第3回 アッヘンゼーとチラータール
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今回の旅のスケジュールを簡単に記します。
各地の詳しい様子と写真は こちらをご覧下さい。
5月23日(金) |
成田⇒ウイーン⇒インスブルック ⇒シュタイナッハ・イン・チロル |
26日(月) |
⇒ブルネック⇒ザンド⇒ライン |
30日(金) |
⇒ザンド |
6月02日(月) |
⇒ブルネック⇒シュテアツィング |
04日(水) |
⇒インスブルック⇒イエンバッハ ⇒ツェル・アム・チラー |
11日(水) |
⇒インスブルック⇒ノイシュティフト |
17日(火) |
⇒インスブルック⇒ウイーン⇒成田 |
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シュテアツィンクを9:20発のミュンヘン行きに乗ると、インスブルックを経て、10:57にはイエンバッハに着きます。ここから北に向かえばアッヘンゼーですが、私は南へチラータールに入りました。
11:22発のチラーターラーバーン(チラー谷鉄道)に乗り継ぐと、12:06には終点のマイアホーフェンの少し手前のツェル・アム・チラーという町に着きます。ここの観光案内所は、この電車のために、12:30まで事務所を開いています。
そこで安いところと言って、一泊19ユーロの部屋を見つけましたが、正直いって、これは失敗でした。勿論、トイレ、シャワー、朝食付きですが、テレビとバルコンがありません。もう少しお金を出しても、テレビとバルコンの付いた部屋を探すべきでした。
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イエンバッハ駅に停車中のアッヘンゼーバーンのSL |
皆さんから見れば、「なぜマイアホーフェンでなくてツェル・アム・チラーに泊まるのか」と不審に思われるでしょう。
町が小さい方が安い宿が見つけ易い、と思ったことも一つの理由ですが、前回の訪問で、ここに安いレストランを見つけたのが大きな動機でした。
実は今回の宿がそのレストランから二、三分の距離にあったのが、この宿で妥協した大きな理由でした。食事の値段については後でまとめてお話しします。
ここには七泊八日滞在しました。
ここチラータールには、この谷の交通機関とリフトを自由に利用できる、Z-カードがあります。
6日間で39ユーロ、9日間で53.60ユーロ、12日間で67ユーロと三種類のチケットです。
今回私はリフトを使うつもりがなかったので、アッヘンゼーとチラータールの交通機関(但しアッヘンゼーバーンは除く)が自由に使える1週間チケットを23.30ユーロで購入しました。
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ツェルアムチラーで泊まった宿 |
久しぶりにアッヘンゼーを見たくなったのです。
今から20年ほど前の1982〜83年にかけての冬に、家族でスキーを楽しんだところです。ただ今になると、どこで泊まり、どこで滑ったのか、まったく覚えていません。
そこで記憶喪失者がどこまで記憶を取り戻せるか、試して見たくなったのです。
アッヘンゼーを6月5日と7日の二日にわたって訪ねました。湖の南端のマウラッハを通って西岸のペルティサウまでは比較的交通の便がよいのですが、マウラッハから湖の東岸を北の端にあるアッヘンキルへに行くバスの便数が少なくて苦労しました。
このためかアッヘンキルへの湖岸は寂れていました。ショックだったのは、今年の初めに、私も何度か泊まった思い出のあるホテルのアッヘンゼーホーフが取り壊されて、跡形も無くなっていたことです。このホテルは町から少し離れて湖の東岸に面しており、湖岸の散歩道は趣きがありました。
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西岸にあるペルサウのプロムナードからみたアッヘンゼー |
アッヘンゼーの北端は、お天気のせいか、とても淋しい場所に思えました。
ロレンスとフリーダはこの道をたどってオーストリアに入ってきました。
二人はなぜこの道を通ったのか。
私の考えでは、この湖の南端からイェンバッハまでのアッヘンゼーバーン(アッヘン湖鉄道)が開通したのが1889年、そしてイェンバッハからマイアホーフェンまでのチラータールバーン(チラー谷鉄道)が1902年に完成と、ロレンスがこの地を通った1912年には、南に行くには注目された道の一つだったのでしょう。
旅行者にとっては、そのまま歴史が止まって、いまだに蒸気機関車が走るこの地方は、それなりに魅力があり、ロレンスの旅が身近に偲ばれます。
アッヘンゼーでは結局何も昔のことを思い出せませんでした。
スキーリフトはどの町にもあり、一体どこで滑ったのか見当もつきません。
どうもアッヘンゼーホーフに泊まったような気がしますが、そのホテルは今年の初めに取り壊されていました。
アッヘンキルへのカフェのご主人に、「イラク紛争をどう思うか」と聞いてみましたが、土地のお客が来たためか、返事は貰えませんでした。
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アッヘンキルヘの村落風景 |
チラータールで今回のお目当てだった、シュレークアイスゼーからイタリア国境のフィッチャーヨッホまで歩く計画は、まだシーズンオフでバスが途中のギンズリンクまでしか行かないために、今回は諦めました。また来年来ればよい、というのが私の流儀です。
ということで、次回はロレンスが熱心に書いたチラータールの「キリストの磔刑像」について写真で説明いたします。
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