WEB連載

出版物の案内

会社案内


今回は、元衆議院議員の水島広子さんにお話をうかがいました。

水島さんは、ロゼッタストーンの発行していた女性国会議員メルマガ「ヴィーナスはぁと」のメンバーで、私が期待していた女性議員の一人でしたが、 現在は政界を引退し、本業の精神科医として心の健康の問題に取り組んでいらっしゃいます。

なぜ政治家を辞めてしまったのか、民主党の何が問題だったのか、選挙制度はどうあるべきか、日本の医療の問題点など、こちらが投げかけた質問に 対して、きわめて率直にいまの思いを語ってくださいました。当日のお話の要旨をご紹介します。

(ロゼッタストーン編集部:弘中百合子)


第6回 元女性国会議員が語る政治と医療の問題点


【Q】女性の国会議員はなぜ増えないのか。水島さんが衆議院議員(2000〜2005年、2期)だった10年ほど前から変わっていない。どこに障害があるのか。

子を持つ女性の国政参加ということで、大きなネックになっているのが、どこで子育てをするのかという問題だと思う。言い換えれば、子どもの地元をどうするのかという問題だ。議員宿舎で子育てをしている国会議員はたくさんいるが、女性議員で子育てにそれほど苦労していないというのは、東京で子育てをしている2世議員だと思う。彼女たち自身が東京で育っているし、地元・選挙区には昔からの大番頭がいて、ふだん暮らしていなくても大丈夫となっている。

わたしは国会議員だった当時、保育園児だった子どもを自分が生まれ育った仕事・生活の基盤である東京と選挙区である宇都宮の保育園、両方に通わせていた。けれども、小学校にあがるときには、単一の学校に通わせることが必要になる。それを東京にするのか選挙区にするのか。わたしの場合、東京から落下傘で選挙区・宇都宮に落とされた人間だったし、本人に東京の友だちと遊びたいという希望もあったので、本来の地元である東京の公立小学校に通わせることにした。

家族は地元・選挙区にいて、自分が国会の会期中は東京に単身赴任してくる人も少なくない。たとえば、民主党代表の岡田克也さんがそうだ。子育て期間を終わったような大きい子どもなら、それもよいだろう。けれども小さいうちは難しいと思う。東京へ単身赴任するとウィークデイに子どもとまったくかかわれなくなるからだ。

わたしの場合、宇都宮の小学校に入れると平日は子どもに会えないし、週末に自分が宇都宮に帰っても選挙活動で忙しい。東京で平日の仕事が終わったあとに学校に通う子どもとかかわるほうが、ずっと長い時間を過ごせる。週末から単身赴任で選挙区に滞在することになるが、学校が休みの子どもを連れていけば、選挙区で一緒に過ごすこともできる。それが現実的な選択だった。そして選挙区では、わたしが子どもを東京の小学校に入れたことで、「宇都宮の学校はレベルが低いからだ。だから家をたたんで東京に行った」などと、当然のようにデマが流された。

わたしは2005年の「小泉郵政選挙」で落選したが、その立候補前からこれが最後の立候補であることを表明していた。つまり、国政よりも、子育てを最優先にして自分のキャリアを考えていく道を選ぼうと決めていた。同じような悩みが、どうして子育て世代の男性にはないのか。女性議員が増えないことの原因には、根深いものがあると思う。

東京生まれのわたしは新宿区と世田谷区で育ち、いま港区に住んでいる。つまり、そもそもの地元・選挙区は東京1区か世田谷だ。最初に民主党の女性公募で応募したときには、その2つの選挙区を希望したけれども、先に男性候補、現職がいてダメだということになった。民主党に有利な選挙区、たとえば菅直人さんのいる武蔵野や世田谷などは、党内で政治的に力のある人に取られてしまっている。

落下傘候補というものはそもそも不利なのだが、女性の新人が立候補できる、空いている選挙区は民主党に不利なところしかない。わたしはたまたま当選したが、ほかの女性たちはほとんど落選した。そのせいもあって、いつまでたっても女性議員が増えない。

こうした問題は民主党に限ったものではない。たとえば、労働組合でも、トップに立った人でないと政界には進出できないが、基本的には男性しか上にあがっていかない。なにかの業界をバックに力をつけて選挙に出られる人にしても、そうだ。

逆にいえば、すっかり男性化している女性たち、結婚せずに子どもを持たず、ガツガツ出世していきたいという人たちは、ふつうに永田町で活躍できるということだ。けれども、そういう人たちは、概して女性の問題や子どもの問題に取り組まない。つまり、いくら数が増えても、いわゆる「女性議員」として役に立たないわけだ。

いま国会にいる女性議員の数も少ないが、その人たちがメーンに取り組んでいることを見たとき、本当に女性・子どもに関する政治課題にたずさわっている人が何人いるかというと、衆議院では、一桁の人数しかいないと思う。

評論家の樋口恵子さんがあるとき、「若い頃に子育てとか男女平等とか訴えていた元気な人たちが、ある年を境になにも言わなくなる。それは、自分自身の子育てがうまくいっていないからではないか」と言っていたが、そういう影響もあるだろう。

