抗精神病薬投与中止で副作用を改善しようとした目的を達成できていないため、『時期を失わず早期に統合失調症治療再開=抗精神病薬投与再開』をしなければならなかった。なぜなら抗精神病薬は統合失調症の症状を抑える対症療法であって、根本治療ではない。抗精神病薬中止は再発の危険性を常に伴う。


10、「再発の予見可能性を無視」は未必の故意

第3準備書面でいわき病院は「著しい幻覚妄想や興奮が出現してから抗精神病薬の注射で対応すればいい」と主張したが、「社会的に取り返しがつかなくなってもかまわない」というに等しい。主治医渡邊朋之医師は再発の予見可能性があったのに無視した、未必の故意がある。


11、医師法違反(無診察治療)を指示

いわき病院長は「(患者の状況に変化が発生した場合には)注射の内容を(予め)診療録で指示している」と主張しているが、看護師は「医師による直前の診察と指示」が無ければ注射を実行してはならない。看護師が「判断して注射すれば」医師法(非医師の医業禁止)違反である。いわき病院長は医師法(無診察治療禁止)違反を指示した。


12、診察義務違反

いわき病院長で野津純一の主治医は、抗精神病薬中止により統合失調症再発の危険性が高まっていたのに、その時診察をすることが可能な状態にあった(第4準備書面における証言)にもかかわらず受け持ち患者の診察要求を拒否したのは医師法(診察の義務)違反であり故意による過失である。


13、「誰も気がつかなかったから根性焼は無い」の詭弁

いわき病院は野津純一が顔面につけた瘢痕(野津純一の言葉によれば「根性焼き」)を頑なに否定してきた。野津純一は事件の数日前より左頬と指の付け根に煙草で火傷痕(根性焼)を作っていたが、これは警察が犯人を逮捕する理由とした「犯行直前に防犯ビデオに記録されていた顔面の特徴」である。病院に入院中の精神障害者の自傷行為は自傷他害の重要なサインである。「いわき病院の職員が誰も左頬の火傷痕に誰も気がつかなかったから、この火傷痕は本当は無かったのだ」といわき病院は主張し続けた。いわき病院は「日本病院評価機構から機能評価を認定された優良な精神科専門病院である」と誇りながら、「病院関係者全員が患者の顔面に生じた、火傷痕という重大な変化に気がつかなかった」と口を合わせて主張するとは極めてお粗末である。左頬の火傷痕は新旧複数あり、野津純一の自傷の事実は観察できた。いわき病院には野津純一が病院に入院中に左頬に繰り返しつけていた火傷の瘢痕を否定する確定意思が認められる。

いわき病院は「顔に火傷痕ができていたら気が付かないはずがない。だから火傷痕は無かったのだ」という主張を繰り返している。しかし、いかに観察が容易でも、それは観察が適切になされ正直に記録した上での話である。観察態様が疎かであれば、顔の火傷痕に気が付かないことはありえる。「いわき病院の観察が不満足なものであったのではないか?」が問題とされているときに、十分な観察がなされていたことを前提にして事故原因を論じることはできない。野津純一の顔面に新旧複数の瘢痕が存在したことは事実である。いわき病院が野津純一の顔面に異常を発見できなかったことは、いわき病院の観察が十分なものではなかった証拠である。また、いわき病院が「誰も気が付かなかったから根性焼きはない」と主張することは、「いわき病院の証言には確定意思による虚偽がある」ことを証明している。


14、殺人事件翌日も外出許可を続行

野津純一は左頬と指付け根に煙草で火傷痕を作る自傷行為をしていたが、当日の犯行直前には主治医に特に診察を願い出て拒否された。野津純一は、退院を迫られていたストレスに、薬剤過剰連続投与による副作用のイライラと攻撃性が加わり最高潮に達していた状況でも、社会復帰の実地訓練の許可外出が続行された。抗精神病薬を中止していたいわき病院が、統合失調症患者の精神症状の変化を把握せず外出許可を与えたのは過失である。

野津純一は矢野真木人殺人事件を引き起こした日、いつもは面会に応じる母親との面会を拒否し、夕食を取らず、夕食を促した職員に「警察が来たんか」と問い、言葉の異常性が把握されていた。当時いわき病院内のテレビで近隣における殺人事件の発生が大きく報道されていた。その上で、野津純一は翌日の朝食および昼食も食べなかったが、いわき病院は行動の異常性が持つ意味に気付くことが無かった。いわき病院は殺人事件の翌日にも、野津純一に関して外出許可見直しの検討すらしてない。いわき病院長および医療職員の観察力の無さの証明である。


15、任意入院患者の短時間外出制限は可能

いわき病院は「任意入院患者に対しては、外出制限はできない」と主張している。原告は野津純一を常に監視下に置くべきであったと主張していない。殺人事件発生から翌日までの野津純一は極めて異常な状態を示していたにもかかわらず、その日の状況を評価して、外出許可を法律で許された12時間以内の限定で、見直す可能性や病院スタッフの付添付で外出させる等の対応を一切検討しなかった。そのことがいわき病院の不真面目で、事故の発生に関して未必の故意を容認する病院運営の証明である。


16、精神医療と社会正義

いわき病院は、「精神医療を行っていることがそもそも社会正義である」かのように主張して、批判を許さない姿勢である。しかしながら、社会制度を尊重して、正しく適正な医療を実現してこそ精神障害者医療である。健全な一市民が社会復帰のための実地訓練で外出許可を与えた入院中の患者に通り魔殺人されて、そこに精神科医療機関の過失があっても責任が追求されなければ社会正義は実現されない。人権は、精神障害者にも健常者にも、普く全ての者に平等に実現されるものである。いわき病院の不適切な精神医療の実態は見逃されてはならない。日本の精神医療を改革するためにも、いわき病院の責任は確定されなければならない。


I、患者に対する病院の姿勢

1、患者の毎日の状態を把握しない臨床医療

患者の毎日の状態の変動をきめ細かく観察することは、日によって症状に波が見られる精神医療の臨床現場では極めて重要である。いわき病院は第6準備書面でも「統合失調症の状態変化で日常生活上常に看護者が介護しなければならない状態ではなかった。すなわち、単独外出は可能な状態であったのであり、外出時に誰かが付き添う必要も認められない状態だったのである。」と証言した。原告はいわき病院に「日常生活上常に」と指摘しているのではない。「患者の毎日の状態を観察してそれを入院患者の治療や外出許可等に活かす病院の看護システムが無い」と指摘しているのである。野津純一の場合、「今日は、症状が安定している」といわき病院の医療スタッフが「その日」の状況が安定であることを確認すれば、「その日」一人で社会参加を試みることは当然の権利である。

いわき病院が現時点に立ってもなお、「日常生活上常に」と拘り続け、意図的に「毎日の状態の観察や把握」に言及しないところに、患者の毎日の状態の変動に無関心であるいわき病院の体質がある。治療を受けている精神障害者の人権に社会的責任を負うべき精神科病院および精神保健指定医として極めて無責任である。「日常生活が常に」という表現を用いることは「日常生活で、必要に応じて、適宜適切に、但し一日に一回は必ず観察する」という意識の欠如である。またいわき病院の、「入院患者の症状の毎日の変化を観察してない事実を覆い隠したい意図」があり、「みんなで無視すれば責任はない」とする本音が読みとれる。


2、効果を上げられないSSTと作業療法

(1)、野津純一の外出はいわき病院の治療の一環と確定

いわき病院長は事件直後平成17年12月8日の記者会見で「患者さんに社会復帰の訓練というか実地訓練をしてもらうため、(外出は)コンビニとかいくぐらいの時間内で許可していた」と発言して、「野津純一の外出はいわき病院の治療の一環である」ことを証言していた。ところが本件裁判が開始されて、答弁書などでは「治療や訓練ではない、野津純一が勝手に外出した」と抗弁していた。いわき病院は、第6準備書面で「外出は患者に対する治療効果を上げるための目的を有していた」と認めて、「いわき病院の治療活動の一環の中で、野津純一が通り魔殺人行為を犯した」と確定証言した。


(2)、いわき病院の作業療法とSSTの実態

第6準備書面でいわき病院が解説した、作業療法(OT)と生活技能訓練(SST)の項目に関しては、治療プログラムとして「正当性や裏付け根拠が全く無い」ということに尽きる。

  1. 作業療法やSSTを処方した根拠は何か?
  2. それに対する作業療法やSSTの治療目標は何か?
  3. 野津純一の何を・どのように・いつまでに・改善するのか?
  4. 作業療法やSST部門の目標は達成されたのか否か?
  5. 達成されたらとしたら、その根拠は何か?
  6. 達成されないのであれば、それは何故か?

このようなことが、いわき病院の作業療法やSSTの記録を含めて、裁判における答弁書や準備書面でも一切明らかにされていない。『いわき病院では、作業療法やSSTにおいては、精神医学知識や専門知識に裏打ちされた明確な根拠がないままに、「ただ漫然と…」「形式的に…」対応して作業療法やSST等のリハビリテーション訓練を実行していた』と指摘されても仕方がない状況が認められる。また作業療法にしても、毎日実施されているわけでもなく、また作業療法士から積極的に介入しているわけでもなく、「その都度の対応」でしかないことは明白である。


(3)、いわき病院のSSTと作業療法訓練の効果と責任

いわき病院長は警察に「明らかな効果は無かった」と証言した事実がある。この言質は、「SSTと作業療法の効果は無かった」と全く同義である。野津純一も「心理教室はノイローゼがひどくなる」(平成17年11月15日)「生活技能訓練は頭に入らん、眠くて」「生活技能訓練(SST)とか心理教室とかがよくない」(平成17年10月27日診療録)と訴えている。それにもにもかかわらず、野津純一を「社会復帰のリハビリテーション一環で外出」させていたのである。これは効果が期待できないと知りつつ、漫然と治療目的の外出をさせていたといわき病院長が認めたことになり、全く以て矛盾に満ちた証言である。野津純一に処方を下した責任者として理路整然と釈明するべきである。

いわき病院は第6準備書面では、原告が指摘してある「SSTと作業療法を重複して保険請求した」事に関して、いわき病院の弁明理由を含めて、一切釈明しておらず、あわよくば、論点を避けようとしているようないわき病院の希望的観測すら伺える。


(4)、殺人は最大の人権侵害

殺人は最大の人権侵害である。殺人されると、蘇生は不可能であり、被害の原状回復は本質的にあり得ない。生きている人間が他人の行為により命を絶たれることは最大の人権侵害である。最大の人権侵害が発生した事実を社会は重く受け止めなければならない。

矢野真木人は無念である。矢野真木人は精神障害者の社会復帰のSSTと作業療法訓練の中で通り魔殺人された。矢野真木人に問われるべき責任は一切ない。それでも、「精神障害者の社会参加を促進するためには、仕方がないことだ…」と言われ続けてきた。「犯人の野津純一と野津純一を治療していたいわき病院の責任を問うことはそもそも間違いであり、社会正義に反する」とまで言われた。矢野真木人の命は、「精神障害者の社会参加促進という大義名分の前には、必要悪とも言える、捨て石の一つ」とでも言うような弁明がされた。

いわき病院長は「SSTと作業療法のリハビリテーション訓練の効果は無かった」と認めた。また第6準備書面でいわき病院は多筆を弄していわき病院におけるSSTと作業療法について説明した。しかしその内容は空虚で、実質的で意義のある内容であるとするよりは、保険点数を上げて、病院の収益性に貢献することを目的として漫然と運営される実態を述べたに過ぎない。

矢野真木人はこんな意味のないことで殺されて、「(一人ぐらい)殺されても、仕方がない、いわき病院の治療には大義名分がある」と言われなければならないのであろうか。矢野真木人は悲しい。自分自身が生きた代償が、殺されることであったとは。またそこに社会的道理があるとするにはあまりにも悲しい。収益性確保のためには効果がないと解っていても実行する。そして、事故が発生しても虚偽証言を繰り返して責任回避を意図する。このような社会的腐敗が介在して是正されなければ、矢野真木人は無念である。


II、精神障害の診断

1、野津純一の統合失調症

(1)、「野津純一は統合失調症」という確定証言

いわき病院は第5準備書面(平成20年8月25日付)では「そもそも、野津純一に対する診断は当初より統合失調症であり、両親に対しても統合失調症の病状を診療録等で説明している」と断言した。今後、いわき病院は「野津純一は統合失調症では無かった」とは、言えない。


(2)、答弁書では「統合失調症を否定」

いわき病院長は野津純一の統合失調症の診断を本件裁判の最初の段階で否定して、答弁書(平成18年7月31日付)で「精神障害でない人間が計画的な殺意を抱き…」と述べており、「精神障害ではない」と断言された患者の診断は統合失調症ではあり得ない。ところが、いわき病院は第5準備書面(平成20年8月25日付)で、「統合失調症である」と確定証言した。野津純一の統合失調症の診断に関して精神科専門病院としてその専門性と信頼度に関わる矛盾がある答弁をした。


