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いわき病院事件中間報告
精神障害者と精神科病院の社会責任


平成19年7月8日
矢野 啓司
矢野 千恵

関西学院大学社会福祉学部から精神障害者の犯罪に関してゼミを行うとして質問を受けました。これを受けていわき病院事件のこれまでの経緯を整理要約する中間報告として書き起こしました。これまで私どもは名称はそのまま記述してきましたし、今後も継続するつもりです。しかしながら以下の質問と回答では、当初の目的は大学のゼミの資料とするという性格がありましたので、あえて個人名はイニシアルで記述しました。

 

質問1、

  真木人さんが被害に遭ったことを矢野さん本人が知ったときに何を思いましたか?
  そのときの気持ちと現在の気持ちに違いはありますか?
  あるとすればどのようなことでしょうか?

(その時)
  真木人の死は会議の途中で警察官が突然訪問してきて「心肺停止の状況です」という言葉で伝えられました。その時の私(矢野啓司)の気持ちは「死んだ」とは言わないので、「未だ、生きているに違いない、きっと担ぎ込まれた救急病院で、すでに蘇生しているはずだ」でした。しかし連れて行かれた救急病院で何の処置もされずにベッドの上に置かれていた真木人を見て私は「真木人は波羅褐諦(はらぎゃーてい=死んだ)した」と悟りました。映画やテレビでは「真木人に取りすがり、真木人の身体を揺すって、大泣きをする場面」ですが、茫然自失で気が抜けたような状況でした。

(とまどい)
  私から事情聴取した警察官は「凶器は万能包丁で、一刺しでした。普通は、抵抗するので刺し傷や打ち身など沢山の傷が残りますが、傷口は一カ所で争った様子が全くありません」と言いました。このため私は「(ゴルゴ13のような)熟練したプロの殺し屋に狙われた」ような、殺人を遂行する強い意志と技量といった薄気味悪いものを感じました。真木人は他人との争いは好みません、ましてや真木人が自ら暴力行為に巻き込まれるような軽率な対応をするとは考えられません。事情聴取した警察官は、「父親のあなたは経営者ですので、仕事関係で誰かに恨まれていませんか。仕事の恨みの仕返しではありませんか」と聞かれました。しかし、思い当たる原因は何もありません。

(般若心経)
  その当時、私は般若心経の翻訳について考えおり、書店で見るあまたの心訳本よりは良いものを書き上げたと自負していました。日本では般若心経は玄奘三蔵の漢語訳が基本ですが、私はサンスクリット語からの翻訳にもトライしてみようと考えていました。漢語訳には湿潤な気候の雰囲気を感じましたが、サンスクリット語の般若心経からは乾燥した砂漠地帯で生きる人間の厳しい現実を踏まえた哲学のような要素を感じ始めていました。その時に、真木人殺害に接し、お釈迦様が私に「矢野君、君は未熟者だよ・・」と言われたような、衝撃を感じました。

(親の責任を果たすには)
  真木人が精神障害者に殺害されたという事実は、真木人が殺害されて2日後の12月8日の朝に合同で申し込まれた記者会見の事前質問状にあった記載で知りました。正直言って私は「精神障害者は罪に問われないことがほとんど」という以上の知識は持っていませんでした。同じ日にテレビ放送されたビデオを見ると私は「父親として、ただ悔しい、残念だでは責任が果たせない。父親としては頭を冷やして、何を成すべきか考えなければならない」と発言していました。

  12月9日の葬儀後の深夜に、ある全国紙の記者が尋ねてきて「これからどうしますか」という質問を受けました。私たちは「人が殺害された事実はあるが、精神障害者を無罪とすることにも社会的な合理的理由があるはずだ。闇雲に、私たちは被害者だと言っても、社会には通用しないだろう。しかし、人が死んでも社会的な責任を追及することができないでは、正義に反すると考える。いずれにしても、被害者遺族としてどのような対抗策を取るかは、熟考しなければならない」と言いました。その新聞社は人権擁護で先陣を切っていると自らも自負して「人権派」として世評も高い新聞社でした。記者はその夜「通り魔殺人という人命損失は許せないので、今後とも積極的に取材します。頑張ってください」と言って帰りました。しかし、上の方から、精神障害者の事件を理由にして、取材ストップがかかったようでした。その後はその記者本人の正義感は、社命に縛られて動きを制止されたことは明白でした。この新聞社の対応を見て、私たちは精神障害者が起こした殺人事件に対する、世の中の障壁の高さと理不尽さを身を以て感じました。ある意味では、事件直後のこの新聞社の手の平を返した対応ぶりが、私たちが「許してはならない」という決意を固める、最初の反面教師となったのです。

(反撃のための戦略)
  刑法39条で規定された「心神喪失者は罪を問わない」は巨大な障害として見えてきました。相談した弁護士は誰も「精神障害者による殺人ですか、お気の毒ですが、対抗策はありません」と取り合ってくれません。しかし一人の弁護士が「仕事は引き受けられませんが、この事件が世の中の話題になるようにすれば、状況は変わるかも知れません。あなた達の頑張りいかんです」と教えてくれました。これは、私たちがその後の方向性を決める際に大きな指針となりました。それで私たちは「泣き寝入りしない」、また「報道被害にあったとは決して言わない。むしろ、積極的に報道取材には協力する」、そして「殺人する意思を持って殺人した犯人を、精神障害を理由に免罪するのは社会正義に反している」、さらに「病院が社会復帰のための訓練と称して外出させたのに、責任が問われないならば、この種の殺人事件が野放しになる」と主張し始めました。また、『凶刃』を急遽出版するなど、被害者としての意見を積極的に世の中に発信し続けることにしました。

(なみだ・ナミダ・涙)
  真木人が死んで、私は自動車の運転が危険になっています。運転に意識を集中していると、突然真木人の死の現実という認識が頭の中を独占して、涙が止まらなくなります。特にトンネルの中がいけません。
  妻は、私と一緒にいるのがつらい、と言います。その理由は、私がしょっちゅう「ため息をつく」からです。私は四六時中ため息ばかりついているようです。妻の心にも、真木人を失った喪失感が張り付いています。このため、私のため息を聞かされるのがつらいのです。私は私で、ため息をつかない努力をすることもできません。
  私たちは涙が止まりません。一日に一回は、いや、何回も目に涙があふれる状態になります。真木人を思いだしては、涙にむせぶのです。私自身は「男は涙など見せるものではない」と素直に信じていました。また自分の人生で「涙が止まらない状況」など考えも及びませんでした。しかし現実には逆らえません。真木人の死という事実は私たちの心にへばりついています。一日に何回も「真木人・・・」と泣いてしまいます。

(若死にする定めであったのであれば・・)
  父親である私は、真木人の頭脳を訓練することだけに関心がありました。その為、彼が得意でない分野をねらい打ちにして多方面の分野で脳の訓練を若い間に行うようにし向けてきました。真木人は理数科が得意で、特に数学的な頭の冴えは素晴らしいものでした。本人はどんなにか数学的な世界に没頭したかったか、それを希望していることを知っていました。しかし、私は「中年以降になれば、社会生活で役立つ。お前は小さいながらも経営者になるのだから」を理由にして、親の強制で、経済学部に進学させました。またこれからの社会生活や事業展開の場は日本ばかりではな

  真木人が死んでみれば、全ては幻想でした。ああ、若死にする定めであったのであれば、彼の好きにさせてやれば良かった・・・。長い長い教育期間をやっと終えて、親から独り立ちをする直前に命を絶たれてしまった真木人が不憫です。

  親としては、真木人が成し得なかった、真木人が生きたという意味を形にしてやりたいと考えます。真木人に残された、真木人でなければできない社会貢献とは「彼が死ぬに至った原因を本質から正す」ことでしかありません。彼の死には、日本が解決できないで放置している社会問題があります。刑法39条や精神障害者と健常者の人権の問題は、矢野真木人が関心を持っていた課題ではありません。しかし、彼はそれが為に生命を失ったのです。「真木人の人生が意義のあるものであった」と後付でも良いから意味を与えるには、親である私たちには避けて通れない課題です。

(失われた未来)
  私が設立した会社は、個人経営の段階です。今の規模では、到底個人の資産や器量に依存する段階から、社会的な企業経営に体質転換するには小さすぎます。それでも、真木人が生きていれば、会社は彼が平均寿命で生きるであろう+50年の期待値を持てました。ところが、突然の真木人の死で矢野啓司の残存期待値の+20年で全てを始末しなければならなくなったのです。真木人の+50年とは、世代交代の期待値もありますので、現実には永遠に継続する時間です。ところが、生殖年齢を通り過ぎた私たちに残された20年とは、再び後継者が生まれることがない終わりのある時間です。この時間の断絶の問題は、私たちの残る人生に重くのしかかりつつあります。

 

質問2、

  加害者が精神障害者ということで刑が軽減されるかもしれないと知ったとき、
  どのように感じましたか?

