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愛媛医療専門大学校特別講義
精神障害者の犯罪と医療機関の社会責任


平成19年9月7日
矢野啓司
矢野千恵

私たちは平成17年12月6日に長男の矢野真木人(享年28才)が精神障害者の野津純一(当時36才)に通り魔殺人されて、犯人に対する懲役25年の刑事裁判の判決が平成18年6月に確定して以来、事件の本質を日本社会の問題として広報されることを願って、依頼があれば喜んで講演活動や執筆を行ってきました。この度、新設の愛媛医療専門大学校から依頼を受けて平成19年8月31日(金)に特別講義を行いました。学校側の依頼の趣旨は以下の通りでした。

講義コンセプトは、「医療専門職としての心構え」という観点から、命の尊さ、その命を取り巻く別の命の尊さ、生活を支える作業療法士として何ができるのか、刑法39条の問題と社会の理不尽さ等々について話して下さい。「医療専門職としての矜持を正す」という意味での講義展開がお願いできましたら幸いです。

上記を受けて、私たちは「1.息子を亡くした悲嘆、2.被害者自助グループの課題(自助グループ・被害者遺族の会を開催して)、3.いわき病院医療の問題点(いわき病院の責任)、および4.精神障害者の自立・社会参加と刑法39条の問題」という内容で3時間の講義をしました。私たちの講義から、主として今までに公表していない論点、および学生からの質問と講義の後で頂戴した学生の感想文を元にして、以下の報告書をとりまとめました。

私たちは、矢野真木人が命を失ったことは残念です。しかし、いくら悔やんでも矢野真木人が生き返るわけではありません。また私たちは矢野真木人に代わる生命を持つこともかないません。他方、私たちは矢野真木人が命を失うに至った原因には、日本の人権理解と社会制度の運用に基本的な誤りと問題があると認識しています。私たちは矢野真木人の命を失ったので、この問題を問題として指摘して、その為に私たちが批判されるとしても矢野真木人の生命を考えれば本望です。今後も、依頼を受ければどこにでも出かけて講演する所存ですし、原稿の依頼を受ければそれに答えるつもりです。私たちは個人としての矢野真木人を失いました。しかし、矢野真木人の願いと精神は、広く人材育成に協力する事により社会の共有財産となることを願っております。


1、我が子に先立たれた悲嘆

悲しみと悲嘆は違います。悲しみは一時的で一過性ですが、悲嘆は一生続きます。不慮の死で息子を失ったような場合には悲嘆の嘆きは深刻です。文字どおり涙も出ません。涙が出るまでの期間や泣けない期間は個人差がありあますが、早い人で3日、3ヶ月かかる人もいますし、3年半かかった人もいたと聞いています。このような場合、「泣かないのは悲しんでないから」と誤解されることがありますが、これは大きな心の傷から身を守る生体の防御反応です。悲嘆の症状は「食べられない、眠れない、気が狂いそう」ですが、本人にはそれが一生続きそうで恐ろしいことです。このため同じような経験をした人との出会い、本との出合い、が助けになります。悲嘆には一人ではなかなか耐えられません。家族以外の誰か、安心できる人と一緒に過ごすことが、特に死んだ人の誕生日、一周忌などの記念日には望まれます。

私(矢野千恵)の場合、息子が死んで、携帯やパソコン、カード、電話、通帳、アパートなどの契約解除を申し込んだときと書類に書き込んだときは「助けて!」と叫びたかったという思い出があります。息子が生きていた証を一つ一つ消していく作業ほどつらいものはありません。今でも次のようなときに、辛いと感じて、動悸がしたり、血圧が上がるような症状を示すようになります。

  1. 真木人という名前が聞こえたとき、名前を見たとき、口に出したとき、書いたとき
  2. 中学生以降の息子の写真を見たとき
  3. 事件に使われたのと同じような包丁を見たとき
  4. 車の運転をしているとき、トンネルに入ったとき
  5. 顔を洗っているとき、頭を洗っているとき、おふろに入っているとき
  6. 夕暮れ時
  7. 息子の夢を見た日、朝目が覚めたとき
  8. 息子に良く似た人を街で見かけたとき
  9. 息子の部屋に入れない、息子の持ち物にさわれない
  10. 息子の車を見ると事件を思い出す
  11. 事件のことを夫が隣で話すとき
  12. TVニュースでパトカーの赤ランプがぐるぐる回っているのを見たとき
  13. 進入禁止のテープを張って警官が作業している場面
  14. (息子の服は私が買っていたので)男性服売り場に行ったとき、男性服のカタログを見たとき
  15. (仕事を辞めさせて、父親の仕事に従事させたため)以前の職場の近くに行けない

事件の後で、悲嘆に苦しんでいる人に接するときには次のようなことに注意してください。

  1. 亡くなった人のことは無理に話題にしない。
    反対に、わざわざその話題を避けようとしなくてもいい。自然体でいれば良いのです。
  2. お悔やみはなるだけ短くして下さい。
    言われると涙が止まらないし、敗北感が増大します。「気を落とさないように」「体に気をつけて」のほうが嬉しい。「頑張ってって言ってもいいの?」もOKです。裁判を控えていればがんばるしかないし、仕事もやめるわけにいかないので、頑張るしかありません。応援は嬉しいことです。
  3. 一番つらいのは「おかけする言葉がありません」という言葉です。
    自分自身が声もかけてもらえないほどの不幸に見舞われたのだと再認識して、更に落ち込んでしまいます。後からもその言葉を思い出して、落ち込んでしまいます。
  4. 「一緒に食事しよう」のお誘いが一番嬉しい。
    事件後は出不精になり、引きこもっている。自分を責め続け、事件のことが、片時も頭から離れず、「誰にも会いたくない」気分だけれど、「誰かに助けてもらいたい」とも思っている。一度だけでなく断られても何度も誘おう。誘う側が大勢だと溶け込めない。小グループか1対1のほうが良い。お誘いに応じられるようになるまでは少し時間がかかることがある。49日までは親族が出入りすることが多いので、友人、知り合いだったら、それ以降がいいかもしれない。事件のことを聞いていると二次受傷になることがあるので、話を聞くほうも強い心が必要です。

私の場合、(事件後1年半を経過した)今年の5月から2ヶ月間はめまい、吐き気がしました。安定剤をつかっても眠りが浅いし、胃もたれが続き、すぐに横になりたくなりました。「メニエルでも脳梗塞でもない…もしかして」と、休薬していた抗鬱薬を復活したら日に日に良くなり10日ですっかり良くなりました。うつ気分は抗鬱薬を服用してもしなくても変わらないので自分でも意外でした。