小泉政権時代の片山さつきさんのような女性の目玉候補、刺客というような形で女性議員が注目されることもあるが、乳飲み子を抱えての議員活動というのは先に述べたように難しい面がある。ただし、その世代の声が大切なのは間違いない。いま安倍政権がやっている女性の活躍のためという政策、3年間の育休などは、まったくピント外れだと思うのだが、それをピント外れと感じられる人がいないということは、やはり問題だ。


【Q】女性議員を増やすには、どうすればいいか。

クオータ制を導入しないといけないだろう。ただし、日本はそれに対する理解が遅れていると思う。クオータ制について、「女性が3割以上いないといけない制度」というふうに思っている人が多数のように感じるが、そうではない。同制度の先進国であるノルウェーなどの定義によれば、クオータ制とは「どちらか一方の性が一定割合を超えないこと」だ。たとえば保育士さん。いま女性が6割以上を占めているとしたら、男性を4割以上にしなければいけない。男性の割合もその対象となるわけで、これがクオータ制だ。

また、いま安倍政権がいっている「経済界に対する女性幹部職の数値目標などの要求」というのも、まったくデタラメだと思っている。ノルウェーでもそうだが、まずは政党がそれを実現し、次に公的セクターが実現し、その次にやっと民間なのだ。利益がかかわってくるようなセクターほど実行が難しいのは当然だ。非営利団体で、導入しやすいはずの自分たち政党で、それをやらないでおいて、あと何年で何割という数値目標を民間に課すとは、いったいなんなのだろうと、すごく不思議に思う。やるならまず政党から。比例代表などで、候補者40パーセントクオータなどと制度化していくべきだと思う。

じつは、男性議員はクオータ制に強硬に反対しているわけではない。男性は戸惑っているだけだ。「そんなことをして日本は大丈夫か」という不安がある。賛成か反対かでいえば、反対だが、「なぜ?」と聞くと、「ちょっと心配で」と答える男性議員が多い。残念なことに積極的に反対するのは、女性議員だ。自民党の高市早苗さんや山谷えり子さん、稲田朋美さんなど、いわゆるタカ派の女性たちが反対する。

なぜ反対するのか聞くと、「わたしたちは、この条件でここまでやってきたのよ。下駄をはかせてもらう女性と一緒にしないでちょうだい。量より質でしょ」などと答える。「国会にいる全男性が優れているとでも思っているの?」と突っ込みたくなるのだが、女性が反対しているからという理由で、法案などが取り下げになる。

「選択的夫婦別姓」もそうだ。議員時代、宇都宮のおじさんたちによくこんなふうに説明していた。「最近、ひとり息子、ひとり娘でしょ。墓守りがいなくなるから結婚できないのよ」と話すと、「そうか、別姓にしておいて、次の代に子どもが2人生まれたらいいな」などと賛成してくれていた。お墓というのは保守的な人たちにきく。また、「わたしのように、姓が変わると、業績が消えちゃうのが困るから」と言うと、「あ、そうだね」などと理解を示してくれた。「困る人たちのために、そういう例外があってもいいんじゃないか」というのが、普通の保守的な中高年男性の意見なのではないだろうか。

じつは、既婚者である高市さんは、旧姓を通称として議員名に使っている。山谷さんも旧姓。国会議員は通称が許される恵まれた職業で、通称使用は許されない仕事もたくさんある。「通称を使用して2つの世界をもてるほうが女性は自由になれる」などと言って、自分たちのことは棚に上げて、いつまでも選択的夫婦別姓に反対しているというのは信じられないことだ。

女性議員が反対しているから、女性票を失うのが嫌だからと男性議員も反対するのだが、じつは、男性議員の本音は「話がよくわからないから保留にしてくれ」というものだ。「よし、いっちゃおう」などと、勢いで決断することが男性議員にはあまりない。たとえば、岡田克也さんもそういうタイプだ。彼とわたしは一緒に「子ども手当」をつくったのだが、勉強会を何度もやり、講師を招いて理屈もしっかりつけて、お金の計算もし、控除から給付へという道筋を示したおかげで、慎重すぎる岡田さんの頭にようやく子ども手当がしみ込んだ。


【Q】子育てについて、現在の政策には、なにが足りないのか。

「社会的保育」、社会的な子育てという観点があまりにも少ないと思う。たとえば、わたしが国会議員だったとき、選挙区の宇都宮では、「あの人は忙しいから子育てしている暇はないだろう、ご飯をつくっている暇もないだろう」と、周りの人がおかずを差し入れてくれたり、子どもをお風呂に入れておいてくれたりと、いつも子育てをサポートしてくれた。つまり、地域で子どもを育ててもらえたおかげで、ハンディを感じずに仕事ができた。そういった地域が、いまはなくなってしまっているのではないか。

また、少子化がすすんでいることによって、子どもにとって、同年代だけでなく身近な大人も少なくなっている。ある調査結果によると、最近は反抗期のない子、親が一番の親友という子が多い。これは、親以外の大人が怖い、友だち付き合いが怖いという気持ちの裏返しだろう。つまり、いついじめられるかわからないから、自分の味方でいてくれるはずの親が一番好きということ。子どもが「外」を怖がるというのは非常に問題だと思う。

