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MOERBISCH AM SEE


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ルスト街外れの入り江

脚の火傷が気になって、スロヴァキア旅行をあきらめ、ウイーンの南東にあるノイジードラーゼーの西岸のメアビッシュ・アム・ゼーに06年6月16日から25日まで滞在しました。
  ノイジードラーゼーは南北に細長い湖で、南端はハンガリー領です。メアビッシュの南の町外れはもうハンガリーです。アム・ゼーという言葉から湖に臨んだ町を想像しますが、この湖のどの町も湖から一キロほど離れています。季節的に増水でもあるのか、理由は調べていません。この町は百メートルほどの高台にあります。空き地に出れば遠く湖を眺めることができます。
 「こうのとり」で有名な北隣の町、ルストは町の外壁の側まで入江が入っていて、そこから坂になって町が広がっていました。どの町も葡萄畑におおわれています。ワインが安くて美味しいのがこの地方の自慢で、ウイーンの半値近くで飲むことができます。

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建物の上に巣をつくるコオノトリ

この地方はブルゲンラントと呼ばれ、メアブッシュから20キロほど西にあるアイゼンシュタットが州都ですが、人口は2万人にも満たない小さな町です。
  しかし、エステルハジ家の支配が続いて、立派なお城があり、州都としての設備はよく整っています。この地方ではパノーニアという言葉がよく聞かれますが、これは古代ローマのドナウ河流域をさす言葉で、オーストリアからハンガリーにわたって広がる地域を意味します。
  この地方の北にあるブルックという町はライター川に沿った町です。1867年にハプスブルク帝国がオーストリアとハンガリーの二重帝国に分かれた時に、このライター川が国境となりました。
  このブルゲンラントという地方は、当時の言葉でいえば外ライター、つまりハンガリー王国に属していました。この地方がオーストリアになるのは、第一次大戦後でハプスブルク帝国が崩壊して後のことです。
  今でも町の入口にドイツ語とハンガリー語で二つの町の名が併記されているのを見かけます。

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旧ローマ時代の石切場

もう一つこの地方の特徴として、ローマ時代からバルト海との交易路として発展してきました。イタリアのトリエストの北にアキレイアという町があります。
今ではローマ時代の遺跡が残る小さな村ですが、昔はローマに次ぐ第二の大都市で20万人が住んでいたといわれます。
  ここにはコハクの加工業者が集っており、バルト海岸で採れるコハクをポーランド、チェコ、オーストリアと運んだコハクの道の終着駅でした。
  このブルゲンラントの町々もその交易路に沿って発展しました。ブルックの近くでは、ローマのモザイク模様の床がある屋敷が発掘されています。チュニジアやシシリアで見たローマのモザイクと同じものがこの地方からも出土しているのです。ローマの影響が色濃く残るものとしてはワインの生産も忘れられません。
  この点については、ルイ十四世によってアルサス、ロレーヌが占領された時に、この地方の葡萄の苗をハンガリーに移植した、という話を聞きました。その代表例が「トカイ」です。

アイゼンシュタットは今ではハイドンの街として売り出しています。リストもやはりこの地方生れのドイツ人でした。今年はモーツアルト生誕二百五十年祭に当りますが、毎年のように何かの音楽の催しがあるのもオーストリアの観光の強みでしょうか。

2006.9.22 掲載

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