事件から一年半が過ぎると、身内でも「もう大丈夫」だと「錯覚」するらしいようです。それで周りの人は気軽に言っているつもりでしょうが、「先祖崇拝をしないから殺人にあうとテレビでうんと言いゆうね」とか「朝晩お祈りせんろう?」と言われることがありました。言われた私は、みるみる頭から血の気が引いていき、顔が硬くなるのが分かりました。その直後に車を運転して自宅に向かいましたが、そのまま車をぶつけて死にたいと思った程です。それでも他人様に迷惑はかけられないと買い物の予定は変更して、まっすぐ家に帰ってきましたが、全身が「絶望感」で満身創痍の気分でした。夫に「なんだか変だね、どうしたの?」と聞かれて、ようやくわけを言ったら大笑いされました。少しほっとしましたが、それから涙が止まらず、「息子が殺人事件にあったのは自分のせい」と責め続け、一週間は仕事もできず臥せっていました。2週目も寝たり起きたりでした。

災害で娘さんを失ったAさんも、私の話を聞くと大笑いして否定して、「そんなこと、絶対無いわよ」と言いました。でもAさんはAさんで「占いで危険だと出ていたのに、あなたは娘をその場所に行くのをひきとめなかった」と言ってくる知人がいて、そのことを絶えず苦痛に思っています。「あの子を殺したのはわたしだわ」、そして「気が狂いそう」といつも嘆いています。その苦しみ方は一週間寝込んだ時の私にそっくりでした。参加してみた「死別者の会」でも、事故で死んだ遺族に「殺されるよりマシです」と言われました。また自殺で死んだ遺族には「うちの子は死にたかったからなんだけど、お宅は違うから」と言われたことが思い出され、「殺人にあうのは親の生活態度がいけないから?」と本気で悩んでしまいました。その月は「死別者の会」には足が向きませんでした。

明るく努めていると「子どもを亡くしたのに情がない」、また「(あなたは)強い人ね」と言われます。反対に落ち込んでいると「いつまでも悲しんでいてはだめ。死んだ子が心配して成仏できない」と言われます。さらに「元気になった、元気になった」といわれると変な気がします。私自身は、元気な姿を見せようと努力しており、その結果なのです。そのようなときには、帰るとどっと疲れが出ます。毎日結構な時間寝ていますが疲れがとれません。1年や2年で元気になどなれるはずがないのです。我が子を失った被害者が1〜2年で元通りになるんだったら被害者支援も自助グループも必要ありません。一生重荷を背負っていく人生になったと思います。

私は仏教徒です。息子の遺灰の一部は今年の2月にインドのガンジス河に流しました。私は「先祖崇拝は本来の仏教の教えではなく、儒教の教えから取り込まれた要素で、支配者が民衆を支配するために都合よく作られたもの」だと知りました。また「墓は本来の仏教にはないもので、仏教国のタイやブータン、さらにインドにも墓はない」ことを本で学んで安堵しました。事件、事故、災害で突然家族を失い悲嘆にくれている人はあの日、あの時刻にその場所に大切な人を行かせてしまったと後悔し罪責感に苛まれていて、あがき苦しんでいます。どうぞ先祖崇拝とか生活態度の善し悪しなどと言った、理由にならない安易な言葉で、遺族を苦しめるのはやめて下さい。他人のことは笑えるが、自分のことになると苦しみでしかありありません。

事件の被害者遺族が立ち直るには、刑事裁判と民事裁判で罪のある人にきちんと責任を取らせることが必須条件です。精神障害者の犯罪では、殆どの場合に刑法39条で犯人が無罪になります。そうすると「世間は、犯人が悪くないと認めた、と思い」、そのことで「遺族は自分を責める」ことになります。検察官の判断で、裁判もせずに不起訴処分となり無罪とされると、遺族は民事裁判で戦っても勝てません。それよりも引き受けてくれる弁護士もおりません。遺族はふがいなさを悔いて、一生自分を責め続けることになります。

なお、先々のことですが、犯人が刑務所から出てくるのも「お礼参り」されそうで怖いことです。犯人は懲役刑が終われば罪は終わりと思っています。そして懲役刑で何年も自由を剥奪されたことで、遺族を逆恨みします。家族を殺害されて100%被害者なのに、一生犯人の影に怯え、住所も出せず、引越しを繰り返す遺族も多いのです。犯人が出所するころから遺族には、自分自身の生命の危険という、別の悩みが始まります。


2、刑法39条と精神障害者

矢野真木人が殺害されて私たちはほとんど全ての弁護士から「刑法39条があるので、精神障害者が例え殺人を犯しても、罰することはできません」と言われました。また「心神喪失者等医療観察法もできあがっているので、精神障害者は(犯行を犯したときの心神の度合いに関わらず)積極的に心神喪失と認定して、措置入院させて治療することが人権を守るやり方です」とも言われました。そもそも、法曹界にある人は誰も「精神障害者であれば自動的に心神喪失もしくは心神耗弱を認めることが正しい法律の運用である」と言う認識を持っているようです。

しかし、皆さん考えてください。全ての精神障害者は心神喪失もしくは心神耗弱なのでしょうか。精神障害とは医学上の病気の概念です。他方、心神喪失と心神耗弱は刑法上の法的概念です。論理的に考えても、精神障害者と医学で認定される集団と、刑法で心神喪失もしくは心神耗弱と認定される集団は一致する筈がないのです。双方の集団の一部もしくは多くが他方の集団の構成者である可能性はあります。しかし、全てではあり得ません。(図1、参照)

図1

論理的には、精神障害者であっても心神喪失でも心神耗弱でも無い人間はあり得ます。他方、心神喪失者の中には、精神障害でないけれども、脳内出血などで突発的に心神喪失状態に陥る人も出現する可能性はあります。刑法上の責任能力の鑑定では、医療上の精神障害であることは鑑定する要素の一部ではあるが、全部ではないのです。このことに、留意する必要があります。

「犯罪を行った精神障害者の処遇(第2図、矢野分類試案)」を概念的に区分してみました。○で囲まれた範囲に中にいるのは、全て何らかの違法行為を犯した犯罪者だと考えてください。刑法39条に該当する犯罪者(ABCD)、重度の精神障害者(BCEF)、そして軽度の精神障害者(CDFG)です。