さらに、親が子どもを自分の通信簿のように思っていることも問題だ。親がうまく放任できていないのだろう。ただしその背景には、子どもをひとりで外に遊びに出すことが危険になってきているということがある。この傾向は、都心よりも地方のほうが顕著だろう。

アメリカに住んでいるときに、子ども同士が勝手に遊べないという不自由さを経験した。わざわざ親同士が電話でアポを取りあって、子どもたちの「プレイデート」をセッティングして子ども同士を遊ばせる。子どもが勝手に友だちの家に遊びには行けないのだ。かならず親が車で送り迎えをしなければいけない。最近、日本の地方でもそれに近い状況になってきているように感じる。

いまは「大人の目」が多い都心の下町のような街のほうが子育てしやすいのではないだろうか。地方では、親同士の付き合いもうまくできていないと思う。わたしが暮らしている麻布十番では、商店街があって親同士の付き合いも多い。なので、子ども同士が気軽に出入りできている。

労働法制を改正することによって、「社会的保育」を可能にすることが重要だと思う。子育てや少子化が政治課題だといっていながら、働く親たちを早く家庭に帰らせるような労働法制になっていない。とくに働くお父さんは帰らせていない。いま共働きで子育てをするなら、保育園のお迎えのことなど罰ゲームのような悲惨な状況を覚悟しなければいけない。待機児童も結局はゼロになっていない。

つまり、社会的保育ということがまったく考えられていないのだ。なにも「幼保一体化」だけが問題なのではなくて、親の労働法制から変えていかなければ、社会的保育は絶対に実現しない。この点が現在の安倍政権はぜんぜんわかっていないと思う。

アベノミクスなどによって、結局はだれも結婚できない、だれも子どもを持てないとなっていくのではないだろうか。

いまは変な意味で二極化している。すごく忙しくてお金はあるけれども、子育てをする暇がない人たちと、すごく貧乏で子育てをする時間はあるけれども、お金がなさすぎていい子育てができない人たちとに分断されている。まさに希望格差社会だ。ただし、希望格差社会というのは、有望な人たちがいるということが前提だろう。わたしは、お金があっても時間がない人たちを有望だとはまったく思っていない。むしろ、人間としての生活と魂を売り渡して、なんとかお金を稼いでいるという劣悪な印象を受ける。つまり、現状は希望格差社会にすらなっていないと思えるのだ。

ほどほどにお金があって、ほどほどに時間があってという人が、かつての日本にはたくさんいた。「一億総中流時代」といわれた頃は、すごいお金持ちはいなかったけれども、すごい貧乏もいなくて、忙しいのは忙しいけれども、働く親は夕方6時になったら家に帰ってくるという家庭が普通だった。また、お父さんが遅くても、お母さんはかならずうちにいるというような家庭も多かった。そうした中流の破壊を深刻化させる方向に、安倍政権の政策は進んでいるのではないだろうか。


【Q】この先、抜本的な政治改革が必要なのか。

いまはタカ派の女性議員が目立っているが、もともと保守的でタカ派の人たちのほうが選挙に強い。組織があり、人の欲求不満のはけ口になるからだろう。社会的にイライラがつのってくると、威勢のいいことを言っている右寄りの人たちがどーっと当選する。そのあおりで、民主党の政権交代選挙も含めてだが、左右のバランスの取れた質のいい議員がぼとぼと落ちる。いま残っているのはろくなものじゃない。

つまり、日本の議会政治そのものが劣化している。これを改めるには、選挙制度を変えるしかない。制度を変えないと、日本はもうじき終わると思っている。現在の日本の選挙制度は最悪で、まったく民意が反映されていない。

小選挙区制という暴力的な装置をつくった1993〜94年の細川政権が日本の政治を悪くしたと思う。小選挙区がいいと言っていた張本人たちが、なぜ責任を取って政治を辞めないのかということが、わたしには不思議でならない。

理想の選挙制度のイメージとしては北ヨーロッパで、ひとつのモデルとしてはドイツの制度だ。比例代表で政党がオキュパイ(占拠)できる議席を決め、その枠に誰が入っていくかは小選挙区で決め、残る議席は惜敗率で決める。投票の仕方は現状と同じだが、集計方法を変えるわけだ。おそらく民意が最も反映されると思うし、候補者にとっても、有権者の身近にいられる扱いやすいサイズだと思う。

重要なのは、政党が名簿の順位を作らないということ。政党が名簿を作ると、その順位をお金で買うようになったり、大きな組織が優遇されたりということにもなる。基本的には、誰が枠に入れるかをフェアに有権者の投票で決める。

わたしは惜敗率の枠というのは大切だと思っている。そこで質のいい議員が選ばれていくはずだ。有権者の中には「ゾンビみたいに落選候補が蘇ってくる制度は気持ち悪いから止めてくれ」と言う人も少なくないが、小選挙区で当選すれば100パーセント白、惜敗率95パーセントだったら薄いグレーだと思う。そのほうが質のいい候補者をより多く国会に送り出すことができるだろう。

この選挙制度では、ドイツを見ればわかるように多党連立になる。つまり、常に複数政党が政権にかかわるので、政権交代が起こったような起こらなかったようなという動きになる。これがいいのだ。ちょっと右側、ちょっと左側というよいさじ加減ができてくるだろう。

