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第2回 交通の要衝シュテアツィング

今回の旅のスケジュールを簡単に記します。
各地の詳しい様子と写真は こちらをご覧下さい。

5月23日(金) 成田ウイーンインスブルックシュタイナッハ・イン・チロル
26日(月) ブルネックザンドライン
30日(金) ザンド
6月02日(月) ブルネックシュテアツィング
04日(水) インスブルックイエンバッハツェル・アム・チラー
11日(水) インスブルックノイシュティフト
17日(火) インスブルックウイーン成田

シュテアツィングの町は地図でお分りのように、チロルの州都インスブルックから南へ。ブレナー峠から鉄道で十五分ほどのところです。 イタリア名はヴィピテーノ。昔から宿場町として栄えました。
 今では通過する列車も多く、車がないと不便な土地です。 しかしそれでも、かなりの観光客が集まっていました。通りの中ほどにある塔を挟んで、北が旧市、南が新市に分かれていますが、 この新市が他の町なら旧市と呼ばれそうな趣があります。

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シュテアツィングの停車場

私が泊まったのは、旧市にあるガルニ・フェルべ。ガルニは朝食だけを出す宿屋のことで、フェルベは色という意味のドイツ語の複数形で、 最初公共の建物として使われた後、染色工場だったためこう名づけられたようです。
 大変に古い建物ですが、室内は完全に改装され、工場の跡を留めていません。今では清潔で十分な広さの部屋がある立派なホテルです。
 ここで朝食の時に、南ドイツのウルムから聖霊降臨祭の休暇を利用してスクーターで旅行中のシュスターさんに出会いました。 これからドロミテに向かう途中とのことでした。
 ドロミテ地方はその特異な山容から夏は登山、冬はスキーと人気の北イタリアのリゾートです。 スパゲッティ・西部劇と呼ばれたイタリア製の西部劇の作られた舞台でもありました。

地獄で仏ならぬ、シュテアツィングでシェスターさんとの出会い

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ホテルから出発前のシェスターさん

シュスターさんは、イラク紛争について次のように話してくれました。
 「問題は、やはり、アメリカが国連の同意なしで戦争をはじめたことです。確かにフセインは独裁者ですが、それを言い出すと、 アフリカの国の半分以上は独裁国家です。アメリカ人の考え方を世界に押し付けるのには限界があるのではないか」  また彼の話では、「自分は仏教徒で、ヒマラヤで修業したことがあり、禅に興味をもっている」とのことでした。
 クルドの問題については、「第一次大戦後に行われた英仏中心の国境の線引きは、アフリカでも、中東でも現在まで問題を残しています。 しかし、その解決の見通しとなると、私には?」

実はシュスターさんにめぐり合えるまでが大変でした。
 イタリアでは、かなりの田舎でも、鉄道の駅にはバーか食堂があり、町の人たちの溜まり場になっています。 この点は、ドイツやオーストリアの地方の駅がさびれてしまったのとは対照的です。
 最初はここを狙って一杯やっている人にインタビューしようとしたのですが、切り出す勇気がなくて諦めました。

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旧市街側の広場に立ち並ぶカフェとレストラン

次にホテルの裏側で、旧市のブレナー峠よりの入り口に近いPUBに入りました。
 参考までに、0.5リットルのビールが3.60ユーロ(1ユーロを140エンとして505エン)で、日本よりは安いのですが、オーストリアでは2.50ユーロという店もあります。 これがワインとなると全く逆でイタリアの方が安くなります。この詳細については次の機会に説明します。
 さて目的の「イラク戦争についてのコメント」ですが、ここでもカウンターの隣に腰掛けている男は、 そのもう一人向こうの女の子に夢中で私の方を振り向こうともしません。

そしてやっとのことで、翌朝シュスターさんが朝食のテーブルで、私の隣に座ったということです。

誰でも通るブレナー峠

昔からイタリアに入る最も重要な街道沿いなので、多くの有名人がこの町を通っています。例えば、ゲーテは『イタリア紀行』の中で、 「九時にシュテルチングについたが、直ぐにまた私に出発してもらいたいようなけぶりだった」とたった一行だけこの町に触れています。
 ハイネはこの町にかなり未練があったようで、「・・・私は丹念な旅行者だから、シュテルツィンクの宿は女主人こそ年寄りだったが、 代わりに二人の若い娘がいて、娘たちは、馬車から心が降りさえすれば、眼差しでこの心を本当に気持ちよく暖めてくれる、ということも述べておかなければならない。 ・・・」と書いています。
 『チャタレー夫人の愛人』で有名なD.H.ロレンスはフリーダとの婚前旅行のときにこの町を出たり入ったりしました。 ミュンヘン近郊を出発した二人は、アッヘンゼーからチラー・タールをマイアホーフェンまで。 ここで暫く滞在してからフィッチャー・ヨッホを越えてシュテアツィングに出ます。 ここからヤオフェン・パスを通ってメランへ出る予定でしたが、道を間違えてまたこの町に戻ってきます。

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旧市広場にあるカフェ「シュベメ」から、街のシンボルの塔を見上げると

この時に、ロレンス夫妻がどこに泊まったのかは、マイアホ—フェンでも、シュテアツィングでも分りませんでした。当時、彼らが無名であったこと、ガルダ湖畔の生活のように作品が残されていないことなどの理由が想像されます。
 私がこの地に滞在した六月初めは、まだシーズン・オフで、フィッチャ—・ヨッホの小屋は閉まっていました。
 ここから私は、ロレンスのとったコースとは逆に北へ向かって、ブレナー峠からインスブルックを経て、イエンバッハまで。 ここから南へチラー・タールに入りました。

次回はロレンスがドイツからイタリアへとたどった道筋のオーストリアの部分を紹介しましょう。

 

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