精神障害と刑罰
平成22年6月6日
矢野啓司・矢野千恵
私たちは精神障害者に通り魔殺人された矢野真木人(享年28才)の両親です。このため、私たちの場合は、精神鑑定と刑事責任能力の問題を考える場合にも「中立者の視点」とはなりません。また、矢野真木人の死を実体験しておりますので、精神障害者であっても殺人行為に「故意」が指摘できる場合には安易に責任免除を容認する意見とはなりません。私たちの意見の背景には、ある日突然、自らに責められるべき理由もなく命を絶たれた矢野真木人の「もっと生きたかった」という切ない願いがあります。
心神喪失の問題では英国と日本では心神喪失認定の実績が二桁のオーダーで異なります。英国では、「私は心神喪失です」と主張する精神障害の犯罪者はほとんどおりません。それは一生涯を高度保安病院の閉鎖病棟で過ごすことと同義であるからです。ところが日本では、少しでも精神障害があれば、心神喪失を主張する傾向があります。それは罪を償うことなく、直ぐにでも自由を回復できるからです。しかしながら、英国が精神障害に関連して人権侵害の国であり、日本が人権を尊重する社会であるとは国際的にも評価されておりません。むしろ、日本は市民と精神障害者の人権を守れない、だらしない国であると見られています。その日本の精神障害者に関係する人権問題の方向性をどのように考えれば良いのでしょうか。重大な犯罪を行った精神障害者の刑事責任能力を鑑定する問題は、精神障害者と健常者に共に共生する社会を形成するための基礎となる普遍的な人権問題に関連する課題です。
1、刑法第39条
日本で刑事責任能力を議論する際には、先ず、「刑法第39条」が前提となります。刑法は100年以上前の明治40(1908)年に成立した法律であり、以下の通り規定されています。
刑法第三十九条 |
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心神喪失者の行為は、罰しない。 |
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2 |
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 |
刑法は心神喪失と心神耗弱を定義することなく、刑罰の規定を設けています。刑罰を停止するもしくは軽減する法的処分の決定は、「心神が喪失の状態にあるか」また「耗弱の状態にあるか否か」で判断することが、本来の意味で法律に基づく社会の規範です。
2、大審院判例
刑法第39条が精神障害と結びつけられたのは昭和6(1931)年12月3日の大審院判例に基づきます。
心神喪失とは、精神の障害により事物の是非善悪を弁別する能力またはその弁別に従って行動する能力のない状態をいい、心神耗弱とは、精神の状態がまだその能力が完全に失われているとはいえないが、著しく障害された状態をいう。
(Jurist増刊 2004.3 精神医療と心神喪失者等医療観察法 P.85 責任能力の概念と精神鑑定のあり方)
大審院(最高裁)では心神の状態を精神障害とリンクして判断することを決定しましたが、これは80年も前に判例とされた先例主義に基づく慣行であり、法律の規定に基づく社会的な処分の基準ではありません。日本では、刑事責任能力を精神障害の有無により判断することが当然と考えられていますが、「法律は精神障害に関しては何も定義していない」ことを認識することが重要です。本来的には、最高裁の判例は時代と精神医学の進歩に合わせて修正されるべきであると指摘します。
日本では刑事責任応力の問題と精神障害の関係に関連した刑事処分が法律の定義とは関係がないところで一人歩きしている状況であると認識できます。法律は「施行令」や「施行規則」など運用の細目が制定されなければなりませんが、刑法第39条では行われておらず、大昔の大審院判例が唯一の刑法第39条の運用判断基準となっている状態は、適切な社会運営の状態ではありません。刑法第39条を巡る法制度の時代の現実にあった維持管理は日本では行われていません。その間に大日本国憲法が日本国憲法に代わりました。刑法第39条の現実は、基本的人権に基づいて個人の人権尊重が図られるべき、時代の要請に即して修正・改正されたものとなっていないといえます。
3、向精神薬の開発による状況変化