第2図では精神障害者を簡便な概念として、重度の精神障害者と軽度の精神障害者に分けましたが、これは概念的な理解を促進するための便法であり、明確な基準に従った区分ではありません。それでも、一般的な概念として「重度の精神障害者は殆どが心神喪失に該当して一部が心神耗弱である筈だ」という通念と一致するでしょう。また軽度の精神障害者の場合には、「通常は心神耗弱であり一部には心神喪失がある」と考えられ易いところです。野津純一の事例では、鑑定不能型統合失調症と反社会性人格障害者で重度の精神障害者でしたが、心神喪失ではなくて心神耗弱が刑事裁判で認定(Cに該当)されました。

図2

刑法39条と犯罪者

  1. 精神障害者ではないのに、刑法39条が適用される犯罪者
  2. 重度の精神障害で、心神喪失が認められる犯罪者
  3. 精神障害で、心神喪失か心神耗弱が認定される犯罪者
    重度の精神障害で、心神耗弱が認められる犯罪者
    軽度の精神障害で、心神喪失が認められる犯罪者
  4. 軽度の精神障害で、心神耗弱が認められる犯罪者
  5. 重度の精神障害であるが、刑法39条が適用されない犯罪者
  6. 精神障害であるが、刑法39条が適用されない犯罪者
  7. 軽度の精神障害であるが、刑法39条が適用されない犯罪者

第2図が指摘することは、精神障害の軽重に関わらず、刑法39条に該当しない精神障害患者の犯罪者が存在する可能性です。これまで日本では「精神障害であれば、直ちに心神喪失であるか心神耗弱で無ければならない」とするような認識が通用していました。どうして「そうではない可能性」を厳密に検討しないのでしょうか。そこに法律運用上の問題点が発生する可能性を指摘できます。更に問題であるのは、「精神障害者ではない犯罪者が精神障害を偽証して、刑法39条により刑罰を逃れたり軽減されることを求める」犯罪者が発生する可能性です。このように概念図で区分される、「精神障害者でもないのに刑法39条を悪用する、Aの犯罪者が存在する可能性」、および「精神障害があるからとして自動的にE・F・Gに区分しない可能性がある」ことも問題なのです。


3、精神障害者の自立と法的権利

私たちが「精神障害者の社会復帰訓練中の殺人犯罪における病院の責任を裁判で争っている」と説明すると、多くの専門家は「矢野が、精神障害者の社会復帰を妨害している」と理解するようです。私たちは「精神障害者は危険だから病院に一生涯閉じこめなさい」と発言したことはありません。また「精神障害者の社会復帰訓練はやってはいけない」と発言したこともありません。むしろ、私たちは「精神障害者の殆どは、適切な治療を享受することができれば、現段階の医療技術でも健常者と等しい社会生活を回復することができる」と信じています。

野津純一の場合は中学1年の3学期から発症して、その後の治療経過が適切でなくて、矢野真木人殺害までに20年以上の長期間にわたる精神障害で、既に精神障害が回復して寛解の状態まで達することは殆ど期待できません。精神障害者の場合の野津純一のように寛解することを期待できないごく少数の重症患者と、軽度の障害で適切な治療と投薬で健常な精神状態を維持できる大多数の患者は同一ではありません。野津純一のような重度の精神障害者には「本人に安心して長期入院させることが可能になる医療制度」が必要です。また他方では、「軽度な精神障害者の社会復帰を促進する各種の医療や福祉サービスを充実させる改善など」が必要になります。

精神障害者の殆どの患者の状態は、実質的には生活習慣病の患者と状況的には異なりません。生活習慣病の患者は高血圧や糖尿病の薬を一生飲み続けることにより、健康な状態を維持しています。薬を飲み止めることはできませんが、薬を飲み続けて、定期的に診察を受け続けることで健康を維持する状態は、実は精神障害の症状があっても薬を飲み続けることにより、また定期的に診察を受けることで健常な生活を維持できる状態と同じです。医療の進歩により、精神障害も特別な病気ではなくなりつつあるのです。生活習慣病でも、重症になれば入院治療が必要です。このことも精神障害患者の中には入院治療が必要であり、退院させてはならない患者が存在することと異なる状況ではありません。

刑法39条が制定された100年前には、医療技術が今ほど進歩しておりませんでしたので、一度精神障害になれば、人間としての健全な精神生活を再び復活して維持することは殆ど期待できませんでした。そのような状況下では「心神喪失」と判断された人間は、ほぼ永遠に心神喪失の状態にあり続けた、と考えられます。ところが現在では優れた向精神病薬などが開発されており、重度の精神障害者でも心神喪失の状態であり続けることはほとんどありません。薬を投与したり、処方を変更すれば、精神障害は寛解しないまでも、人間的な心神の活動は維持回復が可能です。刑法39条は精神医学の進歩に合った運用の変更や修正が行われてないと指摘できるところです。

刑法39条が罪を犯した全ての精神障害者に適用されるとなると、それは例え軽微な精神障害でも精神障害の症状があれば法的な権利を喪失することにつながります。精神障害の症状を理由にして法的責任を逃れたり、軽減することが許される人間とは安心して契約行為を行えません。それでは社会的な権利が否定されます。精神障害犯罪者の中には「罪を逃れられることで特別優遇された権利を持っているかのような誤解」を持つ方がいるようです。しかし、法的義務が免除もしくは軽減されることは、大多数の罪を犯さない善良な精神障害を持つ人間にとっては、大きな権利の喪失です。また精神障害を治療される立場から考えても、法的権利が十分に保障されていないことは実は、精神医療で患者の側に立った治療を要求できない事になります。論理的には、患者としても権利が十分に保障されません。日本ではヨーロッパ諸国の水準と比較しても2倍程度の精神科病床数があり、これを削減することが困難です。その上で日本では早期に社会復帰可能な患者を不必要に長期間入院させるという弊害も指摘されます。このように、患者が適切な治療を受けて早期に社会復帰する権利が阻害されているとも言えるのです。

精神障害者が健常者として社会復帰すると、当然のこととして刑法39条による刑罰の免責規定の対象外となるはずです。そうでなければ、精神障害が寛解して社会復帰したとは言えません。このように、精神障害者の社会復帰が促進されるならば、刑法39条による免責規定は不要となります。「刑法39条によって無罪となる方が得だ」という間違った認識を精神障害者が持ち、それにすがる心が生じるとしたら、それは望ましいことではありません。