(3)、統合失調症と確定証言をしても「強迫性障害(単独)に固執」

裁判が2年を経過していわき病院から提出された第5準備書面では「統合失調症である」と明確に断言した。その上で同じ第5準備書面で、いわき病院長は「(主治医を交代した時点では)それまでの向精神薬の効果があまり無く、一時的に幻聴や妄想がほとんど無く思考の途絶や思考の一貫性が保たれており、手洗い強迫行為などの訴えがあれば、他の疾患、強迫性障害を再考するのは臨床医として当然のこと」と述べた。

上述の「他の疾患」とは、「統合失調症以外の他の疾患」を意味する。これは、いわき病院長が本件裁判で「一時的に野津純一は他の疾患(統合失調症ではない=強迫性障害)と診断していた」と証言したことになる。いわき病院長は「統合失調症である」と断言した言葉が乾かない内に、「一時的に他の疾患と診断」と言い換えており、「野津純一の統合失調症の診断を渡邊朋之医師は正確に行っていない」と自白した。

いわき病院長は「野津純一が統合失調症だった」ことを確定証言した。しかし責任逃れのため、本件裁判では論旨の前後に統一性がない矛盾だらけの答弁を繰り返している。平成17年11月23日から12月6日までの処方に関して、いわき病院は平成19年8月20日付の第3準備書面で「抗精神病薬を含む処方をしていた」と証言したが、その翌日の8月21日の訂正書面では「抗精神病薬抜きの処方をしていた」と訂正した。いわき病院は過去の事実の提示の過程でも、統合失調症に関する治療事実の証言で迷いを示した。いわき病院長は、「野津純一は統合失調症である」と断定した「前」にも「後」にも、野津純一の統合失調症に関していわき病院が行っていた治療の事実関係においてすら証言の実質が揺れ動いており定見がない。


(4)、「野津純一は統合失調症ではない」という確定診断(誤診)をしていた

ところで、いわき病院長が第5準備書面で「野津純一は統合失調症」と確定証言したその直後に、「一時的に統合失調症と診断していない期間があった」と告白した。このいわき病院長が主張する「一時的な期間」とは、「いつからいつまで」だったのであろうか。

いわき病院長は第5準備書面で「前医の治療の結果、幻聴や妄想が殆ど無く強迫性障害を再考」と記述した。このことは、平成17年2月14日に主治医になった当初から「野津純一は『統合失調症ではないかも?』と疑いながら、統合失調症の治療を続けていた」ことを意味する。いわき病院長は「野津純一の主治医となった時点から統合失調症を疑っていた」と証言した。いわき病院長が野津純一の主治医となって9カ月を経過した、平成17年11月23日から主治医は統合失調症治療(=抗精神病薬)を中止した。この治療方針の変更は、「統合失調症ではないと確定診断(誤診)した」ことを意味する。いわき病院長は野津純一に対して、主治医を交代してからずっと抗精神病薬投与を継続しつつ処方の妥当性を疑い続けていた。その上で、「野津純一は統合失調症ではない(誤診)」と考えて、抗精神病薬の処方を中断した。いわき病院長は統合失調症が再発する可能性を考慮していなかったが、殺人事件発生を受けてあわてて抗精神病薬投与を再開した。


(5)、軸足が定まらない統合失調症の診断

いわき病院長は「一時的に他の疾患」と診断したのではない。主治医として野津純一を担当した全期間に渡って、統合失調症の診断を疑い続けて、9カ月が経過した11月23日になって「統合失調症ではない(誤診)」と確信して抗精神病薬の投与を中断した。ところが12月6日に矢野真木人殺人事件が発生した。やっとと言うべきか、急遽と言うべきか、主治医が「野津純一は統合失調症である」と診断した経緯が推察される。そもそもいわき病院長は野津純一を統合失調症と診断することに自信を持っていない。このために、本件裁判でも「精神障害ではない者」と言ってみたり、「統合失調症である」と証言したりで、野津純一の診断に関して軸足が定まらない。この「統合失調症を適正に診断できないこと」が、一連の過失の根源にある。


2、主治医渡邊朋之医師の誤診告白

(1)、前主治医の治療効果を無視

いわき病院長は第5準備書面で「野津純一は統合失調症」と確定証言したその直後に 「主治医交代時にはそれまでの効果があまり無く、一時的に、幻聴や妄想がほとんど無く思考の途絶や思考の一貫性が保たれており、執拗な足のムズムズ、自らの手洗い強迫行為などの訴えがあれば他の疾患、特に強迫性人格障害や他の疾患を再考するのは臨床医としては当然のことである」と証言した。

いわき病院長は「引継ぎ時には、前主治医のN医師処方により野津純一には抗精神病薬が効いて統合失調症特有の症状が顕著でなかったために、主治医の任を引き継いで『統合失調症の疑い』と誤疹した。そして平成17年11月23日には『統合失調症で無い』と確信を持ち、それから野津純一逮捕の日まで抗精神病薬投与中止を続行した」そのような背景が推察できる。原告はいわき病院長の精神保健指定医としての資質を疑う。

野津純一の症状で「幻聴や妄想がほとんど無く思考の途絶や思考の一貫性が保たれていた」ことは前主治医処方による「それまでの抗精神病薬の効果があった」ことになる。統合失調症の症状が、前主治医N医師の抗精神病薬維持投与によって前面に出ていなかったのだ。事実はいわき病院長の認識とは異なる。患者を引き継いだ時に、それまでの薬処方で統合失調症の症状が抑えられていることを考慮せず、「罹患歴20年余の統合失調症患者」を「統合失調症の疑い」と誤診した。

いわき病院において、平成17年2月14日まで野津純一を担当した主治医N医師は、「思考伝播、思考吹入、関係妄想で統合失調症」と診断し、抗精神病薬を欠かさず投与していた。主治医が交代した時点では、野津純一は前主治医N医師の治療で、統合失調症の状況が好転していた。野津純一にとっては主治医が替わったことは症状悪化の直接原因であった。それにも関わらず、野津純一は院長先生の権威を信じて頼る心を殺人事件を引き起こすまで維持していた。


(2)、「強迫性障害」診断と誤診の告白

いわき病院長が主治医を交代した時には、いわき病院のH医師が記録した父母の入院前問診記録を読まず、前主治医N医師の治療内容の良い点を素直に評価せず、自身が3日も費やした問診では何も聞き出せなかった。その上で、目の前の野津純一の病状を見て、統合失調症診断に疑問を抱いたが、抗精神病薬投与を継続した。精神保健指定医のいわき病院長は統合失調症の診断に自信を持たず優柔不断である。

野津純一は17才時に「放火歴」があり、高力価抗精神病薬を高用量投与されていた時でも、「換気扇、暖房、エアコンの音が人の声や歌に聞こえる幻聴」(第3準備書面)が続いていた。退院参加教室で「病気のイメージは?」と聞かれた野津純一が「『幻聴』と一言答えた」記載がある。統合失調症患者の幻聴は通常不快でおぞましいものがほとんどで、幻聴の内容については余り話したがらないものとされる。刑事裁判におけるS精神鑑定医も、「野津純一は強迫神経症ではありません。神経症というのはいずれ必ず治るものです。20年も神経症に罹患している患者など私は見たことがありません」と証言した。

第5準備書面で「一時的に強迫性障害と診断していた(=統合失調症でないと診断した)ことは精神科医として当然のこと」といわき病院長が主張することは誤りである。決して「当然」ではない。これは主治医の「誤診の告白」である。


(3)、殺人事件発生で「ようやく」統合失調症と確信(させられた?)

いわき病院長は、平成17年12月6日午前10時に野津純一を強迫性障害(=またいつもの執拗な訴え)と誤診して、その時には診察することが可能であったが、患者である野津純一の診察要求を拒否した。この時点では、いわき病院長には野津純一の統合失調症の状況に関する重大性の認識はなかった。翌日の12月7日に野津純一が殺人犯として逮捕されてから、診療録では同日付けで「抗精神病薬込みの処方28日分」に急遽変更した。この矢野真木人殺人事件直後にいわき病院が実行した処方変更は、いわき病院長が殺人事件発生という重大な事実を前にして、「野津純一は統合失調症である」という確定診断にようやく到達「した」(というよりは、「させられた」)状況を示している。

いわき病院長は矢野真木人殺人事件発生後に、自らの診断の間違いに気付いたが、責任逃れのため、本件裁判では答弁書で「精神障害でない者」と証言すると同時に第5準備書面では「統合失調症だった」と矛盾した抗弁を繰り返している。精神科専門医師として診断に確信を持てない精神科医師の姿が観察される。


(4)、統合失調症に重度強迫性障害を合併の予後

いわき病院長は野津純一を「一時的に重度の強迫性障害(単独)」と診断していて、「これは精神科医として間違った診断ではない」と抗弁した。しかし「重度の強迫性障害」と「統合失調症に重度の強迫性障害を併発」とでは予後が全く異なる。いわき病院長が「野津純一の統合失調症の診断を見失っていた」ことは精神保健指定医として責任が極めて重い。統合失調症は他の精神疾患を併発することがあり、顕著な強迫性障害を伴う場合には、予後は特に不良である(メルクマニュアル第18版、日経BP社、P.1835)。いわき病院長には、統合失調症の悪化を招いた未必の故意と過失がある。


(5)、精神保健指定医の名誉

いわき病院長は本人が継続的に野津純一に診断していた「重度の強迫性障害」をあたかも「一時的」であったかのように偽装証言している。野津純一はいわき病院が第5準備書面で確定証言したとおり「統合失調症」であった。その上で、「重度の強迫性障害を併発」していた。いわき病院長は責任逃れを目的として、極めて短視眼的な言い逃れ戦術を採用している。このような姿勢は精神保健指定医としての名誉を著しく傷つける行為である。


3、反社会性人格障害

1)、現在症としての暴力傾向


(1)、暴力的になる可能性の認識
  いわき病院は第5準備書面で「野津純一は、入院時にO准看護師を襲うことがあり、時に暴力的になる可能性がある」と証言した。平成16年10月21日の診療録にも主治医N医師は「暴力の再発の恐れが強いため隔離する旨を書面にて告知」と暴力再発の恐れがあると記述していた。いわき病院は野津純一が入院していた当時の「現在症としての、暴力的になる可能性」を認知していた。このことはいわき病院歯科では暴力に備えて、看護師が付き添い拘束器具を使用していたことからも証明される。

いわき病院が野津純一の暴力傾向を否定する証言は病院内の実態や事実と矛盾している。その上で、いわき病院は原告が「野津純一に暴力性向があるという事実を指摘する事」を、「原告は非人道的である」と、事実と根拠に基づかない謂れない批判を繰り返している。いわき病院は、臨床医療の現場実践で、事実を事実として正確に認識して、その上で適正な精神医療活動を行っていない。

(2)、入院前問診で父親は過去の暴力歴を伝えた
  いわき病院は、反社会性人格障害を診断できなかった弁明として、「主治医が知り得ない、暴力、破壊、殺人衝動などは、野津純一本人と両親しか知らず、医師の側で一方的に推察し得ることではない」また、「両親から聞いてないので知りようがない」と主張して、「野津純一に暴力的な傾向があったことをいわき病院は認識しようもなかった」と否定した。しかし野津純一の父親は入院前問診(平成16年9月21日)でH医師に説明していた記録がいわき病院の診療録に残されている。

この平成16年9月21日付けの診療録の記録は、警察押収資料の中にあった。いわき病院が本件裁判に任意提出した診療録には平成16年9月21日の記録が欠落していた。ここにいわき病院の「原告に知られたくない意図」がかいま見える。その上で、いわき病院長は、事実を曲げて、「両親から聞いてないので知りようがない」という両親に責任を転嫁する発言に固執している。いわき病院長は診療録の警察押収資料が原告に引き渡されていたことを承知していたのであり、浅はかな偽証行為である。

(3)、いわき病院は「他害の可能性あり」と記載した
  いわき病院は「障害者年金受給者現況届」では野津純一の忍耐の低下や、衝動的に興奮して暴れる状況などを記載しており、公文書の中で野津純一には他害の可能性があることを指摘していた。また平成16年10月21日の診療録にも「暴力の再発の恐れが強い」と記述している。それにも関わらず、第5準備書面では裁判の証言として他害の可能性を執拗に否定した。上記の現況届は「虚偽記載ではない」と言うが証言には一貫性が無く、信用できない。そもそも、いわき病院の証言のいずれが正しいのか、毎回のように証言内容が変動し、しかも同一文書の中ですら前後に矛盾が認められるので、いわき病院の証言を元にすると真実の確定は不可能である。

