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アンドレア・マンテーニャ没後五百年の催しを訪ねて マントヴァ


  この催しは1431年にパドヴァ近郊で生まれ、1506年にマントヴァで亡くなったルネサンス期の画家であるアンドレア・マンテーニャを記念して、2006年9月16日から2007年1月14日まで、約四ヶ月にわたって、彼にゆかりの深いパドヴァ、ヴェローナ、マントヴァの三都市で共同開催されています。

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ドゥオモとソルデッロ広場

 その活動期間は順に、パドヴァが1445年から1460年、ヴェローナが1450年から1500年、マントヴァが1460年から1506年となっています。
 私は年代に逆らって三つの都市を歩きました。
 ヴェニス空港から、鉄道でパドヴァ経由ヴェローナで乗り換え、マントヴァから逆にヴェローナ、パドヴァと訪ねて、またヴェニスから飛行機でウイーンという経路です。
 位置関係を簡単に説明すると、パドヴァはヴェニスから西へ鉄道で30分、ヴェローナは更に西へ1時間20分、ミラノからは1時間半のところにあります。マントヴァはこのヴェローナから鉄道で南へ40分ほどのところです。

 これから彼の絵について説明しますが、それはイタリア・ルネサンス期の絵画の受難の歴史です。まず最大の略奪者はナポレオンの軍隊です。マントヴァでは、「勝利の聖マリア教会」の祭壇画はルーヴルにあります。有名な「シーザーの凱旋」のフレスコ画は今ではロンドンのハンプトン・コート宮殿にあります。この絵は今回も展示されていません。

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サン・ジョルジョ城

 第二次世界大戦でもルネサンス期の絵画は大きな被害を受けました。
 今回の展覧会の主会場はこの街の南にあるテー離宮で、欧州、アメリカからかなりの作品が集まっていました。しかし、マンテーニャの作品が主役というよりも各都市とも彼と同時代ないしは少し後輩の画家をこの機会に売り出そうという意図が見られました。
 特に後でまたパドヴァで触れますが、彫像のような人物を描くというマンテーニャの評判から彼の作品と見なされていたものが、他の画家の作品である、という説明が目に付きました。
 この街に残された最高の作品は、サン・ジョルジョ城の「結婚の間」の壁面に描かれたフレスコ画ですが、かなりの部分が剥落しています。1474年の作といわれ領主であるゴンザーガ一家の生活を描いています。
  街の中心にあるサンタンドレア教会の左側入り口近くの礼拝堂にはマンテーニャのお墓があります。テー離宮に近いマンテーニャが住んでいた家では、レオン・バッティスタ・アルベルティの展示が行われていました。彼も同時代の建築家で、サンタンドレア教会やテー離宮に近いサン・セバスティアーノ教会を建てました。

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アルベルティが建てた
サン・セバスティアーノ教会

 またテー離宮は1525から35年にかけてジュリオ・ロマーノが建てたもので、街中がルネサンスの建築に覆われている、といっても過言ではありません。
 ゴンザーガ家が集めたエジプトや中東のコレクションは大したもので、マリア・テレジアはこれに啓発されてあのウイーンの歴史博物館をはじめとするコレクションをはじめたといわれています。
 こういう現象があるために、ルネサンスは北イタリアから北方のフランスやドイツへ伝播したと一般には信じられています。
 しかし、私は個人的にはこの見解に疑問をもっています。
 一例を挙げれば、ゲントの「子羊の祭壇画」はその成立時期がフラ・アンジェリコと同時期に当たり、ジョットよりも古い時代になります。私としては、シシリア島からその王の出身地であるノルマンディへのルートとか、フリードリッヒ二世の父方のドイツへというルートがあったように思えます。
 話が難しくなってご免なさい。写真でマントヴァを紹介します。


2007.2.14 掲載

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