第87回 「古典を学ぶ重要性」について
皆さんこんにちは。今回も連載をご覧下さりありがとうございます。
連載更新をお待たせして、大変失礼しました。この間、子どもをめぐるさまざまなできごとがありましたが、大変痛ましかったのが、長崎県佐世保市で、高1の生徒が同級生を殺害した事件でした。ご遺族、ご関係の皆様に心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
先日、ご遺族の手記が新聞で紹介されましたが、胸が締め付けられる思いで読みました。また、この事件では、容疑者の生徒を見ていた関係者から、事件の予兆とも取れるサインをキャッチしたのに、関係機関での連携がうまく行かず、結局悲劇を招いたことが報道で伝えられています。
子どもに関わる者として、私も、普段から子どもたちの発言や行動に目を配り、異常が感じられたらすぐに情報を共有し、対策を考えるようにしています。このような日常の細かいことの積み重ねが、悲劇やトラブルを防ぐ一番の方法ではないでしょうか。私も改めて自戒の念を持つと共に、ここで記してお伝えしたいと思った次第です。
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今回は「古典を学ぶ重要性」について考えます。
日本の古典文学は、平安時代の作品であれば、およそ1,000年前から残り、現代まで読み継がれています。作品を丹念に読んでいると、今は内容がわからない、物語の作品名が記されていることがあります。つまり、それらは現代まで内容が残らなかった、ということです。
内容が残らなかったものは、たとえば何かの物語の真似とか、当時の人にとってもあまり重要でなかったのかもしれません。逆に言えば、今私たちが目にするのは、読む価値があると判断されて、先人たちに読み継がれてきたもの、とも言えるでしょう。
そのような古典文学作品ですが、読むためには文法を学ぶ必要があり、作品が面白いかどうか感じる以前に、文法を機械的に覚えなければなりません。一般的には高校で学びますが、難関校私立中学では、中学入学と同時に古典文法学習の時間が設けられることも珍しくありません。
文法が分かるようになり、読めるようになると面白くなるのですが、文法がわかるようになるまでには時間がかかるため、これが、古典の面白さから人々を遠ざけてしまう一因となっていると感じます。
さらに、たとえば英語の教科書は、他教科の「遺伝子組み換え」(生物)や、少し前に話題になった人物のことなどが取り上げられ、興味を持ちやすい内容になっているのに対し、古典はそのようなことが少ないので、どうアプローチして良いのか、生徒自身が自分なりの方法を得るようになるまでに時間がかかると感じます。
それゆえでしょうか、時間がかかるのに耐えられず、現代語訳などをwebの掲示板などで聞くケースも後を絶ちません。教員などのアドバイスのもとに、自分で辞書や本を調べるなどの努力をしているのか気になります。時間がかかっても自分で試行錯誤したものは本当の力がつくのですが、それに気づかず目先の面倒くささが先に立っているのでしょう。
もちろん、じっくり取り組んだことで、「もっと古典を読んでみたいと思いました」、「自分で読んでみます」という感想を言う者もいます。ですので、一時しのぎの者が全てではないのですが、webで質問している者がいるのは気がかりです。
そして、最近気になるのが、グローバル化という言葉のもと、英語の学習時間確保、重視が叫ばれる一方、国語、特に古典が軽視される傾向があることです。
(国語できちんと表現ができない者は英語でも表現ができないと現場にいて感じますし、英語での話の内容を日本語で説明する際に、間違いだらけの日本語では話になりません。なお、今の教育現場では、論理的に説明する力の不足が指摘されますが、国語を削って英語を増やしても、結局、日本語できちんと説明できない人を増やすだけではないかと私は危惧しています)
ですが、価値があるものだけが残っているからこそ、古典文学作品をきちんと読むと、現代人にも共感できる悲しみや喜び、人生を生きる上での知恵、また、自然災害の大きさなどが伝わってきます。世界に出て行く際に、日本人がどのように考えて生きてきたかを知ることは、日本の強みや特性を考える上でヒントになると私は考えています。
古典が軽視され、読まれなくなることは、そういった知恵やヒントの伝承が絶たれてしまうことを意味しますし、また、天変地異の記録なども忘れられ、再び大災害が起きたときに知恵が生かされず、大きな被害をもたらすこともあるのではないでしょうか。
たとえば、東北電力女川原発は869年(貞観11年)の貞観地震を考慮して対策をしたのに対し、東京電力福島第一原発は考慮せず、結果的に津波の被害を受けたという話を聞いたことがあります。
なお、連載「第76回 3.11 東日本大震災後の世界で生き抜くために」も、ぜひ参考になさってください。
この状況に危機感を感じている私は、日本の古典文学作品をもっと身近に感じられる本の出版を目指し、現在原稿を執筆しています。また、海外にも発信できるように英語の勉強も継続中です。
原文で読んでください、とは言いません。でも、ぜひ、日本の古典文学作品から生きる上でのヒントや、励ましを受け取っていただきたい、と私は願います。そのお役に立てるように、私も努力してまいります。
【今回のまとめ】
- 日本の古典文学は、平安時代の作品であれば、およそ1,000年ほど前から残って、読み継がれている。現代まで残らず散逸した作品も多く、読む価値があるものだけが残っている
- 読むためには文法を学ぶ必要があり、作品が面白いかどうか感じる以前に、文法を機械的に覚えなければならない。それが古典の面白さから人々を遠ざける一因となっている。また、どうアプローチすべきか、生徒自身が自分なりの方法を得るようになるまでに時間がかかるので、現代語訳などをwebの掲示板などで聞くケースも後を絶たない
- 英語の学習時間確保、重視が叫ばれる一方、古典が軽視される傾向がある。しかし価値があるものだけが残っているからこそ、作品を読むと、現代人にも共感できる悲しみや喜び、人生を生きる上での知恵、また、自然災害の大きさなどが伝わる。世界に出て行く際に、日本人がどのように考えて生きてきたかを知ることは、日本の強みや特性を考える上でヒントになる
- この状況に危機感を感じている筆者は、古典作品をもっと身近に感じられる本の出版を目指し、現在原稿を執筆中。また、海外にも発信できるように英語の勉強も継続中
2014.10.1 掲載
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