自由の国 平等の国【プレミアム版】
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小川仁志著
ISBNコード:ISBN978-4-947767-14-1
判型/頁:A5判 176ページ 特殊製本
発売日:2014年12月5日
自由の国 平等の国【プレミアム版】
定価:7,150円(本体6,500円+税)
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■『自由の国平等の国』プレミアム版 質問と回答の例
著者の小川先生に質問したら、こんなふうにお返事が届きます。
(※質問者の許可を得て掲載しています。)
【大坪仁君(17歳)の質問】
学校の先生が言う「自由」は、本当に「自由」なのか?
大坪仁君(17歳)からの質問カード
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「中学を卒業したら、もう自由ですよ。高校へ行っても行かなくてもいいですよ。皆さんの自由ですよ。ただし、今時高校くらい卒業していないと仕事に就けませんよ。さあ、中学を卒業したら自由ですよ。」と中学の先生は卒業前に言いました。
でもこれって本当に自由って言うんでしょうか?
私は今高校三年生です。大学に進学するだけの十分な学力はあります。ありますが、大学よりもある専門学校のカリキュラムに魅力を感じていて、その専門学校に進みたいと考えています。
しかしその先の就職となると大学卒の肩書きの方が専門学校卒の肩書きよりも圧倒的に有利に働きます。その事を考えると迷わざるをえません。
本当に自由なら私は迷わずその専門学校に進学しますが、今は自由なんて名ばかりです。大学で学ぶ学び方。専門学校で学ぶ学び方。どちらを選んでも自由だと言うのなら、学び方そのものに優劣をつけるのをやめて欲しい。実力で判断して欲しいです。
企業が学歴を見て採用不採用を決めるのは差別でしかない。その人を見て判断するのではなく肩書きで判断するのは、人種や性別で個人を判断する差別と変わらない。この差別が見過ごされてきたのは、人種や性別とは違って後天的なモノだからですが、だからこそ自由が阻害されるのです。
もし企業が学歴で採用不採用を決めることをやめて、相手をしっかり見極める(実力、人間性、適性などを)ことのみで、採用不採用を決めるようになれば、人の学び方はもっと多様化すると思います。
今みたいに中学の次は高校、高校の次は大学。偏差値で一列で並ばされて上から順に進む学校が決まってゆくような形ではない、もっと自由に学ぶ場の選択が出来るようになるはずです。
その点について小川先生はどう思われますか?
私自身では革新的に、現代社会の隠れた問題点を指摘したつもりでいます。
お返事期待しております。よろしくお願いします。
【小川仁志先生からの返事】自由の意味をどう考えるか?
仁君、ご質問いただき、ありがとうございます。仁君は進路のことで悩まれているようですね。たしかに親や教師は、「君たちは自由だ」といいます。義務教育を終えれば自由、高校を出れば自由、大学を出れば自由、成人すれば自由などと。
でも、仁君にはとてもそうは思えない。まさにルソーが『社会契約論』で冒頭に書いた一文を思い起こさせます。「人間は自由なものとして生まれた。そして至る所で鉄鎖につながれている」という一文です。
はたしてこの社会に本当に自由はあるのか? この答えは、自由をどのように定義するかによっても変わってきますね。もし自由を「好き放題なんでもできること」などと定義すれば、おそらくそんな自由は存在しないでしょう。私たちは社会に暮らしており、お互いに支え合ったり、我慢し合ったりしています。それは自分の自由を実現するためです。極端な例を挙げると、たとえば人を殺す自由を認めてしまったら、もう誰の自由も保障されなくなってしまいますよね。いつ殺されてもおかしくないのですから。
だから私たちは自由に制限を設けるのです。それはJ・S・ミルが唱えた「危害原理」、つまり人に危害を加えない限り自由を認めるというものから、社会の皆の自由のために福祉に貢献することまで要求する「現代リベラリズム」まで幅があります。
いずれにしても、社会は社会である以上、言い換えると、社会は複数の人間が支え合い、我慢し合って生きなければならない場である以上、自由の制限を不可欠の条件にしているわけです。それが嫌なら無人島に行くしかありません。
したがって問題は、どの程度までなら自由を制限してもいいかということになります。もしそれが行き過ぎると、かえって自由が失われてしまうという本末転倒の事態が生じるからです。仁君は「自由が阻害される」と表現されていますね。もしそう感じられているのであれば、それは自由が過度に制限されてしまっているのでしょう。
例として挙げられている学歴や肩書による差別の問題。これは事実として存在します。どんなに実力があっても、大卒より専門学校卒のほうが低く見られるのはたしかです。まったく不合理な話ですよね。なぜ力があるのに、肩書だけで低く見られるのか。扱いが不合理であるがゆえに、やむなく進路選択が制限されてしまうとすれば、それは不当な自由の制限です。
この事態を解消して、少しでも自由を取り戻すには、制限が不当であることを訴えるよりほかありません。技術的には自由権の侵害ということで、裁判をすることになるのでしょう。しかしそのためには、哲学をして、じっくりとその不当性について考えなければなりません。
そもそも学歴や肩書などのレッテルで人を判断するのは、そのレッテルに品質保証があるからです。しかし問題は、品質保証が独り歩きしてしまっていることです。レッテルというのは、一度それを設けたら最後、独り歩きせざるを得ない運命にあるのです。ですから、この事態を防ぐためには、レッテル貼りそのものをやめるしかありません。
学校教育でいうなら、どの学校を出てもそれだけではなんの評価もしないようにする。常に実力勝負を求めればいいのです。そうなると、学校は学びたい人が集まり、単位も成績も抜きにただひたすら学ぶ場、自己研鑚をする場になります。東大も専門学校も同じです。入試もなくなります。
ここまでやってはじめて、レッテルによる差別が原因で自由が不当に制限される事態はなくなることでしょう。実は私は、以前からこのようなことを訴えています。別の本でも書いたことがあるのですが、フランスの現代思想家ジャック・デリダが創設した国際哲学学院というのは、そうした思想をベースにした学校です。誰でも気軽に一流の哲学が学べる学校です。
その意味で、仁君のご指摘は鋭いものですし、大いに賛成します。残された問題は、今まだそういう組織がない時代を生きる仁君が、どういう道を歩むかです。一つは、少しでもレッテル社会に抗いながら、あえて実力勝負で闘っていく。たとえば、専門学校卒のノーベル賞受賞者にでもなれば、社会を変えることができるかもしれません。もう一つは、発言力を増すために、今の社会のレールに敢えてのっかり、その中でトップになって、そこから社会を変えていく。
あるいはまた別の方法があるかもしれません。大切なことは、仁君のような方が、いつまでも諦めることなく、社会に問題提起をし続けることでしょう。私も微力ながらそれをやっているつもりです。ぜひ一緒にいい社会を作っていきましょう。
いつかは鉄の厚い壁も崩れると信じて。まさにベルとクゥが成し遂げたように……。
小川仁志先生が作った文書による回答文 (写真は全2ページのうちの1ページめ) |
※本書の内容、目次、著者プロフィールは『自由の国 平等の国』をご覧いただくか、下記の特設サイトバナーをクリックしてご確認ください。
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