わたしは、がらりと変わる政権交代というのには一度も憧れたことがない。それは男性的な発想というか、一度すべてぶち壊してしまって、もう一度ゼロから作り直そうという暴力を感じる。

民主党政権が誕生した2009年の政権交代選挙は、当時「民主主義が勝った」「日本が成熟した」などと称賛されたが、わたしはひとりで落ち込んでいた。「こんな怒りの中で選挙が行われ、政権交代が行われ、もう最悪だ」と。ただ単に自民党だという理由だけで、あんなにいい議員なのにと思うような人が、ぼとぼと落ちていく。それは日本の議会政治にとって大きなマイナスだった。「仕分け」も最悪だった。それが結局、民主党に対する暴力的な期待を生んでしまい、その暴力が民主党を滅ぼした。

自民党の人たちと話していても、安倍さんの戦争法案を支持している国会議員はむしろ少数派だった。旧宏池会を中心に平和的な日本を望んでいる。なぜ、声をあげなかったのか。それは、刺客を送り込まれると困るから、公認を外されると困るから。つまり、自民党の枠の中にとどまっていないと選挙に落ちてしまう。そのためには、官邸の言うことを聞くしかない。自民党の中で明確に反対したのは村上誠一郎さんだけだったが、中選挙区時代だったら、何人も出てきたと思う。

河野太郎さんなど自民党のリベラル派はなにをやっているのか。しょせん、ごまめの歯ぎしりなのか。いわゆる「ダーティーなハトさん」、利権はいろいろあるけれども平和問題や人権問題についてやっている人たちは、どうしてしまったのか。いま無所属だからかもしれないが、元自民党の亀井静香さんは戦争法案にちゃんと反対していた。

民主党にしても、長島昭久さんが国会で、安倍さん寄りの「本当は憲法を改正したほうがいい」というような質問をした。いったいこの政党はどうなっているんだ、どっちなんだと、わたしでさえ思った。

「いまの選挙制度を変えるしかないんだ」というエネルギーが、自民党の内部を含めて政界にたまるのを待つしかない。けれども、そうならないうちに日本がどこかの属国になってしまって、どうしようもない国になってしまう可能性さえあるのだ。

たとえば、集団的自衛権などよりも、よほど重要な問題が貧困の問題だ。いまのままでいって20年後の日本はどうなるのか。いまネットカフェなどで過ごし、コンビニ食品を食べながら、なんとかしのいでいる若者や子どもたちが大人になったとき、日本はどうなってしまうのか。本来、それが一番論じられるべきことだ。こんなにも延長した国会の会期の中で、結局、集団的自衛権のことばかり議論されているというのは、いかにも女っけのない政治だなと思う。


【Q】党議拘束については、どう考えるのか。

いまのような小選挙区制だったら、党議拘束はあってはいけない。比例代表で当選した人は拘束がかかってもいい。ただし、比例代表でも、惜敗率で入ってきた場合には、それなりの実力は認めるべきだと思うので、個人としての信念に従って動けるというのがいいと思う。

イギリスのように、党が選挙区を与え、党が罰を与えというように、本当に党主導でやっているところは党議拘束がなければいけないだろう。ただし、いまではイギリスも二大政党制が機能していない。日本はどちらかというと、アメリカ型の小選挙区制だ。それぞれの候補者が勝手に実力であがってこいというタイプ。アメリカはすごく大きな問題以外は党議拘束がない。その人の投票履歴を見て、次の党の推薦を決めている。

わたしは原則として党議拘束を止めて、すべての国会議員がなんの法案に賛成し反対したかをぜんぶ記録し、公表すべきだと思う。ただし、比例代表のはしっこの当選者は党議拘束を受けるといった例外は必要かもしれない。

いずれにしても、多党連立のほうが望ましい。たとえば、民主党と社民党の連立政権しか数が合わないというのだったら、民主党も左側に対して謙虚になって連立政権をつくる。あるいは、自民党が公明党と離れるかわりに、民主党とくっつくというのであれば、今度は民主党が右に走りすぎないように、社会民主的にブレーキをかける。そんなふうに民意を読んで、どちらかに行き過ぎないようにできる選挙制度のほうが健全だと思う。

昔は自民党のなかで、宏池会とどこかというような、疑似政権交代をやっていた。国会でも、社会党の顔を立ててなどと裏でつながっていた。最近は、中選挙区時代の昔の政治のほうがよかった感じがしている。


【Q】もう一度「国政に」とは考えていないのか。

いま上の娘が高3で、下の息子が中2。子育ては一段落している。下の子に、自分のことをうちでは「かか」と言うのだが、「かかね、日本で初めて女性の総理大臣になるかもしれないと言われていたほどの人なんだよ」と言ったら、「ふーん、なんで辞めたの?」「いや、子どもたちのことをちゃんと見ておかないといけないと思ったから」「それだったら、もう大丈夫だから、また目指しなよ」と言われた。けれども、「いまはボランティアのほうで一生懸命にやっているから、忙しくてダメなの」と答えた。