刑法第39条が制定された時代の精神障害の状況を客観的に認識することが、本来の意味で法律が期待していた社会的処分の方向性です。刑法第39条はあくまでも心神喪失および心神耗弱と定義されており、精神障害には言及がありません。更には大審院判決が行われた当時には向精神薬は開発されておらず、「馬鹿に付ける薬はない」という格言にもあるとおり、精神障害は治癒もしくは寛解しない病気でした。刑法第39条に基づいて大審院判例が確定した当時は、一度精神障害に罹患すれば、治癒することは期待できない、ということが社会の常識でした。その意味で、大審院が心神の状態を精神障害と密接不可分の認識を持ったことは、時代の背景としては間違いではありません。
しかしながら、精神医学の進歩はめざましく、有効な向精神薬の開発が促進され、精神障害者の治療では作業療法やリハビリテーションの技術も開発されており、精神障害者を取り巻く情勢は根本から変化しました。今日では、精神障害は寛解を期待できる病気です。このことは、大審院の決定が行われた前提に基本的な変化が生じていることになります。しかしながら、日本では判例主義により、精神障害者であれば、自動的に心神耗弱か心神喪失という社会処分が一般化している実態を見直すことが無く、また法律の規定を変更することが無く、今日の刑法第39条の運用が行われています。これは判例主義の弊害とも指摘できます。
4、精神障害の定義の拡大
現在社会で精神障害であるか否かはICD-10もしくはDSM-IVの国際診断基準書に定義された精神障害の症状に合致するか否かで判断されることが多くなっています。国際診断基準は精神障害に客観的で普遍性がある基準を導入したという意味で、医師の診断の偏りを是正するもので評価されます。しかしながら、基準書の記述が多岐にわたる症状を網羅しているために、本来健常者がわずかの標準からの変異でも精神障害と診断される可能性も高まっています。このため、精神障害であれば、心神喪失か心神耗弱であるとする社会的な処分が乱用される可能性が発生しています。特に刑事裁判では、弁護士の仕事の重要な役割が犯罪者の弁護にあるため、安易に精神障害で刑罰の軽減を主張することが多用される状況が発生しています。時代の状況と背景は変化しましたので、大審院の判決を見直すことが求められていると考えることが正しいと思われます。そもそも人間の個性とは必ずしも標準の枠内に収まらないものです。多用な個性が社会に存在するからこそ、文化の多様性と健全な社会が維持されます。むやみに精神障害の範囲を拡大することは、「多様性を否定的に見る事にもつながる」という望ましくない要素も指摘できるところです。
5、ローマ法の叡智
日本の法曹界では、「心神喪失無罪は古代ローマ法の時代から2000年継続した人権認識であり法的原理である」との素朴な共通認識があります。その上で、一度心神喪失と判定した犯罪者を野に放ち再犯を許す事態を放任してきました。しかしながら、この認識の根拠は必ずしも明確ではありません。刑法第39条が成立した当時の、近代化しつつある日本が西洋論理を崇拝して創りあげた、根拠が薄弱な「常識」である可能性が極めて高いことです。
古代ローマ法に関しては、塩野七生の「ローマ人の物語30、終わりの始まり(中)、新潮文庫、P.103-105」に古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの書簡{ローマ法大全、(ユスティニアヌス法典)学説彙纂(Digesta)「D. 1, 18, 14」}が引用和訳されています。その内容は極めて論理的かつ常識的であり、「自らの運命によって既に罰せられている」というような思い込みや決めつけの要素は認められません。以下にローマ法大全における狂人(精神障害者)の処分に関する主要点を列記します。古代ローマの考え方は極めて常識的また理性的であり、今日の日本社会が見逃している法治要素があります。
- 自らの言動についての最低の制御能力さへも欠き、行為の善悪に対しての判断力が無い、狂人(精神障害者)は罪に問うことができない。
- 狂人(精神障害者)を装っている者は処罰される。
- 狂人(精神障害者)は、判決は無罪でも、即放免ではない。厳重な監視の下で保護される。
- 狂人(精神障害者)の保護は罰ではない。その人物の近くにいる人間を保護するためである。
- 狂人(精神障害者)であっても、頭に理性がもどっているときの犯行であれば心神薄弱(耗弱)を理由にして無罪判決の対象にならない。
- 狂人(精神障害者)の犯行が、世話をしていた人の怠慢に帰することが実証されたならば、義務不履行の罪で、これらに人々は処罰される。
- 法を司る者が心することは、重罪を犯した狂人(精神障害者)の処罰に留まらず、他の多くの人々が狂人(精神障害者)の犯罪の犠牲になることを防ぐことにある。
6、精神障害者は既に罰せられているか?