精神障害治療技術はこれからも医療技術開発が促進されて、「精神の病は治療される」という社会常識が確立される必要があります。それでも、精神障害の発生頻度は民族や文化に関係なく約0.9%です。このことは人口の一定割合で、精神障害患者になる者は発生する可能性があり、その人たちの治療が促進されると、大きな社会的な効用があり、また人権回復にもなります。この人口の0.9%発生するとされる精神障害者のほとんどが軽度な障害の段階で治療されて、社会に復帰することが望まれるのです。その人たちを不必要に長く病院入院治療を継続して、医原性の慢性の精神障害者と言われるような、「医師の都合によって退院させない」などという弊害は取り除く必要があります。このためにも、法律による免責規定は望ましくありません。不必要なまでの長期入院は、日本の精神医療の問題点として国際法律家委員会(参考:「精神障害者の人権」、国際法律家委員会レポート、明石書店)などからも指摘されている日本の精神医療が抱える人権問題です。


(学生との対話)

愛媛医療専門大学校は平成19年4月に開設された医療技術に関連した新設の専修学校です。学生は将来作業療法士として精神障害者治療の専門家になる予定です。入学後未だ4ヶ月で、専門知識はあまり育っていませんが、良い作業療法士になりたいという意欲は十分に感じました。新設の学校であるために、先輩という同じ学業が進んで専門知識をもって議論する同胞がおりません。このため、多くの学生は一般の人が私たちの講義を聴いたと同じような反応を示している傾向もあります。将来学業が進んで、専門家としての自覚を持つようになれば、私たちに対する批判の眼も増える可能性があります。その意味では専門家としての立場を前に出すQ1とQ3の学生の視点を持つ学生が増えることになるでしょう。私たちはそれを見越して、専門家としての矜持が育成されることを長い目で期待しています。


Q1、医療に不信感を持っているのではありませんか?

(学生の質問)

矢野さんの意見を伺っていると、医療専門家に対する不信感に突き動かされているような気がします。

1) クレームから改善が生まれます

私たちは、私たちの大切な息子が命を失うに至った理由を何としても知りたいのです。統合失調症で入院していた犯人が、病院が許可した外出からわずか20分後に犯した殺人は病院側に何らかのエラーがあったことを現しています。それは何なのか。それを知り、広く伝えることが日本の精神医療のミスを防ぎ、質を向上させることにつながります。私たちは単に『いちゃもん』をつけているのではありません。クレームはビジネスの宝の山です。クレームから優れたサービスや製品が生まれます。

2) 専門家の仕事は社会があってこそ

専門家の仕事は非専門家の意見や指摘に対して不可侵ではありません。いかなる専門家も経済活動による収益や、税金や社会福祉資金の環流などで収支を維持しています。また市民の支持や援助によって活動は成り立ちます。このことは「専門家が専門の中で仕事をしておれば、全てが正しいとされることではない」のです。あくまでも社会との関わりの中で、仕事や専門性の正統性が問われます。

私たちの場合、矢野真木人は全く突然に理不尽な死に見舞われました。「それはおかしい」と最初に言いましたら、弁護士は「刑法39条があるから、殺された方が悪い、残念だが誰にも責任は問えない、責任を問いたいとするあなた達の態度そのものが、法律違反であり、反社会的です」と言いました。またいわき病院長渡邊朋之医師は「精神障害者の解放治療は社会的な善であり、それを邪魔することになり、そのことが間違っている」と主張しています。このような論理で「そもそも矢野真木人が殺された理由を解明することが法律と医療の専門家の論理で間違い」とされたのです。私たちは、それは「社会正義に外れています」、それでは「殺人が野放しになります」。それは「専門家のご都合主義ではないですか」、また「それで、国際的に通用する人権擁護の論理なのですか」と反論しました。このような反論をすることは「単純な不信感とは異なる立場である」と確信します。


Q2、野津さんと話したことはありますか?

(学生の意見と質問)

  1. 今回の講義を聴いて、一番はじめに思ったことですが、自分の息子が殺されたことを沢山の人に話をできることが、とても驚きました。たしかに、このような経験をする人が少ない分、誰かが世間の人たちに伝えることがまず重要だと思います。千恵さんが言っていた「医療を提供する側がクレームされることで医療の質を改善してゆきよりよい方向に改善する」ということはこれからの社会では大切だと思いました。

  2. 加害者の野津さんとは話をしたことがあるのか、とても気になりました。また話したことがあるなら、どんな気持ちで、どんな話をしたのか気になりました。

1) 不慮の死や、理不尽な死を少なくしたい

矢野真木人の死は「不慮の死であり、理不尽な死」でした。残念ながら、矢野真木人が生き返ることはありません。矢野真木人が死んでしまった現在から、矢野真木人が行える社会貢献とは何かと考えると「不慮の死や理不尽な死を削減することに貢献すること」だと考えます。この社会からは「不慮の死や理不尽な死」を無くすることはできません。しかし、「数を少なくして、少しでも不幸の数を少なくすることはできる」はずです。「不慮の死や理不尽な死」が発生した背景を分析すれば、「社会として対応可能なこと」が沢山あります。その可能性を指摘してゆくことが、矢野真木人が私たちに残した課題であると考えています。

2) 裁判前には被害者は加害者に会えません

日本の制度では、刑事裁判の前に被害者側が加害者と面会することはできません。従って、私たちが野津純一と話をしたか否か、の問題は「私たちが希望したか」ではなく、「そもそも、面会することは許されない」のです。

日本の刑事裁判で求刑の度合いを決める要素に「被害者感情」という要素があります。昨今の裁判の報道では、被害者が加害者に対する「恨み」を記者会見で表明することが習いになっている傾向があります。他方、裁判制度が改正されて、被害者が法廷に参加することは可能になりつつあります。このような制度改革があれば「法廷内における被害者感情の表明」も大きな課題になると考えます。このため、「被害者と加害者が一定の規則を設けて刑事裁判前に面会すること」があっても良いかも知れません。しかし、これはあくまでも制度改革の可能性の問題です。

3) 刑事裁判では野津純一を観察しました

私たちは殺人犯人の野津純一を刑事裁判の第一回法廷で初めて見ました。私たちは声をかけることも話をする事も、許されておりませんので、ただ野津純一を観察しました。法廷に出頭した野津純一は被害者遺族を捜し出してどのような人々であるか確認する意志を持たず、まるで被害者側には関心がありませんでした。私たちは野津純一の状況で懸案となっていた「顔面の根性焼き痕」と「イライラやムズムズや不随意運動などのパーキンソン病症状」を観察しました。

野津純一の表情を見て、この人間は普段はおとなしくまた従順な人間であると観察しました。更に、誰からも質問されないのに、とってつけたように「殺意はありませんでした」と、そこだけ「文章」でしかも「ですます体」で発言したことで「法的責任能力の認識は十分にある」と判断しました。