国会議員時代に、わたしは宇都宮の選挙区から民主党で初めて、女性の県議を一人当選させた。当時の民主党の実力はしょせんそのくらいだった。以来、彼女は地元でずっと活動を続けているし、いまでもいい関係だ。女性県議をつくったということで、わたしが栃木でやるべきことはやったかなとは思っている。

最初の自分の選挙戦のとき、ビラ配りの準備をしていると、支持者から「頼むから、となりの家だけには選挙を頼ませないでくれ」と懇願された。つまり、わたしを支持していることが人に知られて、地域で浮いてしまうのが怖いのだ。地方の選挙区はやはり情の世界で、どうしても票固めは、親戚や同級生、地域がメーンになる。候補者が親戚だからしょうがない、同級生だからしょうがない、同じ町内だからしょうがないというので、初めて立候補も応援も許される。

わたしは医師会主催の公開討論会をちゃんとやって、宇都宮市で初めて自民候補とともに医師会に推薦されたのだが、これも同じ医者だからしょうがないという、情の世界的な「言い訳」ができるからだと思う。

女性は政治的な飾り物として使われやすい。わたしが支持者によく言われていたのは、「女の人が政治家になったほうがいいよ、悪いことをしないから」と。当時は献金疑惑や色恋沙汰といったスキャンダルが、ほとんど女性議員になかったせいで、女性候補に対して「クリーン」というイメージを持っている男性が多かった。

要は「自分のことばかり考えていないで、お金のためじゃなくて、国民のために働いてくださいよ」というのが、政治家に対してみんなが思っていることなのだ。それを象徴していたのが在りし日の女性政治家。社会の光がなかなか届かないところに光を当てるというのが、在りし日の女性の国会議員のイメージだと思う。その期待どおりのことを女性議員がやっていないから、女性議員が増えないのかもしれない。

わたしは精神科医をやっていて、「社会がよくなれば個人もよくなるだろう」という発想で政治に参画して、選挙戦に出馬した。落下傘候補だったからだと思うが、支持者はなにか白馬の王子さまのような幻想をわたしに抱いていた。自由な人だからなにかやってくれるだろうという過度な期待があった。

その印象は、在任中もずっと変わらなかった。つまり、社会よりも先に個人だということ。結局、「人の依存性を増しているだけだと、いつまでたっても市民的な政治運動はできない」と思った。「水島さんだからできるんだ」と思われ続けたら困るのだ。

わたしがいま取り組んでいるボランティア活動は「アティテューディナル・ヒーリング」、AHという活動。自分が責任をもつのは、自分の心の姿勢だけでいい。そのかわり、そこをちゃんと自分で操縦しましょうということ。だれだれのせいでと思いたくなる気持ちを、そうじゃなくて、というふうに自分で思っていくというのがAHだ。いま全国のあちこちに拠点ができていて、ここ、麻布の「AHジャパン」に出入りした人だけでも、もう1500人ほどになっている。

わたしのAH関連の本も売れていて、2014年に出版した「女子の人間関係」というのは9万2千部。小選挙区で、お金を払わずに投票してくれる人が10万ちょっとだったが、1500円も払って買ってくれる人がそれに近い数だけいる。これはすごく大きいことだと思う。じつは、わたしはいま、ものを書くのに一番多くの時間を使っている。その傾向はますます強めていくつもりだ。

わたしはこれからも攻撃系ではなく癒し系でやっていきたい。わたしの選挙のときによく出ていた不満が、「選挙はケンカなんだから、もっとケンカ腰になれ」というものだった。わたしは相手の悪口を決して言わなかった。むしろ「攻撃し合うのは悲しいことじゃないか」と訴えた。「もっと子どもたちというところに注意を集めよう」と。そうすれば、だれかをいじめるなどということにはならない。「この選挙だって、相当、町の空気を悪くしている。ケンカのにおいがする。そんな中で子どもを育てたいと思うのか」と。

つまり、これも先に述べたAHといえる。人のせいにしないで、まずは自分の心の姿勢からということ。わたしはこれからもそこに、時間とお金を投資していきたい。

今年から政治をAH的に考えるというワークショップを始めた。1回に参加できる人数が10〜20人。政治と宗教について話せないというような常識が世界的にあるなかで、参加者が政治について、一日中、ケンカもせずに輪になって話した。「あっ、直接民主主義の最初ってこうだったんだろうな」と感じる貴重な体験だったし、みんなが癒されて帰っていったというのは、すごいことだと思った。

政治の分野でこそ、分断よりもつながりが必要だろう。つまり、AHの活動と一致する。政治に対しては、そういう形でかかわっていこうと思っている。じつは、民主党の原口一博さんがAHのファンで、「心の平和議員連盟」をつくってくれるという話もある。原口さんによれば、党派を超えて国会議員が興味を持ってくれている。

原口さんには、国会議員時代から「違いを強調するんじゃなくて、一緒に活動できるところで活動していくという、その心の平和が大切なんだ」と話していた。いかに政治家という職業が癒しを必要としているか。そういう着眼点は意外とない。とくに声高に破壊的なことを言っている政治家は、それだけ癒しを必要としている。そう思って見ないと、結局、暴力には暴力をというような状態になってしまい、日本の政治がどんどん焼野原になってしまうと思う。