「精神障害者は既に罰せられている」という認識は、法的認識ではなく文化的また情緒的な認識であり、本質的な意味で刑事処分や社会処分に持ち込むべき認識や規範ではありません。また精神障害者が既に罰せられているという視点は、「精神障害者はすなわち犯罪者である」という認識を示しており、本質的な意味で精神障害者に対する人権侵害です。このような認識論からは精神障害者の人権回復を期待することは困難です。精神障害であるか否かの問題は、個々の人間の人生の問題であり、また場合によってはその人間の個性の問題です。精神障害は治療されて寛解して治癒されることが望ましいが、それは罪の認識とは関係がない、別個の問題です。
「精神障害者は既に罰せられている」という認識の副次的な弊害は、この言葉を聞く精神障害者で犯罪傾向がある人物の場合には、「犯罪を行っても罰せられない特別の権利がある」と誤認することを促進する要素です。矢野真木人を通り魔殺人した野津純一の場合は、「人を殺しても、罰せられないか、罰せられても極めて軽い罪で、しかも快適な生活が約束されている」と認識していました。このような、安易な考え方を助長して、重大犯罪を安易な気持ちで行うことを許すことは、基本的な認識の間違いであり、このような状態は改善されるべき社会的課題です。
7、疑わしきは罰せず
精神鑑定者に問われるのは、「犯罪者の心神が正常であるか耗弱状態にあるかそれとも喪失状態であるかを判定する仕事」です。精神鑑定者は刑事罰の軽重を判断する立場にはありません。しかしながら、これを誤解して精神鑑定を行う者が少なからずいるようです。ある高名な精神鑑定者は講演や新聞論調等で「疑わしきは罰せずの原理があるので、積極的に心神耗弱もしくは心神喪失と精神鑑定することが正しい」と述べています。これは「正常な心神の人間であっても心神耗弱に、心神耗弱者であれば心神喪失に鑑定している」と証言しているに等しいことです。
「疑わしきは罰せず」は法的原理であり、精神科医師の原理ではありません。本来法曹資格者に許された冤罪を防ぐための犯罪容疑者に対する処分論理を、精神鑑定者が自らの診断原理とすることは基本的な間違いです。精神科医師が精神鑑定者に下されるであろう刑事罰を左右する意図を持って精神鑑定を行うとしたら、それは社会規範を逸脱した行為と言わざるを得ません。仮に精神障害を疑われた犯罪者に死刑という極刑が判決されたとしても、その決定は精神鑑定とは独立した社会的法規則に基づいた行為です。精神鑑定者が「疑わしきは罰せず」という法的原理を持ち出すことでは、公正な精神鑑定は期待できないし、精神鑑定技術の進歩と精神鑑定の確実性の向上も困難となるでしょう。
8、一時的興奮
そもそも殺人行為を犯す時の精神状態は正常ではあり得ません。殺人などの重大犯罪を行う時には、一時的であるにせよ、興奮や激情また思い込みなどの通常の状態から大きく離れた精神の状況を持つと考えるべきです。その犯罪を行った時の心神に限定した鑑定を行う場合には、少なくとも心神耗弱また過度の興奮をした場合には心神喪失と判断される可能性が高くなる論理です。このため、犯罪時点の精神状態を限定的に鑑定することには極めて問題が多いと指摘できます。
心神喪失や心神耗弱の状態は犯罪の前後の長期間にわたる持続的な精神の状態を元にして鑑定することが求められます。日本では、「精神鑑定で心神喪失とされて無罪処分となった」にもかかわらず、直後に診断した精神科医師が「入院も通院も必要ない」と診断することは希ではありません。また入院しても「極めて短期間の治療で寛解した」とされる事も頻発しています。このような安易な精神鑑定は、間違っていると考えることが正しい社会的処分です。また精神鑑定者が被験者に騙されている可能性があるとしたら、犯罪者の処分としては極めて不適切です。社会的制度は重大犯罪を助長するものであってはならないのです。悪貨が良貨を駆逐するような制度が、人権に関連して温存されているとしたら、深刻な課題が日本には存在していることになります。
9、命を奪われる悲哀
殺人事件の背景には命を奪われた者が存在します。精神鑑定を行う時には、目の前にいる犯罪者の人権に心が奪われる可能性が極めて高いでしょう。現実に精神鑑定をした経験談を読むと、「被験者に感情移入して、大甘で、心神喪失と鑑定したら、無罪になった」という真面目とは言い難い証言もあります。精神鑑定を行う背景には「第三者の命が奪われた」という、最大の人権侵害が存在します。それ故、精神鑑定には科学としての高い信頼性が求められます。
