WEB連載

出版物の案内

会社案内

精神障害者による殺人犯罪被害者の立場と視点
(精神鑑定の暴走)


平成20年8月18日
矢野啓司
矢野千恵


最近、犯罪被害者問題に関係している京都の京都産業大学と同志社大学および東京の明治学院大学の法律家学者グループにはるばる高知まで訪問していただきました。以下に記述した内容は、その時の対話で私たちが発言した趣旨です。

この対話では私たちは何回も「私たちは、殺害された息子の姿を目の前で見ています。それ以降、刑事裁判や民事裁判で待ったなしの法廷の戦いを継続しています。法廷の戦いは相手に罪を付けて身柄を拘束する戦いであり、また故意を証明して過失責任を問う戦いです。私たちには、自由権や財産権から関係ない所にいて、『ちょっと待ってください、しばらく検討してみます・・』という選択はありません。現在の法律と可能な手段を使って、最大限の努力を今して判決を求めるしかありません。悲しんで、時を失い、法廷の戦いを無為にして裁判を終結させるわけにはいかないのです。」と発言しました。家族の命を奪われた犯罪被害者は他人から批判されない安全な場所を確保して、そのうえでじっくり時間をかけて議論する立場ではありません。法廷を終えると、約二ヶ月後には次の法廷があります。そこは判決という結論を得るための議論をする真剣勝負の場です。その繰り返しが、現在私たちが置かれている状況です。

以下の発言は、私たちが今現在おかれている、裁判で闘っているという現実を背景にしていることに読者の皆様に、ご理解をいただければ幸いです。裁判の場で被告とする他人の責任を追及する立場とは、その責任を追及する自分自身にも重い負担がのしかかってくる修羅場です。この文章は司法試験を目指す法学部学生に講義する可能性を打診されたために、そのための参考資料として作成しました。


1、懲役25年は「ああ! 実質的なご褒美だった」

矢野真木人を通り魔殺人した精神障害者の野津純一には懲役25年の刑罰が確定しています。「これは20年以上の長期にわたり罹患していた統合失調症の患者には重すぎる刑罰であり、統合失調症の患者である野津純一には心神喪失を積極的に精神鑑定して、無罪判決として、心神喪失者等医療観察法の下で治療することが、野津純一の人権を擁護する最善の法的処分であるはずであった」とする批判を聞くことがあります。このような指摘をする方は、野津純一に刑務所内では精神障害の治療が行われず、毎日強制労働で苦しめられているというイメージを持っているようです。本当に殺人を犯した統合失調症の患者に対する懲役25年の処分は、非人間的なのでしょうか。

矢野真木人を「誰でもよいから」として通り魔殺人された野津純一の場合には、社会性が欠如して働く意欲を全く持たない野津純一を、社会が保護して本人が満足するであろう安定した人生を与える、という視点に立てば、「懲役25年の判決は極めて人道的な処分であった、むしろ無期懲役であった方が彼本人の願いにかなっていたのではないか?」と考えられる要素があります。ある日突然に理不尽な理由で命を奪われた矢野真木人の両親である私たちは、「矢野真木人の命の代償が殺人犯人への実質的なご褒美であったのではないか? 本質的に刑罰になってないのではないか?」と歯がゆく、じくじたる思いです。


(1) いわき病院のアネックス棟

野津純一は平成16年10月1日にいわき病院に入院する際に、父親に頼み込んで特別料金を支払ってアネックス棟の個室に入院しました。その部屋は、眼の前に田圃が広がり、監視が少ない快適な部屋でした。部屋のすぐ前は喫煙コーナーになっており、野津純一は一日中好きなだけタバコを吸えました。部屋のすぐ側にエレベータがあり、野津純一には暗証番号が教えられていました。

野津純一はこの部屋がエレベータと非常階段の隣であり、非常階段の鉄製の扉のバシャーンという大きな騒音には悩まされておりましたが、この部屋が気に入ってました。窓から見える世界に興味があったのではありません。室内にある洗面所は汚れたままで、野津純一本人も清潔に維持するつもりはありませんでしたし、いわき病院内の環境維持担当の職員もあまり関心を持っておりませんでした。なお、野津純一を担当した看護師からは、「野津純一の個室に入るのは怖かったのです、野津純一にドア側に立たれて閉じこめられる状況に陥ることをいつも恐れながら勤務していました」という証言があります。

アネックス棟は独立した建物で、野津純一が入院していたアネックス棟三階にはナースコーナーが設置されていましたが、看護師は常駐しておりませんでした。アネックス棟三階は中央棟三階の第2病棟の一部として管理されていました。野津純一の場合、第2病棟から外出するには、正規の手続きではアネックス棟から中央棟のナースステーションまで行き、外出記録簿に記載した後に、ナースステーション前の中央棟エレベータを使って病棟外に出る約束になっていました。その間に1階でも3階でも沢山の病院関係者の眼を意識しなければなりません。その上に、野津純一の部屋からはすぐに外出できるエレベータの前を通過して建物奥の中央棟まで移動して、そしてエレベータで一階に下りて、それからアネックス棟の一階を逆向きに移動して病院外に出るという、行ったり来たりの煩雑な動きになります。エレベータの暗証番号を承知している野津純一が、面倒くさく思えば、外出手続なしで病院外に出ることは簡単でした。病院内の移動距離も少なく病院スタッフに見られるという眼も少なくなります。何よりも少ない歩数で病院外に出られます。