原口さんのような個人的に信頼できる人は応援している。本人のことも直接知っていて、信頼できる政治的センスのいい議員は、党派を超えて応援していこうと思っている。ただし、自分自身の心の平和を乱してまで応援したいとは思っていない。それが乱れるようになったら、応援のほうを止めるだろう。


【Q】いまの日本の医療には、どのような問題があるか。

日本の医療を叩きすぎないでほしい。「医局叩き」などのせいで、日本の医療が壊れてしまった面がある。いまのままなら、日本が世界に誇る国民皆保険制度がダメになって、混合診療がオーケーになると思う。

国会議員時代、臓器移植法案について議論していたときに驚いたのが、反対派の議員が「医者なんて、名誉とお金のために臓器移植をするんだ」と言っていたこと。それはとんでもない間違いだ。

わたしはかつて、その拠点病院だった慶応病院にいたのでわかる。医者にとって臓器移植がどれほど面倒くさいことか。移植のあとで精神的におかしくなったらダメなので、精神科も張り付かなければいけない。日常業務に支障がでるし、泊り込まなくてはならず、マスコミ対応にも追われる。それによって、金一封がもらえるわけでもなければ、教授になれるわけでもない。なにも得しない。

なにを医者が考えているかといえば、この人は移植しないと助からないから、たまたま善意の人が臓器を出してくれるから、専門家としてしょうがないからやろうというだけなのだ。いわば医者の「ノブレス・オブリージュ」(貴族の義務)といえる。

医療でもらえるお金は、たとえば適当に切っても丁寧に切っても、もらえる点数は同じなのだ。それでも、医者は自分が体を壊してまで、一生懸命、きれいに切ろうとする。その高い意識を支えているのは、ヒポクラテスの誓いもあり、社会的にそれなりに尊敬される立場にいるからで、医者とはそれなりの仁を為すものだと思っているからだ。結局、患者さんがくるとノーとは言えない。

医者は給料がいくらだからと勤務先を決めるわけではない。たとえば、国立大の教授にしても学術的な名誉のために行く。もらえるお金もたかが知れているし、教育も研究もしなければならないし、病院長もかねなければいけないし、すごく忙しい。それでも行くのは少しでも医学というものをよくしたいという思いがあるからだ。

それなのに、医者は金儲けばかり考えていると批判される。また、医療事故などで警察や裁判所が入ってくる。そうすると、医者側はどんどん防衛体勢に入ってしまう。それが行き過ぎると、いまの医療を支えているノブレス・オブリージュという医者たちの基盤までなくなってしまうと思う。

わたしも、いつ痩せすぎで死んでしまうかわからないような拒食症の人たちをたくさん診ている。一回も訴訟沙汰にはなったことはないが、いつか医療事故のようなことが起こるかもしれない。そのときに、わたしが家族から訴えられるのが嫌だったら、難しい患者さんは早めに手放すしかない。患者さんが死んだら、わたしが逮捕されるというのであれば、もう拒食症を診なくなるだろう。いまは、患者さんの家族とも一定の信頼関係があるからこそ、ベストを尽くせているという状態なのだ。もちろん、訴えられたときのために保険に入ってはいるが。

離島の医者もそうだし、難病で絶望的なことしか告知できない医者もいる。それでも、こういう職業は必要だからと思って、個人が医療を続けている。そういうギリギリのところで、いまの日本の医療が成立しているという面を理解してほしい。

もちろん粗悪な医療もある。だから、医療の現場と行政などとの相互監視的なことは必要。けれども、医者同士の見張り合いで、ある程度はカバーできると思う。あそこだけにはちょっと患者さんを紹介できないというのは、暗黙の了解としてある。そうした暗黙の部分だったものを、裁判所の法廷に引っ張り出してきて、あれも悪い、これも悪いとやられてしまうと、日本の医療はもたない気がする。

医療に関しては、役所が主導でやってきたところにすごく問題を感じる。ただし、そうしたことの火付け役になるのが、なにかの事件であり、世論であり、そこに政治家がのって制度が変わっていくというのがいままでの流れだった。

研修制度をがちがちにつくってしまったために、地方の医療が壊れて、お産ができなくなってしまった。焦った厚労省は、専門医の認定機構というのをつくって、そこに地域医療というのも入れ込んで、それを満たしていないと専門医の資格を更新できないという制度を設けてしまった。

わたしは東京のど真ん中で、相当、特殊なことをやっているので、専門医の資格を持っていなくても、なにも損をしない。医療にはいろいろなものが必要なのだ。地域医療を重視するところもあれば、ある分野に特化したところもあっていい。それなのに一律で認定というのは、実態からかい離していると思う。忙しい人は専門医を取れないということになってくるかもしれない。

また、昔は「薬価差益」、薬を安く仕入れて高く出して、製薬会社と癒着してというのがあったが、いまはできない。学会で発表する前に、「自分はなになに製薬会社から年に後援料として何万円もらっている」という利益相反(COI)を、すべて開示する義務がある。また、製薬会社から入ってくるお金じたい、いまはすごく減っている。