(4)、自分達だけで野津純一の暴力から回避した
  いわき病院および職員は実態行動として、野津純一の暴力傾向があることを認めて、自らの身を守るために個人的な対応を日常の病院勤務で行っていた。野津純一の暴力傾向は実態として認知されていた。職員は自分たちだけで回避行動をして、社会に対しては暴力を垂れ流した欺瞞がある。これは社会に責任ある地位を実現するべき保険医療機関としてあるまじき不正義である。

(5)、現在症としての破壊的攻撃的行動を認識
  いわき病院は第5準備書面において、「(野津純一の)破壊的攻撃的行動が何年も間隔を置いて単発的にしか起こらない」と証言した。何年も間隔を置いた、単発的な発現であるとしても、いわき病院は「野津純一には破壊的攻撃的行動がある」と認めた。いわき病院が「野津純一に破壊的攻撃的行動がある」と認めたことが重要な事実関係である。

反社会性人格障害者でも、24時間365日また四六時中、反社会性行為を行っている訳ではない。ところがいわき病院は「継続的な」破壊的攻撃的な行動のあるなしに問題をすり替えて、「日々の徴候の変動」を観察する事がない。それでも、いわき病院歯科レセプトには「暴力があった」と毎月記述されている。野津純一の反社会的行動は、何年も間隔を置いて単発的にしか起こらない行動ではない。「野津純一の破壊的攻撃的行動は日常の行動である」ことをいわき病院は証拠により証明して、野津純一に「現在症として反社会的人格障害の症状」を認識していた。その上で、いわき病院長は主治医として野津純一に対して「攻撃性を惹起する危険性がある処方変更を行った」にもかかわらず、その対応を検討もしておらず、過失責任は重い。


2)、反社会性人格障害を診断しない過失


(1)、そもそも野津純一の統合失調症を正確に診断してない
  いわき病院長は統合失調症と反社会性人格障害は二重診断できないと主張するが、野津純一に対して正しく統合失調症の診断をせず、抗精神病薬の中断をして「野津純一は統合失調症ではない(誤診)とする治療」を実行していた。「統合失調症と反社会性人格障害は二重診断できない」と野津純一の診断に関して主張するが、そもそも野津純一の統合失調症診断を誤診しており、野津純一を題材にして議論する基盤がない。

(2)、統合失調症と反社会性人格障害の二重診断
  純粋に論理的な問題としては、統合失調症と反社会性人格障害の二重診断の問題は「意見陳述(矢野)-1」(平成18年11月15日付)の「22. 統合失調症と反社会性人格障害の二重診断」他で文献を引用して論じた。原告は、「統合失調症の患者に対しては統合失調症と反社会性人格障害の『二重診断は可能』である」と指摘した。また、「いわき病院が二重診断できないと主張することは間違い」と、ICD-10やDSM-IVの個々の条文や英語の原著と日本語訳の違いなどを明確に指摘して論じた。

しかるに、いわき病院はDSM-IVの日本語訳を丸ごとコピーして引用箇所を明示せずに、論旨を展開した。ICD-10については何を根拠にしているのか不明であり、共通の認識の上で議論を進めることを避けている。いわき病院長は個人的な見解に留まっており、私見に客観性を持たせるために、文献を元にした論理的で正確に説明する行動をしていない。いわき病院長の精神医学に関する知識に錯誤や誤解が多いことは、原告文書で指摘してきた。いわき病院長は個人の意見ではなくて、文献や診断基準書の記述を引用して原告に反論することで、初めて、真っ当な議論を行う資格を有する。

(3)、「二重診断できない」という学術論議に「問題すり替え」
  反社会性人格障害に関する本質的な問題は、野津純一が入院していた当時のいわき病院が、野津純一の「現在症としての、反社会性人格障害の症状」を認識していたか否かである。現在症として人格障害を認識しておれば、「人格障害に対する治療」そして「人格障害の現在症に対応したいわき病院の対応がとられていたのか否か」が過失責任の構成要素となる。いわき病院は第5準備書面でも「野津純一の暴力的な可能性」を認めた。いわき病院はこれまでの準備書面で、野津純一にレトロスペクティブにもいわき病院長の観察としても、「野津純一に現在症として反社会性人格障害の症状があること」を認めていた。

いわき病院は、「統合失調症と反社会性人格障害が、二重診断できるかできないか」という学者論議にすり替えしているが、本質的な問題は、いわき病院が「現在症として野津純一にある暴力的な可能性を認識していた」のに「何も対策を取らなかった」ところにある。いわき病院長は「野津純一は統合失調症ではない」と考えて治療を実行していた。いわき病院長が「野津純一に対して統合失調症と反社会性人格障害は二重診断できない」と主張することは空論である。本件裁判は、学術論の場ではない。

(4)、理論が空転して現実を無視する臨床医療
  いわき病院は文献や学術論文を元にした議論を展開して、自らの意見に客観性と普遍性を持たせなければならない。いわき病院は原告に対して「異説である」などの言葉を投げかけるが、これに対して自らの意見が「正論である」とする証明がなく、いわき病院長の思い込みの域を出ていない。いわき病院が問答無用な論調で、原告の主張を歪曲して論評する行為は、感情論であり、自らの主張に根拠と自信がないために苦し紛れで気色をなしているものと観察される。

いわき病院長の診断は現実の観察された患者の状態よりは(思い込みの「屁理屈」)理論優先であり、自ら信じる理論から離れた現象(患者の症状)に接しても、その現実を(病院長の私的な)理論にあわないとして、事実を否定する主張をする。いわき病院長は患者の顔面にある新旧の瘢痕を見ず、患者に反社会的な行動がありそれを認識しても、自分の理論にあわないとして、意図して診断をせず治療もしないという、(客観性がない)論理が空転して現実を無視した臨床医療を行っている。

(5)、ICD-10とDSM-IVの引用箇所を明示すべき
  いわき病院はICD-10やDSM-IVに言及するが具体的な引用箇所を明示することを回避しており、その主張がIDC-10やDSM-IVに則ったものでない可能性がある。いわき病院長の医療は理論を優先したと主張するが、その根拠は薄弱である。いわき病院が、原典からの根拠を具体的かつ明確にできないのであれば、いわき病院のICD-10およびDSM-IVを引用した証言は虚偽である。

(6)、DSM-IVは5軸診断
  いわき病院が主張するDSM-Ⅳに基づく多機能評価について、その診断的妥当性を野津純一に当てはめれば、過去のエピソードを含めて攻撃的衝動性を含む反社会性人格の要素についてはいわき病院が十分に知り得て診断できたレベルである。これまでの準備書面において「攻撃的衝動性は診断できない」とする自らの診断の妥当性を主張しているが、いわき病院はDSM-Ⅳの第1軸と第2軸のみで判断しており、野津純一に対して正しい診断をしたと言えない。DSM-IVの多軸診断(多機能評価)は5軸である。

(7)、刑事裁判のS鑑定の否認
  いわき病院は刑事裁判において承認されたS鑑定を否定した。自らの思い込みに従って、精神医学的な根拠を明記できない主張は虚偽証言である。

(8)、反社会性人格障害と結果予見可能性
  いわき病院の「診断名をつけないから責任がない」とする、逃げ口上の論理は結果予見可能性と結果回避可能性を故意に無視する行為である。そして、野津純一の「反社会性人格障害の現在症の無視」は医療過誤である。いわき病院長は精神保健指定医として確定意思で、結果予見可能性を無視した。これは、無責任きわまりない未必の故意をもって逃げ口上とする過失である。

(9)、反社会性人格障害者に対面した医師の社会的義務
  いわき病院は、野津純一に現在症として反社会性人格障害の症状を認識していたが、治療に活かされてない。いわき病院長は、仮に「統合失調症の患者に反社会性人格障害を診断しない」という学識であるとしても、「反社会性人格障害の現在症」を認識していたので、観察された症状に対して相応の対応をとるべき義務があった。

いわき病院長は「統合失調症と反社会性人格障害は二重診断できない」と執拗に主張するが、「二重診断できない」と主張することで事実を否定する姿勢である。医師は患者を観察した事実を元にして診断して治療する職責である。いわき病院長は、患者の現在症の事実に対応した治療を行うという、医師の職責を果たしていない。


4、野津純一左頬の根性焼きと虚偽発言

(1)、左頬の複数の瘢痕は殺人事件後できたものではない

矢野真木人殺人事件発生を受けて、警察はショッピングセンターの防犯カメラで事件直前に撮影された映像から、容疑者を「あずき色のジャンパーを着て、ほっぺにあずき大の傷のある男」と特定した。事件翌日に野津純一が逮捕された時のTV映像写真(意見陳述(矢野)-8)から、野津純一の左頬に沢山の瘢痕があったことは明白である。野津純一の左頬の瘢痕には、タバコが原因と目される新旧いろいろな火傷痕が確認される。逮捕された時の野津純一の左頬には、新旧の火傷による瘢痕が複数存在した。いわき病院が主張するような「逮捕される僅か1時間ばかり前の時間内に野津純一が顔面につけた真新しいもの」ではない。野津純一の顔面には日数を経た瘢痕が時系列的に複数存在し、27才時の写真と比較すれば、全ての瘢痕は後発的でありかつ人為的である。


(2)、M医師は患者の顔を見ずに風邪と診断した?

いわき病院の主張では、野津純一に根性焼きを確認しなかった目撃記録として、いわき病院長の他に「事件当日の野津純一の顔を見た看護師」は氏名不詳のまま複数登場する。しかし、事件前日の12月5日に風邪薬を処方したことになっているM医師が野津純一の顔面を観察したとする証言を提出しない。M医師が野津純一を診療して風邪薬を処方したのであれば、野津純一の顔面を観察したはずである。

原告は本件裁判の当初からいわき病院の根性焼きに関する証言の中でいつM医師が登場するか興味を持って待ち受けていた。これまで、答弁書(平成18年7月31日付)から第6準備書面(平成20年10月20日付)に至るまで2年以上の長期に渡り、いわき病院は頑なに「根性焼き」を否定してきた。第6準備書面でも「主治医だけでなく、病棟職員、外来看護師、など多くの人が野津を見ているが…」と記述したが、診察したはずのM医師に触れておらず、いわき病院がM医師の証言を回避しているように観察されて、極めて異常である。いわき病院にはM医師の証言を持ち出せない理由があると推察される。今後の展開として、原告の指摘を受けて、M医師の証言をいわき病院が持ち出す可能性が高いが、その場合そもそも遅きに失していることが証言の信頼性を損なうことである。平成17年12月5日の風邪薬の投薬にはM医師が実際に診察に関与してなかった可能性がある。その場合には、非医師の医業禁止(医師法17条違反)と無診察治療禁止(医師法第20条違反)である。


(3)、いわき病院の偽証

「顔面火傷痕について、入院中本人から語られることは一度もなく」というのは、いわき病院の精神科病院としての「観察眼」がない証拠である。医師を含む医療関係職員は患者の顔面の変化に最大限の注意を払うべき職務上の義務がある。これは臨床医学の現場では公理とも言うべき常識である。いわき病院は医療機関である。その医療機関が「患者の顔面にある複数の火傷の瘢痕を発見しなかった」という事実は重大である。その上で、いわき病院は「殺人事件翌日の12月7日に外出して逮捕されるまでの短時間に野津純一が顔面に瘢痕をつけた」と主張したり、「原告の意図的な創作」とまで主張した。野津純一の顔面に複数ある瘢痕は確実に存在し、しかも新旧多数存在する。いわき病院の虚偽証言は明白である。医療機関として、野津純一の顔面の火傷の瘢痕を見逃してかつ否定した。いわき病院の証言態度は故意に基づく過失である。


(4)、組織的な虚偽発言の可能性

いわき病院は、答弁書から第6準備書面まで一貫して、いわき病院では医師も医療スタッフも全員が、「野津純一の顔面に瘢痕を認めなかった」として、「信頼すべき病院が否定しているのだから事実でない」と主張してきた経緯がある。その上で、いわき病院の「根性焼き」に関する主張は事実に反していた。このことは重大な意味を持つ。根性焼きに関するいわき病院の主張は虚偽であり、敷衍すれば「いわき病院の主張は全て根拠がない可能性」を示唆し、医療に関する証言の真実性は否定される。

野津純一の左頬の瘢痕(根性焼き)に関するいわき病院の虚偽証言は明白である。また仮に、いわき病院が主張するとおりいわき病院の医療職員の全てが患者の顔面にある多数の瘢痕に気が付かなかったとするならば、臨床医療機関として当然の機能を全うしない異常な状態である。もしくは、いわき病院は組織的に偽証をした。いわき病院のような組織にあっては、「全員が同一の発言をするから真実が語られている」のではない。「雇用者である病院長の命令の下に、事実とは関係がない虚偽の発言を全員が一致して行うこと」が高い可能性であり得る。