4) 刑罰が確定した今は、面会を求める気持ちを持ちません

多くの被害者と懇談すれば、犯人が収監されている刑務所を訪ねて「刑務所内で服役している犯人の姿を見たい」と言います。野津純一は医療刑務所で統合失調症の治療を受けていますが、私たちはその刑務所を訪問するつもりはありませんし、面会の希望を出すつもりもありません。野津純一には「裁判で決められた刑罰をきちんとやり遂げてもらいたい」と考えます。それが日本の国のルールです。私たちは公権力の行使の場に、個人の私情を持ち込むつもりはありません。国に完全に野津純一を管理してもらいたいと考えています。

5) 刑期満了後

現在の日本の制度であれば、懲役25年が確定している野津純一は刑期の3分の2の期間(16年8ヶ月)を過ぎれば仮釈放される可能性があり、満期である25年が過ぎれば自動的に釈放されて社会に出されます。野津純一は慢性鑑定不能型統合失調症ですので統合失調症が治癒して寛解することは期待できません。また反社会性人格障害を持っており、他人に危害を加える危険性が高い人物です。このような精神障害を持った人物は、欧米諸国では刑期が満了しても高度保安病院などの精神障害治療施設に強制的に収容して、一生涯の間社会の意思として隔離保護するのが通例です。私たちは日本でも、このような制度が導入される必要があると考えています。私たちは、野津純一が刑事罰を受けている間に、日本の制度が改正されるように活動する所存です。

6) 野津純一の家族

「野津さんとは話をしたことがありますか」という質問が、「野津純一の家族と話をしたことがありますか」という趣旨であれば「はい、話をしました」。野津純一の両親は私たちを訪問してきましたし、私たちの求めに応じて、手紙を書いてきて「いわき病院における、野地純一に対する治療の内容などの情報」や「野津純一の写真」などを送ってきました。

野津純一の両親は刑事裁判の途中で、自宅を売却した代金の1140万円の小切手を持ってきて、私たちに矢野真木人の生命の弁償をしようとしました。私たちは、金銭は受け取らないことを明確にした上で、「その金を、いわき病院に対する野津側の損害賠償請求民事裁判の資金にすること、また余剰があれば両親の生活維持と野津純一のために使うよう」に刑事裁判で私たちが行った意見陳述で発言しました。

現在、いわき病院と野津純一を被告として民事裁判を行っています。しかし私たちは野津純一の両親は被告であるとは考えていません。私たちは「野津純一の両親は、いわき病院の医療が十分でなかったために野津純一が放置されて殺人者になってしまったという意味で、いわき病院の医療ミスに対する損害賠償請求をすることができる理由がある」と考えています。そして私たちは「野津純一の両親に協力する用意があること」を、表明しています。

7) 誰が危険か

現在の日本の制度のままであれば、野津純一はいずれ釈放されて社会に出てきます。その頃には彼は50代半ばから62才までの年齢です。36才で殺人事件を犯すまでに、10代後半で放火をして、25才で病院に包丁を持ち込んで主治医を襲おうとして、30台前半では繁華街で通行人に殴りかかった経歴を持ちます。いわき病院では看護師にも襲いかかっていました。中1の3学期から不登校の彼は社会で生きる技量は何も持ちません。野津純一は「衣食住全てを自分で行う自由よりは、刑務所や精神科病棟などの環境の方が生きていける」と思うはずです。早く、その環境に戻ろうとするでしょう。その為に彼が行う行動で最も可能性があるのは、他人の生命に対する危害です。その時に最も危険であるのは、野津純一の家族です。次に高いのは病院のスタッフを襲う可能性です。また自由な外出が認められると矢野真木人を殺害したように不特定の他人に危害を加える可能性もあります。

「人間の善意を信用しなさい、他人の未来に殺人などという悪行を予想するあなた達は、悪い性分だ」などと非難しないでください。私たちは、息子を理不尽に殺された両親として発言します。野津純一は拘束から解放されて行動と居住の自由が与えられると、程なくして、新しい被害者を出すでしょう。野津純一に「人間として生きる人権を認めて、社会が保護する」と言うことは、「野津純一に行動の自由を与えないこと」なのです。それが野津純一の人権を守る、現実的でもっとも人間的な行為です。福田正人著「精神科の専門家をめざす、星和書店、P7」には次のように書かれています。
 「危険因子として、他害の既往、他害を示唆する言動、被害的内容の幻聴や妄想、などがある。他害の可能性が高いと考えられた場合には、薬物による鎮静・隔離・拘束などの必要性を速やかに判断する。被害を防ぐだけでなく、患者を社会的に守ることになる」
 刑期が満了した時の野津純一を慎重に診断して、精神科病院に収容することは、野津純一の人権を守る最も有効な手段であると予想します。社会が手をこまねいて何もしないことは、「日本は新たな人命の損失という最大の人権侵害が繰り返し発生することを容認する社会であり続ける」と言うことです。


Q3、裁判の勝ち負けにこだわるのは良くありません

(学生の意見)

お話ありがとうございます。確かに不明に思うところや納得いかない点は沢山あると思うのですが、裁判での「勝ち」「負け」と言いましたが、どうなれば満足するのですか。私は医療に、しかも精神障害者の患者様と関わる道を選んだ者なので深く否定することはできないし、簡単にあの人が憎いなどという言葉は発せられません。

1) 刑事裁判で裁判が終了したのではありません

野津純一に対する刑事裁判が行われている頃、私たちは不思議な女性から連絡を受けました。その方は「刑事裁判でいわき病院が起訴されなかったことは、いわき病院には責任が無いと当局が認めたことです。民事裁判でいわき病院を訴えようとしているあなた(矢野)は間違っています。あなた達のような素人が高級資格者の医師の責任を問うなどという行動を起こすものではありません。非常識です」と主張しました。私たちはこの方はいわき病院の関係者であったと考えています。この人に対して「野津純一の殺人行為に対する刑事罰と、いわき病院の医療問題は異なる問題であり、いわき病院の責任を明確にすることが殺人事件の本質に迫ることです」と対応しました。その方は大変立腹しておりましたが、刑事裁判が確定して以後連絡をいただいておりません。

2) 「野津純一が憎い」とは発言していません

私たちは、一回も「野津純一が憎い」もしくは「いわき病院が憎い」と発言したことはありません。私たちが一貫して発言していることは「これまでの常識という固定観念に縛られて、現状追認をする態度だけでは良くありません、変革も必要な時がありますよ」、また「自分たちの職能の都合を優先した視点だけで世の中を見ていると、大きな落とし穴がありますよ」、さらに「広く社会に通用する視点、日本人だけではなくて世界に通用する視点を持たないと、これからの社会ではいきてゆけませんよ」という発想の転換を、これから医療職に就くことを希望している若い学生さんに期待しているのです。