わたしが臨床で研修をしていたころは、質の悪い病院に行くほどお金がたくさんもらえるというのは、事実としてあった。たとえば、保護室のカギを開けて中に入って診察するというのが義務なのだが、当直費が高いところは、刑務所のように少し窓からのぞいて、「はい生存」という感じだった。そういうところの院長先生というのは、ジャガーやロールスロイスなど3台ほど高級車を持っていた。

いまは質の悪いところが淘汰されてきて、だいぶ医者の収入というのは、常識的なものになっていると思う。インターネットなどによって口コミが充実してきた影響も大きいだろう。ネット上で、患者さん同士がやり取りするようになったことは、デマや誤解などのマイナス面はあるけれども、情報を開示しやすくなっているということは、医療にとってプラスだと思う。


【Q】日本の精神科は遅れているのか。

あまり変わっていないけれども、進歩は続けている。薬物治療の進歩の影響が大きい。統合失調症の患者さんなどが作業などをやりやすくなった。ただし、わたしが専門にしている摂食障害やトラウマ関連は、進歩はみられない。

わたしが代表世話人として、月1回やっている勉強会「対人関係療法研究会」には、全国から医者などの治療者が参加している。わたしは対人関係療法を専門にしているが、保険適用にならないので、本当に持ち出しでやるしかない。そういう場でも、なんとか患者さんの役に立ちたいからと、飛行機代を払って、全国から治療者が集まってきてくれるというのは、素晴らしいことだと思う。

わたしはこの春にあった選挙で、国際対人関係療法学会で唯一の有色人種の理事に当選した。会員増加と財政担当の担当理事だ。世界で7人ある枠の中の1人なので、影響力は大きいと思う。非英語圏の人間として、「国際的な舞台で母国語みたいに英語をしゃべっているんじゃないのよ」と言っている。英語は国際語としての役割と米英豪などの母国語としての役割の2つがあるから、「国際学会の場では、もっとはっきりしゃべりなさい」ということを指導している。

既存の日本の学会はレベルがあまりにも低い。なので、わたしがやっている日本の勉強会を国際学会の日本支部というかたちで学会化していきたいと思っている。


【Q】民主党政権時代、野党時代に言っていた自分のやりたかったことを、大臣になってもなにひとつ実現できないという印象があった。なぜか。

手っ取り早いのは、菅直人さんのように記者会見でいきなり爆弾発言するしかない。彼はそれを消費税でやってしまったので大失敗だったのだが。

原因のひとつは大臣が忙しすぎることだろう。朝4時起きは当たり前。大臣としてやらなければいけないことをこなしているだけで、それ以上のプラスアルファのことをなかなかできない。

民主党政権がダメだったのは、官僚の使い方がすごく下手だったことが大きい。すべての官僚が悪いわけではなくて、良心的な官僚というのもたくさんいる。そういう人たちの力をうまく使えば政治活動がうまくできるのに、官僚はみんな敵という感じになってしまった。たとえば、長妻昭さんについて、厚労省の人たちは「ミスター検討中」と呼んでいたという。とにかく決断できなくて、なにをもっていっても検討しておくという感じだと。

大臣として課題をぱっぱとこなして、次々やっていくという能力に大きなハードルがあった。官僚があの人は使いやすいというのは、決断が早い、飲み込みが早いという政治家だ。そんな政治家であれば力を貸したいと思っている官僚はいるのだが、そういう人たちすらうまく使えなかったわけだ。

そのせいもあって、政務三役が自分自身で汗をかいていた。層が薄く、本当に人手が足りない感じだった。あれでは、自分がやらなければいけないことが多すぎて、いろいろなところにエネルギーを使えないと思う。

国会議員の状況もそうだ。とにかく国会議員ひとり当たりの政策スタッフが少なすぎる。政策秘書は一人しかおらず、残りは選挙対策だ。したがって、政策は国会議員が法制局などと練ってつくるしかなくなる。そうすると、自分が関心を持っている課題だけはできるけれども、違う問題にウォッチがきかなくなるのも当然だろう。

さらに政治家というのはバカにされるのが嫌いで、知ったかぶりをする。わからないと言えば、委員会の質問の中でも教えてもらえるのに、それが言えないものだから、「じゃあ、そこはちゃんとやってくださいよ、次いきます」となってしまう。だから、国会での議論がきちんと最後まで詰められない。

また、民主党政権は「仕分け」で科学者たちを敵に回してしまった。医者たちから「民主党というのはなんて非科学的なところなんだ」とよく言われた。「アインシュタインが相対性理論を2番目に見つけたからといって、それになんの意味があるんだ」などと。本当にわかっていないんだなと、民主党は専門家から思われてしまった。


【Q】水島さんが評価している国会議員を教えてほしい。

民主党の阿部知子さんは心の平和議連の入会希望者。わたしの仲良したちだが、とても常識的でまともだと思う。

国会にいると、一般に思われているほど右と左の違いを感じない。たとえば、自民党の塩崎恭久さんと阿部さんとわたしが一緒にごはんを食べるというのは、まったくアリ。じつは与野党でも、個人的には仲がいい。