(5)、根性焼きだけではない、事実をねじ曲げるいわき病院

野津純一が自ら左頬にタバコの火を押しつけてつけた「根性焼き」は本件裁判では重要な事実関係である。いわき病院は「原告の悪質な創作」とまで主張したが、野津純一の左頬に新旧の瘢痕が複数あることは明白な事実である。

これまでにも、いわき病院長は「40回以上の外出は問題なかった」と第1準備書面で主張して第2準備書面では外出日の記録を提出したが、いわき病院が証拠とした事例は全て単独外出ではなく、いわき病院の証言が偽証であったことが確定している。第2準備書面においていわき病院長は「平成17年12月当初は退院する状況になかった」と証言した。しかし平成17年11月22日診療録に「退院したら一人で注射はできないからプラセボ試す」、また12月3日には「退院して一人で生活には注射ができないと困難」と記載がある。また、平成17年11月のレセプト請求には「退院処方」として記載がある。いわき病院は裁判の場で虚偽証言を繰り返しており、事実をねじ曲げて主張してきた行為を鑑みれば、いわき病院には事実を正直に認めない姿勢があり、証言に信頼性は無い。


III、統合失調症の治療中断

1、治療中断(抗精神病薬中止)と再発の危険

(1)、抗精神病薬は根本治療薬ではない

抗精神病薬は統合失調症の症状を抑える対症療法の薬であって、根本治療薬ではない。このため、患者に対して抗精神病薬の投与を中止すれば「再発は時間の問題」である。野津純一は20年余の統合失調症歴があり再発も繰り返していた。野津純一に対するいわき病院の精神療法(SSTや心理教室)は、いわき病院長自らが警察証言でいみじくも認めたとおり、全く効果が無かった。野津純一は放火歴があり、複数の病院内や街頭で他人に殴りかかった行動歴がある。治療中断(抗精神病薬投与の中止)をすれば、暴力行為発現の予見可能性があった。矢野真木人殺人事件は統合失調症治療を中断中に起きた。「本件犯行は統合失調症が憎悪したための殺人衝動ではない」といわき病院が断言する(第4準備書面)ことは誤りである。


(2)、抗精神病薬中断中の病状経過把握

いわき病院長は答弁書や第6準備書面で、統合失調症治療継続中の野津純一のことばかりを出して「誤りはなかった」と声高に主張している。しかし原告はいわき病院長が「統合失調症患者の野津純一に対する統合失調症治療を中断(抗精神病薬中止)しレキソタン大量連続投与に踏み切った平成17年11月23日以降の野津純一の病状把握を問題にしている。統合失調症患者に「抗精神病薬投与中」と「投薬中断中」では条件が全く異なる。平成17年11月23日以降の野津純一に対する治療内容と病状変化の関連は特にきちんと検証されるべきであると指摘する。

    参考: 判例、平成12年10月16日、大津地裁判決、平成9年(ワ)第84号
  1. 統合失調症(精神分裂病)は、寛解状態にあっても向精神薬(抗精神病薬)の服薬を中断すれば再燃する可能性がある。
  2. 前主治医がしていたような抗精神病薬の投与をせず、また、精神分裂病の病状が再燃する可能性があることを前提とした経過観察を行わなかった。

2、抗精神病薬中止以外の選択肢

いわき病院は「野津純一の遅発性ジスキネジアは抗精神病薬の副作用で、どうやっても改善されなかったため抗精神病薬を中止した」と述べたが、実際は遅発性ジスキネジアの治療に関して万策を尽くしてない。いわき病院の野津純一に対する治療には工夫の余地が沢山あり、抗精神病薬を中止しなくても野津純一の遅発性ジスキネジアを改善することは可能であった。以下にその理由を述べる。


(1)、非定型抗精神病薬単剤に変更可能

いわき病院は第5準備書面で「錐体外路系症状が軽減される非定型抗精神病薬に変更しても改善せず」と主張した。いわき病院長は、それまで処方していた「定型抗精神病薬にプラスして非定型抗精神病薬を投与し続けた」ので、「過剰投与が続き野津純一の症状が悪化した」。この症状悪化の状況にあわてて「非定型抗精神病薬を中止」して対応し、従来の「定型抗精神病薬の方を残した」。野津純一に対する処方では、本件裁判でいわき病院が証言した「非定型抗精神病薬(単剤)に変更した」事実は無い。いわき病院長は主治医として、非定型抗精神病薬単剤の処方を試みてみる選択肢があり、それが実行可能であった。


(2)、抗精神病薬(プロピタン)減量も可能

いわき病院はプロピタン(フロロピパミド)は50mgを1日3錠投与していたのであり、いわき病院が第5準備書面で主張した1日1錠は誤りである。この処方変更は簡単であり、1日に2錠にするなり、1日おきに2錠にするなど、きめ細かに投与量を減量して適量に調整することが可能であったのに試みてない。


(3)、抗コリン薬増量で対応可能


(1)、副作用止め抗パーキンソン薬の選択間違い   いわき病院長が使用にこだわった定型抗精神病薬はアセチルコリンの過分泌をおこし錐体外路系副作用が出る。薬原性パーキンソン症候群には抗コリン作動薬が有効である。平成17年8月11日より加えたドプスは抗コリン作用が無い抗パーキンソン薬で、遅発性ジスキネジアには効果がない。抗精神病薬副作用止めの抗コリン薬の選択が間違っていた。野津純一も11月7日の診療録で「ドプス増えて関節が痛くなる」(リウマチみたい)「うーんどうも今回そうでない」(なかなか、説明しても)「アキネトン打ったら気持ちがいい」と記載がある。いわき病院長は抗パーキンソン薬の選択を間違っていたにもかかわらず、渡邊朋之医師は「これだけの大量の抗パーキンソン薬を投与しても効果がない」「だからジスキネジアは心気的なものである」と誤った判断をしており、誤診である。

(2)、「アキネトン無効」は誤り   いわき病院が第5準備書面で主張する「遅発性ジスキネジアにピペリデン(アキネトン、タスモリン)が無効であった」は誤りである。平成17年3月10日と17日、11月7日の診療録に「アキネトンは効く」と記載がある。アキネトンは有効だったが抗コリン薬の投与量不足だった。ピペリデンの常用量は1日3〜6mgである。定型抗精神病薬を使用してタスモリン1日1mg投与(平成17年3月29日から11月15日まで処方)では投与量が足りなかった。このため「アキネトン(5mg/A)を打つと気持ちがいい」と野津純一が頻繁にピペリデンの注射と頓服(タスモリン1mg)を要求した。野津純一のアキネトン要求には合理的な理由があり、いわき病院長が主張する「不必要にしつこい要求」ではなかった。

(3)、アキネトン注射と内服薬   いわき病院は第5準備書面で「福祉ホームなどで生活するには、頻繁にアキネトンの注射を行うわけにいかず」と主張したが、アキネトンには錠剤や細粒があり、注射ができなくても問題は無い。


(4)、精神保健指定医の初歩的な過失

いわき病院長は野津純一という患者を前にして、医師として可能な限りの可能性(結果予見性)を検討して適正な医療を行うという意味の、最善(結果回避可能性)を尽くさなかった。主治医の精神医学の治療に関する知識は精神保健指定医としてあるまじき、初歩的な水準に留り、誤認や誤解や錯誤が多い。このような専門的な資質に欠ける医師が精神保健指定医であり病床数248の精神科病院長を勤めることができる現実があるところに、日本の精神医療制度に改革するべきところがあると指摘する。


3、2週間前の注射指示は法的無効

罹患歴20年余の統合失調症患者である野津純一に、統合失調症治療中断(抗精神病薬中止)を強行したいわき病院長は、統合失調症再発の前駆期を見逃さない責務があり、再発の危険性が出る前に治療再開を整える必要がある。

いわき病院長は第4準備書面、第5準備書面で「11月23日の診療録に、『幻覚強い時トロペロン1アンプル、振るえたらアキネトン1アンプル』と記載してある」として、あたかもこれが「永遠に有効である」かのように主張した。また第5準備書面で「アキネトンは依存性があるので『まず生理食塩水の注射、効かなければアキネトンの注射』を診療録に指示してある、だから問題ない」と主張した。しかし「トロペロン、アキネトン注射」また「まず生食注射、効かなければアキネトン注射」と2週間前に診療録に「注射指示」を記載しても、それは「単なる方針」である。実際に注射を行うには、直前の医師の診察と指示が無ければ法的に無効である。また「統合失調症治療再開(抗精神病薬再投与)に幻覚が強くなってから対応する」では、遅すぎる。

「医師の診察無しに看護師に向精神薬や劇薬の注射をさせる」のはいわき病院内で「看護師に医師法(無診察治療禁止)違反を強要していた」との自白である。仮に医師の診察無しに看護師が実行していたら、医師法17条「非医師の医業禁止」違反をいわき病院内で日常的に実行していたことになる。


IV、レキソタン奇異反応と過失

(1)、いわき病院長のCPK認識間違い

いわき病院長が野津純一の主治医を交代した直後に記述した平成17年2月25日診療録には「(血清検査の結果)アカシジアにしてはCPKの値が低い」という記述がある。いわき病院では、CPK値をアカシジアの判断基準にしていた。「CPKの値が低いためアカシジアではない」と考えて、「野津純一のムズムズは心気的なもの」と診断したと推察される。

CPK(クレアチンホスホキナーゼ)は骨格筋、心筋の可溶性分画を中心に存在する酵素で、細胞の損傷によって血液中に遊出し、急性心筋梗塞や進行性筋ジストロフィー、悪性症候群等を調べるときに測定される。いわき病院長は「筋肉疾患を調べる検査」という表題に惑わされ、CPKの評価を誤ったものと考えられる。アカシジアやジスキネジアは筋肉の破壊・細胞の損傷が原因ではなく、脳よりつながる自らの神経刺激による筋肉の運動である。CPKでアカシジアの判定をしたのは誤りである。

いわき病院長は、間違った医学的根拠を元にして野津純一のムズムズを診断した。その上で、いわき病院長が治療することができない執拗な野津純一の手足の振戦に対する治療を目的として、抗精神病薬を中断して、レキソタンを大量投与した。いわき病院長の精神医療の前提には「CPKの意味取り違え」と錯誤がありムズムズ症状の本質を取り違えて誤診した。「アカシジアにしてはCPKの値が低い」は間違いで、野津純一のムズムズを「心気的なもの」と誤診した。

原告はCPK検査を必要とする患者に関連して複数の精神科医や内科医に事情聴取した。それによれば、普通の臨床医であれば20年の間にやっと1例に出会う程度の患者出現率であり、アカシジア患者とは出現頻度が全く異なる。また該当者は容易に他の患者との違いを視認できるので、日常の検査項目としてCPKは必要なく、該当者に気付いたときの追加の検査項目で十分である。いわき病院長が「CPK検査はルーティンな項目である」と主張するならば、そもそも野津純一に対しては無意味な検査をして、病院長自ら通常検査項目とするCPKの意味を取り違えて「心気的」と診断間違いをした。仮に、野津純一に特別にCPK検査をしたのであれば、精神保健指定医の確定意思でCPKの意味を取り違えた結論になる。このような錯誤をする、いわき病院長の精神保健指定医としての責任は極めて重い。

    参考 : アカシジア(静坐不能)
    激しい不快感を伴いじっと座っていられない状態。患者はしばしばイライラ、不安感、焦燥感またはその全ての症状により、落ち着かない様相を見せる。

(2)、時代遅れの強迫障害治療とレキソタン大量投与

いわき病院長は野津純一の統合失調症よりは強迫神経症にこだわり、野津純一の執拗な手足の振戦(アカシジア・ジスキネジア)を「心気的なもの(強迫性障害による症状)」と診断していた。強迫性障害(OCD)は、かつては強迫神経症とよばれて、特に難治性の神経症とされていた。1980年代にOCDにセロトニン作動性抗うつ薬SSRIが有効であることが確認されてから臨床研究が飛躍的に進んでいる。原告は、いわき病院長が野津純一の強迫症状に対し旧名称「強迫神経症」(警察供述書、検察供述書)を使用したことで「医師の認識は古いままである」と観察している。あわせてOCD治療としては時代遅れの治療法(SSRIでなく抗不安薬使用)を採用し続けたことが、抗不安薬レキソタンの大量投与につながった。