(2) 野津純一の心の願い

野津純一には、いわき病院のアネックス棟の個室は快適でした。そして、彼は一生そこで入院生活をしたかったのです。平成16年10月21日に看護師に暴力行為をした後で、野津純一は隔離室に収容されましたが、閉鎖的な環境の隔離室という個室から出て、人間関係がある大部屋に移動して他の患者と一緒に入院生活をすることを拒否しました。野津純一は隔離室という閉じこめられた状況であるとしても、一人の世界を維持できる環境を望んでいました。

いわき病院は任意入院者を収容するアネックス棟の個室に単一の患者を長期入院させるのは避けたいところで、可能な限り早期に退院させようとしていました。野津純一は入院して1年を過ぎても退院の兆しがなく保険点数が下がり収益性が低下するために、いわき病院長で主治医の渡邊朋之病医師は困り、野津純一に退院をさせることを課題にしておりました。野津純一に中間施設の訪問などを経験させて退院を迫りましたが、野津純一が望むところではありませんでした。そもそも野津純一は、炊事洗濯など最低限の日常作業をしなければならない病院外の生活はいやなのです。このため退院の話が出るたびに、野津純一のイライラやムズムズなどの精神症状が目立って悪化していました。

野津純一は精神障害者は重大犯罪を犯しても罪に問われないか、罪に問われても軽微な罪にしかならないことを知っていました。「ボクは悪くない、悪いのは病気」とうそぶいており、殺人する事に罪悪感は乏しく、せいぜい最悪でも懲役6—7年程度であると考えていました。それでもすぐに退院させられて、一人で炊事洗濯をしなければならない生活を強制されるよりは、短期刑であったとしてもとりあえずの猶予期間が与えられるので本人には望ましいことでした。野津純一は人を殺しても精神障害者の自分は死刑にならないと知っていました。野津純一にとっては刑務所は不自由がない生活の心配もない優遇された環境なのです。野津純一はそもそも私たちが考えるような自由で行動制限がない生活を望んではいないのです。安心して生きて食べて死ねる「(野津純一曰く)老人ホームのような生活」を確保したかったのです。

いわき病院に入院する前に入院治療を受けていた病院のカルテには「親が死んだらお終いだ」が野津純一の口癖のように記述されています。野津純一は親が死んだ後も安心して生きられる環境を確保したいと望んでいました。それが野津純一の心の願いでした。

(3) 家族のなげき

私たちは、精神障害者に殺人された犯罪被害者の家族として、殺人された立場から発言しています。これに対して精神障害者の犯罪を研究している専門家から受ける質問は決まって「精神障害者からは批判はありませんか」です。「あなたの意見に対しては、当然のこととして、精神障害者の関係者から多くの批判があるはずだ」という思い込みが質問者にはあるように見受けます。

私たちはロゼッタストーンのHPで意見を公開しています。これを読んだ精神障害者本人や精神障害者を抱えている家族の方々から接触があります。そして精神障害者本人からは、刑法第39条があるために精神障害者の人権が制限されているという率直な意見を聴きます。また精神障害者を抱える家族の方々からは、深刻な悩みや苦しみが伝えられます。

ある人は、優秀な娘さんが脳炎を患った後で、母親を判別することが困難なほどの症状で、自宅にいると「あなたは誰?」と包丁を持って母親に襲いかかることがあるそうです。その患者さんを入院させても、精神科病院は社会復帰を大義名分にして長期入院を受け入れないために、毎月40万円ほどの別途料金を支払って、特別に退院させないようにお願いして、自宅に帰らせない長期入院を継続させているそうです。この家族の場合は、年間500万円以上の別枠の医療費負担が行えるために、母親が生命の危険を感じている自分のかわいい娘を、泣く泣くですが他害行為を犯してしまう可能性から予防するために、退院させない入院をさせることが可能です。ところが、経費負担ができない家族の場合は、患者が退院させられて自宅療養をする期間、バットを抱えて寝る毎日、帰ってきた家族の他害行為の危険に備えているという切実な話があります。

実は、他害の可能性が高い精神障害者を抱える家族の悩みは深刻です。ある方は、本人自身、奥さんおよび子供の生命の安全を心から心配しています。精神障害者であるその人の兄は、「お前たちを殺しても罪に問われない、いつでも殺してやる」とうそぶくのだそうです。そして開放治療と社会復帰を理由にして、命の危険に怯えている家族の元に退院してくるのです。この深刻な身の危険を精神障害者を治療している専門家や、人権問題の専門家に相談しても、誰もが精神障害者の人権擁護を盾にして、差し迫った生命の危険に有効な対応をしてくれないそうです。

刑法第39条に規定された心神喪失者の無責任抗弁は多くの可哀相な家族の嘆きの原因になっています。ある人は「深酒をすれば、翌日記憶が残らないので、深酒の時に殺人をしても無罪だ」と家族を脅すのだそうです。このような発言をする人は人格障害であり、本来刑罰を免除する精神鑑定が行われてはならないはずですが、日本ではICD-10やDSM-IVに記述された精神障害であるとして心神喪失が認定されてきた経緯があります。このような安易に刑法第39条を曲解した認識が、可哀相な人々を頻発している要素があります。この日本では、このような人権侵害を人権問題の専門家が見て見ぬ振りをする状況があることを否定できません。