3) それはあなたの希望的観測です

私たちが発言もしない「野津純一が憎い」という発言を聞いたとするあなたは、私たちが現実に「野津純一が憎い、いわき病院が憎い、と発言して行動すること」を私たちに期待しているのです。そしてその方があなたにとって都合が良いのです。なぜならば「憎しみによる、矢野の単純で粗野な行動」として「病院医療という崇高で必要不可欠な社会活動を、矢野は感情に左右されて無茶な非難をしている」と反論できるからです。その上で、あなたの立場と職能は安泰なのです。

私たち夫婦が「憎しみに突き動かされて行動している」という趣旨の発言をするのはあなただけではありません。いわき病院との民事裁判でも、いわき病院側の代理人弁護士が文書の中で「原告側の問題点」として指摘しました。私たちは「私たちのこれまでの行動や発言のどこがそれに該当するのか、指摘してください」と言いましたが「いわき病院側からは、事実の提示」がありません。要するに、いわき病院は「矢野はそうであるに違いない」という予断で議論を進めて、自己弁護を企画したのです。

いわき病院は精神科病院です。あなたも精神障害者治療の専門家になると心に決めた方です。そのあなた達が自分の職能を守るために「他人が発言もしないし、意図もしないこと、を予断を持って非難する」行為を、心の治療の専門家であるあなたたちが行うところに、本質的な問題があると指摘しておきます。これはあなた達が持っている共通心理にひそむ大きな弱点です。

4) 裁判の「勝ち」「負け」と私たちの満足

私たちは矢野真木人の命を失いました。「まあまあ」で済ませれば、矢野真木人は生き返るのではありません。私たちは「私たちが最も望まない結論」を最初に突きつけられています。裁判の「勝ち」「負け」という結論にこだわらずに「これでいいじゃないか」と「水に流しなさい」と私たちに助言することは、「矢野真木人は死ぬのが当然でした。彼には死ぬだけの理由がありました。おとなしくすればあなた達は従順で善良な市民だと認めてあげますよ…」と私たちに言っているようなものです。

「判決という決着」を、私たちは「裁判の勝ち負け」と表現しました。矢野真木人の命が失われて民事裁判を提訴した私たちには、どんな形であれ、裁判の決着は必要なことです。また「裁判で決着させること」が社会の基本ルールです。確かに民事裁判では「判決によらずに、調停による決着という、判決を伴わない結論」があり得ます。しかし私たちは「いわき病院から賠償金という金子をせしめて、矢野真木人の命の代償とする事」を目的とはしていません。私たちはあくまでも、矢野真木人が死ぬに至った理由の背景にある日本の精神医療制度の問題と現場医療の問題にくさびを打ち込むことを目的としています。私たちが「裁判に勝った」と認識できるとすれば、何らかの形でその前向きの結論や効果を得られた時です。

あなたは「どうなれば満足するのですか」と聞くことで、私たちの意図を矮小化する作業をしています。「矢野さん、あなた達は、駄々をこねてますよね。(大人の私たちとしても)おつき合いするのはうんざりなのですよ。良い子だから、おとなしくしなさい」とでも言いたいようです。そう言う態度をとってみせることが、あなた達には都合が良いのです。ある意味では、これまでは精神障害が原因者となる社会問題に批判を許さないことで、その手法が有効であったことは確かです。しかしあなたが就職しようとしている精神医療界は批判が許されない聖域でも絶対の正義でもありません。私たちが何回も講義の中で指摘したように、「国際的に通用する人権を擁護する態度であるか、またそれを実践しているか」が問われています。


Q4、精神障害者から犯罪被害を受けた方たちへのアプローチ?

(学生の意見と質問)

  1. 今回の講義では、精神障害者の犯罪でどのような処分が行われているか、また社会の現状についてわかりました。そして子供を亡くしてしまった母親がどのような気持ちでいるのか分かりました。また自助グループは大切だと、私は考えました。なぜなら、同じではないが、似たような心の傷を持った者同士が支え合いお互いの意見を交換することは良いことだと考えるからです。
  2. 刑法39条については見直す必要があると思いました。精神障害者だからと言って、不起訴になるのはおかしいと思います。殺された人の家族の気持ちを考えると、不起訴にはできないと、私は考えました。その他にも、精神障害者の家族は殺されても仕方がないというのはあってはならないと考えました。
  3. お聞きしたいのですが、矢野さんたちは、他の精神障害者に子供を殺された人たちに今後どのようなアプローチをしたいとお考えですか。

1) 自助グループ

私たちは自助グループを開設したばかりです。四国では愛媛県、香川県および高知県に被害者支援センターが開設されていますが、これまでどの県でも被害者の自助グループは結成されていません。その意味では私たちの事例が、四国では最初となります。

私たちはとりあえず、犯罪であれ、交通事故であれ、災害であれ、「不慮の死や理不尽な死」を家族に抱えている方たちに呼びかけて、参加を求めています。それは原因は異なっていても、家族を突然、むごい死に方で失った経験は同じであるからです。まずそのような経験を持つ人々が核になって集まって、それから他の被害の経験者にも活動の輪を拡大する可能性を探ってゆくつもりです。

自助グループが集まることで、不慮の死や理不尽な死の背景にある、社会的な課題も見えてくるのではないかと考えています。私たちは耐え難い不幸を経験した者として、社会に対して、改善の方向性を提言できるのではないかとも考えています。

2) 子供を殺されること

人間は誰でもやがて死にます。また家族の死は誰もが経験することです。祖父母が死に、父母が死ぬという順番でも、家族に死に別れるのは悲しいことです。私たち夫婦はそれぞれの父親と死に別れています。父親が死んだ時には、「やがては自分の順番がやがて来る」と言うような、定めを感じたものです。

ところが「順番を飛び越えた子供の死」は、親にとって耐え難いものです。また子供の死は、子供が子供を産むという、未来への継承の機会を奪い去るもので、家系の維持と継続性などに大きな打撃となります。亡くなった者は生き還りません。薄暗い夜などに、息子が生きているような気配を感じます。また同世代の人たちを見ると「生きていれば・・同じように活動しているはずなのに・・」と思うものなのです。