野津純一の強迫症状に対しては前主治医N医師はSSRIのルボックス50mgを1日あたり3錠〜6錠を欠かさず投与した。ところが平成17年2月14日に主治医を交代したいわき病院長はルボックス投与を全面中止し、主治医を交代して1ヶ月半SSRIは全く投与せず、3月末にSSRIのパキシル1日1錠を処方した。4月18日に野津純一が「不潔強迫が取れない。以前投与されていたルボックスが効いた。150mg6錠最大で」と申告したことからSSRIのパキシルを2錠に増量した。いわき病院長は8月2日になって「性障害が出る」との野津純一の申告からパキシルを1錠に減らした。その後、11月23日にはレキソタン増量と同時にパキシル投与も全面中止した。

主治医が野津純一のSSRI投与中止を続行したり、抗不安薬の大量投与に踏み切ったりしたのは、現代の強迫性障害(OCD)治療方法を考慮していない証左である。いわき病院長は配下にある勤務医N医師の現代的な処方を、病院長という権威で無理矢理、1980年代以前の処方に引き戻した。


(3)、レキソタンの依存性と薬用量制限

いわき病院長はレキソタンを連続過剰投与した理由を第5準備書面で「野津純一の体重が大きいため増量した」と説明した。ところで、レキソタン(ベンゾジアゼピン系薬剤)に最も多く現れ、良く知られている重大な副作用は「依存性」である。野津純一も「最初はレキソタン(2mg)を1錠飲んで眠くなった」という発言が診療録にある(平成17年3月21日)。野津純一は最初はレキソタン2mgで効いていたが、平成16年10月1日から17年11月22日には毎日15mg投与されており、依存性が既に形成されていたと考えられる。平成17年11月23日から処方した1日30mgでは当初の15倍量にもなる。

レキソタンは医家向け添付文書(能書)には「大量連用により薬物依存を生じることがあるので、観察を十分に行い、用量を超えないように慎重に投与すること」と明記されている。ベンゾジアゼピン系薬剤は通常の使用量で効果は見られ、大量の投与が特に有効なのではない。効果が現れる場合には数日内でも出るし、長くても2週間以内で薬事効果が判明する。それ以上投与しても効果がなければ漸減中止しなければならず、漫然と大量を長期投与する薬ではない。レキソタンは薬物依存があるので、体重が重くても常用量内で使用しなければならない。常用量限度(15mg/日)で効果がなければ、もうレキソタンは効かないのであり、いわき病院長渡邊朋之医師の判断は間違っている。野津純一は体重が重いためレキソタンが効かなくなったのではない。それまでの連続投与により、依存性が発現していたのである。依存性が発現したために効果が見られなくなったことを認識せず、いわき病院では際限なく投与量を増加するという暴走が発生していた。

    参考 : 判例、1996年1月23日、最高裁第3小法廷、判決
    医師が医薬品を使用するに当たって医薬品の添付文書(能書)に記載された使用上の注意事項に従わず、それによって医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り、当該医師の過失が推定される。

(4)、奇異反応といわき病院証言の信頼性

医家向け添付文書(能書)に明記されたベンゾジアゼピン系薬剤の「依存性」に次ぐ重大な副作用が「奇異反応」である。奇異反応は医家向け添付文書(能書)や一般的な精神医学書にも明記してある重大副作用である。能書に記載された向精神薬の重大副作用を承知しその対応を未然に検討することは精神保健指定医として当然の責務である。野津純一に出た攻撃性は、レキソタン大量連続投与の副作用だった蓋然性が極めて高い。野津純一の犯罪行動を「奇異反応および統合失調症治療中断」で説明すれば、S鑑定と野津純一が逮捕後に行った供述内容とも一致する。そもそも、野津純一に対する薬効判定を行っておらず、いわき病院長は「奇異反応は出ていなかった」と主張できない。

いわき病院長は矢野真木人殺人事件当日に野津純一を診察拒否したにも関わらず、「看護師や作業療法士の記録からレキソタン増量後に刺激興奮、敵意が生じていたとは考えられない」と述べた。そもそも、「野津純一の顔面にある火傷瘢痕は発見できなかったから、存在しない」と事実に反した証言に固執するいわき病院職員の観察記録は証言として信用に値しない。いわき病院の看護師や作業療法士は「目の前の現象を観察しなかった」か、それとも「刺激興奮や敵意などの症状を観察したが、見なかったことにして証言する」という偽証行動を取っている可能性が極めて高く、信頼性が伴わない。

    参考 : 判例、2002年11月8日、最高裁判決、平12(受)1556号
    精神科医は向精神薬を治療に用いる場合において、その使用する向精神薬の副作用については、常にこれを念頭に置いて治療に当たるべきであり、向精神薬の副作用についての医療上の知見については、その最新の添付文書を確認し、必要に応じて文献を参照するなど、当該医師の置かれた状況の下で可能な限りの最新情報を収集する義務がある。

(5)、奇異反応の作用機序と法的責任

いわき病院は第5準備書面で「奇異反応の作用機序が不明であるから具体的予見は困難」と主張した。しかし、奇異反応に関連して、「どのような作用機序により副作用が起きるのか」という問題は純粋科学的関心からはともかく、法的な責任論では意味がない。「作用機序が明らかになるまでは患者に発生するかも知れない重大な副作用の発現を予想しないが、患者にはその薬を処方する」という医師がいたらその医師は無責任であり、モラル欠如であり、臨床医としては失格である。いわき病院長は、自らの無知を認めた上で、「重大な副作用が発現する可能性を考慮せずに、薬処方を漫然と行っていた」と専門医としては極めて不謹慎な証言をした。


(6)、副作用発現頻度と医師の過失責任

奇異反応は能書や一般的な精神医学参考書などにも掲載されている事項であり、その知見の取得に特別の困難性は存在しない。ましてやいわき病院は精神科専門医療機関である。重大な副作用が起こる確率は低くても、副作用発現の可能性を考慮に入れないで薬処方をすることは過失である。レキソタンは「奇異反応」および、よく知られた重大副作用の「依存性」の点から、精神保健指定医としてしては漫然と大量連続投与してはならない。そもそも、この重大な問題を知らない精神科医はいるはずがない。

副作用発現頻度について、「当該薬剤を投与された患者に攻撃性が発現する確率」と、「当該薬剤を過剰連続投与されている精神障害者に攻撃性が発現する確率」は区別して考える必要がある。ともに分子は「攻撃性を発現した患者数」であるが、分母は前者では「当該薬剤を投与された全患者数」であり、後者は「当該薬剤を過剰連続投与されている精神障害者数」であり、分母の小さい後者の確率の方が、前者の確率よりはるかに大きいことは明らかである。分母を「当該薬剤を過剰連続漫然投与され、加えてストレス過多な状況下にあり、衝動制御に問題のある精神障害者数」にすると発現確率は更に大幅上昇する。野津純一はいわき病院が主張するよりはるかに副作用が発現する危険度が高い状況にあった。いわき病院が副作用発現頻度をいかに低く見積もるとしてもそれはいわき病院の責任を軽減することにはならない。そもそも、重大な副作用が発現する可能性に対応しなかったことがいわき病院の決定的な過失である。


(7)、専門性が高ければ重大な副作用に気付かない責任は大きい

いわき病院は答弁書で「いわき病院の精神科医はいわき病院だけでなく大学や他の民間病院での臨床経験を有し専門の教育を受けている。看護師も精神症状の把握や患者の理解のため学習会を開いている。機能評価の認定を受けるなど、精神科病院としての専門病院として医療をおこなっており医師及び看護師も相応の知識・経験を有している」と医療水準の高いことを誇った。そうであるならば、能書きに書かれた重大副作用すら考慮しないというのは看板に偽りありである。またいわき病院の精神医療の専門性が高ければ高いほど、副作用が発現する危険性に気が付かなかったもしくは無視した責任、は重大である。

いわき病院の野津純一の統合失調症の治療では、統合失調症を適正に診断できず、反社会性人格障害の症状に対応した治療方針を立てず、CPKを取り違えてアカシジアの診断指標として判断を間違い、その上で、抗精神病薬を中断して統合失調症の治療を怠り、レキソタンを過剰投与してもその重大な副作用である奇異反応が発現する可能性に全く配慮しない医療を漫然と行っていた。いわき病院は日本病院評価機構の認定を受けた精神科病院である。またいわき病院長は香川大学病院でも外来診察を受け持つ高度な精神科専門医師である。このような高い評価を得た精神科病院が、上記のような基本的な諸問題で過失を行っていた事実が持つ意味は甚大である。日本の精神科医療の人材育成と治療制度に基本的な問題点がある可能性が示唆される。


V、処方変更後の薬事効果判定

(1)、主治医は遅発性ジスキネジア改善度と奇異反応を診断せず

罹患歴20年余の統合失調症患者である野津純一の統合失調症治療中断の最大の目的は「遅発性ジスキネジアの改善」だった。「統合失調症再発の危険との賭けだった」にもかかわらず、いわき病院長は「患者ムズムズ訴え強い」と、他人事のように診療録に記載している。12月3日診療録は「対話形式」を取っておらず、主治医本人が問題意識を持って、直接本人に聞いたようには思われない記述である。野津純一の統合失調症治療薬中断の処方変更後の精神症状については「幻聴はいつもと同じ」としか書いていない。このころ野津純一が病院内で左頬、指の付け根に煙草で火傷痕をつくる自傷行為をしているのに、診療録記載はたったこれだけであり、野津純一に直接質問した形跡がない。

第5準備書面の証言でも、いわき病院長は奇異反応が発現する可能性を予見してない。精神保健指定医であり、機能評価病院の病院長でありながら奇異反応という結果予見可能性に気が付かなかった過失がある。


(2)、薬剤効果判定は診療録未記載

いわき病院長は「野津純一に対する薬剤の効果については検討しており」と回答したが、「医師法および療養担当規則第22条に定められた、主治医による薬剤効果判定」および「その効果判定を遅滞なく診療録に書き残す義務」を全うしていない。「薬剤の効果について検討した」は薬剤効果判定ではなく、「法的に有効な薬剤効果判定」をしていない。


(3)、薬事効果判定の有資格者は医師と薬剤師

医師は患者の経過観察をした後は遅滞なくそれを診療録に記載する義務がある。診療録に記載がなければ薬事効果判定をしたとはみなされない。また、薬事判定が法的に許される有資格判定者は医師と薬剤師のみである(薬剤師は薬剤管理料を保険請求できる)。主治医は自ら経過観察をせず、経過観察記録を診療録に残さず、「看護師・作業療法士の感想をもって薬事効果判定した」とのいわき病院の主張は違法である。


(4)、いわき病院の証言は法的無効

いわき病院長は野津純一を担当した看護師や作業療法士に「野津純一の統合失調症の薬原性副作用軽減のため抗精神病薬を中止したが、いつ再発がおこるかわからないから注意深く観察して欲しい」とは伝えてはいない。いわき病院長は野津純一の統合失調症治療中断を強行した時には「野津純一は統合失調症ではなく、強迫神経症」と誤診していたので、職員に再発の危険性を伝える筈もない。しかも野津純一は、感情平板化、感情鈍麻で、陰性症状が主で感情を容易に表出しない患者である。「落ち着いている、いつものごとく」といっても、野津純一の感情が平穏とは意味しない。

いわき病院が証言した看護師と作業療法士の薬事効果の観察は、野津純一の薬事効果観察とは全く関係がなく不適切である。いわき病院が本質的な問題を理解していない看護師や作業療法士の観察を証拠として提示したところに欺瞞がある。そもそも、いわき病院はこのような無資格者の観察記録をいわき病院が薬事効果判定をした証拠として持ち出して「法的に適正な薬事効果判定はしてない」と違法行為を自白した。


(5)、統合失調症治療(抗精神病薬投与)を早期再開する義務

統合失調症罹患歴20年余の野津純一から遅発性ジスキネジア軽減のために、通常は行わない統合失調症治療中断(抗精神病薬中断)を主治医は強行した。抗精神病薬中断後、遅発性ジスキネジアは全く改善しなかった。失調症治療中断では再発の危険が常にあり、早期に治療再開(抗精神病薬の再開)することが必要である。いわき病院長は、統合失調症薬を中断した時点で診療録に方針を記載しただけで放置した。第3準備書面におけるいわき病院長の「精神症状の悪化がなく抗精神病薬投与再開(注射)はしなかった」との発言は精神科医としての基礎知識・モラルを疑う発言である。常識ある精神科医なら「精神症状が悪化してからの再開では遅い」と考えて当然である。遅発性ジスキネジア改善の効果が無ければ「統合失調症の治療再開をなるだけ早期に始める義務」が主治医にはあった。

野津純一には暴力行為の既往症があり、いわき病院歯科では野津純一の暴力の危険性に対し拘束器具を使うなど対策をしており、暴力の結果予見可能性を行使した。統合失調症治療中断をすれば、暴力の結果予見可能性があり、統合失調症治療を再開することで結果回避可能性があった。いわき病院長が統合失調症患者への統合失調症治療を再開する時期すら検討せず、統合失調症の症状が再燃する可能性があることを前提とした経過観察等を行なわず、いわき病院の未必の故意である。いわき病院は精神科専門病院であるが、自傷他害に関する予見放棄(債務不履行)をした。