命の危険は人権問題そのものです。しかし皮肉なことに、命に危険を感じて窮状を訴える人に対して人権問題の専門家は「あなた自身のことで騒いではいけません、精神障害者の人権を大切にしなさい」と教育するのです。差し迫った生命の危険に眼を向けない人権問題の専門家が大勢いるこの日本は人権国家として信用できるのでしょうか。私たちには「わたしたちも必死に生きています。お互いに頑張りましょう・・」というメールが精神障害者の家族から入ります。矢野真木人を殺害された私たちも精神障害者を抱える家族も、双方が、壮絶な人生を歩んでいるのです。

精神障害者の開放治療は促進すべきです。精神障害者のほとんどは開放治療で社会復帰を達成できる医療水準が現在では達成されています。しかしそれでも、上に引用したような、社会復帰が期待できない精神障害者や自ら意図して他害行為を行う人格障害者が存在することは事実であり否定できません。そのような精神障害者にも一律に開放治療を導入して社会復帰させることは現実的ではありません。その事は本人の為にもならないし、それで苦しんでいる家族や周囲の人々も存在し、誰にも等しく侵害することができない尊厳と人権があるのです。

(4) 野津の両親

刑事裁判における野津純一の精神鑑定では野津純一に関して「自分のことしか考えられない状態である。この様な精神状態の患者さんの開放管理には、いまさらながら、強い疑問を感じた。」と記載されるほどであり、野津純一の精神状態は開放管理に適しておらず、開放管理を強制されることで、野津純一の両親は塗炭の苦しみを味わっていたと観察されるところがあります。

野津純一は17才で自宅及び両隣の三件を焼失した放火をしたと当時治療を受けていた病院の診療録に記載されています。その後の生活では、診療録には「家庭内暴力」が記載されていますが、「家具を壊したのであって、家族になぐりかかったのではない」として両親は証言しています。ところが本人は「家族に手をかけた、両親に暴力行為をした」と発言しています。野津純一はこれまでも往来を歩いていて他人に殴りかかったりしており、家族も暴力の危険性に怯えた生活をしてきたはずです。

刑罰が確定して、現在の野津純一は高い水準の施設整備が行われた精神科が備わった医療刑務所に収監されている、とされます。野津純一にとって懲役25年は、「25年間継続する安心できて、またいわき病院の個室よりも恵まれた、患者としての生活環境を獲得できた可能性が極めて高い、ご褒美であった」と推察されるところがあります。

懲役25年が経過すれば、野津純一の両親は90才前後です。野津純一の両親にとって、懲役25年の刑罰は、野津純一の短期入院と退院の繰り返し、そして、野津純一の他害行為の可能性を心配し続ける生活から、ほぼ永遠に開放されたことを意味します。

医療刑務所で治療を受けている野津純一本人にとって不満があるとしたら、タバコを自由に吸えない生活が辛いことでしょう。しかし、高齢化が進んで両親の協力を得られない世界で自ら衣食を律する独居生活をしなければならない苦労を思えば、充実した環境で他人に世話をしてもらえる、安心できる25年を獲得したことになります。

矢野真木人が命を失った代償が、野津純一に与えられた国が保障する退院させられる心配がない25年間の長期入院収容生活でした。野津家の家族は野津純一が及ぼす可能性が極めて高い生命の恐怖から解放されました。また野津純一に入院生活をさせるために必要になる可能性が高い、医療費の別枠負担という経済的な心配からも開放されます。

「野津純一に対する刑罰が実質上は野津純一に対するご褒美の効果を持っている」と認識することは辛いことです。矢野真木人は「誰でもよいから人を殺す」として命を奪われて、その犯人は「誰でもよいから人を殺した」成果として、25年に及ぶ本人にとっては(タバコ以外には)不自由がない生活を確保したのです。なんということでしょう、矢野真木人の命の代償は、実質的には犯人がタバコを自由に吸えない程度の意味を持つ制裁でしかないのです。矢野真木人が善良な市民として生きるためにしていた努力と比較すれば、どんなに他愛のないことでしょうか。

(5) 人権は現実であり理念を理想化してはなりません

現実的な眼を持てば、全ての精神障害者が必ず寛解して、全員が市民生活を送れるようになるのではありません。精神障害者の中には一部であるとしても、自傷他害の危険性が高く、市民生活を行うことが極めて困難な人はいます。精神障害者の全てが普通人としての市民生活と責任負担を望んでいるのでもありません。高い予見性をもって自傷他害の危険性がある人間までにも、市民生活を強制することは精神障害者本人の為にも望ましいことではありません。

人権は市民生活の現実の中で守り育てられるものです。人権は哲学書の中に書かれている理想ではありません。人権は法律書に書いてあることが完璧であるはずもありません。また法律の社会的実現には解釈の違いで質的な差違も生じます。人権はあくまでも市民生活の現実です。生存権は基本的人権です。市民の生存権が否定されても、憲法の下部法律である刑法に基づいて、生存権を奪った行為に対して広汎に罪を問わないという社会的現実は、命を奪われるものの人権をないがしろにしている、社会的な現実であると指摘できるでしょう。