昔の人は子沢山でした。沢山の子供を産んで、その中の何人かは幼児の頃に死ぬことが普通でした。また社会には危険が多く、事故や戦乱で元気な若者の命が失われることも頻繁でした。しかし親が子供を失って落胆する心は、子供の数の多さや、常に周りの危険が大きいからとして、逆に軽く感じるのではありません。一人一人の子供を失った親の心、特に母親の心の衝撃は大きなものです。私たちは昔物語の中に、狂乱した老婆の姿が沢山描かれていることに、昔のことだから、と考えていたと思います。しかし、現在でも、子供を失った母親は、自分自身が狂乱しないように、必死で耐えているのです。その事を理解してください。

3) 精神障害者犯罪の被害者

私たちは、今後精神障害者犯罪の中でも、特に殺人犯罪の被害者とは連絡を取り合って、活動したいと考えています。しかしこれは「言うに易いが、行うに難し」です。精神障害者の犯罪はほとんど報道されません。また被害者の名前が公表されることも稀です。警察や報道機関に問い合わせても、被害者がどこに存在しているかの情報は与えてくれません。

私たちは、とりあえず、被害全般の自助グループを形成しました。長期的には、精神障害者の殺人被害者が集まったグループの形成は必要だと考えています。これは努力目標です。


Q5、日本の人権は自由をイメージしている

(学生の意見)

  1. 刑法39条は改正することができないのですか。この法律のままだと、健常者が精神病の振りをして殺人を犯し、無罪や罪の軽減をすることができるのではないでしょうか。

  2. 今日初めて統合失調症という言葉を知りました。殺人をしても無罪になったり罪が軽減されるのでしたら、その病気とちゃんと向き合えないと考えます。出所して社会復帰すべきではなくて、矢野さんが話したスペインの事例(参考:CAC医療技術専門学校特別講義、4、ブランカ・アラマナク医師の講義)のように、懲役刑が満期になった後でも施設で治療するべきだと思います。日本ではこれはたぶん人権問題となるのだと思います。日本の人権と言う言葉は自由をイメージするところがあるからです。

1)刑法39条の悪用

刑法39条が悪用されているのではないだろうかという疑問は私たちも持っています。しかし、これを事例を出して証明する事は困難です。現時点では、刑法39条が運用されている状況下では、その危険性が極めて高いと考えられると指摘できる程度です。

なお、全国的に大きな話題となったような殺人事件の後で、弁護士が出現して「実は、精神科に通院歴があるので、精神障害であり、心神喪失だ」というような弁論意見を安易に持ち出す傾向があります。「このような一般的な弁護士の姿勢を利用する健常な精神を持った殺人犯罪者はいないと考えることはできない」と考えるべきでしょう。

2)日本の人権論は国際的には信用されていません

この学生さんは「日本の人権と言う言葉は自由をイメージする」と言っています。この学生さんは「日本で実現している自由の現状は素晴らしい」というような認識を持っているように思われます。しかしこの「自由のイメージ」が国際社会の中でどれだけの説得力を持ち、自由と人権の危機に対して粘り腰を持った行動の源泉になるか、私どもは不安を覚えます。自由は、「国家という権力機関をつくる中で、国民の人権が国家権力との関係で保障されているか否か」の問題です。また「権力者の理不尽な要求に従って他人の自由や人権を侵害しない」という制限則です。更には今日の世界では、「地球社会の中で、異民族や異文化を尊重して多民族が共存する」ための基本ルールでもあります。そのような視点があるために、国際社会の中で「自由をイメージで捕らえる日本人は無責任で、本質的に自由を守る意思や責任を持たない」と批判されることにもなります。残念なことですが、日本人は「日本には自由がある、世界でもまれにみる自由な社会だ」と言いますが、他民族や他の国々からはまるで信用されていません。

自由と人権の問題は、遠くの政治の問題だけではありません。精神科病院内にもあります。精神科病棟で患者に対して人権侵害が発生しても、目撃していながら、病院長が怖いし、自分の職能にはその方が都合が良いから黙る、また改善を目指さない、という行動様式などにも現れています。この問題は日本の精神科医療が世界から批判されている点です。それが「日本の人権と言う言葉は自由をイメージする」という言葉の背景にある日本人の弱点だと考えます。イメージは確信に裏付けられた主義でも主張でもありません。「移ろいゆく夢のはかなさ」のようなものだと考えます。

私たちは国際社会に通用する自由権の擁護という視点で、いわき病院の精神障害治療の本質的な問題点を指摘しています。


Q6、学生の賛辞

1) 今日は、貴重なお話をありがとうございました

  1. 自分にとって大切な人、愛する人が急にこの世からいなくなることは考えられないし、信じられないと思います。昨日まで隣にいた人がいなくなると考えただけでも恐ろしくなります。よくテレビや新聞で聞く事件には「精神障害者」という言葉が出てきていた気がします。
  2. 私は前から「なぜ人を殺しても精神障害者なら罪が問われないのか?」と疑問を持っていました。これはとてもおかしいことだと思います。人を殺すことは絶対してはいけないことです。人は生まれてきて、誰もが生きる権利を持っています。それを奪うことは絶対に許せないことです。「精神障害者だから仕方がない」また「精神障害者だからどうしようもない」というのはただの言い訳にしか聞こえません。
  3. 私は将来作業療法士になって人と真正面から向き合って、患者さんに笑顔と元気を与えるという夢があります。今日、矢野先生のお話を聞いて、私のなりたい仕事は、私が思っている以上に大切なものだと言うことを思いました。人の命をあずかって、とても責任を持たなければならない仕事だと思いました。このような事件が起こらない世の中になるといいなと思います。本日は、本当にありがとうございました。

2) テレビで見ました

  1. 今日の講義を聞き、矢野さんが味わってきた悲しみや怒りがよく伝わってきました。私がこの学校に入った時は、このような事情があるとは知りませんでした。矢野さんのこともテレビで何度か見たことはありましたが、それも漠然としたものでしかありませんでした。それだけに今日の講義は私にとって非常に大きな経験となりました。まだ学校に入って間もないので、正直何も分からない状況でした。しかしそれでも矢野さんが言ったように、私もこのままではいけないと思いました。
  2. 刑法39条はあまりにも被害者の事を考えていないように感じました。今日いただいたプリントに書かれてあったように「多少の犠牲は仕方がない」というような考えでは何も変わらないと思いました。確かに患者さんも病気になりたくてなったわけでは無いはずです。だからといって、減刑したり、無罪にしてしまうのもおかしいと考えました。これは今の日本の大きな課題の一つだと私は思いました。それを自分なりの考えとして、これからの授業や実習に取り組むべきだと考えました。
  3. 今日の講義は自分の中で、作業療法士とは何かを考えることができるいい機会となりました。