VI、統合失調症治療中断中の診察拒否

(1)、自ら直接に確認をしない診察

いわき病院長は、「野津純一の症状を統合失調症と診断し、遅発性ジスキネジア軽減の為だけの目的で抗精神病薬の投与中止をした」と主張した。このような場合、精神保健指定医で常識がありまた責任感を持った精神科医であれば、「遅発性ジスキネジアが本当に改善されたか否か」、さらには「統合失調症の再燃が出ていないか」の可能性を考慮し、看護師等の観察に頼ったりせず、毎日自ら患者の様子を見に行くなどしてきめ細かく患者の症状の変化を直接確認して診察するのが当然である。

いわき病院長が薬事処方の変更をしたにも関わらず、野津純一のその後の症状の変化に無関心であった事実が持つ意味を推察すれば、いわき病院長は「野津純一は統合失調症ではない」と確定診断していたことを示唆する。そうでなければ、抗精神病薬の中断以降のいわき病院長の行動に合理性は認められない。


(2)、渡邊医師の診察態度

いわき病院は第6準備書面で「12月6日に診察していたとしても、患者自身がムズムズや咽頭痛のことしか言わなければ、外出禁止や付添の必要性の判断は成し得ない」と断言した。原告は本当にこれが「本分が患者を治療することである臨床精神科医の言うことか?」と疑う。渡邊朋之医師には「患者に寄り添う」という本来の精神科医の姿が全くない。いわき病院長にとって医師は「患者に会って見る仕事」ではないのだ。主治医は野津純一の顔面の瘢痕すら精神医学的観点から観察していない。機械的で冷たい医療であり精神科臨床医師としての資質に欠ける。また、上記は主治医が例え診察していたとしても、「看護師が報告したムズムズと咽頭痛以外は主治医自らは聞き出せない」との証言であり、いわき病院長は「看護師以下の問診力と観察力しかない」と言う自白である。


(3)、経過観察をしない主治医

原告は、いわき病院長が平成17年11月30日と12月3日に昼間の正常な時間に野津純一を実際に診察していた事実がある否かについては、診療録記載内容のお粗末さや記載日付のあやふやさ等の状況証拠、および原告が行ったいわき病院職員からの聞き取り調査等から疑いを持っている。仮に、野津純一を診察した事実があったとしても野津純一の主治医は13日間でこの2回しか担当患者を診察せず、更に殺人事件当日には診察要求を拒否した。これは統合失調症治療中断という重大な処方変更の後の経過観察を慎重に実施すべき主治医として極めて無責任な診療態度である。

そもそも主治医として担当する患者の診察を、1週間に1回しか行わないとは、回数が少なすぎる。入院患者が希望しても適時適切な診察を受けることができない。主治医は診察しないで診断をする。これでは病院にわざわざ入院して治療を受ける意味がない。また重大な処方変更を行ったのであれば、その患者を特定してきめ細かな診察を行うべき頻度が増加して当然である。いわき病院長は、受け持ち患者の経過観察をきめ細かに行っていない。「患者を診察せず、状況の変化を観察しなくても、当然の正しい精神医療である」と主張している。罹患歴20年余の統合失調症患者の統合失調症治療を中断して2週間目に患者が不調を訴えた時、「患者の訴えは頭痛と喉の痛みだけであって精神症状の悪化は全く考えられないと診察もしないで断言できる精神科医は世界中どこにもいない」というべきである。野津純一には、統合失調症の再発・再燃が起こる可能性があった。いわき病院長は主治医としてその経過観察をしていない。


(4)、主治医の診察拒否

いわき病院長が、遅発性ジスキネジア対策だけを目的として統合失調症治療の中断していたのであれば、野津純一の統合失調症の病状変化に無関心すぎるし、診察拒否したという事実は、精神保健指定医としては重大な過失である。

野津純一の主治医は渡邊朋之医師である。いわき病院長の警察供述書によれば、当時のいわき病院長の主治医としての受け持ち入院患者は野津純一を含めてわずか12人であった。それにも関わらず、「一週間に一回程度」しか担当入院患者の診察をしてない。その上で、患者から「診察して欲しい」との依頼があっても、主治医はその時に診察をすることが可能な状況にあったにも関わらず、診察拒否をしており医師法第19条(診察義務)違反である。その診察拒否をする根拠も、予断に基づく決めつけであり、野津純一を診察した結果に基づく医療事実を考慮してない。


(5)、歯科がしていた暴力発現の結果予見

いわき病院歯科では野津純一の暴力発現の危険性から診療のたび精神科看護師が付き添い拘束器具を使用しており、「暴力が発現する結果予見をしていた」のである。主治医は統合失調症治療中断により患者に暴力が発現する結果予見は可能だった。


(6)、結果回避可能性はあった

いわき病院長は、事件当日野津純一の診察要求を受け入れて外来待合で並ばせてさえいれば(第5準備書面によれば、それは十分可能であった)、医者患者間の信頼関係が決定的に崩れることを避けることができて、結果回避が可能だった。主治医は患者に共感しない態度を取り続けた。


VII、病院の管理体制

1、任意入院患者に対する外出制限

(1)、任意入院患者は自傷他害するはずがない?

いわき病院は「野津純一はそもそも任意入院であり、自傷他害は考えられない入院患者である」と主張したが、この前提が基本的な間違いである。精神障害者であるなしに関わらず、自傷他害の可能性がある人間は存在する。これは任意入院であるなしの問題でもない。いわき病院は精神医療機関として人間の理解に関して基本的な認識間違いをしており、精神科病院を運営することがそもそも不適格である。


(2)、任意入院患者の外出制限

いわき病院は第2準備書面(平成19年4月4日付)で「少なくとも精神運動興奮による他害の可能性が認められなければ任意入院患者の外出制限は精神保健福祉法違反となる可能性が高い」と主張した。更に、第4準備書面(平成20年6月20日付)で「原告は野津の過去の傷害、暴行から措置相当と主張するが」と原告が言いもしないことを原告の主張とした。いわき病院は正確な事実に基づかず、また法制度を正確に理解しないで、無謀な論理展開をした。いわき病院は自らの思い込みで法律制度を曲解し、原告の主張を取り違えた主張を行っている。患者の治療を行う臨床医療機関として不適切な認識と主張である。


(3)、任意入院でも12時間以内の外出制限は可能

「精神保健福祉法第36条第3項の規定に基づき厚生労働大臣が定める行動の制限」(平成63年4月8日厚生省告示129号)によれば「12時間を越える保護室への収容と衣類や綿入り帯による身体拘束について、指定医の判断が求められることとされた」。「12時間以内の外出制限」は任意入院患者に対しても可能であり、精神保健福祉法違反とはならないし、措置入院相当でもない。精神科専門医療機関でありながらいわき病院は誤った主張を繰り返している。

いわき病院の平成16年10月21日の診療録に当時の主治医N医師は、野津純一の隔離・拘束措置に関して「7:30より12時間を超えない隔離を実施していたが…」と記述していた。いわき病院が「任意入院患者の外出制限は精神保健福祉法違反となる可能性が高い」と主張する事はできない。そもそもいわき病院長は野津純一の診察拒否をしており「精神運動興奮による他害の可能性」を判断することを主治医として拒否していた。またいわき病院は野津純一の状況を判断すれば、病院スタッフの付添による外出を行わせることも可能であった。原告は「その日の判断」を問題にしているのであり、野津純一に対して常に制限的でなければならないと主張しているのではない。いわき病院はこの点を意図的にねじ曲げている。


(4)、開放医療でも看護・看視の義務はなくならない

いわき病院は第5準備書面で「本件における野津純一とは異なり、(大坂地裁、平成5年2月17日判例の場合は)他害の危険性は具体的に存在していた。」と主張し、他害の危険性が具体的に存在しておれば、先例となる判例であると認めた。野津純一には他害の危険性が存在しており、いわき病院は他害の危険の予見可能性を無視した精神医療を行い過失責任がある。


    参考 : 大坂地裁(平成5・2・17 判例)の判決といわき病院の責任

    1)、病院の事故を起こさない配慮義務
      精神科入院中の精神障害者は、その精神症状や性格などから自傷・他害の恐れが否定できないから、病院、医師、看護人としては、精神障害者が自傷・他害を伴う事故を起こさないよう、それぞれの立場において、患者の動静に注意し、事故が発生しないよう配慮すべき注意義務があるものと解される。

    2)、医師の裁量と過失責任
      (開放医療を行う場合)拘禁する場合に比較して、精神障害者が他害行為に及ぶ機会は増加する一面はあるが、一旦事故が発生した場合に安易に医師の責任を認めるのでは開放化の治療理念を否定することになりかねないため、精神病の診断・治療方法の選択については、病状と治療効果、その侵すべき危険度の調和と、その治療に当たり医師として通常払うべき注意と勘案して、右医療措置が医師の裁量を逸脱した場合に限り医師の過失が認められるものと解するのが相当である。

    3)、医師の開放医療の選択と精神病院管理者の義務
      医師が治療方法として開放医療を選択したとしても、それによって精神病院管理者が患者による暴力行為の発生を未然に防止すべき義務がなくなる道理は見いだせず、むしろ、右義務を肯定することと開放治療とは両立しうるものと考えられる。

    精神障害者が示す行動には何らかの意味があり、衝動的暴力行為の場合にも、患者が内的な欲求を自分でコントロールできなくなり突如として相手に暴力として受け取られるような表現をすることが多いこと、患者の暴力行為は、幻覚、妄想による場合以外にも、患者と他の人々との関係から生じるいきさつや、自分を正当に認められなかったり、行動の自由を不当に制限されたり、要求が通らなかったりする場合にもしばしば起こりうることが認められ、無断離院、自傷他害、けんか等の事故は、いずれも看護師の観察力や注意によってある程度まで防止できることに鑑みれば、治療行為として開放的処遇を採用する場合には、医師には、各患者の症状、動静を的確に把握し、他害のおそれのある患者に対しては、他の患者と比較して重点的に観察、看護し、場合によっては一時的隔離保護するなど何らかの方策を取るべき義務があるということができる。


2、いわき病院と看護基準

答弁書でいわき病院は「病院においては、看護スタッフは精神科病院での基準の高い3対1(現在の15対1)であり全国的な水準に照らし不足はない」と述べた。また第6準備書面では「精神科病院では、本件事件当時では通常3:1看護、平成18年4月からは15:1看護が標準であり、…」と述べた。この「15:1が標準」といういわき病院の主張は誤りである。平成18年4月以降は「5:1が標準」である。いわき病院は本件裁判で看護師数を標準の3分の1しか充足してないと証言した。


3、保険点数不正請求・不正受給の可能性

(1)、これまでに指摘した事項

いわき病院が診療報酬の請求に関連した保険点数不正を行っていた可能性についてはこれまでも指摘してきた。

  1. 診療録とレセプトと本件裁判記録(第3準備書面の証言)が一致しておらず、裁判での偽証かレセプトの不正請求のいずれかとなる
  2. いわき病院はSST(社会生活技能訓練)とOT(作業療法)の効果を否定していながら実施しており、保険点数請求だけを目的にして実行されていることになる
  3. OT(作業療法)では少なくとも4回の重複記載がありレセプト不正受給された
  4. 第3準備書面の処方によればノーマルン(抗うつ薬)を不正受給したことになる

(2)、障害年金受給者現況届(公文書)の虚偽作成

いわき病院は第5準備書面で自らが作成する「障害者年金受給者現況届」という公的申請書類が「正確でない」と認めた。そして野津純一に「暴力ありとすると障害者年金受給に有利だから書いたまで」で、「暴力の可能性はなかった」と主張した。いわき病院は「客観的な判断を誤ることはない」とするが、これまでのいわき病院の主張のいずれも客観的な事実を正確に述べず、第三者が客観的な正確性を確認することができない。公的文書作成で正確な記載をしたと証明することはできない。いわき病院は「事実に基づかない、公文書虚偽作成が日常的に行われている」と自白した。


(3)、リスパダール処方と保険不正受給(平成17年7月25日)

いわき病院診療録では平成17年7月25日に、リスパダール2錠(2×MA4)と記載があり、7月29日に中止している。診療録記載は4日分を一回だけなのに、保険(レセプト)では8日分を受給した。


(4)、セロクエル処方と保険不正受給(平成17年8月)

いわき病院診療録では平成17年8月2日に、セロクエル(25mg)3錠、同(100mg)1錠を7日分処方している。ところが保険(レセプト)は7月に7日分、8月に7日分で、合計14日分を受給した。