人権は現実です。他害の可能性が極めて高く、「俺は、精神障害者であるので殺人しても罪に問われない」と発言する人間に脅されて、生命の危険を覚える可哀相な人に社会の手が差し伸べられない現実は正しいのでしょうか。この場合、今の日本では、「精神障害者の開放治療は絶対に正しいので、未だ発生していない殺人事件の恐怖に基づいた対応することが、そもそも人権侵害である」と批判されています。このような人権論議は、全ての個人の市民生活の安全という視点から見て、正すべきところがないと言えるのでしょうか。

私たちに接触してきた精神障害者本人は口をそろえて「同じ精神障害者でも野津のような人間と一緒にされたくない」と言います。日本では精神障害者の人権が口先ではなくて、実態として正当に認知されているのでしょうか。健常者と精神障害者が対等な人権を享有する社会を実現する方向で、法律が運営されているのでしょうか。

(6) 心神喪失を積極的に認定することは殺された者に対する人権侵害

「精神障害者であれば病気であるだけで心神喪失である」と積極的に精神鑑定して、判決でも心神喪失を積極的に認定して、心神喪失者等医療観察法の下で精神障害の治療を行うことが正しい処分であるとする考え方があります。この視点に立てば、「事実は心神喪失でなくて故意を持って殺人行為を行った触法精神障害者も、積極的に心神喪失者として認定して、殺人行為に対しては無罪とすることが望まれる」という視点が成立します。

被害者の視点に立ってこのことを見れば、「故意を持って殺人行為をした人間であっても、刑事裁判では積極的に無罪と判決される」ことになります。被害者は命を奪われることにより、民事裁判における損害賠償請求も発生します。この場合、犯人が心神喪失と認定されて刑事裁判で責任が追及できないと判決された場合と、心神耗弱であっても有罪で刑事責任が認められた場合では、大きな違いが発生します。心神喪失と認定されて、責任が追及されない人間の個人情報は被害者と言えども入手は困難です。

矢野真木人が野津純一に通り魔殺人された事件では、野津純一に懲役25年が確定したために、私たちは刑事裁判資料を取得することができました。そして刑事裁判資料という証拠を詳細に分析することで、いわき病院が主張する論理の矛盾や間違いを証拠を元にして指摘することが可能になりました。もし、野津純一が心神喪失者等と認定されていたら、私たちは過去の診療記録などの証拠を見ることができず、いわき病院と法廷の場で戦い続けることも困難になっていたでしょう。そしていわき病院の医療過誤という社会問題にメスを入れることも不可能になる事態が発生していたでしょう。

私たちの民事裁判では、いわき病院が任意提出した野津純一の診療録などの医療記録は、警察が押収した刑事裁判の資料として民事裁判で公開された資料と比較すれば、4分の1の情報量しかありませんでした。原告に証明責任が求められる民事裁判では、この利用できる情報量の差違は決定的な意味を持つ筈です。

心神喪失を積極的に認定することは、精神障害者に殺害された殺人被害者の死の状況にまつわる事実関係の解明を疎かにすることと同じ意味を持ちます。殺人被害者にも人権があります。しかしその人権を擁護するための事実は、加害者が心神喪失者等と認定された場合には、加害者である殺人者の人権擁護を理由として公権力の手で隠匿されます。これは全ての人間に保障されるべき基本的人権を侵害していると言えます。殺人された被害者が殺された理由と経緯を知る権利はいついかなる場合にも侵害されてはなりません。

(7) 殺人は最大の人権侵害

人権侵害行為は全て同等ではありません。殺人は最大の人権侵害です。それまで真面目に生きて、命を失う可能性が全くなかった人間が、他人の行為により生きる権利を奪われることは、最大の人権侵害であり、これ以上の重大な人権侵害はありません。

精神障害者が殺人を犯した場合には、「精神障害者であるだけで罪を償っており、精神障害者であるから罪に問うことができない」とする根拠はどこにもありません。精神障害者であっても殺人を犯したことにより制限される自由権は、命を奪われた者が失う生存権よりははるかに軽い、社会制度としての人権の制限です。

殺人という人権侵害行為を、他の人権制限と同列もしくは同列以下であるかのような社会的制度の運用が行われている現実が、日本にはあると指摘できるでしょう。それを日本の法律家は慣例として許してきたのではないでしょうか。


2、完全な犯罪被害者は少ないように見えるが?

(1) 完全な犯罪被害者

最近は「誰でもよいから人を殺す」という通り魔殺人事件が増えています。このような場合には「誰でもよいから人を殺す」として殺人されたのですから、被害者に殺されるべき落ち度があるはずもありません。このような一方的な理由で、本人に何の責任もなくて殺害された被害者は疑いもなく「完全な犯罪被害者」と言えるでしょう。しかし、事件直後から容易に社会から「完全な犯罪被害者」と認知される人はそれ程多くはありません。

(2) 生きている加害者は殺された被害者に責任をなすりつける

「完全な犯罪被害者」であっても、社会の眼は「ほんとうに、そうだろうか、殺されるべき責任や、過失はないか・・」と疑うのが普通です。殺人事件では本人は死んでいます。死人に口なしです。証言者は生きている殺人者で、加害者です。生きている人間には自分自身の保身を図るべき理由があります。そこに殺されて状況を説明できない被害者に責任を転嫁する加害者の弁明が発生して社会に通用する可能性があります。