(刑法39条が大手を振る社会の衝撃)
  「統合失調症の患者は、病気になることで天使になったのだから、殺されたあなたの息子のことは忘れなさい」、「統合失調症の患者さんは、病気になることで既に罰せられています。だから誰にも責任追及をしてはいけません」
  私たちは、この言葉を矢野真木人の葬儀の2—3日後に真木人が殺害された場所を現場確認に行って、矢野真木人が殺害された場所で、統合失調症の患者の社会参加や再就職支援活動を行っていると自称する方から直接言われました。
  それまで私たちは「刑法39条にも、法律制定の理由がある、そこには崇高な人類的な倫理と論理がある」と考えて、「私たちは被害者だ」と声高に主張することにためらいを感じていました。「被害者を主張することは、結果的に社会悪ではないのか、人倫に反するのではないか」と自問していたのです。しかし、息子が殺害されたその場所で「あなたの息子が死んだのは、仕方がないことだ、忘れなさい」と言われました。その言葉を発する相手から「自分は精神障害者に仕事を見つけてやるなど善行をしている。その為には(あなたの息子の)命の損失など、多少のことは仕方がない」と面と向かって言われているように感じて衝撃を受けました。そして「これではいけない。命が失われても、それを悲しんでいる親に向かって『通り魔殺人でも、殺した方に理がある』という主張が正当とされる社会は間違っている。そんな論理が大手を振る社会は間違っている」と憤りを覚えました。

(弁護士がいない)
  私たちは「殺人された矢野真木人は完全な被害者なので、弁護士は簡単に見つかる」と考えていました。ところが、それまで友人で頻繁に一緒に酒を酌み交わしていた弁護士から「矢野さんの裁判は、絶対負ける。裁判で負けるとわかっていても、社会に問題を問いかけるために提訴することは考えられる。しかし、友人としては精神的にも引き受けられない」と断られました。これは私たちの立場を理解した断り方でした。ある弁護士は、「精神障害者は殺人しても無罪と決まっている。無罪である事件で、殺人者Nと外出させていたI病院の責任として訴えようとするあなた方は間違っている。あなた方の依頼そのものが反社会的です。さっさとお帰りなさい」とまで言われました。このような態度は例外なくほぼ全ての弁護士の対応で、本人が犯罪被害者の救済を弁護士活動の理念としている方でも、まるで弱腰で「相手は、精神障害者ですか、これは難しい・・」と言って、仕事を引き受ける気持ちを見せませんでした。日本全国をさがしまわって、やっと仕事を引き受けてくれる弁護士を見つけました。しかし、その頃には私たちは「弁護士に頼らなくても自分たちでやれることは、自分たちで論陣を張り、証明してでも戦う」という気持ちになっていました。

(殺人が野放しになる)
  殺人者のNが入院していたI病院のW院長はNの主治医でした。ビデオを何回も回してW院長が記者会見した報道を分析すると「社会復帰のための訓練で許可した外出」と発言していました。「病院が訓練のために許可して外出させた患者が引き起こした殺人事件の責任は『精神障害者の社会復帰促進と人権擁護』という大義名分があるので病院には責任がない」と発言していました。これは大変なことです。このI病院W院長の発言は「おかしい」と取材した報道記者は誰も指摘していません。もし私たちが「それはおかしい。社会正義に反している」と発言しなかったら、また裁判で提訴しなかったら、病院が許可して外出させた精神障害者の殺人行為が野放しになります。

  「病院が許可して外出させた精神障害者が殺人しても、殺された方に落ち度がある」という論理は社会正義に反しています。このような論理が容認されて、それに対して「おかしい」という反応が出ない社会に日本は既になっています。それが異常な状態であると、人権を擁護する立場にあると自負するような人たちが気付いていません。日本の報道機関はそれが異常であると報道しません。むしろ「精神障害者に殺されても、泣き寝入りしてもしようがない、それが人権擁護だ」と追認する社会になっています。「統合失調症の患者は、病気になることで天使になったのだから、殺されたあなたの息子のことは忘れなさい」と、人権擁護者を自負して正々堂々と発言する社会はおかしいのです。それなのにこれまでの被害者は誰も有効に反論できていません。私たちは改めて「息子の悲劇で泣き崩れるわけにはいかない」と決心することになりました。

 

質問3、

  刑法39条(精神障害者ということで刑が軽減されるということ、
  場合によっては罪にならないということ)について、どのような考えを持っていますか?

(心神喪失者は不起訴になっても入院が強制されない??)
  私たちは精神障害者による殺人事件に関連した本を大量に買い込んで読みあさりました。すると殺人事件でも多くの精神障害の犯罪者は不起訴や逮捕されない事例が沢山あると記載されています。また驚くべきは心神喪失と認定されて不起訴となっても、移送された病院で「入院の必要がない」として通院ですまされたり、甚だしい場合には「通院や入院など治療の必要がない」とされる殺人者がいると書かれていました。また入院治療をすることになっても「短期間の治療で寛解した」として退院する事例がほとんどであるという記述です。心神喪失とはそんなに簡単に寛解する安易な精神の状態でしょうか。殺人をするような状況では誰でも異常なまでに興奮するはずです。そうであれば、ほとんど全ての殺人犯は「殺人を犯したその時の心神喪失」を主張できることになります。

  「その精神障害者は殺人事件を引き起こしたその時には心神喪失でした、しかし短期間の拘束を経て不起訴処分になって病院に送られた時には殺人した時からそれなりの時間が経過しているので、精神障害は寛解していた。従って入院や通院させる必要はない」このような論理がこの日本では通用しています。それは正しいでしょうか。人間はそんなに簡単に心神喪失になり、また寛解するのでしょうか。そこに心神喪失とされた人間の作為、社会的問題、医療的問題、さらには違法性や倫理観の欠如などの不正義が介在する余地はないと明言できるでしょうか。

(被害者と遺族の意見は無視して良い???)
  精神障害者の犯罪に関した書物の著者は医師や法律家や精神分析専門家たちです。そこには驚くべき記述がありました。「精神障害者による人身障害犯罪の被害者や遺族から意見を聴く必要はない」と言うのです。その理由は「被害者のほとんどは精神障害者の直近の家族や治療に関係していた回りの人たちである、したがって『身内の問題』であるので客観性に欠ける。また他人が被害者となる場合は、極めて少数事例であり、多くの場合に犯行前に事前のいきさつなどがあり、それは精神医学的問題ではない。さらに被害者や遺族は感情的になっており、論理的客観的な議論の対象にならない」と言うのです。「専門家だけが客観的な立場で問題の本質に迫る議論を行いえる」という立場です。

医師や法律の専門家だけが問題の本質を論理的また客観的に議論することができるという考え方、これは正しいでしょうか。このような立場と論理が日本では横行したからこそ「殺人事件でも裁判もせずに、不起訴にする」、「不起訴にされた精神障害者に治療の必要が無いとして、病院が放置する」、さらには「同一の精神障害者が、繰り返し殺人事件を引き起こす」などの現実が出来上がっているのではないでしょうか。社会問題を放置する専門家の立場とは何でしょうか。またそのような日本の専門家の立場と考え方は、世界に通用する論理、世界に誇れる人権擁護論でしょうか。

(殺人事件でも裁判をしないのは日本の非常識)
  週刊誌女性セブンは2006年2月23日号で、矢野真木人が殺害された事件を報道しましたが、その際インタビューされた元最高高検検事で白鴎大学法科大学院教授のT氏は「『罰しない』というのは、犯罪が成立しないこと。心神喪失の場合は、どれだけ多くの人を殺しても犯罪が成立しません。刑法39条がある以上、無罪になるとわかっている起訴を避ける検察の判断自体は妥当」と発言しています。この発言は正しいでしょうか。
  上記で問題として考えるべきは「無罪になるとわかっている起訴を避ける検察の判断自体は妥当」という発言です。ここには「殺人事件のような重大犯罪であっても、検察官が心神喪失であると判断すれば、起訴しなくて良い」という主張が述べられています。この主張は間違っています。これは法律に根拠がない、検察官の事務取り扱い上の職場ででき上がった単なる慣例です。そのような慣例からくる無作為は許されざるべきです。そもそも、世界中を見渡して、尊敬に足りる法治国家を自負する国家で、「検察官の判断で殺人事件であっても裁判を行わなくても合法である」と解釈している国は異例です。またそれが手続きとして許されることは人権を守る国の法制度ではありません。

  矢野真木人は平成17年12月6日に殺害されました。平成18年1—2月頃に、私たちを取材していた新聞記者が「高知市内で、連続放火事件があり、警察は犯人を逮捕したが、つじつまが合わないおかしな事を言うのでその場で放免したら、再度放火した」という事件があったと話してくれました。この連続放火という重大事件は数行で報道された程度でした。「無罪になるとわかっている起訴を避ける検察の判断は妥当」という考え方は際限なく広がります。これは現場の警察官が「無罪になるとわかっている逮捕を避ける警察官の判断は妥当」と言うことです。検察官の場合には「心神喪失という精神鑑定書が提出された」と言えば合理的であるようです。警察官の場合には「精神障害者手帳は心神喪失を意味している」と拡大解釈される慣例が出来上がっています。警察官が逮捕しなければ、犯罪統計にもカウントされません。これでは公共性がある事実認識をする根拠すら不正確でおかしくなります。これが日本の法治国家の現実です。裁判の場で「法的責任の有無」を議論しないで、実質的には「精神障害者だから心神喪失」であるという誤った慣例が自然発生的にできあがって、それが通用する社会に日本はなっているのです。これは法治国家の姿ではありません。

  そもそも、元最高高検検事であり法科大学院教授である弁護士養成に責任がある法律専門家の考え方が間違っています。これは法律家として国際的非常識です。法律家が率先して脱法行為をしています。そしてそのことに気がついていません。これは人権を守る信頼すべき法律家の考え方と実践ではありません。このような安易な考え方が実践されると、現場の慣例はどんどん拡大してゆきます。そしてそれが「法治国家」日本の現実を形作っています。日本はあまねく人類に信頼されるべき法治国家体制を実現していません。

 

質問4、

  今回の事件の加害者はどのような罰を受けるべきと矢野さん自身は考えていますか?

