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アムシュタインホーフ教会

2014年4-5月 ウイーン

先ず今回の旅行でお詫びしなければならないのは、私の不注意から写真をほとんど全部駄目にしてしまったことです。残った写真は「Kirche am Steinhof Zum Heiligen Leopold(キルフェ・アム・シュタインホーフ・ツム・ハイリゲン・レオポルド/療養所そばの聖レオポルド教会)」を撮った数枚のみです。

皆様はご存知と思いますが、この教会はオットー・ワグナー(Otto Wagner)によって設計され、内部はフェルディナンド・ホドラーやコーロ・モーザーによるユーゲント・シュティル(19世紀末のドイツ語圏の芸術傾向)に統一されています。

オットー・ワグナーもコーロ・モーザーもグスタフ・クリムトと共にセセッシオン(Secession、分離派)の運動に参加しています。この人たちがいわゆる世紀末をリードし、19世紀末から20世紀初め、多分、第一次世界大戦の終了まで活躍し、偶然にもスペイン風邪の流行した1918年に世を去っています。

勿論この運動は芸術のみならずあらゆる文藝・学芸の分野に広がっています。さらにヒットラーがユダヤ人の追放を行うまでは、その栄光の残り火を残していました。

何故今度の旅でこの通称「アム・シュタインホーフ教会」にこだわったか。
  マッシモ・カッチャーリの原題『DALLO STEINHOF(死後に生きる者たち)』に触発されたからです。カッチャーリはヴェネティア市長も勤めたことがある行動派の哲学者です。ウイーンの世紀末を論ずるのにこの教会から文章がはじまっていました。
  教会の外観は何となく分離派会館を思い出させますが、内部はその明るさに圧倒されました。

アムシュタインホーフ教会
[アム・シュタインホーフ教会での写真]

▲ボタンをクリックすると写真が切り替わります。

今回のウイーン滞在を振り返ると次のようになります。

4月28日、ウイーン到着。馴染みの宿の経営者が変わっており、値段も大幅にアップして朝食抜きで50ユーロ。三泊する間に新しい宿を探しました。

4月29日、お目当てのオットー・ワグナーが設計したアム・シュタインホーフ教会を訪ねました。内部が見学できるのは土曜と日曜だったので日曜日に再訪問しました。

4月30日、ラクセンブルク城(Laxenburg)を訪問しました。

ウイーン地図
[2014年4-5月ウイーン旅程地図]
 
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5月1日、グリンチングのホテルに移動しました。朝食付きで59ユーロでした。ウイーンはこの日はメイデイで休日なので一番観光客の多い季節だそうで、私が宿を取れたのは全くの幸運だといわれました。既に花は散り、マロニエの季節になっていましたので、もう少し早い時期の訪問をお勧めします。今年はイースターが遅く一週間後の訪問だったのですが、何時もと違って早く暖かくなったようです。
  この日午前は美術史博物館(Kunsthistorisches Museum)、午後はジーベリング(Sievering)というグリンチング(Grinzing)の一つ南の谷を訪ねましたが、ホイリゲ(Heurige/ワイン酒場)が余り見つかりません。この件は後でまた触れます。

5月2日、この日はよく動きました。先ずベルヴェデーレ宮殿(Belvedere)の上宮でグスタフ・クリムト、エゴン・ シ—レ、ココシュカなどの作品を鑑賞し、分離派会館の地下でクリムトのベートーベンの第九をテーマにした「ベートーベンフリーズ」を見た後に、ナッシュマルクト(Nashmarkt/食品市場)の近くで今春のアスパラガスを昼食に食べると言う忙しさです。さらにこの日の午後はウイーン最古の教会といわれるルプレヒト教会(Ruprechtkirche)、内陣がくの字に曲ったマリア・アム・ゲシュターデ教会(Maria am Gestade)を訪ねた後、フンデルトヴァッサー設計の市営住宅フンデルトヴァッサーハウスとクンストハウスウイーンまでもを訪ねました。

5月3日 久しぶりにボッシュの「最後の審判」を造形美術アカデミー(Akademie der bildenden Kuenste)で見ました。この美術学校にはシーレが入った年にヒトラーが落ちたといわれています。もしヒトラーが合格していたら二十世紀はもっと静かだったろうと残念です。次にリヒテンシュタイン美術館にいったのですが、今は月に二回ほど予約制で見せていることが分りました。
  十年足らずのうちに宿といいホイリゲ、美術館までその変化の早さに驚かされました。カーレンベルクの奥にあるレオポルドベルクは教会を含め全体を改装中で中に入れません。これも大きな変化です。

5月4日の朝、シェーンブルン宮殿(Schloss Schoenbrunn)を訪れ、午後12時に開くアム・シュタイン教会に直行しました。内部はユーゲントシュティルの明るい色彩に溢れていました。
  その後U4の終点駅ハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)の一つ手前のシュッピッテラウ(Spittelau)からバスでノイシュティフト・アム・ヴァルデまで行くとこれがジーベリングのさらに南の谷で、ここはホイリゲが今なお軒を連ねていました。なおシュッピッテラウの駅のすぐ側にはフンデルトヴァッサーのゴミ焼却炉があります。
  グリンチングも今ではホイリゲの数はかなり減っています。今度も一度入ってみたいと思っていたオペレッタをやっているホイリゲがつぶれレストランに建て替え途中でした。

5月5〜7日、ずっとグリンチングに腰をすえてヌスドルフまでベートーベン・ガンク(散歩道)の散策を楽しみました。

なお写真を失敗しましたので、バックナンバーの03年10月パリの番外編ウイーン09年7月(その1)(その4)を参考にしてください。


2014.5.31 掲載

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