少年犯罪では、往々にして一対多数という状況で、被害者の命が奪われます。このような場合、「ケンカ」という報道が往々にして行われ、社会も子供たちのケンカであり、ケンカ両成敗的な視点で、認知されることが多いようです。そこには生きている少年たちの将来を阻害しないという、社会的理念が存在します。事実が解明されないことは、重大犯罪を犯した少年たちの人生に本当に益するのでしょうか。犯罪行為を犯した少年たちが反省する機会を奪っています。理不尽に命を奪われた者の立場から見れば、弁明を許されず、事実の解明に完全を期待できず、一方的に命の代償と社会的責任を負わされる傾向が高く、あまりにも無慈悲な社会的処分です。

(3) 犯罪被害者のなげき

矢野真木人の場合は見ず知らずの人間に通り魔殺人されましたので「完全な犯罪被害者」でした。それでも事件直後には「怨恨による殺人」や「自殺したのではないか」などとあらゆる可能性を疑われ、沢山の方々がこのために捜査の対象となり迷惑がかかりました。

私たちが「完全な犯罪被害者と容易に認定される人は少ない」と発言すると、「完全な犯罪被害者はそもそも数が少ないので注目度が低く、その立場を社会が認知せず正当に評価されることが無いという、不満の気持ちを持っている」と理解する方たちがいるようです。そうではありません。私たちが指摘しているのは、「家族を殺されて悲しんでいるときに『あなたにも、殺される理由があったのでしょう』と疑われて、社会から白眼視された経験を持つ犯罪被害者が極めて沢山いる」という事実です。

被害者の自助グループの会合をすると多くの方が、「事件直後に疑われた、殺された原因が被害者にあると言われた…」と嘆きや怒りの声を口にします。捜査当局が全ての可能性を検討することは当然です。しかし、その為に「被害者であるのに、事件発生の原因者であるかのように世の中に認識されて、苦しんでいる犯罪被害者が沢山おり、その人たちの誤解が解かれ、そのために支援の手が差し伸べられる必要がある」と指摘します。

(4) 被害者支援では完全な犯罪被害者だけを相手してはならない

犯罪被害者支援という視点から見れば、加害者の証言で「被害者にも責任があるとされるところ」にこそ、被害者を支援する理由があります。ところが、このような場合、往々にして、「当該の被害者は完全な被害者ではない」という理由で、支援の手を差し伸べることを抑制するメカニズムが犯罪被害者支援機関に働く可能性が高いと指摘できるでしょう。「死人に口なし」であるからこそ、被害者支援活動は幅広い観点から、手を差し伸べることを検討することが望まれます。

実質は完全な犯罪被害者であっても、「殺された人間にも殺されるだけの理由があった」として、社会的に認知されることはあります。従って、犯罪被害者を「完全な犯罪被害者」と「いくらかでも殺されるべき理由や責任を有する被害者」に区別することは、犯罪被害者支援のそもそもの理念を失うことになる可能性があります。被害者側にも責任があると主張される事件にこそ、社会が被害者の立場を尊重して、慎重な配慮と協力の手を差し伸べるべき理由があります。

(5) 犯罪被害者と報道の役割

矢野真木人の場合は見ず知らずの人間に通り魔殺人されました。最初は原因が良くわからず「子供の通学路の不安、社会の中の不安」として大きく報道されました。その後犯人が逮捕されて「犯人は精神障害者」と判明しました。これが現行犯逮捕で、その場で犯人が精神障害者であると判明していたら、報道は抑制されたはずです。報道がされなければ、事件は社会に知られず、社会の注目も浴びなかったでしょう。人に知られない事件の場合には、「精神障害者である犯人は安易に極めて短時間で行われる簡易精神鑑定で『精神障害者であるので心神喪失』と認定されて、不起訴になることが多い」とされます。

矢野真木人殺人事件では、初期報道が大々的に行われました。その後、被害者の両親である私たちは、積極的に「刑法第39条で、単純に心神喪失を認定するのはおかしい」と発言しました。それを一部の報道機関が取り上げてくれました。私たちは社会を動かすために急遽「凶刃」の出版もしました。テレビが後追い報道もしてくれました。社会の話題になることは強いことでした。20年以上長期罹患していた統合失調症患者の野津純一は起訴されて、刑事裁判で懲役25年が確定しました。

犯罪被害者支援機関や活動家と議論をすると、報道被害を一面的に捉えているようです。「弱者である犯罪被害者が報道によりプライバシーが侵害されるので、守られなければならない」という、情報を制限する方向のバイアスが強く作用しているように見受けます。しかし、犯罪被害者にとっては事実が正確に報道されることがもっと重要です。「人間の命が理不尽に奪われたのに、事件があった事実が社会から隠されること」がより深刻な問題です。殺人事件にはプライバシーの要素があるとしても、事件の社会的な意義は社会の眼から隠されてはならないのです。

犯罪被害者が救済されるためには正しい報道こそ重要です。事件発生直後には情報が混乱します。その中には、被害者の責任に言及する情報もあります。しかし、被害者の立場を正確に伝えるべき情報も沢山ある筈であり、それが社会の知識として共有されることが重要です。「情報を隠すことは被害者が置かれた立場を守ることではない」と指摘します。被害者は、事件後には刑事裁判や民事裁判の修羅場が待ちかまえています。この時に被害者が正しい情報を持てないでいると、社会的な権利回復の道が閉ざされます。被害者の立場は、「かわいそう」と情けをかけられるだけの立場ではありません。失われた権利、奪われた人権を回復する立場です。これは一見すれば個人の私的な問題のように見えます。しかし社会の中で個人の人権が守られることは、極めて重要で公共性ある課題です。


3、被害者支援員は指導者面をしているが

(1) 被害者とは指導されるだけの無力な人たちか?