(殺人者Nには懲役25年が確定しています)
  犯人Nには懲役25年が確定しています。私たちは犯人Nは終身刑が妥当であると考えていますが、日本には終身刑の制度はありません。無期懲役は終身刑ではありませんが「Nを生涯拘束することが可能である」という理由で、無期懲役が望ましいと考えていました。刑事裁判では検察官は「無期懲役に相当する犯罪であるが、心神耗弱を認めて減刑して懲役30年を求刑する」と発言しました。これを受けた裁判官は「心神耗弱であるので30年の求刑を減刑して懲役25年に処する」と判決しました。私たちはそもそもNは心神耗弱であるとは考えません。また同一の裁判で検察官と裁判官を合わせて2回も心神耗弱を理由にして減刑されるのはおかしいと考えます。減刑の理由は一回で良いはずです。

  しかし懲役25年の判決に接した後で、無期懲役を目指す上告をしても実質上得られる意義が乏しいと判断して、懲役25年で納得することにしました。また上級審ではいわゆる人権派弁護士が乗り込んできて「裁判がいたずらに混乱する可能性が高い上に、懲役25年が短縮される可能性もある」とも予想しました。私たちは矢野真木人が殺害された事件の社会的な本質と重要な課題は「I病院の治療の怠慢と不作為および日本の精神科病院が心神喪失無罪を病院の責任のがれに使っている」ところにあると考えていました。このため早期に刑事裁判を終結して、「刑の確定」を足がかりにして民事裁判に精力を集中する戦略を採用しました。

(Nの前歴)
  通り魔殺人したNは、20年前の過去に自宅に放火して消火もせずに逃げたために近所まで類焼して3軒を消失させる大火事を起こした過去があります(この事件は当日の新聞やテレビでは報道されませんでしたし、Nの犯罪記録にもなっていません)。25才の時に香川大学病院に包丁を持ち込んで大騒ぎになりました。犬やニワトリの鳴き声がうるさいと言って、隣近所に怒鳴り込んだこともあります。数年前には香川県庁前の繁華街で通行人に殴りかかり、父親が相手を拝み倒して示談にして現金を支払って収めた経緯があります。しかしNの殺人事件は初犯です。刑事記録は初犯(なお、精神障害者は過去に殺人をしていても刑事記録上は容易に「初犯」となります)で、過去に殺人の前歴が無いNに懲役25年の刑罰が確定したのは、ある犯罪被害者の救済を専門としている弁護士の発言によれば「異例中の異例」です。そもそも法律と精神医療の専門家はだれも「Nに懲役25年の判決があり、それが第一審で確定する」とは予想すらしていませんでした。

  私たちはNに可能な限り長期の刑罰が判決されるように願っていました。また、懲役25年の判決があったとき、引き続き上級審で刑事裁判が継続されないことを願いました。これについては第3回公判で行われた私たちの意見陳述を読んでいただきたく存じます。
  http://www.rosetta.jp/kyojin/report1.html
  http://www.rosetta.jp/kyojin/chinjutsusyo_yanokeiji.html
  法律家の多くは法廷の仕事は弁護士の仕事であり、法律家でもない被害者ができることなど無い、とでも思っているようです。しかし私たちは与えられた機会を最大限に活用する乾坤一擲の努力をしました。懲役25年を第一審で確定したのは私たちの努力の成果です。ちなみに、私たちが上記の語りかけをしたからこそ、Nの両親と私たちは現在では「お互い立場を理解し合えるもの」が形成されています。

(Nの精神障害の本質)
  殺人者Nは間違いなく重症の統合失調症の患者です。Nは中学1年生の時に発病して、既に最初の診断でカルテに「統合失調症の疑い」と記述されています。しかしながら両親が「統合失調症=精神分裂」の診断名を嫌ったようで、主として強迫神経症など他の診断名で治療をする医療機関を転々と転院しながら現在まで経過しています。最後に入院していたI病院長が警察で証言した診断名は「強迫神経症」と「統合失調症」です。(なお多くの精神障害専門家は、I病院長のこの二重診断は間違いであると言います)。Nが起訴される前に2ヶ月近くをかけて行われた精神鑑定では「慢性鑑別不能型統合失調症」と「反社会性人格障害」と診断されています。

  鑑別不能型統合失調症とは、I病院が「強迫神経症」としてこだわった「緊張型」の症状や、「妄想型」の症状、それに思考荒廃が進んだ「破瓜型」の症状の全てを持った統合失調症の患者です。Nは既に20年以上の期間に渡り統合失調症を発病しており、慢性症状で、寛解して社会生活を行うのは極めて困難な患者です。現実にNは一人で公共交通機関を利用することができません。そもそもI病院がNに対して行っていた「社会復帰のための外出訓練」を行うことの妥当性も問題となります。I病院は現在のI病院が持っている医療水準では不可能な課題をNにさせていた可能性が極めて高いのです。

  Nは20年以上長期に渡り重度の統合失調症であり、おそらく現在の医療水準ではNは普通の人間として生活することを一生涯期待できないでしょう。これまで重症化の道をたどるだけであったNの精神障害の歴史を見れば、精神障害が寛解することはあり得ないでしょう。更に、Nは反社会性人格障害者です。この「反社会性人格障害」とは他人に苦しみや被害などを与えて被害者が苦しみ悩む様子を見て快感を覚えるような人格の障害です。この種の人格障害は「予防も治療も困難な素質という意味合いが強く、医学的に治療することはできない」とされています。従ってNが健全な市民として社会生活を送るという未来は期待できません。

(Nの敏捷性)
  Nは身長184センチ体重93キロの大男ですが、中学時代は卓球部の選手で、現在でも卓球は得意であるとI病院の遊技記録に記載されています。またI病院の料理教室記録には「包丁って意外と力がいるんですね」という発言と「力一杯で包丁を使って野菜を切っていた姿」が観察されています。敏捷なNが矢野真木人の姿を認め、絶好のターゲットとした後で、素早く真木人に接近して、力一杯包丁を突き刺した姿が想像されます。Nが突き刺した刃渡り15.5センチの包丁は、身長167センチで体重50キロの真木人のあばら骨を切断して、柄の部分まで18センチも脇腹に挿入され、心臓大動脈を切断しました。

(Nは故意犯として処罰された)
  Nが重症の統合失調症患者であることは自動的に心神喪失が認定されて免罪符が与えられる理由にはなりません。Nは平成17年12月6日にI病院から許可を得て外出するときに「だれでも良いから、・・、誰かを殺そう」と考えていました。ただ「I病院内で、事件を起こせば、お世話になった病院に迷惑がかかるから、外で人を殺そう」として外出しました。ショッピングセンターの100円ショップで万能包丁(先がとがった、大きな包丁を選択しました)を購入して料金をきちんと支払い、また店内で騒げば捕まると考えて人目が少ない場所を選んで100mほど駐車場を歩いて(その間に騒がず、他人に不信に思われないように抜き身の包丁を巧妙に隠していました)、自分の車に乗ろうとしていた矢野真木人の右胸を一刺しして心臓大動脈を切断して殺害しました。殺害後は、その場で異常な行動や騒ぐような行動をせず、人目を引きつけないように自らを制御した態度を維持して立ち去り、速やかにI病院の個室に帰りました。I病院に帰る道の途中で、Nは「ああやってもた。俺の人生おわってもた」と呟いています(以上、警察官調書)。病院では夕食を取らないので、病棟スタッフが声をかけた時にNは不用意に「警察がきたんか? 」と聞き返しています(民事裁判でI病院が事実であると認めた)。さらにNは翌日には犯行現場に出向いて、現場確認をしました。事情聴取を受けた時に警察官に「(今日も)I病院から許可を得て外出している。(殺人犯は)自分ではない」などと冷静な態度で応対しました。また警察官に促されて素直に警察車両に乗り込みました。

