WISMAR
今年(06年)は5月30日から6月28日まで、東独とオーストリアを旅行しました。
最初の目的地は旧東独のバルト海に面したWISMARでした。
ここに九日間も滞在することになったのは、全くの偶然の重なった結果に過ぎません。
行きの機中でカップラーメンを膝にこぼして大火傷、そのために包帯がずり落ちるのが嫌で、あちこちと動き回る元気が出なかったことに加えて、6月の9,10,11の三日間が「HAFENTAGE」というこの街のお祭りにぶつかってしまいました。
そのために宿はどこも満室で、長期滞在用のフラットを借りることになりました。
しかし、10日の土曜日の夜には花火もあると聞くと、このチャンスは逃せない、などと考えてしまいます。6月は観光シーズンはまだ先で、どこの街でも、客寄せにいろいろと趣向をこらしています。昨年は東独のハルツ山麓にあるノルトハウゼンの町で、やはり6月に、「ローラント・フェスト」に出会いました。
お祭りの開会の挨拶は市長さんの役目ですが、どちらも女の市長さんでした。
WISMARの市長さんは大きな傘をもって現れました。きっと6月の初めはいつも雨なのでしょう。今年は丁度夏の気候に切り替ったときで、ここ二、三日30度近い暑さが続いていました。市長さんが大きな傘の中から小さな日傘を取り出して、今年は天候の心配もないから大いに楽しんで欲しい、といったのが印象的でした。
市長の挨拶の直前にはリューベックの帆船が入港してきました。
ハンザ同盟の基礎を作ったのは、この二つの街にローシュトックを加えた三つの街が1295年に結んだ海賊に対する同盟だったといわれています。
1241年にリューベックとハンブルクの間で結ばれた条約がハンザ同盟の最初とされていますが,その後リューベックを盟主として北ドイツの諸都市の間に同盟が作られて行きます。
このハンザ同盟は14,5世紀が最盛で、加盟都市は200を越え、ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドの四大拠点に在外商館を置いて北方貿易を独占しました。
しかし、16世紀末には事実上その活動を停止します。VISMARも三十年戦争の結果として、1648年にスエーデン国王の支配下に置かれ、正式にドイツに戻ったのは1903年のことでした。
「HAFENTAGE」のお祭もスエーデン兵の鉄砲の一斉射撃でその幕を開けました。
この町のスエーデン兵は親しみをもって迎えられているようで、ロマンチック街道のローテンブルクやディンケルスビュールのお祭りや、シュヴァーベン地方での鬼のようなスエーデン兵とは、WISMARの人たちがもつスエーデン人への親しみとの大きな落差に驚きました。
WISMARの町で一番印象に残ったのは、旧市街に隣接して鉄道の駅と港があることです。普通日本の都市も同じですが、鉄道は街から遠く離れたところに駅があります。この町では駅から町の中心まで5、6分といった感じでした。「バスはどこから乗るのか」と聞いて笑われました。
しかし、この町がその特徴として宣伝しているのは、スエーデンの影響と並んで、それよりも古くからこの地に根づいている「煉瓦造りのゴシック建築」です。
この文化は西はデンマークから東はエストニアまで、バルト海を伝って広がっています。それは「ヨーロッパ煉瓦ゴシックの道」として観光ルートになりつつあります。
WISMARはメクレンブルク・フォアポメルン州にありますが、三十分ほど鉄道で南下したところにこの州の首都であるシュヴェリンがあります。
ここは湖に囲まれて本当にきれいな街でした。お城の奥にある庭園は二、三年後に予定されている「ガーデン・ショウ」のために改装中で、掘り返されていました。
次の機会にはゆっくりと滞在したい街です。
ハンブルクから鉄道で2時間ほどのところです。
2006.8.22 掲載
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