(5)、歯科の抑制器具使用と不正受給

いわき病院歯科は歯科治療で野津純一が暴力を起こしたり興奮したりしたことは無いが「精神障害者加算」があるので「暴力あり、抑制器具使用したと書いたのだ」と証言した。いわき病院が「いわき病院歯科で野津純一が暴れたりヒステリーを起こしたりする可能性は全く無い、それはレセプトの精神障害者加算のためだった」と主張するならば、いわき病院歯科は「暴力の恐れも無いのに拘束器具使用という人権侵害をした」と証言して、その上で、「レセプトの精神障害者加算を不正受給していた」と告白した。

いわき病院は「実際、歯科の診療録には、暴力があったことや興奮した野津純一の治療をするために抑制器具を使用した記述等はない」と証言した。ところで、レセプトの記述は以下の通りである。

    ○ 日によって暴力行動をするため抑制器具を使用し、看護師介助のもとに治療
      16年10月、17年3月、4月、5月、6月、8月、9月、10月、11月、
    ○ ヒステリーを伴い暴力行動あり 16年12月、17年1月、
    ○ 治療に対して不協力 17年7月、

いわき病院歯科レセプトには「暴力があった」および「抑制器具を使用した」と記述がある。平成17年7月には「治療に対して不協力」と記述し、その後は再び「日によって暴力行動をするため抑制器具を使用」にもどった。このような記述の変更があれば、「野津純一に再び暴力行動があった」という、歯科治療の現場で発生した具体的な事実関係があったことになる。いわき病院は「歯科の診療録には、野津純一が暴力行動をしたという記述はない」と断定したが、そうであるならば、レセプト不正記載および精神障害者加算目的のレセプト不正受給である。また著しい人権侵害がいわき病院内で横行していた可能性を示唆している。


(6)、適正な事務を行う社会的責任

いわき病院の保険点数に関する不正請求が疑われる事実関係は、単純な過誤(ケアレスミス)の範疇を逸脱している。いわき病院は社会から支持を得た医療機関として存続を希望するのであれば、適正な保険点数請求事務を行うことが基本である。


VIII、渡邊朋之医師と診断の実態

1、問診の技量

(1)、主治医交代時の問診

いわき病院長は、野津純一の主治医を前主治医から交代した時の平成17年2月14、15、16日に野津純一本人と両親から治療歴の聞き取りを行った。その上で、第4準備書面では「野津純一本人から過去の病状を詳しく聞くことは精神科医にとって不可能に近い」と「主治医として聞き取りが十分に出来ていなかった」ことを認めた。


(2)、H医師の入院前問診

いわき病院は第4準備書面の中で平成16年9月21日付けH医師の入院前問診について、「カルテの記載文言は争わない」と言っており、野津純一の「父親による、他害行為の前歴を含む、病状記録申し立てが記載されていること」は承知していると認めた。


(3)、渡邊医師の問診技量不足

いわき病院長渡邊朋之医師は、野津純一に対する問診に3日間も費やしてH医師が記載していた「患者野津純一の攻撃的な性格」について気付いておらず、H医師が一回分の問診で得た情報の足元にもおよばない仕事をしていた。いわき病院長渡邊医師は精神保健指定医であるが、精神障害者患者に対する基本的な問診のテクニックが欠けていたと指摘できる。

いわき病院長は主治医として「1週間に1回は30分かけている」と主張するが、診療録には「患者 ムズムズ訴え強い。退院して一人で生活するには、注射ができないと困難である。心気的訴えも考えられるため、ムズムズ時生食1ml×1筋注とする。クーラーなどの音への本人なりの異常体験(人の声、歌)などの症状はいつもと同じである。」と書いてお終いである。対話形式でもなく、一方向での記載で、本当にこれで、30分かけた診察の記録であるのか、甚だ疑わしい。いわき病院長はおざなりの短時間の診察をしておいて、それでも30分かけたと水増しして本件裁判で証言をしている可能性が極めて高い。この結果が、いわき病院長の問診技量不足という形で診療録に現れている。いわき病院長は「職員からの報告がなかったから、本人からの申告がなかったから、家族が言わなかったから、だから解らなかった」と主張するが、医師本人に自分で聞き取る力、患者を見る力、本人の判断力および診察力が無い。


2、自院の医師よりは他院の医師に追随

(1)、他院の医師に盲従した抗弁

いわき病院長は病歴調査が十分にできてないことの言い訳に、他院からの紹介状ばかりを問題にして、「紹介状にもなく、野津純一と両親が言わないものは知りようが無い」と嘘吹いている。ところがその一方では、いわき病院における、入院前後に問診をした医師の発言や医療記録に全く言及しない。いわき病院長は、他病院の他医師の診断に盲従し、医師としての自らの見識に自信を持っていないと推察される。


(2)、自院の診療記録を無視

いわき病院における野津純一の14カ月にわたる、入院前問診記録以降の医療記録が重要である。いわき病院には平成13年当時の野津純一の診療録もある。それにもかかわらず、いわき病院長は、自らの病院における野津純一の直近の記録やデータを根拠として主張せず、自らの病院が持っているデータを掌握していたことが示されてない。医師として自ら判断を下さずに、いわき病院内で勤務する医師の野津純一に対する診察を無視した。いわき病院長は最高責任者でありながら「自院の診察記録や調査データを信用していない」と証言した。


(3)、断片的な症状に惑わされた渡邊医師

いわき病院長は主治医を代わった時に、「一時的に統合失調症の症状が改善していた野津純一の短期的な症状に惑わされて、野津純一に統合失調症を正確に診断できなかった」可能性が極めて高い。いわき病院長は、自ら経営する病院が記録した野津純一の長期に渡る過去の病歴や症状を正確かつ詳細に知ろうともせずに、目の前にいる野津純一の平成17年2月14日当時のその時の断片的な精神症状を見て単視眼的に診断した。その上で、何年も前の他院の他医師の診断を現在の野津純一の診断の拠り所とした。


(4)、いわき病院長の責務

いわき病院長は病院の最高責任者であり、本件裁判ではいわき病院の過去の記録に責任を持つべき立場にあると指摘する。いわき病院の精神医療に全面的な責任感を持つことが、いわき病院が優良な精神医療を実現するための基本的な前提条件である。


3、いわき病院長の診断

(1)、「喉に痛み」の原因は風邪だけか

いわき病院長は平成17年12月6日の診察拒否を第2準備書面で「前回と同じ発熱、頭痛と喉の痛みだけだから診る必要はない」また「精神科医師として誤った判断ではない」と主張した。更に、「野津純一はストレスが高じると咽頭痛がする」という母親の証言も、「母親からそのようなことは聞いたことがない」と突っぱねた。

ストレスから身体に痛みを感じることは良くあり、頭痛、胃痛、腹痛、肩こり、肩痛などがある。また腰痛の3割は心因性ストレスが原因と言われる。喉の痛みがストレスから来ることも指摘できる。また緊張やストレスで声がかすれる(咽の違和感)ことはよく起こることである。いわき病院長は野津純一に対して退院を迫るというストレス要因を与えており、野津純一の症状を目の前で観察して慎重な診断を行うべきであった。


(2)、退院処方と「前回と同じ」という診断

主治医が犯行当日に「前回と同じ」と決めつけたその前回である平成17年10月には、レセプトに「退院処方」の記載がある。野津純一はいわき病院から退院を迫られていた。この時には耳鼻科やCT検査もしたが異常は見つからず、そして「退院しなくても良い」と伝えたとたん喉の痛みも軽快した。「前回は風邪の症状ではなかった」のである。いわき病院長が、単純に「前回と同じ」と主張する根拠がない。いわき病院の11月のレセプトでも「退院処方」が記載されており、野津純一が再び退院を迫られていた証拠がある。野津純一の12月6日の喉の痛みは「風邪から」と断定はできず「前回と同じ、退院を迫られていたストレスから」の可能性は極めて高い。本人を診察もしないで風邪と決めつけたことは精神科医として誤りである。

いわき病院長は野津純一に診察を要請されたが診察をしてないので、患者のその時の症状を正確に把握することができてない。その上で、主治医は患者の訴えを「前回と同じ風邪」と決めつけて、患者を目の前において診察せずに、患者の症状を医師の思い込みで決めつけて診断した。これは無診察治療であり、違法行為である。


(3)、K医師刺傷未遂事件と渡邊医師の診断

香川医大のK医師刺傷未遂事件に関するいわき病院長の証言はそもそも一貫性がない。野津純一に関して、第4準備書面では「統合失調症状再燃とは異なる」と述べたが、第5準備書面では「統合失調症の病状からの被害妄想、幻聴、それに随伴する行動として捕らえうるエピソード」と述べ、相反することを平気で書いている。これが精神科病院長でありかつ精神保健指定医の本件裁判における証言である。


(4)、任意入院患者とパレンスパトリエ思想

いわき病院が主張するとおり野津純一は任意入院患者である。任意入院患者は患者本人に「治療に対する理解力がある」ということで、いわき病院は野津純一の理解能力を積極的に主張している。ところが、いわき病院長は統合失調症患者である野津純一に対して、統合失調症薬の処方を中断し、再開するのは統合失調症の陽性症状が顕著になってからで良いとした。また野津純一の希望を全く無視した。これでは患者自身の病識の改善に貢献せず、また患者にとっても、治療効果に対して見通しを持つことが困難で、病気に対して積極的に立ち向かうことを困難にする。

任意入院患者に対する治療計画は、患者と治療者で共有し、医師と患者の双方の合意のもとに決められる。医師が患者の処方を一方的に決めることは国連原則(原則9:治療、原則11:治療の同意)に反している。精神障害者に対する治療計画は治療者だけのものではない。いわき病院の治療の本質は医師のパターナリズムであり、いわき病院が「本裁判が準拠するべき」と主張した、パレンスパトリエ思想にも反する。


4、いわき病院長の二分法論理の問題

(1)、「AかBか」といういわき病院の論理

いわき病院長は、統合失調症に他の症状、例えば強迫性障害や反社会性人格障害が併発するような場合には、特に合併症の可能性を否定して、「どちらか一方の診断でなければならない」と単純化して決めつける性向がある。本件裁判で、いわき病院は「AでなければB」という極端な論理を執拗に展開してきており、原告は事実や実態に基づかないいわき病院の「All or Nothing論」の弊害を本裁判の全過程を通して「いわき病院の論理がもつ本質的な問題である」と繰り返して指摘してきた経緯がある。


(2)、医学における確率論的診断

医学は確率論に論理的基礎をおいた実践の学問である。臨床医学の現場では、個々の医療技法に全ての患者が全く同じ反応をすることはあり得ない。薬効が発現する場合でも副作用が現れる場合でも、全ては確率論の中の現象である。確率論は臨床医療の理論的な根拠として社会的に有意義な機能を担っている。大切なことは事実の認識である。正確な事実に基づいて、慎重な検討と配慮および経過観察の元に、はじめて適切な医療は実現する。

確率論的学問が基礎にある科学の世界では、Aという現象に対応して100%の帰結がBとなることはあり得ない。統計的には様々な頻度で結果が発現し、そこに有意性が科学的に認められる場合に「有効」とされるのである。このことは、医師の仕事は、「例外の事例に遭遇する可能性」を常に意識して行うべき日常の患者診察作業であることを示している。 医学が確立論的である故に、医師は常に患者の処方に関連した異常事態の発生という好ましからざる事態の発生に対応した医療を行う責務があるのである。この臨床医療の本質を否定しているいわき病院には確信犯的な過失が存在する。


(3)、人間精神の多様性

いわき病院は人間の精神の障害を治療する医療機関である。そもそも人間の精神は多面的な側面を持ち、単純な論理では割り切ることができない、複雑な様相があってこそ健全に機能するものである。また統合失調症のような疾病でも、患者の個性と病状の変動に基づく多様な様相が相互作用をしつつ症状が外に発現している。いわき病院が「AかBか」という二分法の論理に固執することこそ、適正な診断を行えず、精神科治療で過失を行う根本原因である。いわき病院は精神科病院として人間精神の多様性を尊重して臨床医療を実践する責務がある。

(4)、連続量としてのrisk要因

いわき病院は野津純一の他害の可能性に関して執拗に、「任意入院患者であり、他害の可能性などあり得ない」と主張してきた経緯がある。五十嵐禎人は「触法精神障害者の危険性をめぐって」(精神医療と心神喪失者等医療観察法、Jurist増刊、2004.3、P.97-98)で、「触法精神障害者の再犯予測に精神医学の果たす役割に関して、危険性をdangerousnessとriskに分けて考えること」を提唱している。五十嵐によれば、『dangerousnessとは個人の性向、資質、経歴などを考慮して判定される危険性であり、「あり」か「なし」かの二分法によって判定される範疇的現象である。』これに対して『riskとは、あくまでも一定の条件を仮定して、その状況に関連した種々の要因を考慮して行われる一種の確率的(危険性が高い、30%の危険性があるというように判定される)な危険性の判定であり、連続量として測定される時限的現象である。』