  上記のNの心の変遷をたどれば、Nには殺人を犯す意図があった、Nは殺人行為を綿密に企画して実行に移した、殺人行為をする前後の心の動揺を制御して他人に異常行動を悟られないだけの振る舞いを行い得た、殺人を行ったために自分の人生が以後変わることになると合理的に理解していた、警察に逮捕される自分を想像して隠れていた。この逮捕されるという自覚があるために夕食時に「警察がきたんか?」という言葉を自ら発している。しかし翌日になっても警察に逮捕されないので、興味を持って再度現場を訪問した。そして警察官に冷静に対応した。このような一連の行動から、意識の持続性と継続性および安定性があることが証明されます。すなわち、Nは重症の統合失調症の患者ですが、犯行当時には意識は明瞭であり、心神喪失ではあり得なかったのです。そもそもこのような明確な意識の持続性を持っていたNに心神耗弱の精神鑑定を認定したことも、私たちは不満です。そこに「統合失調症であれば少なくとも心神耗弱でなければならないとする予断と思い込み」を感じるからです。しかし、私たちは敢えてこの点は争わないことにしました。それは「Nが故意犯として法廷の場で早期に処罰が確定すること」という社会実績の確定が優先されたからです。

  「弁護士の誰もが持っている『精神障害者であるので自動的に責任不存在』とする認識は安易にすぎる」という「常識を覆す判決を確定した」という実績を作り上げることが、この時点で私たちが確保できる最も大きな社会的成果であると考えました。それは私たちの発言を継続して次の成果を上げるための礎石となります。私たちにとってNの処罰は必要な事ですが、最大の目的ではありません。あくまでも精神障害者医療と普く市民の人権回復が私たちの究極の課題です。それに迫るための着実な第一歩です。

(医療刑務所)
  矢野真木人殺人犯人のNには懲役25年が確定しました。この判決を批判する人が地元の香川大学医学部精神科教官(ちなみにI病院のW院長は香川大学病院の精神科外来診察を毎週1回受け持っており、同僚の発言です)の中にいました。その精神科医師でもある教官はテレビの取材に応じて「精神鑑定書にも『精神障害の入院治療を要する』と書いてある。だから精神障害を治療するためには心神喪失でなければならない。したがって、心神耗弱とした鑑定書は間違っている」と発言しました。

  私たちが複数のルートから得た情報によれば、Nは現在医療刑務所で治療を受けています。従って「刑務所の中では精神障害の治療を受けられない」という事実はありません。この事実を元にすれば、そもそも「精神障害を治療するためには心神喪失でなければならない」という論理は成り立ちません。もちろん、刑務所の中と外では、医療の質が異なる可能性があります。刑務所の外であれば、Nが過去20年以上行ってきていたずらに症状を悪化させたような、ドクター・ショッピングが可能です。しかしNが自らの意思で治療する病院を自由に選べないことは、「入院治療のためにはNが心神喪失でなければならない」とする論理を合理化することにはなりません。

  これは医療の問題で、刑務所内でも最高の医療が達成されるように整備水準を高める事は可能です。日本では精神障害者に対する刑務所医療が諸外国と比較して整備水準が低いことは確かです。医療刑務所の精神科をより高水準に、また多様化して整備することが今後の課題であると指摘します。しかしながら皮肉なことですが、民事裁判を通して明らかになりつつあるI病院の治療の実態を考慮すれば、現在の水準では刑務所外の精神障害医療が必ずしも刑務所内の精神障害治療より優れているとは言い切れません。

  少なくともNは発病以来継続して徐々に精神症状が悪化していました。NのカルテからNには大量の薬剤が投与されていたことが明らかです。病院経営のために薬を過剰投与した可能性も考えられるところで、医原性の要素も指摘できるでしょう。私たちは刑事裁判の期間中ずっとNの状況を観察しました。Nが矢野真木人を殺害するそもそもの原因であったNの「医原性」パーキンソニズム(四肢の不随意運動、イライラ・ムズムズなど)は裁判の期間徐々に快方に向かっていると観察しました。「I病院では薬が大量に与えられていたために状態が悪化していたけれど、拘置所では必要最小限に制限されたために、薬原性の要素が高いと考えられるNの症状が改善していた」と推察されるところです。非常に残念な事ですが、日本では専門の精神科医療機関の治療で精神症状がかえって悪化することがあると考えられるところです。このことは精神医学書の中でも指摘されております。

(NとNの家族)
  Nに対して懲役25年の判決が確定しているため、I病院の責任を問う民事裁判を行う上で、Nが中学生の時に発病して以降の全ての医療カルテを私たちは見ることができました。そこにはNの両親や兄弟がNの精神障害と強迫性で反社会的な行動に悩み続けてきた歴史が記述されていました。Nが十代の頃には両親は病気が治癒して、学校に復帰して、まっとうな社会人になることを信じていたようです。学業を放棄したNが兄弟の勉学と進学の障害になっていたことも大きな問題でした。Nが20代になっても、両親はNの家庭内暴力や近隣との無益な争いなどにじっと耐えて、Nが社会的な評判を落とさないように願っていました。両親はNが問題を起こすたびに転居して、そのたびに資産を失いながら生き延びていました。ところが両親も年を取り体力が衰えてきました。近年のカルテの記述では、自分たちの老後の生活と他界した後のNの生活を心配するようになっています。Nの両親は、治癒することが期待できない精神障害を抱えたNの面倒を社会が放置して、常に両親が介護しなければならない現実に苦しめられていました。私たちの社会はNの両親と兄弟をNの脅威から守ってやらなければならないのです。

  Nには懲役25年が確定しました。日本の刑務所は優良な囚人の場合には刑期の3分の2が過ぎれば仮釈放をさせます。そうすると、Nの場合には早ければ17年後に54才で、また遅くても62才で刑期を満了して社会に出されることになります。Nには凶暴性がありますが、圧倒的な権力の前では従順です。このため「優良な受刑者」として刑期が短縮される可能性があります。しかしNの場合には現在の精神医療水準では、医療刑務所の治療であれ、外部の精神科医療機関の治療であれ、統合失調症が寛解することは期待できません。Nの両親は現在60代後半ですが、17年後には80代半ばで、25年後には生きていれば90才を超えています。その頃には、現実問題としてNの両親が出所したNを受け入れることは体力的にも経済的にも不可能です。そうするとNの兄弟がNの保護者となるのでしょうか。その時には60才前後であるはずのNの兄弟にとって、前科がある精神障害者のNを引き受けて面倒を見ることは不可能であるはずです。また兄弟であるからといって保護者になることを強制することは残酷です。それはNの兄弟もNと共に破滅しなさいと言うようなものです。

  Nが矢野真木人を殺害した後で警察から事情聴取を受けた、かつてNの主治医であった医師の証言として「Nは自分より若くて何の問題もなく社会生活をしている男性に襲いかかる傾向があり、今回の被害者像を聞いて思い当たる節があります」と警察供述書に陳述しています。私たちはこの記述を読んで「Nが10代の時に、兄弟間の確執があったのではないか?」と考えています。Nが健全に育っていた兄弟の進学問題の障害に一時期なっていた事実があります。このような背景があるために、将来釈放されたNの保護者に兄弟が指定されることは、Nの兄弟にとっては生命の脅威があるでしょう。その時に両親が他界しておれば、Nの攻撃性を他の方向に誘導できる人間は存在しないでしょう。

(Nの本音?)
  N本人が健常者と同じ条件で送る社会生活を望んでいるかと言えば、これも疑問です。NはI病院に入院した直後の平成16年10月21日に看護師を襲って、一時的に閉鎖病室に強制的に収容されました。ところが閉鎖病室収容処分が終わって、複数の患者を同じ病室に収容する開放病室に移動させようとした時に、Nは「閉鎖病室でも個室の方が良い」と頑強に抵抗して、隔離を目的とした閉鎖病室に自ら留まったのです。Nはより多くの自由を得て他人と一緒に生活するよりは、自由を制限して制裁のために使用される単独室の環境に留まることを望みました。おそらくNは刑期を満了した時にも同じような抵抗を示すでしょう。刑務所の外よりは、いつまでも安心していられて、生活の心配がない刑務所内の制限された生活を継続することをNは希望する筈です。N自身も、死刑は望まないものの「将来に不安がない無期懲役」を望んでいた筈です。また、Nの家族も決して口にしませんが、本音の部分ではNの一生涯を国が面倒を見ることを約束する「終身刑=無期懲役」を希望していたはずです。これが現在の日本でNとNの家族を守る最善の方法だったと考えます。

  皮肉な視点ですが、懲役25年が確定したことは実質的にNの勝訴です。犯行前のNはI病院から退院を迫られていました。N自身はI病院の特別室の個室に一生居続けていたかったのですが、退院教室に何回も出席させられて、殺人した1ヶ月後の翌年1月に退院することを迫られて、心理的には追いつめられていました。I病院もNが退院することを目指した治療スケジュールを導入していました。NのI病院の外での殺人行為は、実はNの必死の抵抗であった可能性があります。その結果Nは懲役25年となりましたので、とりあえずは1ヶ月後の退院が、25年後まで延期されたことになります。その意味で、懲役25年はNの勝訴で反社会性人格障害者としての勝利です。

  矢野真木人は生きて活動する機会を失って、永遠の闇の世界に閉じこめられました。その代償としてNは国家に保護されて安心して生きられる25年を獲得しました。これは私たち遺族にとって非常に悲しく、また厳しい現実です。