3) 私は、今日の講義で初めて「刑法39条」を知りました。

  1. 今日のお話で、「医療技術の進歩により、精神疾患があっても、薬などによりほとんどの時間は心神喪失状態ではない」という事を知りました。どこからが「心神喪失」と「心神耗弱」に当てはまるのか、具体的に「喪失」と「耗弱」の違いは何なのかなどを勉強してゆきたいと考えます。
  2. 統合失調症についても、具体的にどのような病気なのか興味を持ちました。野津は事件後に「やってしまった。人生終わった。」などと言っていたり、100円ショップでは店内ではナイフを開包してない、またナイフを隠して駐車場を移動するなどの行動からして、私は十分に判断力があったと思います。なのになぜ、彼は「刑法39条」に当てはまるのか、理不尽すぎると思います。
  3. 私は医療人になろうとしている身として、患者の訴えの重要さ、「記録」の重要さを感じました。

4) 作業療法士として

  1. この事件は未然に防ぐことができたと思います。医療スタッフはどんなことでも敏感に反応して患者に接するべきだと思いました。もし自分が作業療法士になったら患者の変化に気付き直ぐに対応したいです。
  2. 精神障害者の犯罪は罪にならないという法律は変えるべきだと思います。今回の被告のように意思があって殺害した場合、刑事責任をとることはできると思うからです。昔からの法律の運用にとらわれず、改善してゆくことも必要だと思います。その為にも、もっと日本の人が精神障害者の犯罪について知り、考えてゆくべきだと思います。

5) 地球社会に通用する

  1. 日本だけでなく、世界でも多くの事件が起きていますが、自分の周りでは未だ大きな事件というものは起きていないので、今回矢野さんの講演を聴くことで他人事ではなく、身近に考えなければならないと感じました。
  2. 今回、講演を聴かせていただき、今後作業療法士を目指す自分にとって直接的ではないけれど、どう過ごしてゆくべきか甘い考えを捨てなければならないと、思い知らされました。直接生命に関わる看護師とは違うけれど作業療法士のあり方、意義というものを見つけていこうと思う私にとって、今日の矢野さんの講演はとても大切なものになりました。
  3. これから色んな事を勉強してゆくことになりますが、矢野さんの言葉「地球社会に通用する・・」を頭に置いて、これからの糧にしてゆきたいと思います。貴重なお話、ありがとうございました。

6) 犯罪被害者の立場から医療を見直す

  1. 今日、矢野さんのお話を聞いて、犯罪被害者(遺族)の立場から、今の医療の現状は見直してゆかなければならないことが沢山あって、それを正しい方向に持って行くために矢野さんたちは戦っているのだと感じました。
  2. 話を聞いて、いわき病院の安易な現状に正直落胆させられました。今回の事件を発生させたのは病院に原因があると感じました。私も学校に入って、様々な本や友人の看護師などに話を聞くのですが、精神患者の人は様々な障害を心に持ち、とても敏感な人たちだと思います。そのような人たちをいわき病院の医師は見た目だけなどで判断することに問題があると思います。
  3. 精神患者だからこそもっと身近に些細なことでも、感じとれる病院体制を取るべきだと思いました。これから、医療従事者になる上で、矢野さんがお話しされたことを胸に学んでいきたいです。

7) 理不尽と戦う

  1. 世間のニュースなどでも、信じられないような殺人事件、傷害事件を聞き、その度に「精神鑑定」の言葉と共に、本来事件を起こした人間が罪を償うべきであるにもかかわらず「精神病」ということで罪が軽くなったりすることに理不尽さを感じていました。
  2. 今回のお話を聞き、事件事故というものは他人事ではなく、自分の近くで起こってもおかしくない話であり、いかに自分が無頓着であったか改めて考えました。矢野さんの話を聞き、世の中の理不尽さと戦うことはとても大切なことであると同時にとても大変で困難なことと分かりました。
  3. 裁判頑張ってください。世の中が変わっていくことを心から祈ると同時に、自分ができることは何なのか、今から考えていきたいと思います。

8) 精神障害による刑罰の免除?

  1. 本日は貴重な講義をありがとうございました。メディアでは「精神障害により刑罰の免除」という事件が数多く見られます。私自身「しっかり行動もとれているし、言語も内容についてはおかしな部分はあるけれどしっかり会話ができているのに、どうして罪が免除されるのだろう?」と考えていましたが、矢野先生の講義を聴いて心を打たれました。確かに、いわき病院は職務の怠慢やミスなどが多くありました。しかもそれを隠そうとする行為は、断じて許されるものではありません。
  2. 医療に従事する者は、誇りと責任をも負うべきだと考えます。今日の講義を聴いて、改めて現在の医療システムの問題点、被害者に与えられた心身の痛みなどを理解することができました。表面上はきちんとした医療体制をとっていても、中味を見ればずさんな管理体制、投薬、診察を行っている病院が存在しており、同じ医療界に進む者としては絶対のこんな事はあってはならないと思いました。

9) 事件の裏側にある医療の問題

  1. 今日の講義ありがとうございました。矢野先生の話を聞き、医療の普段見えない部分、またニュースなどでは加害者側の情報が多く、被害者側の思いなどを知ることができませんでした。医療の世界を目指している私たちにとって驚きの気持ちで一杯でした。
  2. なんでもかんでも精神障害者の事件を刑法39条ですましてしまうというのは問題があると思います。今回の矢野先生の取り組みのように、事件の裏側にある医療の問題を知ることで向上していくと思います。

10) 将来、作業療法士になります

  1. 本日は、忙しい中、本当にありがとうございました。話を聞いていると、やっぱり親にとって子供は宝物なのだと思いました。今現在病院と戦っている矢野さんはすごいと思います。病院としては自分たちの間違いを認めたくないので嘘をついていますが、私が作業療法士になって、もしそう言うことがあったとき、医師から、こういう風に発言しなさいと言われたときに、どうするだろうかとすごく考えさせられました。
  2. 精神障害者だからと言って罪に問わないというのはやはりだめだと思います。精神障害者だからとか、健常者とかにかかわらず、悪いことをした人はそれなりの罰を受けるべきだと思います。

最後に

愛媛医療専門大学校の学生さんありがとうございました。講義中、皆さんが熱心に聞いてくださったことに感銘しました。また沢山のご意見ありがとうございました。皆さんが将来日本の精神医療を支えるようになることを心から期待しています。



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