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殺人事件といわき病院の精神科開放医療
まじめに精神科開放医療を行えば殺人数は減少する!


平成26年1月21日
矢野啓司・矢野千恵


▼目次 (下線部分をクリックすると各ページへジャンプします)


はじめに

1、いわき病院事件裁判の目的

2、サイモン・デイビース鑑定人の意見
  A、矢野真木人殺人事件を引き起こした根源の理由は何か?
  B、精神科開放医療と(80〜90%の)殺人危険率に妥当性があるか
  C、KM弁護士のパキシル添付文書の無茶な解釈論
  D、英国では精神障害者の殺人数(比率)が減少したことに関して

3、英国の精神障害者殺人数が減少した記録
  A、英国で精神科医療50年間の経験が持つ意味
  B、精神科開放医療を行えば殺人数の増加はやむを得ないか?
  C、ほったらかしのいわき病院の精神科開放医療
  (参考)英国医学会誌(the British Medical Journal)(要約)

4、いわき病院の精神科医療と患者野津純一氏



はじめに

精神科開放医療は、精神科臨床の基本事項を誠実に実行することで安全性が担保されるのであり、結果として精神障害者の人間解放と社会参加が促進されることになる。このことはイギリスやイタリアの実践経験によっても明らかである。

控訴人矢野はいわき病院で渡邊医師が野津純一氏に対して行った精神科医療は特殊事例であって欲しいと考えている。精神科開放医療を行えば殺人事件の発生が不可避となるものではない。閉鎖処遇を止めて精神科開放医療を導入すれば殺人数は増加するものでもない。渡邊医師が野津純一氏に対して行った精神科医療は開放医療の美名の下に、患者の過去履歴を踏まえず、薬物療法の基本を逸脱し、患者の病状の変化を適切に経過観察しない、誠実でなく、主治医として義務違反の特殊事例であった。いわき病院が行った精神科開放医療は、治療を突然中止した患者に何のケアもしないで無責任に街頭に放り出す医療であった。そのいわき病院のほったらかしの医療は、精神科開放医療とは言えないものであり、矢野真木人殺人事件を誘発した。

いわき病院代理人がこれまで取った法廷戦術を分析すれば、結審法廷の直前にいわき病院が野津純一氏に対して行った精神医療的事実に関連して裁判官の確信を大きく揺らし、原告(控訴人)の主張に疑念を抱かせる目的の主張が行われ、更には提出された文書であってもその一般的な解釈を揺るがせるような常識外の視点で論理展開などが行われた。あたかも「いわき病院側が事前の全ての議論を総括した答弁書を提出した」という前提で、「法廷が事実確認を徹底できず、また論理が混乱した判断を行う方向に誘導された」と思われる状況が、高松地裁結審時に見られた。控訴人矢野は、いわき病院側から見て、何が裁判官の事実認定を大きく左右する可能性がある驚きの証拠提出となるかを推理して、以下を提出する。控訴人矢野の願いは正確な事実に基づいた判断を裁判所が行うことである。

控訴人矢野は、健全な社会や健全な医療は正確な事実に誠実に対応することで叶えられると確信する。精神科開放医療は真面目で誠実に推進される場合には精神障害者の社会参加を促進し、合わせて安全な地域社会の実現に貢献するものである。精神科医療が着実に実行されることで精神障害者の社会参加が促進され、同時に矢野真木人殺人のような不幸な事件の発生が繰り返すことがない社会を実現することが可能となる。




1、いわき病院事件裁判の目的


(1)、精神科開放医療で精神障害者の社会参加の拡大は実現できる

控訴人矢野は本件裁判を「いわき病院事件裁判」と仮称する。本件裁判は医療法人社団以和貴会(いわき病院)が任意入院患者野津純一氏に行った精神科医療の結果として、平成17年12月6日に控訴人矢野の長男矢野真木人を刺殺したことが原点である。従って、市民社会における精神科開放医療が課題となる。

控訴人矢野は、精神障害者と一般市民の共存と、人間として追及できる人生の幸福と生きる意義を、本件裁判の課題として考えている。これは、実現不可能な理想論ではない。今日では精神医療技術の進歩により多くの精神障害者に実現可能となりつつある。精神科開放医療は、市民社会の安全を犠牲にするものではなく、一般市民の犠牲の上に成り立つものでもない。精神科開放医療を誠実に推進することで、精神障害者と健常者共に、安全で健全な生活を行うことが可能となる。それは到達困難な理想論ではなく、先例となる事例はイギリスとイタリアにある。


