バレエ団の芸術監督であり振付のジャン=クリストフ・マイヨーが演出するのは、セックスと暴力が支配する近未来の世界。この中での人間の心理的葛藤をダンサーの肉体、スキャンダラスだが洗練されたファッションと美術のセンスで前衛芸術に見事にパッケッジしている。
モナコ公国モンテカルロ・バレエ団の「眠れる森の美女」にはラ・ベル(オーロラ姫)と王子との婚礼を祝う「長靴を履いた猫」も「青い鳥」も登場しない。1890年マリンスキー劇場初演のモーリス・プチバ版の万人向けお伽噺を、シャルル・ペローの残酷な原作に戻し、若者のマザー・コンプレックス、嫁・姑の確執、男性の性的欲望を露骨に表現させ、プチバ版を破壊的に再創造している。最終的には若い女性の自立も認めているようだ。
舞台は暗い若者(王子)の世界と明るいラ・ベル(姫)の世界に二分される。
プロローグで若者(クリス・ローランド)が「眠れる森の美女」を読みながら眠ってしまうと、善の妖精リラの精(小池ミモザ)が水晶の玉を持って現れ、ラ・ベル(ベルニス・コピエテルス)に会わせてあげようと夢の中にさそう。
夢の中で王子となった若者は、女王(自分の母)(ジェローム・マルシャン)は実は人食い鬼で、息子である王子や夫である王を支配しようとしているのに気づく。再び現れたリラの精は王子をラ・ベルの世界に導く。そこでは人々は明るく幸せに踊り暮らしている。ファンシーなコスチューム(衣装フィリップ・ギヨテル)が楽しい。この世界の唯一の不満は跡継ぎの子どもに恵まれないこと。しかし、リラの精の祝福で子どもが授かることとなり、その子は水晶の玉(子宮)の中にはいって王宮へと降ってくる。
ところが、王子の母が今度は悪の妖精カラボスとなって王宮に入り込み、「ラ・ベルは16歳の誕生日に死ぬ」との呪いをかける。リラの精は「王女は100年の眠りにつくが命を落とすことはない」と改めて宣言する。(この部分はプチバ版と同じだ。)
マイヨーが強烈に暴力を演出するのは二幕と三幕。16歳の乙女に成長したラ・ベルが舞台上手から下手に流れるスロープを同じく子宮を象徴するバブルに入って優雅に降りてくると、求婚者である7人の他国の王子たちが彼女を取り囲みバブルをメタメタに壊す。カラボスは王女が着ていた純白の婚礼衣装を残酷に引き剥がし、最小限の衣装で身体を包んだ姫を王子たちを扇動して襲わせる。集団レイプを思わす激しいダンスの中で耐え切れないラ・ベルはその場に倒れそのまま100年の眠りにつく。
100年後、若者(王子)に助けられ目覚めた姫を女王と手下たちが待受けている。ところが大いなる眠りの間(思春期)に自立したラ・ベルは、父王の後を継いで新王となった王子とともに逞しく戦い、肺活量の巨大な(?)自らの長い接吻で女王であり姑であるカラボスを絶命させる。ここで話はプロローグに戻り、リラの精に導かれ夢から覚めた若者は枕もとの水晶玉を手にとり、改めて一夜の冒険を蘇らせるのだった。
さて、フィリップ・ギヨテル(衣装)のファッションは大胆かつ繊細。ヌードまがいのラ・ベルの衣装は腹部が全開して普通の肉体なら猥褻になる。ところがコピエテルスのバレリーナならではの細身の腹筋は六つに割れ、大臀筋がアスリートのように発達している。まさに躍動する彫刻のようだ。シー・スルーの衣装は、マイヨーがこの舞台でダンサーの肉体そのものを芸術作品として誇示したかったためだと納得がいく。
また、特筆すべきは小池ミモザのキャスティング。西洋人ダンサーの中での東洋人は普通はマイナーな影の存在だが、彼はその特性を現世と来世を自由に往来して若者とラ・ベルを結ぶ霊的仲介者、「リラの精」として生かしている。この前衛版では演劇的にはラ・ベルより「リラの精」が主役だろう。
全キャスト前衛衣装の中で「リラの精」だけがたった一人古典的ロマンチック・チュチュを身にまとっているのも、プチバの「眠りの森の美女」とマイヨーの「ラ・ベル」をつなぐ「リラの精」の役割を示しているようだ。
(2009年2月6日 Bunkamuraオーチャードホールにて)
2009.2.21 掲載
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