現在では、精神障害は治療して症状を軽減することが可能です。精神障害者の多くは、適切な治療が行われる場合には、社会復帰が可能です。他方、殺害された人間は生き返ることはあり得ません。犯した罪と被害との相関関係を考えるならば、精神障害の入院治療を促進するために、精神障害の兆候があれば心神喪失と精神鑑定することは間違いです。また責任と処罰の均衡がとれないことになります。殺人などの重大犯罪者の場合には、人間の善を信じ切ることは素朴に過ぎる社会的処分です。犯罪者には制裁を通した教訓と強制を行うことが、社会的な規範です。
精神障害者であっても犯罪者である場合には刑務所の中で治療を行うことは可能です。精神障害者は必ず市中の精神科病院で治療を行い、故意の犯罪であっても罪は不問として社会復帰を促進するべきという考え方には適応してはならない限界があることを承知することが必要です。野津純一の場合には、いわき病院で入院治療を受けていたときよりも、医療刑務所で治療を受けているときの病状が明らかに改善していました。このような状況を背景にすれば、精神障害者といえども、重大犯罪を行った場合には。犯した罪に相応する刑事処分を科すことが正しいのです。
精神障害者や健常者であるなしにかかわらず、犯罪の可能性を見越した予備拘束を行ってはなりません。それは重大な人権侵害です。しかしながら、犯罪者、特に殺人などの重大犯罪行為を行った者に対しては、「二度と犯罪を行ってはならない」という本人に対する制裁という教訓を与えることが正しい社会的処分です。精神障害者の刑事責任能力を議論する場では、ややもすると精神障害者善人論、精神障害者無垢論に左右されて、精神障害者の立場だけからの視点で論理が形成される状況があります。しかしながら、犯罪被害で重大な人権侵害を受けた人間の立場からも問題を見直す必要があります。犯罪は冷酷な社会の現実です。特に現在では精神障害は不治の病ではなく、社会復帰が可能となりつつある障害(病気)であり、全ての人間は個人としての社会的責任を果たすという視点が必要です。
10、心神喪失者の処分
重大犯罪を行っても心神喪失者の場合は罪に問えないことは当然です。しかしながら、一旦心神喪失と診断された場合には、高度保安精神科医療施設の中で残る人生を社会的に保護することが適切です。心神喪失は簡単に正常な精神に回帰するものではあり得ない筈です。また仮に短時間で心神喪失から正常に転化する精神であるとするならば、容易に正常から心神喪失に転換する論理となります。これでは重大犯罪を行った者に、未来の再犯を許し促進することに繋がる可能性が極めて高い社会処分です。その者が過去に殺人などの重大犯罪を行っていた場合には、その人間の一生涯を保護して安寧の人生を与えることも、本人の人権を守る意味でも、選択肢となり得ます。
ところで、心神喪失者等医療観察法における入院と通院期間の規定は殺人を行った心神喪失者等の場合にはあまりにも短期であると言わざるを得ません。短期間の治療で寛解する精神障害であるのであれば、治療終了後に刑罰を科す制度を制定するべきでしょう。
11、情報の開示
現在日本では心神喪失と鑑定された場合には、検察官の裁量権で不起訴となり、殺人であっても罪に問われないことが頻発しています。これはおかしいことであり、重大犯罪者の場合には心神喪失の精神鑑定があったとしても必ず裁判を行うという社会の手続きが執行されなければなりません。裁判を受ける権利は精神障害者であっても否定されてはならない権利です。また裁判で心神喪失が認定されて、罪を問わない処分が決定される場合でも、犯罪の情報は公開されて社会の共通知識および教訓として、未来における社会的不幸を削減する方向性を持つ情報として活用される必要があります。現在日本で、精神障害者の犯罪は秘匿される状況にあることは、刑法第39条により心神喪失が認定される場合でも改善されるべき課題です。心神喪失で罪に問わない場合でも、重大犯罪を行った事実は厳然としてあります。事実を社会が共有することで、人権を尊重する、国際社会から信頼される社会を築くことが可能になると確信します。
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