被害者として被害者支援センターの支援員さんたちと接触すると、犯罪被害者である私たちは往々にして「指導されるべき、可哀相な人たち」という視点で見られていると意識します。重大な人権侵害にあうような、無知で無力な人間として、見下された立場の、被害者支援の専門家たちの前に置かれた私たちの姿を発見するのです。

(2) 方向性がないカウンセリングをする無作為

被害者支援員たちが発する言葉は、「とりあえず、状況を説明してください。何ができるか、これから考えます。」という、間延びした、焦点が定まらない発言です。被害者は重大な被害という現実を経験して、その被害からどのようにして立ち上がるかという緊急で切実な問題に直面しています。そして、「被害者支援員と過ごす時間が無駄だ、支援員が発する言葉にはまるで意味がない」と瞬間的にまた直感的に理解します。

往々にして、被害者は支援員を見て、「この人は、精神や法律や犯罪被害の関係者であるのかも知れないが、自分自身の専門と被害者支援の関係について深い考察をしたことがない。専門家であれば、何にでも対処できる技能を有していると自負しているが、目の前にいる被害者の経験を疑似体験する努力すら怠っている」と失望の気持ちを持ちます。

(3) 犯罪被害者の特質

犯罪被害者はかならずしも最初から社会的な弱者だから、犯罪被害に遭遇したのではありません。被害者支援活動家の多くは、犯罪被害者に関係する前に社会的弱者に対する支援活動に関して経験を蓄積していることが多いようです。しかし、被害者は独力で普通の社会生活ができないから犯罪被害者になったのではありません。被害者は社会的に無力で無知だから被害者になったのでもありません。

犯罪被害者が支援活動家と接して「私たちは、(あなたたち被害者のために)善意で活動しているのですよ」と言われるぐらい落胆することがありません。「支援員の社会的経験は自分より劣っている、支援員がいう社会哲学は素朴に過ぎる、被害者の問題を直視しないで善意の押し売りをしている」などという感想を持つ場合が多々あります。支援員の役割は、一人の人間が全知全能をかけて、真剣に行うべき仕事です。

犯罪被害者は家族の命を奪われる、生命や財産が奪われるという極限の体験をしています。一度殺された人間は生きかえることはありません。それはひとりの人間が耐えるにはあまりにも重い事実です。その殺人という事実から再出発するには刑事裁判や民事裁判などの複雑な社会的な手続が待ちかまえています。このような状況に直面した被害者は誰も、心に強いストレスを感じており、外面的には強迫的な症状や鬱などの症状が現れます。しかしそれは心の病気ではありません。被害からの再起を目指した努力の過程です。

(4) 望ましい支援活動

犯罪被害の体験者でなければ被害者支援員になれないとは言えないでしょう。しかし被害者支援員が、直接犯罪被害者と接触せずに、被害者支援テキストを頼りにして勉強や研修や報告会をするだけでは、「畳の上の水練」です。被害者支援員は現実の被害者と接し、そして、被害者の命の悲しみを疑似体験するところから、よりよい支援活動を開発することができるのではないかと、期待するところがあります。

犯罪被害者は被害にあった直後は、個人としては耐えきれない被害の重みに必死になって対応しようとしています。しかもその時には警察に事情聴取され、報道機関にも追い回されます。被害者が感情爆発してもおかしくはないのです。このような時期に被害者と接触することは、大きな心の胆力という力が必要になるでしょう。それでも、被害者支援活動家には積極的に被害者と接触して、被害者が立ち上がり再起するためにはどのような支援活動が必要とされるか、具体的な活動を行ってゆくことが望まれます。

(5) 政治や宗教はNO!

犯罪被害の支援者の中には、政治や宗教の広報活動家が混じっている場合がなきにしもあらずです。「あなた達は、そんな、信心がないことだから、被害にあったのです。さあ、一緒に拝みましょう・・」このようなことは、公的な犯罪被害支援活動の中で現実に発生した事実があります。また被害者自助グループを開催すると、政治目的を持っているのではないかと疑われる人物が支援者として紛れ込んでいるのではないかと疑われる状況が発生することがあります。

犯罪被害者は「家族が命を奪われた」という、悲嘆の崖っぷちにいます。その悲嘆の心を見透かして、「信心がないから、殺された」と犯罪被害者支援活動の中で布教行為を行うことは、許されて良いはずがありません。公的な犯罪被害者支援活動にはプライバシーという個人情報秘匿の壁があります。そこに、公的な犯罪被害者支援活動を隠れ蓑にした悪意ある支援活動家が被害者を食い物にする可能性があります。


4、心神耗弱による刑罰減軽年数は措置入院期間とすべし

(1) 犯罪行為に対する本来の刑期を確定すべき

日本の裁判では精神障害者が犯罪を犯した場合に、多くの場合、求刑に対して心神耗弱を検討して、刑を短縮して判決を言い渡すことが普通です。この場合、心神耗弱でない場合に科されるべき刑罰と、心神耗弱を理由にして短縮された刑期の差し引きの年数が確定されることが適当であると考えます。

