(前回からつづく)
そもそも、「未」は助字(じょじ)と呼ばれ、漢文訓読の際、次の漢字を読んでから戻ってきて「いまだ~せず」と読まれる。
「未」の字の中に否定の意が含まれている。つまり、「未来」は、まだ当分来ないのだ。国文法でお馴染みの「未然形」も然り。「まだしからず」なので、たとえば「書かず」(古語)、「書かない」(現代語)の活用形を指す。古語では已然形「書けば」との対比となる。思えば、中学、高校で「未然」「已然」という活用形名称そのものの意味を教えてもらった記憶がない。恥ずかしながら、筆者がここに書いたことはずいぶん後になってから気づいたことだ。
一方、「将」は元々「何かを率いる」意味だが、転じて漢文訓読の際は「まさに~しようとする」という意味になる。
したがって、当分来ないわけではなく、もうすぐ来るのである。
「将来」は
のように、副詞として使われることもあるが、「未来」にその用法はない。また、
- 彼のアイデアは将来性のあるビジネスになる可能性がある。
のような表現があるが、「未来性のある~」という言い方は聞いたことがない。
「未来」は「将来」に比べ、現世ではなく遠い遠い先の話だからだ。
そしてここに、「未来」と「将来」の役割分担が発生するのだが、前述のように「未来」が「将来」の領域を浸食しつつある。
あらためて、冒頭(前回)の例文、
を見つめる。
犠牲になった若者の多くは配偶者を得て子を持つはずだった。その機会を逸したということは本来の「未来」を失ったとも言える。。。。と考えると、「将来」ではなく、「未来」を使うのも宣(むべ)なるかなという気もする。(この稿終わり)
[参考文献]
2016年2月6日付け朝日新聞「樅の木峠(阿波別街道)」
小川環樹・他編1968『新字源』角川書店
三羽邦美2015『三羽邦美の漢文教室』旺文社
2016.4.15 掲載
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