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この森で、天使はバスを降りた

  汝 多くの薬をもちうるも益なし
  汝は癒えざるべし
  乙女よ エジプトの娘よ ギリアデに登りて乳香をとれ

  (旧約聖書エレミア書より)

ミュージカル「この森で天使はバスを降りた」(原名The Spitfire Grill 歌詞・脚本 フレッド・アレイ 音楽・脚本 ジェイムズ・ヴァルク)は、3人の女性の再生と自立の物語。騒々しいロック・オペラが流行る近頃には貴重なしっとりとした静かな作品だ。

5年の刑期を済ませ仮釈放で出たパーシー・タルボット(大塚ちひろ)は、刑務所で拾った旅行パンフレットで見たウイスコンシン州の森の町、ギリアドに深夜長距離バスでやってくる。町の名前は旧約聖書にある女性の癒しの町、ギリアデに由来する。傷ついた心と身体の癒しを求めるパーシーの"ギリアドへ"の痛ましい熱唱がこのミュージカルの冒頭から観客の心をしっかりとらえる。

保安官ジョー(藤岡正明)の好意で、町のたった一軒の食堂スピットファイアにウエイトレスとして住み込む。食堂の女主人ハンナ(剣 幸)は第二次世界大戦中にスピットファイアの戦闘機乗りだった夫の軍勲を記念して食堂を名付け、楕円形のずんぐりした胴体と平べったい主翼が特徴の機体模型をレジ・カウンターの上の棚に麗々しく鎮座させている。

スピットファイアは第二次世界大戦中、連合軍の単発単座戦闘機としてドイツ軍のメッサー・シュミットや日本軍のゼロ戦と戦い勇名を馳せ、パイロットたちは「男の中の男」としてもてはやされたものだ。

自慢の一人息子、町の希望の星であるイーライは父親を手本に軍人の道を目指し、志願兵としてヴェトナム戦争に向かったが、行方不明のまま消息が知れないことがハンナの心の傷となっている。

女性の再生と自立の主題に加えて、このミュージカルの隠されたテーマはヴェトナム戦争がアメリカ社会にあたえた深い傷だろう。

誰もが正義の戦いとして疑わなかった第二次世界大戦と異なり、戦線が広がるにつれて大きくなる戦いへの疑問。行方不明の若いイーライはヴェトナムで何を感じたのだろうか。

刑務所からの仮出所ということで疑いの目でパーシーをみていたハンナも自身が腰を痛め、彼女の適切な処置と誠実な看護を受けて心を開くようになり、謎の夜の訪問者のために薪割り場に夜半パンをそっと置くことまでまかせてゆく。

一方、イーライに劣等感を抱いていた甥のケイレブ(宮川浩)は町の石切り場が閉鎖されてからは不動産屋となり食堂の売却を仲介しようとしているが、寂れ切った町のことで買い手はつかない。「男が男であった時代」に取り残されたケイレブの弱さも見ていて切ないものがある。

過去にこだわり、妻のシェルビー(土居裕子)がパーシーと仲良くなるのが気に食わないが、パーシーの真実の姿を知ったシェルビーは夫への隷属から自立しパーシーを強く支える。パーシーを支えて歌うシェルビーの"ワイルド・バード"は清らかで透明感にあふれている。

パーシーの食堂を懸賞作文コンテストの賞品とするアイデアは大成功で、全米から「なにもない癒しの町」に住みたいとの$100の応募金を同封した手紙が殺到する。応募作文を町中の人々が読みだすうちに、町の雰囲気は明るくなり人々は町を誇りに思うようになる。

パーシーの人柄と傷害致死罪に隠された真相を知り、彼女に惹かれてゆく保安官ジョー。パーシーはギリアドを故郷とすることができるのだろうか。

パーシーの大塚ちひろはウエイトレス・デビューがユニーク。椅子を蹴飛ばしてテーブルに収めるのだが、宝塚の男役のように椅子より高く上げた足を振り下ろすあたりがカッコいい。

剣 幸のハンナは70歳。腰を痛めた後で甥に閉店するように勧められても「20年間クリスマス以外に閉めたことがない」と、仮出所のパーシーと専業主婦のシェルビーの二人にまかせる決断力はいかにも頑固なアメリカ女性らしい。

この老若女性3人が懸賞作文アイデアの成功を祝ってアップル・ブランディーの乾杯で女性の連帯を祝う姿は、「女性の手による女性のためのミュージカル」のキャッチ・コピーにふさわしいノリのよい場面だ。

因みにこの作品は感動した観客が友人を伴ってリピーターとして戻ってくるというユニークなミュージカルで、シアター・クリエの方でも古いチケット半券を見せれば新しいチケットが割引で購入できるサービスを実施中だ。(シアター・クリエ 5月31日まで)

2009.5.27 掲載

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