(2) 刑罰が軽減された年数は治療の期間とすべき

心神耗弱者の場合は、本来心神耗弱でない者に科されるべき刑期の全期間の刑罰に服さなければならないはずです。その上で、精神障害などの治療の必要性が考慮され、人道的な理由により刑罰が短縮されます。すなわち、刑罰が短縮された期間は最低の必要期間として、精神科病院に措置入院させて強制的な治療を行うことが適当です。その上で、措置入院期間中に精神症状が改善されて、寛解の状況に至った場合には、措置入院期間の換算率を持って、本来の刑期から削減された日数を残りの刑期として、刑務所において贖罪をさせることが論理的であると考えます。

(3) 犯罪者は処罰されることが社会の基本ルール

心神耗弱者は、心神耗弱を持って刑期が短縮されるのであり、心神耗弱が治癒された場合には本来の罪を償わなければならないことが、犯罪行為を犯した者の社会的責任です。心神耗弱を理由にして罪が軽減されるとは、罪が問われなくて済むのではありません。罪を軽減する理由にされた心神耗弱に治療が行われて効果を上げた場合には、本来科されるべき贖罪を行わせることが正当です。


5、精神鑑定で加害者が病気の故に許されるのはおかしい

(1) 刑法第39条は日本の法律

日本の刑法は近代国家を建設する過程で、西欧諸国の法律体系を参考にして日本国内の法秩序として成立されました。このため刑法第39条の心神喪失についても、ヨーロッパ語の「insane」の概念を漢語を使って日本語化したと考えるのが適当です。しかし、できあがった刑法はあくまでも日本語で書かれた日本語の法律であり、これをヨーロッパ語で読んではならないのです。

(2) ヨーロッパ語の「insane」は心神喪失とは異なる

元来ヨーロッパ語の「insane」は、精神に障害を持った人間の心の状態を現す概念であり、キリスト者であるか否か、また唯一絶対神であるキリストを神として信じる人間であるか否か、という概念にまで関係しています。このため、19世紀のヨーロッパ諸国では、「キリスト教徒でない者、もしくは、キリストの神を否定する言動をする」だけで、「insane」であるとして、精神科医師により人格が否定されて、人間としての権利を剥奪されることがありました。

これに対して、日本語の刑法第39条は「心神喪失」と定義しているのであり、原語がヨーロッパ語の「insane」であることには言及していません。すなわち、日本の法律用語としては漢語の日本語解釈が正当であるべき意味となります。「心神」とは「心」「魂」「精神」であり、本来精神障害を意味する言葉ではありません。「喪失」とは「なくすること」や「失うこと」です。大切なことは、日本語の心神喪失には精神障害であるか否かは本来概念としては持ち込まれていないという事実認識です。法律作成の過程で、「精神障害の要素とキリスト者の要素は慎重に排除した」と考えることが妥当でしょう。

日本の精神鑑定の実務では本来の「insane」に付随していた「キリスト教概念」は最初から持ち込まれていません。ところが、「精神障害者概念」はドイツやフランスや英国の精神鑑定を参考にする段階で、精神鑑定者である精神科医師により「心神喪失=insane」と考えることにより、安易に日本の刑法第39条の解釈の実務の中に持ち込まれてきた経緯があると指摘できます。

(3) 昭和6年の大審院判例と精神鑑定

「昭和6年12月3日判決(刑集10巻682頁)の大審院判例によれば、心神喪失とは、精神の障害により事物の是非善悪を判別する能力またはその弁別にしたがって行動する能力のない状態をいい、心神耗弱とは、精神の状態がまだその能力が完全に失われたとはいえないが、著しく障害された状態をいう」(精神医療と心神喪失者等医療観察法、ジュリスト増刊、2004.3、P.85、7 責任能力の概念と精神鑑定のあり方、山上皓)。

日本では昭和6年(1931年)の大審院判例によって、刑法第39条の心神喪失は精神の障害と関連づけて定義された経緯があります。大審院の判例は当時の西欧世界のキリスト教概念は慎重に避けたけれど、精神医学水準に関しては客観的な事実として受け入れたと推察される要素があります。

その後の精神鑑定と裁判の運営では、「精神の障害」であるかの事実関係が優先されて、「事物の是非善悪を判別する能力またはその弁別にしたがって行動する能力のない状態」であるか否かの確認作業が、厳密性を欠いて運営されたとしても、社会に通用してきた経緯があると考えられます。すなわち、「その者が精神障害者であるか否か」は判別が容易ですが、「精神に能力のない状態を鑑定すること」には困難性が伴い、正確度が落ちると考えられるところです。このため、日本では「精神の状態が未だその能力が完全に失われてない」状態であっても「心神喪失」として幅広く認定されてきた経緯があると指摘できるでしょう。ここに、日本で心神喪失者の鑑定と判例が暴走する原因があります。

