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パドヴァ


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ジェットの壁画で埋められた
スクロヴェーニ礼拝堂

   マンテーニャの旅の最後は彼が青春時代を過ごしたパドヴァです。  ヴェローナから鉄道を利用して東へ1時間、ヴェネチアの隣町です。1222年に設置されたボローニャに次ぐ古い大学をもっています。

 この街について語るとき、一番に話題となるのは、今ではスクロヴェニ礼拝堂を埋め尽くすジョットの壁画です。1928年春にこの地を訪れた和辻哲郎は『イタリア古寺巡礼』に次のような文章を残しています。

 「しかしパドヴァにあるスクロヴェニ礼拝堂、すなわちジォットーの礼拝堂は大したものであった。外観はごく平凡であるが、中へはいって見ると、壁から天井からすべてジォットーの壁画で埋められている。つまりジォットーの壁画館のようなものである。ミケランジェロのシスト礼拝堂はこの伝統を追ったものにほかならなかった。・・・・
 ジォットーの壁画は何と言ってもここのが一番よい。・・・・・」

 詳細は岩波文庫版をお読み戴くとして、マンテーニャについても次のような短い一節があります。

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イル・サントと呼ばれ市民に親しまれている
サンタントニオ聖堂

 「イル・サントーにはマンテーニャの壁画があった。マンテーニャはそのほかにエレミタニの寺にもあった。これは実に不思議な技能を持った画家で、空間の描写では誰にもできないような離れわざをやる。しかしそれほど鮮やかに立体的に把捉された人物が、彫刻と同じように凝固した感じになっている。これも実に不思議である。」

 イル・サントには現在マンテーニャの作品は残っていません。しかし、この評価がマンテーニャに対する一般的なものです。ローマ時代の彫刻に心酔して作品の人物までが彫像のように見える、との評価です。
 ではここでゲーテに登場してもらいます。

 「エレミット派の教会ではマンテーニャの絵を見た。近古の画家の中で私の驚嘆した一人である。その画面には何という鋭敏確実な現実性が溢れていることであろう!この現実性たるやまったく真実にして、決してごまかしや当てこみ、さては徒に想像力に訴えるようなところはなく、朴直、清純、明快、周密、誠実、繊細、如実でありながら、同時に一脈の峻厳、熱誠、苦渋の影を宿しており、後代の画家がここから出発したものであることは、私がティチアノの絵に接して認めたところである。そしてやがて彼らの雄渾なる天才、活発なる資性は先人の精神に啓発され、先人の力に陶冶されて、次第次第に高く向上し、地上から舞いあがって、天上の、しかも真実の姿態を描出しうるに至ったのである。野蛮時代以後の美術はこのようにして発達してきたのだ。」

 パドヴァを代表するものとしてもう一つ、ドナテロの「ガッタメラータ騎馬像」がありますが、これについては二人とも触れていません。
 また、ゲーテはスクロヴェーニ礼拝堂には一言も言及していません。当時は個人の所有で、忘れられた存在だったのでしょうか。

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植物園 右手の温室に 棕櫚の木が
納められている

 ゲーテと一緒にこの街を紹介すると、大学については、

「大学の建物は見かけだけは堂々としているが、いささか恐れ入った。自分はこんな所で勉強せずにすんで幸であった。・・・こんな狭苦しい学校は想像がつかない。・・・」

 世界遺産になった植物園については、

「・・・それだけに植物園の方はかえって一そう爽快で溌剌としている。多くの植物は石垣の傍なり、その付近なりに植えておけば冬でも地上に置きっ放しにしても枯れない。・・」

 なお『地球の歩き方』には、「ゲーテも賞賛した棕櫚の木」とありますが、『イタリア紀行』では触れていません。Palmeと書いてありましたので椰子の一種でしょうか、温室の中に置かれていました。
 ラジョーネ宮については、

「市庁の応接の間は、拡大の綴りを付加してサローネと称せられているのも尤もで、想像もつかぬほど厖大な、仕切られた容器であり、よしんば直ぐに思い返して見てさえ、頭に浮かばぬくらいである。長さ三百フィート、幅百フィート、縦に部屋を蔽っている円天井までの高さ百フィート、なにしろ当地の人々は、戸外生活に慣れっこになっているので、建築家が市場に円天井をつけようと思いついたわけである。それに円天井のついた厖大な空間が、独自の感じを与えるものであることは疑いない。それは一種の仕切られた無限であって、人間にとっては星空よりも親近の感じがする。後者はわれわれをばわれわれ自身から奪い去るが、前者はきわめてやんわりとわれわれ自身の中へおし戻してくれる。」

 ハイネは残念ながらこの旅では、ミラノへ向かいました。

 マンテーニャの作品は後期になると、それほど硬さは感じられません。「人物が石でできた彫刻のようだ」という見解が拡がったのは、『ルネサンス画人伝』を書いたヴァザーリの罪かも知れません。ここではその批評の的確さにおいて、流石はゲーテとだけ申しておきます。

 最後にイタリアのルネサンス期の絵画のたどった運命について話します。
 サン・ゼノの祭壇画の下の三幅はナポレオンの軍隊によって持ち去られ、いまだにフランスの地にあります。さらに第二次世界大戦ではエレミタニ教会も破壊され、マンテーニャの作品も一部が破壊を免れたにすぎません。
 マントヴァでもヴェローナでもこの戦災によって多くの絵画が灰となりました。

 

2007.4.14 掲載

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