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09年7月 オーストリア団体の旅(その2) ザルツブルク

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ミラベル庭園からホーエン・ザルツブルク城を望む

第三日7月2日(木)はザルツブルクに滞在し、午前中は旧市内の見物。午後はチロルのアルプバッハの訪問でした。

ザルツブルクの朝から挫いた足の痛みが強くなり、皆の後からついてゆくのが精一杯で写真の方もお留守になりました。ミラベル庭園を振り出しに、ザルツァッハ川を渡って旧市街をモーツアルトの生家へ、祝祭劇場、大聖堂、レジデンツと市内を一回りしました。

この日の午後は私にとってお目当てのアルプバッハです。相変わらず天候は晴れ、曇り、夕立と何でもありの変わりやすいお天気でした。アルプバッハでは、猛烈な夕立に見舞われました。

アルプバッハはチロルにあり、インスブルックからは一時間弱のところにあります。ザルツブルクからは一旦ドイツ領に出たほうが便利という位置になります。
  この町は写真の記念碑に記されているように、オーストリアで一番美しい町、欧州で花の一番綺麗な町として知られています。

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アルプバッハはオーストリアで一番美しく、
欧州で一番美しい花の町である。

私にとっては全く別の関心がありました。偶然カール・ポパーの伝記を読んでいたら、新婚間もない頃の若いポッパー夫妻は毎夏の休暇をこの町で過ごしたようです。
  それはヒトラーがオーストリアを併合する前のことで、そんな昔の出来事がこの町の人々の記憶に残っているのか、半信半疑で出かけました。

ポパーはヒトラーに追われて1937年にニュージーランドへ逃れます。そして第二次大戦後1946年に、これまたケインズの助けで英国に逃れていたハイエクの紹介でロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの教授としてロンドンに迎えられました。

彼の主著『開かれた社会とその敵』は人々の共感を呼び、その趣旨に沿って弟子の一人ジョージ・ソロスが設立した「Open Society Foundation」という組織が東欧各地に作られて、1989年の東欧革命に大きな役割を果たしたことを忘れてはなりません。

東欧の崩壊をこの目で確かめてから世を去った『隷従の道』の著者であるハイエクといい、世紀末のオーストリアには人材が揃っていました。前記のケインズとハイエクを結びつけたのはハイエクの親戚の恐らく20世紀最大の哲学者といわれるヴィトゲンシュタインでした。

なおヒトラーとヴィトゲンシュタインの因縁については二人がリンツのハウプト・シューレで一緒に学んだという写真まで雑誌に紹介されていますが、真偽のほどは定かではありません。

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正面がベーグラーホーフ。
若かりしポパー夫妻が毎夏訪れたホテル

アルプバッハ(973m)では猛烈な夕立に見舞われ、足も痛いので、やっとのことで観光案内所にたどり着き、ポパーが滞在していた場所を尋ねました。直ぐに町役場に電話をして「ベーグラーホーフだ」という答えが返ってきました。

実はこのホテルは『地球の歩き方』にも出ているこの土地一番のホテルですが、写真に写っているのは雨のせいか古ぼけた建物です。16世紀からの歴史があるそうです。残念ながら雨と足の痛みでホテルに行って直接話すことはできませんでした。

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ザルツブルクのホテルでの夕食。
バターライスの上にボイルされた海の魚
ツアーの方の写真を勝手に使ってごめんなさい。

夕食はザルツブルクのメルクーアホテルで、バターライスの上にボイルした海の魚(鱸に似ているという人もいました)を載せソースをかけたものでした。

2009.8.1 掲載


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