(4) 精神障害は今では治る病気

刑法第39条が成立した当時(明治40年・1907年)と大審院判例が出された当時(昭和6年・1931年)は、精神障害者は治癒不可能な病気であると考えられていました。「馬鹿とキチガイにつける薬はない」という昔の格言が、このことを物語っています。しかし現在では向精神薬が開発されています。現在の段階で精神障害者であることは一方通行で結果的にはいずれ必ず心神喪失に至る病気ではありません。精神医学は進歩したのです。すなわち、大審院判例が出されて以後、精神医療という社会の客観的な条件に基本的な変化があったのです。これは社会情勢の変化です。

刑法第39条が制定されて100年以上、また大審院判例が出されて80年弱も経過しています。これらが社会の制度として運用され初めてから精神医学を取り巻く状況は変化しました。ところが現実が変わったのに、法制度の条文と解釈は精神医療が未発達であった昔のままです。日本の法律家の間では昭和6年の大審院判例が、疑われることがない重要な先例として尊重されています。これでは現実が歪められ、その事によって、新たな人権侵害が発生しているとしても、「法律の専門家は大昔の判例に眼を奪われて、現実を見ないで過ごしているという実態がある可能性がある」という指摘を否定できないでしょう。

法律は社会の現実や実態に即したものでなければ、その理念とは別に、運用の現実は歪められたものになる可能性を指摘できるでしょう。かつては正しかった法律の解釈や運用も、社会の現実が変化すれば、本来の法律制定趣旨から逸脱する可能性はあり得るのです。

(5) 精神障害者はそれだけで罪を償っているのではありません

「精神障害者は精神障害であるだけで罪を償っています。だから、精神障害者に罪は問えません。」と主張されることがあります。そもそも、精神障害者であるだけで罪を償っているという、あたかも精神障害者を擁護しているかのように主張されるこの言葉は、「精神障害者であるだけで受刑者である」と主張するに等しいことです。19世紀の西欧諸国ではキリスト者でないことはそれだけで罪でした。しかし今日ではそれは否定されています。

精神障害者であることは天性の有罪者ではありません。精神障害者の社会復帰を支援する人が「精神障害者であるだけで、贖罪している」と考えながら精神障害者に接しているとしたら、それは本末転倒の論理です。精神障害者であることは「受刑者と同等の人間として、最初から人権を制限される対象とされる者」ではありません。

「精神障害者は精神障害であるだけで罪を償っています。だから、精神障害者に罪は問えません。」は、一見すれば精神障害者の立場を擁護する高い人権意識に裏付けられた言葉のように聞こえます。しかしこの視点は、本質的に精神障害者の尊厳を踏みにじっています。犯罪者はどのような社会階層や分類の中にも存在し、精神障害者だけが特別な存在ではありません。その上で、精神障害者の中に存在する不幸な触法精神障害者という犯罪行為を犯した人間に、「犯した罪の責任を問われないという免罪符がある」という誤解を与えることにより、真っ当な人間として更正する道を狭くしている可能性が高いと懸念されるところがあります。

(6) 刑法第39条の運用の現状は暴走

刑法第39条第一項に規定される「心神喪失」の状態は、全ての人間に発生可能な心の状態の在り方です。また本当に心神喪失の状態が継続している人間に責任を問うことはできません。従って、「心神喪失である人間に対して責任を問えないとする法律が存在すること」は間違っていません。

しかしながら、現実の法律運用の中で、「心神喪失でない人間に心神喪失を認定して、法的責任を問わない社会処分が行われている」ことは、社会的な不正義です。日本では、「犯罪を犯したその時に限り心神喪失でした」という無責任抗弁が大幅に認められてきました。このため、心神喪失で無罪と判決された人間が、精神科病院に措置入院させられることがなく、通院も必要なく、即日解放されて市民生活を行うことが可能になっています。ここには心神喪失の認定が甘すぎるという不正があります。

心神喪失で責任が問えない重大な触法行為を犯した人間は、残る半生の全ての期間にわたって、心神喪失の経歴が裁判で認定された故に、措置入院相当として厳重に管理されることが適当です。「心神喪失であると認定することは、それ程までに重大な、人間性に対する鑑定である」と指摘できます。刑法に心神喪失の規定があるとしても、心神喪失であると積極的に認定することは正しい処分ではありません。

「疑わしきは罰せず」は法律概念です。ところが、この法律概念で精神鑑定をする精神鑑定家がいると承知します。これを心神喪失に当てはめれば「心神喪失でもないのに、心神喪失と精神鑑定して、罪を問わないようにする」という意味になるでしょう。「心神喪失でもない人間を心神喪失と鑑定すること」は本当に人権を守る行為でしょうか。疑わしきは罰せずという法律概念を医師の活動に持ち込むことは、医師の職分として正しい行為でしょうか。

日本の法律である刑法第39条の法律理念は間違いではありません。しかし、法律条文の運用の実態は、暴走状態にあり、本来の人権擁護の規定が、大多数の心神喪失でない人間の人権に対する侵害の原因となっていても、それを是正できないという社会的な運用の実態ができあがっています。法律の運用実態が本来の理念から逸脱しているとき、それは法律の制定の仕方や書き方に問題がある可能性が極めて高いと指摘できるでしょう。法律は、書かれた条文と過去の解釈が、永遠に通用する金科玉条ではありません。


さいごに

刑法第39条の問題は法治国家日本の尊厳に深く関係します。それを担うのが法律家の役割です。法律が実現する社会は、法律家の資質と見識に依存する所が大きいと考えます。


上に戻る