(Nの刑期満了)
  Nは殺人事件を起こす前には一人では公共交通機関を利用する事はできませんでした。既に20年以上精神障害を患って、親が同伴して送り迎えする通院生活を送ってきたので一人で社会で生活する技量が身に付いていません。そのNは20年余に及ぶ刑務所生活では出所後に独立して社会生活を全うできる技量が身につくはずもありません。
  Nが刑期を満了して釈放されて社会に放置されると、釈放後の短期間でNによる第2の殺人被害者が出る可能性が極めて高いでしょう。それはNに反社会性人格障害があり、これまでも凶暴性が無くなることは無かったからです。そもそも、日本で刑務所や精神科病院の措置入院の拘束から解かれた、過去に殺人や婦女暴行等の凶悪犯罪を犯した精神障害者が、釈放後極めて短期間の間に次の犠牲者を出し続けていて、社会として対策が立てられないことは、真に人権を守る社会を作り上げることにはなりません。

  Nの様な事例では、懲役25年の刑期を短縮して解放することはNの為にはなりません。むしろNは刑期を満了した後では諸外国の事例にあるような高度保安病院などに収容して、病院の中で人生を全うさせてやることが望まれます。Nの様な人間を社会に放置する事が人権擁護であるかのような誤った考え方が日本にはあります。諸外国では普通に機能しており、しかも常識である制度や機関や施設を整備せずに、安易に心神喪失を標榜して理不尽な人命損失を容認しながら人権擁護を主張することは誤っています。これは「天使であるとされる」Nのような人間のためにもなりません。Nには「自由よりも安心して生活ができる社会の庇護」が必要です。皮肉な論調かも知れませんが、Nには懲役刑終了後も引き続き「Nの勝利」を与えてやる必要があります。

 

質問5、

  現在の精神鑑定の曖昧さについてどのような考えを持っているのでしょうか?

(治療のためには心神喪失でなければならないは違法)
  香川大学医学部精神科医師は「Nに懲役25年が確定したこと」に関連したテレビの質問に応じて「精神障害を治療するためには心神喪失でなければならない」と発言しました。この医師は「現実にはNは心神喪失では無いと認めた上で、それでも精神障害の治療を目的として心神喪失と鑑定すべきであった」と主張しているのです。これは許されざるべき論理の逆転です。「心神喪失でもない者も、医療上の理由で、心神喪失と鑑定すべきだ」と発言しています。「心神喪失でもない者を、心神喪失と鑑定する」ことは事実に基づかない精神鑑定を実行することであり違法です。このような考え方がまかり通る日本の精神鑑定はゆがめられています。

(精神鑑定の目的は法的責任能力)
  犯罪を犯した精神障害者に対する精神鑑定の目的は法的責任能力の鑑定です。理由は極めて簡潔です。精神鑑定は刑法39条の規定に基づいて、「心神喪失である」か、「心神耗弱である」か、それとも「心神喪失でも心神耗弱でもない」か、を判定する法務上の鑑定作業であるからです。そこに刑法の範疇の外にある「治療のため」という医療の目的意識を持ち込むことが、そもそも精神鑑定作業の前提条件を曇らせています。法律の機能と目的を混同してはいけません。

  日本の精神鑑定は検察や警察から大学やその他医療機関で勤務する精神科医師に依頼されることが普通です。しかし医師にとっては、刑法39条の法的責任能力よりは、病気であるか否かが主要な関心です。このため、精神鑑定が「病気の状態」に左右されて、犯罪を犯した精神障害者が犯罪を犯したときの、刑法上有意な「故意の確認という視点」が疎かになるのです。日本で刑法39条を運用してきた慣例がこのような法律適用の上での曖昧さを許してきたのです。これは法治国家として怠慢です。

(精神鑑定専門家の必要性)
  Nの場合には起訴前精神鑑定は2ヶ月近くをかけて慎重に行われました。ところが、起訴前精神鑑定は別名簡易鑑定ともいわれています。現実には多くの場合30分程度の面接で、殺人者が精神障害者であるとして安易に「心神喪失」と鑑定されて不起訴とされていた事実と歴史があります。ある本には「臨床心理士が医師から精神鑑定をするように指示されて、短時間の面接で報告書を書いた。その臨床心理士は目の前の殺人者に感情移入して、『処罰されるのは可哀相』と思ったので、犯人の意思は明瞭であったけれど、ともかく統合失調症なので、心神喪失と書いて報告した。医師は、殺人者と一回も面接しないで、臨床心理士の報告書をそのまま、その医師の鑑定書に書き換えて提出した。殺人者はその鑑定書をもとにして、不起訴放免となった」と記述されていました。精神鑑定の現場におけるこのような安易な実態や無責任な運営は許されて良いのでしょうか。これは精神鑑定者の犯罪です。

  日本では早急に精神鑑定者の資格認定制度を確立する必要があります。精神鑑定者は精神科医師であればだれでも有資格者となるのではありません。そもそも刑法39条の規定に基づく行為を、刑法を学ぶことが必須条件となっていない医師免許に付帯している現実がおかしいのです。日本では制度がきちんと整備されておらず、制度に欠陥があります。
 また重大犯罪者の場合でも「検察官段階で不起訴とすることができる」とする慣例は改められなければなりません。公判という公開の社会手続きを省略するところから、「警察官が逮捕しない」、「精神鑑定医師が、本人と面接もしないで鑑定書を書き上げる」、「精神鑑定の内容が学会などで広く検定されて質の向上が組織的に行われない」などという情報が公開されてないが為の社会的不正義や不作為と怠慢が横行する結果になったのです。

(I病院の迷走)
  I病院との民事裁判では第5回公判でI病院は「精神鑑定は間違っている。病院長Wはそのように鑑定しない」と主張しました。私ども原告は精神科医師ではありませんし、精神障害者治療に関わった経験は皆無です。それでも「I院長のWさん、あなたの主張は間違っています。あなたは、臨床医師の立場で議論しているが、精神鑑定は法的責任能力の判定です」と指摘しました。
(参照: http://www.rosetta.jp/kyojin/report21.html)
  そもそもI病院長の問題は、日本の精神鑑定が信頼性に乏しいことを根拠にして、I病院の責任を回避しようとしている論点にあります。これは精神障害者の治療を業務目的としている機関としては極めて不真面目でまた不見識な態度です。

  I病院の証言では、刑事裁判のNに対する判決に基づいて、民事裁判を有利に進めることだけを期待して、Nに対する医師としての診断に関する証言をころころ180度変化させました。法律家の判断に左右されて医師としての見識に基づいて行うべきNの精神症状の診断が変化したのです。W医師は香川大学病院精神科で外来診察をしています。信頼すべき権威を持った大学病院の先生です。また精神障害者の社会復帰に関係する日本の学会の幹部です。精神障害者の社会参加制度の確立にW医師は責任を持っています。そのW医師の証言が医療的判断ではなくて、法律家の判断でころころ変化するのです。この辺りに、日本の精神医療の水準が見えています。

 

質問6、

  現在の日本における精神障害者に対する司法のあり方についてどのようなことを考えていますか?

(心神喪失者等医療観察法)
  I病院に対する民事訴訟ではI病院側から「心神喪失者等医療観察法が施行されている現在、Nに懲役25年の刑罰を課すのは不当である」という主張がありました。これは「懲役25年の刑罰が科された精神障害者は精神障害者ではないと法律で認定されたことになる、従って寛解困難なNの統合失調症の治療に成功したI病院は誉められるべきであり、非難される理由はない」と主張したけれど、現実のNは重い統合失調症であることは明白であり論理が腰砕けになった。それで、今度は「そもそも、心神喪失者等医療観察法がある以上は、精神障害者には積極的に心神喪失を認定して、不起訴もしくは無罪判決を出すべきであるのに、検察と裁判所はそうしなかった、けしからん」という論理に転換したと思われます。もしNに心神喪失が認定されて無罪にさえなっていたら、例え殺人事件を犯した人間であっても、法律的にはNは無罪無垢の人間と認定されます。そしてNの人権を守るために民事裁判ではNのカルテなどの個人情報は証拠として開示できないことになります。そうなれば、I病院の立場は強固だったはずです。だからこそ私たちは刑事裁判でNに対して有罪判決が早期に確定する事を望んだのです。これは私たちの戦略であり、それが有効に機能しているのです。

(心神喪失者等医療観察法の運用と家族の被害)
  私は今年(平成19年)2月に、東京で開催された心神喪失者等医療観察法の成立後1年半を経過したそれまでの法律の運用を評価する研究会に特別な機会を得て参加傍聴しました。そこで発表された事実は驚くべきでした。正確な数字は覚えていませんが、心神喪失者等医療観察法が適用されて裁判所から措置入院を指示されたはずの重大事件の犯人たちの一部しか実際には長期の措置入院という拘束を受けていませんでした。多くの犯罪者たちはきわめて短期間の入院で、通院に切り替えられていました。また病院に送られたけれど、病院の判断で通院だけで良しとされたり、全く通院の必要もないとされた重大事件を犯した「心神喪失者等」も多数いました。心神喪失者等医療観察法では裁判官も対象者の拘束解除には関与する手続きになっていますが、実際面の運用では法律が制定される前とそれ程実態は変わっていません。心神喪失者等医療観察法はまるで問題解決の方向性になく、「心神喪失でもない精神障害者」を「心神喪失等」として概念を拡大して安易に「刑法39条の心神喪失者」と認定する方向性を高め、ただ手続きを増やしただけの実態であるようです。

