第4回 アッヘンゼーとチラータール(その二)
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今回の旅のスケジュールを簡単に記します。
各地の詳しい様子と写真は こちらをご覧下さい。
5月23日(金) |
成田⇒ウイーン⇒インスブルック ⇒シュタイナッハ・イン・チロル |
26日(月) |
⇒ブルネック⇒ザンド⇒ライン |
30日(金) |
⇒ザンド |
6月02日(月) |
⇒ブルネック⇒シュテアツィング |
04日(水) |
⇒インスブルック⇒イエンバッハ ⇒ツェル・アム・チラー |
11日(水) |
⇒インスブルック⇒ノイシュティフト |
17日(火) |
⇒インスブルック⇒ウイーン⇒成田 |
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チラータールはインスブルックからブレナー峠に上るヴィップタールの東の谷です。
前号で書いたように、イェンバッハからマイアホーフェンまでのチラータール鉄道が敷設されたのが1902年で、すでに百年が過ぎています。古くからの観光地といえます。
1912年にロレンス夫妻がこの地を訪れたときには、アッヘンゼーからマイアホーフェンまでの鉄道は完成していました。当時としては大変に先進的な土地柄だったのですが、今では歴史から取り残されたようにSLが煙を吐いて走っています。
ロレンスは『イタリアの薄明』の冒頭の「山越えの磔像」の中で、ドイツのバイエルン地方、南北チロル地方にある「キリストの磔刑像」について記しています。
その磔刑像は昔ドイツの神聖ローマ皇帝がローマに向かった道筋に立てられ、「皇帝の道」を示す標識だというのです。
チラータールについては、「インスブルックの後ろ、チロルの中心地のツェムの渓谷には、一人の彫刻家によって作られた五つ六つの十字架像がある。・・・
彼の十字架像の主なるものは、半ば夜のようなじめじめした谷間のあるところの、クラムの中に奥深く立っている。・・・下には、川が小止みなく奔流し、大きな石の間にぶつかって、不断の騒音を立てている。・・・」
少し説明を加えると、「ツェムの渓谷」はチラー川をマイアホーフェンから先に遡った渓谷で、「クラムの中に」とあるのは、実は「ドーンナウベルク・クラム」というギンツリンクの手前の渓谷を意味しています。原文に当たっていないので、正確には分りませんが、「クラム」はドイツ語で渓谷を意味します。ここの写真もお見せしましょう。
もう一か所問題の文章は、「ブレナー峠を越えると、私はただ野卑な煽情的な十字架像を見ただけである。キリストの身体の胸と膝には大きな傷があって、深紅の血は流れ出て滴り落ち、遂に十字架につけられた身体は赤と白の条のついた恐ろしいものとなり、赤条入りのいやらしいものとなっている。・・・」
ブレナー峠を越えれば南チロルですが、磔刑像にどれほどの違いがあるか、写真でご覧ください。
私はロレンスのこのコメントの原因は次のハイネの文章にあるように思っています。
問題の文章はハイネの『旅の絵』の中の「ミュンヘンからジェノバへの旅」の第十三章にあります。
「・・・その(南チロルの)山の麓の、さほど高くない石のダムの上には、心地よげな回廊と素朴な絵でじつに愛しくわれわれを見つめる、例の小さな家の一つが立っていた。一方の側には、大きな木製のキリスト十字架像が立っている。しかもそれが葡萄の若木の支えの役をしており、生が死に、みずみずしい緑の蔓が、キリストの血を流した肉体に、十字架に掛けられた両腕、両脚に絡みついている様子は、身の毛のよだつ晴れやかさ、と言ってよいものだった。家の反対側には、円い鳩小屋が立っていて、・・・とくべつ優美な白鳩がしゃれた尖った小さな屋根の上にとまっていた。そしてこの屋根は、・・・一人の美しい紡ぎ女の頭上に突き出ていた。・・・その紡ぎ方は、ドイツの糸車方式ではなく、亜麻を巻いた糸巻き竿を腕の下にかかえ、紡いだ糸が、宙にぶらさがった糸巻き棒の下をかい潜るという、あの古風な方法だった。・・・」
大変に長い度々の引用で御免なさい。
この文章には、ロレンスが次の章で書いた「ガルダ湖畔にて」の冒頭の「紡ぎ女と修道僧」のメイン・テーマがそろっているのです。
まず鳩と鷲の寺院。次が紡ぎ女です。
百年も前に先を越されたハイネへの恨み節が、「ブレナー峠を越えると・・・」のロレンスの文章になったのではないでしょうか。
今回は堅い話になってしまいました。
次回は第二回のときにお約束した南北チロルの物価にも触れるつもりです。
注)下記の本より引用させて頂きました。
岩倉具栄訳 『ロレンス短編集』 新潮文庫
木庭 宏編 『ハイネ散文作品集』第2巻 松籟社
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