日本人留学生が見たニューヨーク 第7回 BACK

スペイン語の氾濫する街

「Hello. ニューヨークメイツ!」アパートの部屋を掃除する女性が現れた。2ヶ月に1度ルームメイトと半額づつ出し合って、部屋のクリーニングサービスを受けている。バスルームのカビを除菌し、床にワックスを掛け、さらに天井に取り付けられたファンの清掃までと日ごろはあまりしない部分をきれいにしてくれる。料金は1回85ドル。(2〜3時間)さらにチップをいれて約100ドル。この金額を折半するとは言え私にとっては決して安くない金額だが、この機会に積み重なった雑誌を書棚に置きなおしたり、新聞の切抜きの整理をしたり、身の回りをキレイにするにはいい機会なのだ。

このサービスの会社はスペイン語圏人が経営しているようで、清掃にやってきてくれる女性もスペイン語のアクセントの強い英語を話す。お互い強いアクセントを持つ英語を話しながらも会話は成り立つので、してもらいたい事や感謝の気持ちを伝えることができていた。

土曜日、いつもどおりクリーニングレディが部屋にやって来た。彼女が部屋に入ってくるや否や発した言葉は「オラ〜」(こんにちは)とスペイン語。陽気にふざけているのかと思って私も「オラ〜」と返してしまったら、彼女はそのままスペイン語で何かを言い始めた。あわてて「ホントはわたし挨拶しか知らないの」と英語で説明したが、彼女のスペイン語は止まらない。どうやら彼女は全く英語を理解していないようだ。今まで来てくれていた人は必ず英語で話してくれていたのに…。挨拶が続いているのか、天気のことを話しているのかすらも分からず、私はただただ苦笑いで立っているしかない。

そのうち彼女は部屋をキョロキョロ見渡しだした。イントネーションが上がり何かを尋ねているようだ。以前来てくれたクリーニングレディの作業を思い出し、勘で清掃用具と洗剤の場所を手で示すと、彼女の顔がパッと笑顔に変わった。まるでジェスチャーゲームだ。しばらく彼女は清掃用具を確認していたが再び顔の表情が変わり「パペール、パペール!」眉間に皺をよせ、何かが足りないと言い始めた。「What's?」と聞き返しても、「パ・ぺー・ル」をさらにゆっくり、しかも強い口調になるばかり。分からない単語をたとえゆっくりと大声で言われても…分かるようになるわけじゃない。「パペール…。確かにスペイン語の授業で習った。でも意味は…意味は何だっけ?」スペイン語の発音は、英語をローマ字読みにするものが多い。頭の中でパペールを英語に直す。P・a・p・e・r…。Paper!紙!あぁ、あの厚手のロールペーパーのことかもしれないと、差し出すと笑顔で彼女は答えてくれた。「グラシアス」(ありがとう)。ホッ…。そんなことを何回か繰り返し、清掃作業が始まった。

photo ニューヨークに限らずアメリカ全土でスペイン語圏(メキシコやプエルトリコなど)からの移民が多くなってきている。その証拠に、地下鉄の乗り換え表示もスペイン語が併記されているし、書店に行けばスペイン語圏の人向けの雑誌もよく売れている。今までは英語のみの記載だったフリーペーパー(無料情報誌)も徐々にスペイン語のページを増やしバイリンガルペーパーも増えている。アメリカに住むスペイン語圏の人々は英語が分からなくても生きていける。

私は大学時代に3年間スペイン語を学んだ経験があるので、スペイン語に触れるたびにもう一度学びたいと思い、わざわざ日本からテキストを送ってもらっていた。が、思いと行動は裏腹にテキストを開けることもなく、長い期間ただ書棚の肥やしになっていた。ようやくテキストを開く日がきたと言うわけだ。

清掃作業が終わる頃、彼女がグラスを指差し「アグア、アグア」と又何かを要求してきた。あわててテキストをめくり「エスタ、エス、アグア」(これは水です)とグラスに水を入れて差し出すと、「グラシアス」(ありがとう)の一言が笑顔と共に返ってきてゴクゴクとおいしそうに飲み始めた。このささやかな会話が楽しい…もう少し話せたらもっと楽しいだろうな…といつもより強く感じ、その日はテキストをパラパラと読み返してみた。「よし、今日から少しずつスペイン語を勉強しよう!」

2日目…「明日から。明日から〜」とささやく心の中のデビルちゃんが現れた。必要に迫られないと物事をすぐ辞めてしまう私の欠点が出てきた。「ここはアメリカ。やはりまずは英語をマスターしてからね」と理由にならない理由をつけ、テキストを書棚に戻した。

おそらくまた2ヵ月後このテキストが必要になるだろう。
前田直子


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