  上記の研究会における専門家の発表の中で「対象となる心神喪失者等による人身傷害被害者の多くは加害者の家族であるので、被害者の問題は重要ではありません」という発言がありましたが、これはとんでもないことです。「精神障害者の家族は傷つけられても、殺されても仕方がない。精神障害者の家族はそもそも救済する必要がない」と言っています。Nの両親はNが十代の時にはNの兄弟の身の回りを心配しました。Nは家庭内で家具を破壊するなどの暴行を再三にわたり行いました。客観的な状況ではNは両親を何回も傷つけたはずですが「両親ががんとして認めない、その場で服を脱かせるわけにもいかないので、証明できない」と検事から聞きました。

  「家族であるので、被害者の問題は重要ではない」とはこのような悲惨な事実に眼をつむることです。そこに本質的な人権侵害を容認する精神障害を治療する専門家の目の前の関心だけが優先された安易な態度があります。専門家として人権に対して正面から向き合っていないと指摘できます。Nは家族に脅威を与え続けた最後に、無関係な通行人である矢野真木人を通り魔殺人しました。「他人の被害者は実数としては少ないので、議論しない」とはこのような状況の悪化と社会的な影響に目を向けないことです。また「少数であれば、理不尽な殺人事件が発生しても仕方がないことだ」として、市民に対する殺人事件の発生を容認する態度である、と指摘できます。日本では法律家であれ、医療専門家であれ、個別事象を見てそれで良しとしています。日本人の人権という全体を見て、方向修正をする意識が乏しいと指摘できます。

(古代ローマ法の精神???)
  刑法39条には「心神喪失者の罪は問わない」と定められております。このために日本では「心神喪失者が健常者を殺害してもその原因が社会として究明されることが無く、罪に問われない心神喪失者の人権を守るという美名を標榜して、その一方で命を失われた健常者の人権が失われたことの対する制度的な反省を顧みない」という現実があります。憲法では国民全てに生存権が認められていますが、憲法で認められた生存権が否定されても、憲法の下位法律である刑法39条の規定がより強い立場を主張して、大手を振っています。これは司法の問題としても、異常です。日本では何故、全体を見ず、より基本的な規則を顧みないのでしょうか。上位の基本法の規定に従って、末端の法律の運用の実態を見直すことがなぜ困難なのでしょうか。

  私はある犯罪被害者救済活動をしている弁護士に「刑法39条は、古代ローマ法から継承している、由緒正しい人権擁護規定である。その刑法39条の精神を否定するかの如き論理を展開するあなたは本質的に人権を無視している。2000年継承された法律の歴史の重みを安易に考えてはいけない」と忠告されたことがあります。このことを、スペイン人の精神科医師であるブランカ・アラマナク氏に聞いたところ「自分の父親と兄はスペインで弁護士である。またスペインの法律体系は古代ローマ法に基づいた伝統あるものだ。父親に精神障害者の犯罪について聞いたけれど、スペインでは懲役25年が確定したら、最低でも25年は刑務所にいて、その後は生きている間はずっと精神病院から出されることはない。心神喪失無罪とは、『心神喪失と裁定された人間を、一生涯の間精神病院で拘束してはならない』という法律ではない。『心神喪失と認定されるには、必ずきちんと裁判の場で裁定されなければならない』し、一度『心神喪失と裁定されれば、その人間は刑事上の責任を負わさないとしても社会から隔離されなければなりません』。それが古代ローマ法に従ったスペインの法律です」という意見でした。日本では「古代ローマ法の精神」とか「国際的な常識」とか「国際的コンセンサス」とかの言葉が投げかけられると、法律専門家は思考停止してしまうようです。これは民事裁判を通して私たちが感じる日本の法律家の論理が脆弱であると感じるところです。

(心神喪失判断の信頼性と健常者に対する人権侵害)
  そもそも「精神障害者であれば心神喪失である」という前提や考え方は安易です。Nの事例が示すように、重度の統合失調症であっても事理弁識能力を失うことはほとんどありません。これまで日本では「犯行の時には心神喪失でしたが、時間が経過したので、現在では心神喪失ではありません」という弁明が許されました。しかしその人間が心神喪失と正常な精神の間を容易に移動するのであれば、その者はその精神の不安定さのためにいつでも容易に心神喪失に転換することも予想されます。裁判所の判決で心神喪失者とされて、移送されたその日や短期間の治療で寛解したとするような安易な刑法39条に関する制度運用は法治国家としての信頼性にもとります。悪意を持った詐病や作為などの可能性からあまりにも無防備であり、人権を守る観点からのフェイルセーフがありません。司法も精神医療も双方が市民の人命の損失という事実があるにもかかわらず安易に過ぎます。

  さらに憲法で認められた生存権が刑法39条が運用されることで実質的に侵害されているという事実は改められなければなりません。なぜならば、精神障害者も健常者も共に生きる権利があるからです。片方の権利擁護のためにもう片方の生存権が侵害される事を、社会が認めることは日本の人権意識の信頼性にもとります。そのようなことを許してきた日本の法曹界は「木を見て森を見ない、法律運用に明け暮れている」と非難されても仕方がないところがあります。

(裁判をする効用)
  日本で「刑法39条がある以上、無罪になるとわかっている起訴を避ける検察の判断自体は妥当」とする検察手続きは脱法行為であり訂正されなければなりません。これには法律の改正の必要はありません。最高検察庁が「重大犯罪の場合には、心神喪失の精神鑑定書の有無に関わらず、必ず起訴して裁判を行うこと」と全国の地方検察庁に通達すればすむことです。これを行わない検察当局は怠慢です。また殺人犯人を起訴もしないで、短時間の簡易精神検定で無罪放免することは、日本で国家が行なっている重大な人権侵害の事実の一項目であると認識すべきです。日本は殺人のような重大事件の容疑者は必ず裁判をするという慣行を確立しなければなりません。(ちなみに、ローマ法の伝統に則っているという、スペインではそれが確立されています)。

(裁判制度改革の効用)
  平成19年の裁判制度の改正で、「被害者の裁判参加制度」と「刑事裁判における損害賠償請求制度」が制定されました。これは非常に大きな改正点です。この制度改正をNが行った精神科病院に入院している精神障害者の殺人事件を例にすれば、病院のカルテなどの資料に対するアクセスが拡大するという利点があります。これまで病院が関係した裁判では、カルテなどの基本的な資料が病院により秘匿されたために民事裁判で提訴しても負けてきたという経緯があります。しかし刑事裁判の過程で、被害者が検察などの当局が収集した病院のカルテや警察の調査資料を閲覧する機会がより多く認められる可能性があり、被害者は病院を相手にして戦いやすくなるのです。おそらく損害賠償請求制度が運用される中で、病院などの組織的な不正がより多く暴かれることになるでしょう。

  精神障害者の犯罪に関した裁判事例で「その精神障害者は何回も許可による外出をしていたが、過去の外出で問題が無かった。従って、外出許可を出した病院には責任は問われない」という判例がありました。私たちはこれに接して「この事件を提訴した被害者は病院のカルテや看護記録を入手しないで裁判を戦ったにちがいない」と推察しました。私たちの裁判でも明らかにこの判例を意識したと思われるI病院の主張がありました。I病院は「Nは44回に及ぶ過去の外出では何も問題がなかったから、I病院に責任は存在しない」として44回の外出日を列記しました。私たちがその全ての日時をカルテと看護記録と照合して検討すると、親が送り迎えした帰宅や、親に連れられた耳鼻咽喉科などの他の病院を受診するための外出などで、Nが事件を起こした単独外出の記録ではありませんでした。
  真木人が殺害されたI病院が許可したNの単独外出に関しては、I病院はこれまで何の記録も安全性を証明する証拠も提出していません。このように「病院はまったく該当しない他の事実や事例を持ち出して安全性の証明と過失がないことの証拠にしている」可能性があります。これまでの裁判ではこのような正確な事実に基づかないことが証拠として認定されて、病院には責任がないと裁定されていた可能性が極めて高いのです。

  私たちは刑事裁判でNに懲役25年を確定させることで閲覧可能になった資料が無ければ、I病院とは対等な戦いを展開することはほとんど不可能でした。しかし、被害者の裁判参加制度と、刑事裁判に付帯する損害賠償請求制度が運用されることで、精神障害者が犯人である場合でも未決囚である段階で、治療を受けていた病院のカルテなどの資料を被害者や遺族が見ることが可能になると信じています。これによりこれまで日本で隠されてきた「理不尽な死の原因究明ができない」といった不幸が少しでも減少することになると考えます。これは日本における人権回復の大きな一歩であると期待しています。

 

質問7、

  精神障害者の開放治療についてどのように考えていますか。

(過去に戻してはならない)
  日本では精神障害者は、家族に管理の責任を持たせて、家族は座敷牢に閉じこめて一生外の世界に出る自由を奪うのが普通でした。また岩山の穴蔵に牢屋をつくって、精神障害者を閉じこめたりもしていました。第2次大戦後は民間の精神病院が大量に設立されて、医師が精神障害者だと診断した人間の自由を奪い、精神病院に一生収容することも普通に行われていました。このため多くのそれ程重症でなかったり、寛解していたり、甚だしい場合には精神障害と誤診された人間が理不尽に自由を奪われても、精神病院の拘束から逃れる術もないという悲惨な状況がありました。このような過去に戻してはなりません。

