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2010年1月 シュトバイ・タールのシェーンベルク

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ブレナー峠への古道に建つSchoeberlhof
(中世からの建物をロココから新古典主義への
移行期の典型的な様式に改装している)

今回の短いシュトバイ・タールの滞在中に、1月20日(水)はスキーを休んで、この谷の入口にあるシェーンベルクを訪ねました。私がこの谷に来るようになった動機もこの町からでした。インスブルックでの一泊が40ユーロはするのに、ここでは25ユーロも出せば泊まることができます。バスで中央駅から20分ほどで片道料金は2.80か2.90ユーロほどです。
  ごみごみした街中に泊まるか、自然が直ぐ側にある田舎を選ぶかは、その人の好みでしょうが、私は田舎の方が好きです。

ここは昔からイタリアへ向うブレナー峠越えの道が通っていたところで、交通、軍事上の要衝だったところです。そのために1809年のチロル独立戦争のゆかりの場所でもあるのです。
  インスブルックのノルトケッテ・バーンの谷駅の近くの展示場では、いつもこの戦争の模様が語られています。Bergiselschlacht(ベルクイーゼルの戦い)がこの近くで行われ、最初はチロル側が大勝しますが、やがて援軍を増強したナポレオンとバイエルンの連合軍に敗れ、この運動の首謀者としてアンドレアス・ホーファーが捕らえられ、翌1810年2月20日にイタリアのマントーヴァで処刑されました。
※このことについてはバックナンバーの2007年「アンドレア・マンテーニャを偲ぶ旅、マントーヴァ(その二)」をお読みください。

アンドレアス・ホーファーについては、南チロルのメランから北におよそ20キロのザンクト・レオンハルトの近郊にザンドホーフという彼の生家が残されています。今はイタリア領となっている南チロル生まれのホーファーはチロル再統一の象徴的存在といえるでしょう。EUの誕生で地方が国家を超えた存在になろうとしていますが、その最先端を走るのがチロル、カタロニア、バスクのように思えます。

ホーファーの存在を私が知ったのは、ハインリッヒ・ハイネの『旅の絵』の中の「ミュンヘンからジェノヴァへの旅」によってでした。インスブルックの「ゴールデン・アドラー(金鷲亭)」に泊まったハイネは、ここにホーファーも泊まったことを知り、自分の友人のカール・インマーマンが『チロルの悲劇』の作者であることを告げますが、宿の主人はその作者がプロイセン人とは信じることができません。

こんなに熱心にこの宿を紹介しているのに、今のゴールデン・アドラーには「ゲーテ・シュトゥーベ」しかありません。ゲーテはほんの数行しか書かなかったのに。
  このシェーンベルクでも、やはりゲーテです。『イタリア紀行』の中の「ブレナーへの道を上りはじめて最初の唐松を、シェーンベルクの近くでは最初のZirbel(松科の一種)を見た」という一行だけで、Goetheruheという記念碑があってその上にZirbelが生えていました。

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左の緑の木が、ゲーテの見たZirbelと伝えられている

話をホーファーに戻すと、ここにはDomanighof、Stolzenhofといったホーファーにゆかりの建物が今も残されています。
  ドマニッヒホーフは1809年には、友人のエリアス・ドマニッヒが所有していて、Bergiselschlachtの作戦を仲間たちと練った場所だ、といわれています。

シュトルツエンホーフは四回にわたる戦いの最後の戦いの前に、1809年10月29日、ホーファーが最後の決断をした場所だそうです。11月1日の四回目の戦いでチロル側はナポレオンとバイエルンの連合軍に完敗しました。

左側の建物がDomanighof(ドマニッヒホーフ)
Stolzenhof(シュトルツエンホーフ)

2010.2.16 掲載


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