昔、わたしの笑った顔が新聞にのって、「たるんどる」と地元の連合からつるし上げをくらったことがあった。強行採決が行われたときに、中川智子さんといういま宝塚市の市長をやっている元社民党衆議院議員だが、審議中断中には「これ終わったら温泉とかに行きたいわよね」などと、自民党の議員らと話していた。ところが、いざカメラが回ったら「委員長!」と、つかみかかって背広を破ろうとした。「さっきまで温泉とか言っていたのに、なにこれ」と思って、つい笑った顔が一面に大きくのってしまったのだが。

結局は人柄で仲良くできるのだ。民主党の中で、すごく嫌な人のほうが、自民党の仲のいい人よりも、わたしは嫌いだ。

民主党の岡田代表は律儀で、すごく素直な人なのだが、政治家としてのセンスがないので党首には向かないと思う。昔、一緒に男女共同参画政策をつくっていて、「ぼくは専業主婦も価値があると思うよ」と言ったので、「岡田さん、医者である奥さんを専業主婦にしておいて、医者ひとりつくるのに、いったいいくら税金をつかっていると思っているんですか」と責めたことがあった。彼はそういう話がちゃんと頭の中に残っている。ある日、「うちのかみさん、また働き始めたよ、週何日だけど。いま、老人の施設に行っているんだ」と、ちゃんと報告してくれた。そういうすごく誠実な人ではある。

けれども、岡田さんは頭がものすごく男性脳で、空気を読んだり人の顔色を読んだりという能力が非常に低い。だから、人としてはまともで信用できる人なのだが、党首には向かないのだ。

政治家は政策に通じていることも必要だし、したたかであることも必要だし、ちゃんと空気を読むことも必要だし、ある場面では化けることも必要だと思う。そういうのがそろっている大物というがこのごろいなくなってきた。

野中広務さんや橋本龍太郎さんはその意味では大物だったと思う。彼らの師匠である田中角栄の有名なひとこと、「親戚10人いれば、一人は共産党だ」。それくらい異端者というのは世の中にいて、それをちゃんと包容していかなければいけないと、田中角栄は言っているわけで、立派だと思う。

結局、公共事業で地方を潤したのも、ひとつは情からだった。自分のポケットに入るお金も大切なんだけれども、地元の人たちへの情というのもあった。あんな雪のすごいところで、おばあちゃんたちが腰を痛めながら暮らしている。そこに立派な道路が走るというのは、やはりすごいこと。栃木にいたから、わたしにはわかる。だから、全部が全部利権ではなくて、半分くらいはポケットに入れているけれども、あれが、当時のセーフティーネットだったわけだ。

公共事業をなくしたあとに、なにをセーフティーネットにするかというところを民主党は描ききれなかった。3号被保険者の問題と公共事業の問題と、その二つが、大手の人たちと中小の人たちの、じつはセーフティーネットだった。それを両方とも止めていくうえで、なにをそのかわり差し出すかということを論じ切れていなかったのだと思う。


【Q】安保法案に関連して、日本が国際平和に貢献しないということがありえるのか。

わたしの意見は、集団的自衛権ではなくて集団安全保障だ。集団安全保障として、国連を中心として、国連加盟国の一員として参加する。たとえば、日本が完全に無国籍状態になって国連指揮下の一部隊となってPKOに参加すること、警察力としての国連軍がこれからできてきたというときに、日本人がそこに一時的に日本国籍を捨てて参加するというのなら賛成。指揮権はもたない、でも、人は出す。日本が指揮権をもつのは非常にまずいと思っている。

今回の法案は、きれいに刈り込んだとうもろこし畑の見渡しのいいところで、「さあ、わたしを撃ってください」と手をあげるようなものだ。日本はいままでとうもろこしの低いところにいたのに、世界に向かって、「攻撃の相手は、ここです」という。なにかあったときに真っ先にやられるのは、弱い日本の兵站だといわれている。今回の法案は、日本を戦争に巻き込むもの以外のものではないと思っている。

安倍政権の暴走や失言に見られることは、日本の戦後処理がきっちりできていなかったことが大きく影響していると思っている。それが観念としてしっかりしていないから、とんでもない失言を繰り返す。わたしが昔、外国を放浪していた時代にも、何度も閣僚の失言というのがあった。村山・河野談話に反することをつい言ってしまう。従軍慰安婦問題などでも、強制していないなどと言ってしまって、国際的なニュースになった。そのとき、「日本人って、どうして学習能力がないの?」と外国人に繰り返し聞かれた。「前も国際問題になって謝っていたよね。なんで、同じこと言っちゃうの、バカなの?」と。

人間として、たとえばドイツがやったように、しっかりと過去を見て、そうすると現在もきっちりと視野に入るので、そういう変な失言がなくなるはずだ。本当は嫌なのに無理やり謝っているから、なにかというとそれが出てくる。

右翼的な任侠の精神から言うと、A級戦犯だったにもかかわらず、孫を抱くことを許された人間がいたということも、特攻隊で散っていった若者たちに対して、本当に申し訳ないことだと思う。自分だけが孫を膝のうえに抱いて、「日本は、本当は敗けたわけじゃないんだ」というようなことを言う。そんなことを許していること自体、とても恥ずかしいことだと思う。

靖国も本当は分祀しなければダメだ。異教徒の人に対しても失礼だし、よくない。尖閣列島と同じで、放っておけばいいけれども、参拝するから問題になってしまうのだと思う。


上に戻る