日本の精神科病院で、一人もしくは限られた少数の医師による診断で、人間の自由を奪い、それから回復する道もない状況は人権侵害そのものでした。医師の誤診があっても、患者の方から、他の病院に移転したり、また自主的に自由な外の世界に出ることも不可能でした。その上精神科病院では、患者の処遇が劣悪で、治療の名を借りて患者の虐待や、患者を下働きの労役に使用するなどの実態が横行していました。このような状況を日本の精神医学会は自らの反省と自らの力で改善することはできませんでした。日本のこのような状況が諸外国に報道されて初めて、日本国内でも「日本の恥」と認識されて、外圧で開放治療という改善の方向性が見えてきました。

  私たちが重要な課題として認識しなければならないのは、日本では人権侵害の事実があっても、人権侵害と真面目に向き合って、人間倫理の問題として改善する方策を、自らの力で導入することが極めて困難であるという事実です。日本では、専門家の論理が何よりも優先されるのです。その専門家の論理とは、往々の場合、人倫に基づいた専門家の論理ではなくて、専門集団のご都合主義や、責任転嫁、および経済的利益を優先するのです。また専門家集団が医師や弁護士などの自ら高級資格と自負している場合には、外部からの批判に対して「素人論、感情論」などと見下して問答無用に無視をする傾向があります。このような実態は改められなければなりません。

(現在の制度にも問題がある)
  精神障害者として入院治療を受けている者が、実際は寛解していたり、もしくは精神障害症状を呈していない場合にも、理不尽な拘束をされる危険性があります。特に、統合失調症の場合には本人に統合失調症の病識が無いという状況がありますので、「自分は病気でもないのに拘束された」という不満を持つ場合があります。この場合患者の家族などが統合失調症であるという事実を認めて、病院に入院治療を依頼する場合には、本人を説得して治療を行うことも可能です。

  ところが寛解した患者か、精神障害でない者が、感情や議論の行き違いその他で医師に精神症状を誤解される状況が発生して、ほぼ強制的に入院させられる状況が発生するとやっかいなことになります。この場合、入院のための患者の同意書はねつ造される可能性があります。例えば医師に誤って精神障害者であると決めつけられるような状況では、患者の立場から医師の錯誤として自らの精神障害の診断を覆すことはほとんど不可能です。また患者が病院の治療に不正があると主張する場合には、なおさらのこと退院の機会を失う可能性があります。精神科病院内に置かれている公衆電話には、患者救済センターへの電話番号が明記されています。しかし患者がそこに電話したら、センターから病院長に確認の電話があり、その為に当該の患者は外部から完全に隔離されてしまった、という情報を聞いたことがあります。日本では精神障害者の権利回復に精神科医師の都合が大きく左右するという現実的な運営が行われているようです。ごく一部であるとしても、「人権を抑圧された不幸な患者がいる」と伝聞されることは、日本の現在の精神病院入院制度に人権上の課題が依然として残されていると考えられるところです。

(日本の精神科病床数は多すぎ)
  少々古い統計ですが日本の人口1万人当たりの精神科病床数は1996年現在で29.0でした。これを諸外国と比較すれば1990年でアメリカ6.4、イングランド13.2、旧西ドイツで16.5でした。アメリカは1960年の40が6.4に、イングランドは1965年の30から13.2まで削減されています。日本でもイギリス並みの削減が行われるならば2分の1に、40床から抜本的に削減したアメリカ並みであれば4—5分の1程度まで削減する必要があります。日本では精神科病床数が多すぎます。

  日本では精神科病床数が多いから、きめ細かく、手厚い精神障害者治療が行われているとは言えません。日本の平均的な精神科病院当たり病床数は236です。I病院は病床数248ですので、典型的な日本の民間精神科病院です。このような日本の精神科病院は小規模資本であるため、高度で多様化した精神症状には対応困難であるのが実状です。日本では国全体で合計した精神科病床数は多いけれど、高機能精神科病院や、犯罪行為を繰り返し行う精神障害者を収容する高度保安病院などの施設が整備されていません。日本の精神障害者治療は機能分化が未成熟なのです。

(精神科病院改革の促進)
  日本の精神科病院が民間立であり規模が比較的小さいことの結果として、精神科病院の経営が最優先されて、医療経済の影響を強く受けて、このために入院治療に偏して経営的に不利益を被るような精神科救急や社会復帰などに積極的になれないなどの傾向があります。このような現状は改善される必要があります。日本の精神科病院が横並び体質で、どこの精神科でも同じような治療と同じような設備で運営されていますが、病院に専門性を持たせて機能分化を促進する必要があるでしょう。そのような専門化促進を行う中で、精神症状が軽い患者を中心として社会復帰や社会参加を飛躍的に促進する必要があるでしょう。このことにより、日本でも最低の基準として現在の病床数の半減は行われる必要があります。この実効性をあげるためには患者の社会復帰を促進する治療が行われなければなりません。

  I病院は重症の精神障害者であるNの社会復帰のための訓練を行っていましたが、Nのカルテ記録によれば、まるで訓練の効果がありませんでした。病床数の削減と患者の社会復帰の促進は、重度の精神障害で回復の見込みがない患者を闇雲に開放することを促進するものではありません。Nの様な場合には精神科病院施設の中で安心して生活できる体制を整えてやる必要があります。そこに病院の機能分化を促進する必要性があり、重度の精神障害者は社会が各種の認定基準の元に高度施設などに転院して、より高度な治療に移行する必要があるのです。

  日本で、一般の精神科病院に重度の精神障害者も措置入院させることが普通であるために、不必要な患者の理不尽な拘束がある一方で、強制的に入院させて治療すべき患者を本人の意思であるからとして退院させるような不作為が発生する危険性が高いと考えられます。これはどちらの場合でも日本の病院制度が未熟であることに起因すると指摘します。

 

質問8、

  現在民事裁判で病院を訴えていますが、病院には社会責任があるのでしょうか。

(開放治療は免罪符ではない)
  私たちがI病院を被告として民事裁判を提訴したことに関して、「I病院は精神障害者の開放治療を日本で率先して実行している。そのI病院の責任を追及することは日本の精神障害者を過去の悪癖である、精神病院に一生閉じ込めて自由を奪い去ることである」という反論がありました。また「I病院は地域の精神医療に貢献している。I病院の責任を認定して、I病院が経営破綻すれば、地域で生活している精神障害者が行き先を失う事になる」さらに「W医師に責任を認めると、精神科医師になることを希望する医学生が減少して、精神科が人材供給不足になることが懸念される」と主張されました。

  これらの主張は、不作為や過失や過誤を行った病院や医師の責任を免責する理由になるのでしょうか。明確な医師の過失と怠慢を示す証拠があるにもかかわらず、このようなことを理由にして医師の責任が問われないとするならば、日本で医療の改善を期待することは不可能になります。そもそも、精神障害者の開放治療をしていたら不作為や怠慢および不法行為も免責されるという論理はありません。身近で便利な地域医療を主張の根拠にするI病院は、病院と診療所の機能を混同しています。またI病院の専門性に対する認識不足が今回の殺人事件の遠因であると指摘します。更に医師の責任が重くなれば精神科医師の数が減少するという意見ですが、W医師のような怠慢と不作為を行うような医師には反省を求めます。精神科医師を目指す医学生には人権に対する心構えと、高度な医療技術を習得することが、より一層期待されます。この問題は日本の精神医療の質の向上をはかる人材をどのように養成するかという問題であり、I病院の責任が問われないことはいかなる必要条件でもありません。

  これはI病院の体制とW医師の責任に限定される問題ではありません。日本の精神医療がかかえる重大な問題です。しかし現在私たちが最も懸念していることは精神医学会がW医師個人の問題として私たちが提起している課題に背を向けることです。この問題は一人の病院長の不始末の問題ではありません。

(社会生活技能訓練の健全な発展)
  I病院長W医師は日本で精神障害者の社会復帰を促進するSST(社会生活技能訓練)協会の役員です。W医師は精神障害者の社会参加に指導的な役割を担っています。その医師が、「精神障害者の社会参加という大儀のためには、市民の人命が失われても、病院には一切の責任は無い、病院の責任を問うことそのものが間違いである」と主張しています。この論理が正しいとされるならば、日本で精神障害者の社会復帰が幅広い社会の信頼と支持を得ることはできないでしょう。W医師は責任重大です。

  精神障害者の社会復帰と社会参加は、異常なまでに肥大している日本の精神科病床数を削減して、精神科の病棟で理不尽に自由を制限されて、人間として社会生活を送る可能性の芽をつみ取られている可能性がある不幸な「患者」たちの解放を促進するための手段と目的でもあります。精神障害者が社会復帰して社会参加が実現するためには、精神障害者であれば刑法39条の規定に基づいて安易に「心神耗弱」や「心神喪失」が適用されて、責任が問われない現実は大きな障害です。なぜなら精神障害者が復帰する社会には刑法39条によって免責されない普通の市民が生活しています。また精神障害者が本来の意味で社会復帰すれば普通の市民になります。精神障害者の人権を守るために、普通の市民の生命というかけがえがない人権が侵害されても社会がそれをおかしいと認識しないことは大きな矛盾です。また病院に責任がないとする論理は、社会的正義に反します。

