WEB連載

出版物の案内

会社案内

09年8月 スロヴァキアとオーストリアのゲゾイセの旅

photo
スタリー・スモコヴェツのホテルの
バルコンからの景色

今度の旅は7月30日に成田からウイーンに入り、翌日にはスロヴァキアの首都ブラティスラヴァを素通りして、ちょうどスロヴァキアの国の真中あたりでポーランドに国境を接しているタトラ山地の南麓にあるスタリー・スモコヴェツに着きました。

ウイーン南駅を7:28のブラティスラヴァ行きに乗り、直ぐ前に停まっていたコシツェ行きに飛び乗って、列車は遅れていたのですが私の予定よりも早く、ポプラート・タトリに13時過ぎに着き、14時過ぎにはスタリー・スモコヴェツの観光案内所にいました。

その後8月4日にレヴォチャに移動して二泊、6日にはコシツェに行きましたが、シャワー、トイレ付のシングルという条件では40ユーロ、43ユーロといった部屋しかなく、「タトリへ戻れば二晩泊まってお釣りが来る」と捨て台詞を残してスタリー・スモコヴェツへ逆戻りしました。
  そしてここにまた四泊して10日にトレンチーンで一泊し、ブラティスラヴァ、ウイーンを素通りして、リンツの少し手前にあるアムシュテッテンという駅から、イップス、エンスの川の谷伝いにグシュタッテンボーデンという田舎駅に着きました。

photo
国立公園ゲゾイセ内の旅籠(ここで一泊した)

ここが国立公園ゲゾイセの中心ですが、昔有名だったホテルは客が少なくて店じまいしていて、宿がありません。結局その夜は隣の駅に一軒だけあるシャワー、トイレなしの部屋で我慢しました。翌日もこの辺の中心の町のアドモントで大変な苦労をして見つけたシャワー、トイレ付が朝食付きで26ユーロ、これがこの地方の相場と諦めて五泊しました。

17日にウイーンへ戻るのですが、まったく別の道をレオーベンからブルック・アン・デア・ムア、そしてかっての著名な避暑地ゼンメリンクを通ってウイーンの南駅に着きました。

今回は観光地の栄枯盛衰についていろいろと考えさせられた旅でした。


次回から各地の現況について書きますが、今回は印象的だった写真の掲載と以下にスロヴァキアとゲゾイセについて簡単に説明します。

photo

▲ボタンを押すと写真が替わります。

スロヴァキアは個人的には1960年代から知っている国ですが、今年(09年)1月1日から通貨としてユーロを導入したので、行きやすくなりました。これでEU27カ国中16カ国がユーロを導入したことになります。

一般にユーロを導入するとイタリアがその悪い例ですが、物価の便乗値上げが起こりました。スロヴェニアではユーロ導入の2、3年前のレートがSK(スロヴァキア・クローネ)40が1ユーロで、それをSK30強を1ユーロとしたにも拘らず、都市での宿泊費を除けばそれほどの値上がりはなく、食事代はオーストリアの半分ほどの水準に留まっていました。ただ日本向けの絵葉書の切手代は1.20ユーロとオーストリア並みの高値でした。鉄道運賃も社会主義国の伝統を引いて安値に留まっていますが、ウイーン中央駅が新しくできた段階でどうなるのか、今後を見守りたいと思います。

photo
エンス川の峡谷であるゲゾイセの風景

「オーストリアのゲゾイセ?そんな地名聞いたこともないよ」そんな声が聞こえてきます。実は私もつい最近までこの名を知りませんでした。その昔は有名だったようです。斉藤茂吉の随筆集(岩波文庫)に、クリスマスと新年の間にこの地を訪れたエッセイが載っています。ここではスキーのアルペン競技は無理で精々歩くだけ、夏だけの観光地となり、ホテルが休業して、今年の9月7日から鉄道はバスに切り替わります。斉藤茂吉と同じ列車に乗れたことを感謝すべきでしょう。

photo
アドモントの修道院付属の薬草園から
アルプスを望む。

こんな失敗をした原因の一つに私の愛用している1958年発行の"Baedekar Oesterreich"がありました。Gstattenbodenのホテルがgelobtと書かれていました。これは最高のほめ言葉です。そしてそのホテルは、建物はまだ立ってはいますが、休業していました。追い討ちをかけるように、帰路のゼンメリンクの駅を、私を乗せた急行列車は通過して行きました。ハプスブルク時代からの避暑地で、冬はスキーも楽しめた観光地を知る人の数は年々減って行くのでしょう。

2009.9.10 掲載


著者プロフィールバックナンバー
上に戻る