(2)、いわき病院医療に過失がある事実

いわき病院と渡邊医師が、今日の精神薬理学的知識を正しく理解して薬事処方を行い、患者野津純一氏の病状の変化に伴う経過観察を行い、状況を適切に観察して看護を行い、病院スタッフが有機的に機能するチーム医療を真面目かつ誠実に推進した、適切な精神科臨床医療を行っていたならば、いや、このうちの一つでもまともに機能していたならば、矢野真木人殺人事件は発生しなかった。精神科開放医療はその前提として市民に生命の犠牲を強いるものではない。

いわき病院長渡邊医師は、精神科専門医でありながら、向精神薬の知識に錯誤があり、抗精神病薬(プロピタン)とパキシル(抗うつ薬)を同時に突然中断した後に適切に経過観察を行わず、いわき病院看護師も患者の顔面を正視する適切な看護を行わず、錯誤と怠慢と不作為があった。


(3)、精神科病院に過失責任を認めない判例の積み重ねが無責任を助長した事実

いわき病院は、適切な精神科医療を野津純一氏に対して行わず、無為なままで矢野真木人殺人事件を引き起こしたのであり、医療者側は法的に過失責任が問われて当然である。精神科開放医療が社会に定着し社会の理解と指示を得るためには、錯誤や怠慢及び無責任という過失ある医療を行い重大な事件を発生させた者に、刑事や民事の法的責任を問うことが前提である。それでこそ精神科医療に社会の支持が得られる。

わが国では精神科医療者側に法的責任が問われることはほとんど無い。いわき病院が野津純一氏に対して行ったほったらかしで放任した医療は、「法的責任は問われない」と安住した怠慢である。医療行為に法的責任が問われなければ、責任感のある精神科医療は育たない。


(4)、日本の精神科医療の改革を期待する裁判

いわき病院事件裁判の直接の課題は、いわき病院と渡邊医師が野津純一氏に対して行った精神科医療の問題を明確化することである。そしてそこから、一般化できる課題が浮かび上がる可能性がある。

日本の精神科医療を、患者本位で、精神薬理学的な知識の裏付けがあり、患者の病状に則した看護を行い、リハビリテ−ションの効果を上げ、患者の社会参加を促進するものに改善することである。その上で、精神障害者が安心して社会参加を行えるプライマリーケアと施設などが整備され、有機的に連携される必要がある。

日本で優良な精神科医療が実現する前提は、医療機関が基準に従った資格を持つ職員を雇用し、基準に則した施設を有するなどの外見的な整備だけではない。いわき病院事件で明らかになった事実は、病院機能を担い、患者に対する精神科臨床医療で責任を負う職員が、真面目に自らの職責を遂行していなかった現実である。いわき病院事件裁判を通して、精神科医療関係者のモティベーションの向上が促進され、精神障害の治療に効果をもつ医療が誠実に行われることを期待する。


(5)、安全な市民社会をつくること

いわき病院事件裁判が達成することを期待する成果は、矢野真木人の命が奪われたことに対する報復感情の充足ではない。矢野真木人がたった1回の人生で果たせなかった人生の価値として、精神科開放医療の促進と全ての市民に敷衍する普遍的な人権を尊重する社会の実現を、矢野真木人の名の下に求めている。

野津純一氏は、いわき病院の医療でなくても、どの病院に入院しても、またどのような医療を行っていても、不可避で必然的に殺人事件を起こしたのではない。いわき病院の渡邊医師が野津純一氏に対して行った医療に、殺人衝動を引き起こした原因があった。いわき病院と渡邊医師が今日の精神科医療が実現している水準の医療を誠実に行っておれば、野津純一氏は殺人犯になる事はなかった。

精神科開放医療の促進は、ある日突然の理不尽な死という病院外における市民の犠牲を、「精神科開放医療に付随する避けることができない必要悪」として、社会が受忍することを強いる論理が背景にあるものであってはならない。精神科臨床医療を現在の精神科医療、看護、リハビリテ−ション技術を活用して誠実に行うなら、患者の病状の回復と改善及び社会参加を可能とする精神障害の軽快と寛解は自ずと伴ってくる。精神障害者の多くが人間としての生きる喜びを実感できるようになれば、善良な市民としての社会参加は実現できる。そのことは他の一般市民と生活環境を共有する安全な市民社会をつくることでもある。今日では、それは達成可能な課題である。



 
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