 

質問9、

  6年前に起きた付属池田小学校事件について何か思うことがあればお聞かせください。

(Tの本質と人権)
  この質問に接して、質問者は「大量無差別殺人者Tを避けている」と感じました。報道の態度にも問題があります。そもそも責任の所在を明記しないで隠すことは人権を擁護することになりません。日本には「個人名を秘匿することで人権を守っていると自分で納得するような人権擁護の姿勢が蔓延している」と懸念しています。Tが何者であるか、正面から向き合わないで、問題の本質に迫ることはできません。Tは殺人犯として死刑が確定して既に執行されました。Tの教訓を明確にするためにも、Tの個性が持つ社会として考えるべき普遍的な要素、を見つめ直す必要があると考えます。これは事実に向き合う姿勢の問題です。正確な事実に向き合うことで、人権は確立し擁護されると考えます。

  Tは精神障害者手帳を持った精神障害者でした。そのTは精神障害者であることは容易に心神喪失で免責されて逮捕されることがないと認識しており、そのように発言もしていました。このような「犯罪行為の免罪符を持っている」という考え方が日本で通用しているという事実がまちがいの基です。I病院は「精神障害者を治療している精神科病院は治療上の過誤や不作為があっても免責される」と主張していますが、同じ論理です。「無条件に法律義務を免責されるという特権が与えられている」と主張する、間違った社会認識があっても、それを正すことができない社会に日本はなっています。

  Tは付属池田小学校に「(エリートの)子供を大量無差別殺人しよう」という明確な故意を持って付属池田小学校に侵入しました。校庭で教師とあいましたが、その教師は異常性を察知せずに、校舎への進入を許しました。すなわちその時のTは感情と意思を制御する能力が十分にありました。Tは校舎の中で教室を回り、逃げまどう子供たちを冷酷に次々と刺殺してゆきました。この冷酷であることは、Tの精神の異常性を示すのではありません。Tが殺人行為を行っているという極度に興奮して精神の制御を失う可能性があるような状況にあっても、自らの精神を正確に制御し続けていたのです。Tは逮捕された後で、自分は「精神障害者だから罰せられない」とうそぶいています。Tは事件を起こした全過程で、自らの目的意識と行動する意思を制御する能力を維持していました。

  Tは地方裁判所の死刑判決後に「俺はキチガイではない」として「精神障害者として、上告して心神耗弱で罪の軽減を要求する道を放棄した」とされます。そして死刑が確定して執行されました。日本国内では、精神障害者であれば自動的に「心神喪失」でなければならない、少なくとも「心神耗弱」であるべきだ、と考える人たちが沢山います。このため刑法39条の規定が無視されたか、Tの人権が無視されたとする批判があります。私はTが統合失調症であったか否かについては争いません。しかし統合失調症であることは自動的に刑法39条が適用される理由にはなりません。刑事責任能力はあくまでも故意の存在が問題であり、病気であるか否かの問題ではありません。Tは目的意識を持って児童大量殺人を企画してそれを実行しました。この犯罪は死刑もしくは絶対に解放されることがない終身刑に相当する犯罪です。日本にはそもそも終身刑が存在しませんので、Tの場合は死刑でやむなしと考えます。

(反社会性人格障害の犯罪)
  Tは「精神障害者手帳を持っているから、犯罪行為を行っても罪に問われない」と自覚していました。そしてTは過去に違法行為を繰り返して、実際に罪に問われることから逃げていた経緯がありました。このような「他人が困ることをしても、自分は罪に問われない」として、繰り返して迷惑行為や違法行為を行う行動をするTは反社会性人格障害者です。ICD-10(WHO世界保健機構の精神と行動傷害の診断基準)では(F60.2:非社会性パーソナリティー障害)として記述され、「DSM-Ⅳ(アメリカ精神医学会の診断基準)にも(301.7:反社会性パーソナリティ障害)」として記載された精神障害の一種であることは確かです。このためTに精神障害が無いと主張することはできません。しかしこの反社会性人格障害を理由にして、Tの法的責任を免責する理由とするのは間違いです。

  反社会性人格障害は「自らの意思で他人や社会に対する迷惑行為や違法活動をして楽しむ」などという人格の障害です。このような人格障害では必ず故意が存在します。従って故意によらない犯罪ではありません。更に人格障害は予防も治療も困難な素質であり精神科病院では治療不可能であり、精神障害の治療の対象とはなりません。人格障害者の犯罪行為は、刑罰による強制的な矯正以外には行為を制御することはできません。従って、反社会性人格障害者は罰しないことが本人の為になるのではなく、厳しく処罰することが本人の為です。日本で反社会性人格障害を理由にして、刑法39条による刑罰の軽減や免責が議論されることがそもそも間違いです。これまで反社会性人格障害者にまで精神障害者であるとして心神喪失や心神耗弱が安易に適用されてきた経緯があるために、「殺しのライセンスを持っている」と誤解する人間の出現を許していたのです。犯罪者の作為を許しそれに無作為であるような社会は信頼することができません。

(TとKとN)
  Kは私の幼稚園と小学校1・2年生の時の同級生です。3年生の時に新しく設立されて、学習院をまねた制服で当時はエリート校と考えられていた小・中・高一貫教育の私立校に転校してゆきました。幼いときのKは可愛いハンサムボーイで、先生や大人たちに可愛がられていました。Kは駅前のたばこ屋の息子でしたが、外面を気にする見栄っ張りで、私には「エリートの僕と、田舎者の君」と言った態度でした。後年中学生や高校生の頃、私はKの母親の小さなたばこ屋の前を通る度に「あのころ」を思い出して「Kの人となりに違和感」を覚えたものです。

 奇遇にもKはTと前後して同じ大阪拘置所で処刑されました。長じたKは婦女暴行事件を起こして収監されていました。しかし子供の頃に大人の覚えが良かったKは看守の覚えも良かったようで、刑期が短縮されて郷里の高知に帰りました。しかし程なくして、女子銀行員をナンパして殺人して世間を騒がす大事件を起こして、過去の千葉における殺人事件も明らかになり死刑の判決が下されました。可哀相にこの被害者は、やさ男でハンサムなKに疑いを抱かなかったのでしょうか。子供の頃に私とKはいつもお姫様のように可愛かった少女と三人で一緒に遊んでいました。Kが世間を騒がせた直後に、私は昔お姫様のように見えた女性の父親と話をする機会がありましたが、高校時代にKが娘にまとわりついて大変困惑していたそうです。

  Nは大男ですが通常はおとなしい人間です。特に自分より権威を持った背が高い人間には従順であるようです。Nにとって唯一の気がかりは、小柄で年若い男性看守に襲いかかる可能性です。それがなければNは優良な模範囚として刑期が短縮されて釈放される可能性があります。しかしそれはNがKやTと同じ道をたどる運命であると予想します。

 

最後に

  精神障害者の犯罪とその処罰をナイーブに考えてはいけません。また精神障害者は必ず何を置いても守られなければならない社会的弱者であると決めつけることも、精神障害者の人権を守り自立を促進することにはなりません。精神障害者も人間として独立することが可能です。そのような社会が実現される必要があります。

  現在では精神障害治療技術は日進月歩で進歩しています。このため精神障害を患った場合でも初期治療が適切に行われれば、ほとんどの場合は寛解状態を維持することが可能です。将来は精神障害を完全に治癒する事も可能となるでしょう。また現状で慢性化していても、正確な薬量をきちんと服用し続けることで、大多数の精神障害者はほぼ健常な生活を維持できます。これは薬を飲み続けることで健康な社会生活を維持できる内科的な生活習慣病と本質的には変わらない状況です。私たちは精神障害を患った経験がある人々と隣人として生活できるのです。そのような社会を私たちは目指しています。

  精神障害者の人権問題の本質は、健常者と共生する人間として普遍性が問われる人権の問題です。精神障害のために本当に心神を喪失しているような状況にある人間は社会が守らなければなりません。しかしその社会には健常者が生活して、その労働で社会は維持されています。健常者と精神障害者のどちらかの市民に、不慮の死、また自由を奪われた不遇な人生、という犠牲が発生することを容認する制度はおかしいと考えるのが、人間性豊かな社会を作り上げる基本です。

 

追伸

  私たちが提訴した民事裁判では、これまで文書のやり取りで議論が行われておりますが、問題の本質がかなり煮詰まってきました。日本の精神医学会および日本の法曹学会のいわゆる人権派と称する方々にも関心が高いはずの内容の裁判が行われており、私たちはこの裁判の本質に関係する関係者はI病院だけに限られないと考えています。私たちはこれまで被告側から提出された主張や論理には少なからず失望を感じておりますが、裁判において裁定される内容は、日本の精神医学会と刑法39条の運用に関した現状と今後の方向性に少なからず影響があるものになると信じます。日本における精神医療の進歩と人権問題を普遍的な視点で取り組むことを確立するために、今後とも読者諸氏のご支援をお願い申し上げます。

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