自傷他害行為を「行うか、行わないか」、また「行ったか、行わなかったか」は二分法である。ところが当該患者が自傷他害行為を行う「危険性が高いか、低いか」は連続量としての確率要因に支配される。処方によっては過去の経験則から「確率は低くても、ひとたび発現すれば甚大な人的損害に及ぶ可能性がある」という事象もある。医師が「任意入院の精神障害者には、自傷他害行為を実行する危険性を考えてはならない」と主張するのでは、連続量としての変異を見落とすことになり、事実に基づいた臨床医療を実践することはできない。


(5)、確率論的視点を欠いたいわき病院の臨床精神医療

いわき病院は「AかBか」また「AでなければB」という論理展開に固執しているが、その同じ態度で、精神障害を持った患者の自傷他害の危険性を診断する際に、risk要因を見ないで判断するという過誤を冒している可能性を指摘できる。臨床精神医学を実践する医師が確率論的視点を欠いていたことが論理的で本質的な問題である。いわき病院長は野津純一の自傷他害の可能性というrisk要因に全く関心を持たなかった結果として、野津純一が矢野真木人殺人事件を引き起こすに至る状況に発展する結果予見可能性があったにもかかわらず徒に放置した。

いわき病院は「任意入院患者であり、他害の可能性などあり得ない」と主張することそのものが「AかBか」論である。そもそも人間は精神障害者であるなしに関わらず「他害の可能性がある人間」も存在すれば、「他害の可能性がない人間」も存在する。それが人間性であり、任意入院であるか否かの問題ではない。


5、人間性善説を大義名分とする偽善

(1)、素朴な人間性善説

いわき病院長は、素朴な人間性善説を振り回し、任意入院患者に自傷他害の可能性を検討することがそもそも人道に外れているかのごとき非難を繰り返してきた。原告がいわき病院に現実を見ない精神医療の問題点を指摘すると、精神障害者を犯罪者と決めつけるがごときの主張と非難の言葉を浴びせてきた。いわき病院が現実を見ないで、人間性善説の理念を振り回す姿は、論理が素朴である。


(2)、人間性善説でも自傷他害の危険性を予見しなければ過失

いわき病院長は人間性善説を元にして、「任意入院患者に自傷他害の可能性があり得ることを想定した診断を行うことは、基本的な間違い」であると主張している。いわき病院は慈善機関や宗教施設ではない。社会の中で、精神保健福祉法の規定の元に精神医療を実施して、公的支援を受けている。その精神科医療機関が法規定にある自傷他害の危険性を全く診断しない医療を行うことは、社会に対する責任を果たしていないことになる。いわき病院長が個人として人間性善説を信奉することは気高い理念である可能性がある。しかしながら、精神障害者に自傷や他害の可能性がある症状を観察しても診断しないことで、適切な医療を提供することを怠っているとするならば、精神科医療機関の長としては、社会的責任を果たしておらず過失責任が発生する。


(3)、人間性善説を責任逃れの論理としてはならない

いわき病院長は人間性善説を振り回すことで、自らの責任を回避する論理としている。「いわき病院長自らは人間性善説を信用していないが、他人には、『お前は人間性善説でない』として批判をしている」と推察される。人間性善説を大義名分として振り回せば、周りの人間は驚き、躊躇する。そこに、いわき病院長が責任を回避できる状況が発生することもある。しかし、だからといって、いわき病院長の人間性善説に説得されるのではない。自分を守るためのご都合主義の論理には普遍性はない。


(4)、原告の意見を歪曲する言葉にいわき病院長の本質がある

いわき病院長は原告の主張であるとして数々の歪曲した言葉を原告に投げかけてきた。原告は、それを見るたびに、原告の発想外の言葉に接して驚いたものである。そして、そのような言葉を発する人間には、「その言葉の中に言葉を発した人間の本質が現れている」と推察した。「原告の意見を歪曲したその言葉にいわき病院の医療及び病院長渡邊朋之医師の人間性の本質がある」と指摘する。


IX、補足的な問題

補足(1)、非定型抗精神病薬単剤に変更可能であった

非定型抗精神病薬の使用に関して、野津純一の主治医は、平成17年7月25日に、プロピタン(50mg)3錠、コントミン(12.5mg)3錠、コントミン(50mg)1錠の処方にリスパダール(2mg)2錠を追加して1日量とした。これは抗精神病薬過剰投与であり、野津純一の遅発性ジスキネジアが悪化した。主治医は、7月29日リスパダール(非定型抗精神病薬)の方を中止した。

セロクエル(非定型抗精神病薬)に関して主治医は、平成17年8月4日から、プロピタン(50mg)3錠処方にセロクエル(25mg)3錠、セロクエル(100mg)1錠を追加して1日量として使用した。野津純一は抗精神病薬過剰投与になり遅発性ジスキネジアが悪化したため、8月9日に主治医はセロクエル処方を中止した。

いわき病院の平成17年10月27日の診療録には「ジブレキサとセロクエル試してみる必要が」とあり、野津純一が「かまわないですよ、大丈夫」と答えている。しかしこのあとジブレキサもセロクエル(両方とも非定型抗精神病薬)も試されることはなかった。非定型抗精神病薬の使用を診療録に記載しただけでは、これに対応した処方箋を出してなければ非定型抗精神病薬の使用計画は実行されない。


補足(2)、野津純一の高力価定型抗精神病薬と非定型抗精神病薬の体感評価

いわき病院の診療録に野津純一の発言として「医大にいたときセレネース(高力価定型薬)飲んだら光が気になってドキドキした(平成17年11月2日、退院教室参加記録)」、「セレネースはごめんである(平成17年2月15日)」と記載されている。主治医がいわき病院長に交代後トロペロン(高力価定型抗精神病薬)に処方変更した(平成17年2月16日)が、その後「光が反射して変です(平成17年2月21日)」、「1日中歩き回っている。じっとしていられないアカシジアある(平成17年2月23日)」と記載がある。

野津純一を平成17年2月23日に診察したZ医師は「トロペロン(高力価定型抗精神病薬)あわない? 以前良く効いたというリスパダール(非定型抗精神病薬)中心に変更してみる」とある。また、いわき病院長は「薬はトロペロン(高力価定型抗精神病薬)よりリスパダール(非定型抗精神病薬)の方が安心するらしい(平成17年2月25日)」という評価を診療録に記載していた。野津純一が「光が気になる」というのは高力価定型抗精神病薬(トロペロン、セレネース)の副作用であって、非定型抗精神病薬(リスパダール)の副作用ではない。いわき病院長は非定型抗精神病薬のリスパダールを単独で試みてみるべきであったのにしなかった。


補足(3)、「精神障害でない者」を入院させている精神科病院

いわき病院長は平成17年12月初旬の精神科医師としての判断に関連して、答弁書では「精神障害でない者」と証言して、第2準備書面では「退院は困難と判断」していたと証言した。これは同一時期の野津純一の精神症状の診断に関する主治医の判断であるが、本質的に矛盾している。そもそも精神障害でないと診断した者を精神科病院に入院させていること自体おかしい。精神科専門のいわき病院が「精神障害者ではない者」を入院させて、更には「退院は困難と判断」するとは、精神科専門病院による深刻な人権侵害があることを証言したことになる。


補足(4)、いわき病院による原告の主張の歪曲

以下の諸点は、いわき病院が第6準備書面で「原告の主張を意図的に歪曲している」箇所である。


1、統合失調諸発症後に反社会的人格障害に至る

    (いわき病院の主張)
    統合失調諸発症後に反社会的人格障害に至るというのは精神科臨床とはかけ離れた考え方である。原告がこのような特異な理論を主張するのであれば、是非ともその論証の説明をしていただきたいところである。

    (原告の見解)
    原告は「統合失調諸発症後に反社会的人格障害に至る」などと主張したことはない。いわき病院は原告の主張をねつ造した。

2、犯行動機として精神疾患の影響

    (いわき病院の主張)
    原告のように「犯行動機として野津の精神疾患が影響していることは明らかである」と主張することは不可能である。

    (原告の見解)
    原告は「健常者であれ、精神障害者であれ自傷や他害の可能性がある人間は存在する」という事実を指摘している。従って、いわき病院が主張するように「不可能」とまで全否定できるとまでは考えていない。いわき病院にはここでも、「AかBか」を決めつける自らの思考様式を、原告に押しつける姿勢が認められる。

3、慢性統合失調症者と他者の管理

    (いわき病院の主張)
    原告は、慢性統合失調症者は、その殆どが幻覚妄想、思考の歪曲化などにより日常生活が常に他者の管理下でしか行えないと考えているようであるが、これは誤りである。

    (原告の見解)
    原告は、慢性統合失調症の患者でも症状に軽重があり、慢性=重症とは考えていない。また「慢性統合失調症者は常に他者の管理におく」などという非人道的な発言をしたことはない。いわき病院の主張は、「AかBか」という二分論であり、いわき病院には自らの思い込みで原告の主張を歪曲している。いわき病院は、原告が被告側に有利な失言をすることを期待する心が先走りして、事実を歪曲している。

4、患者で看護師の生命に脅威を感じさせる者

    (いわき病院の主張)
    原告は、「患者の中には看護師の生命に脅威を感じさせる者がおり、看護師間で野津純一がその有力候補であった」等と主張するが全く事実に反している。

    (原告の見解)
    原告は、起訴状で「病院内では、看護師間で患者から看護師の生命に関する脅威を感じるものがあり、看護師の間では野津純一がその有力候補に上げられていた。」と指摘した事実がある。これは原告の主張ではなくて、いわき病院内の看護師から原告が事情聴取した際の、いわき病院の看護職員の言葉を「事実を語ったもの」として記述した。いわき病院は「原告の主張と決めつける」ことで、事実関係を取り違えた論議の歪曲を意図している。

5、精神科病院は犯罪者の矯正施設?

    (いわき病院の主張)
    原告は、精神科病院を犯罪者の矯正施設として考えている節があるが明らかに謬論である。

    (原告の見解)
    原告は、「精神科病院を犯罪者の矯正施設」であるという主張をしたことはないし、そのような思考を持ったこともない。いわき病院は「考えている節がある」と憶測で記述しているが、このような表現をするのであれば、その根拠を明確に提示する義務がある。それができないのであれば、いわき病院特とその法廷代理人の資質にも関わる、原告に対する言われなき誹謗中傷であり、いわき病院と法廷代理人の「明らかな謬論である」。

    いわき病院および法廷代理人はこれまでも、明確な根拠を示さずに原告の主張を甚だしく歪曲して決めつけて、原告を非難してきた経緯がある。いわき病院側のこのような姿勢は不正義である。いわき病院及びその法廷代理人はこのような原告に対する言われ無き中傷や歪曲を繰り返すことで、自らの主張の正統性が損なわれることになることを自覚するべきである。

6、精神科では外出ですら時には治療的色彩を持つ

    (いわき病院の主張)
    原告は、精神科では外出ですら時には治療的色彩を持つ意味を解していないようである。短時間の外出、長期の外出、外泊を体験すること自体に、広義には社会復帰のための訓練である。

    (原告の見解)
    原告は、外出が持つ治療的色彩を否定したことは一度もない。むしろ積極的に肯定してきた。いわき病院は原告の意図を歪曲して、「原告は極端で間違っている」「いわき病院はだけが正しい」と主張しているが事実の歪曲である。

7、いわき病院内の患者に対する暴力

    (いわき病院の主張)
    いわき病院の職員は原告が言うような猛獣的な気持ちでは接していない。
    原告は、いわき病院内で患者に対する暴力があるなどと主張しているが、全く根拠のない暴論である。

    (原告の見解)
    原告は「猛獣的な気持ち」という言葉を使ったことはない。またそのような主張をしたこともない。いわき病院は原告の発言にない言葉を造り出して原告に浴びせかけて批判をした。ところで、原告は「意見陳述(矢野)-1」で、『なお、私どもが病院関係者から事情聴取したところ、「看護師の中には体力面で患者を圧倒する者がおり、看護師の対患者暴力がある」と証言した者が複数存在する。』と聞き取りした事実の記載をしたが、これを原告の主張とすることは歪曲である。

    いわき病院が「猛獣的」という言葉を原告に投げかける同じ姿勢で、渡邊朋之医師は「患者の診断でも歪曲して言葉を理解をしている可能性がある」ことを指摘する。主治医が患者の言葉を正確に理解をせずに、決めつけて診断をするとしたら、それは誤診である。

上に戻る