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「第4回 理想国会」では、政治哲学者の小川仁志先生にお話をうかがいました。
  哲学とは「物事を本質にさかのぼって考えること」だそうです。というわけで、今回は、日本の課題を本質にさかのぼって解説していただきました。
  小川先生の立場は、NHK「ハーバード白熱教室」で人気を集めたマイケル・サンデル教授と同じ「コミュニタリアニズム」(共同体主義)。この考え方は、個人主義が強いアメリカよりも、「和」を重視する日本に向いているのかもしれないな…と感じました。
  当日のお話の要旨をご紹介します。

(ロゼッタストーン編集部:弘中百合子)

第4回 哲学者が語る日本の未来像


日本の未来を考える前提として、何が問題だから未来を考え直さないといけないのか、というのを確認しておきたい。


【1】この国の何が問題なのか?

この国の何が問題なのか?

●政治の不安定さ。

自民党が政権を取る前まで「決められない政治」というのが大きな問題になっていた。民主党政権は初めて政権を取ったということもあって、手探り状態だったため、政治というものに対する私たちの信頼が揺らいでしまった。いまは安心できる状態になったかというと、そこはまだわからない。必ずしも安心できるから自民党に託したというわけではないことは、安倍総理自身が認めている。今後、どういうかたちに日本の政治をしていくのか。二大政党制がいいのか、あるいは連立の政権を前提としたような多党制をとるのか、という一つの問題がある。


●デフレ。

これはいまの政府が一番力を入れているところだが、もう少し大きい視点で見ると、失われた20年と言われ、経済がずっと低迷している。あるいはもう成熟してしまったのかもしれない。この状況をどうするのか。他方で、財政難を危惧する声があるが、これも慢性的な問題になっている。


●少子高齢化。

日本の未来を考えるうえでは、一番大きな問題。誰がどうやってこの国をになっていくのかという問題。


●エネルギー政策。

原発の事故もあったので、ある意味では、これも一番大きな問題といってもいいかもしれない。事故はすぐ風化してしまう。ついこの前まで国論を二分する大きな争点だったのに、いまは経済が一番大事な話に戻ってしまっている。私はそれを非常に危惧している。


●地方の衰退。

私もいま地方、山口県に住んでいるので、日々肌で感じている。商店街の中の一番街の中心のデパートが撤退をする。唯一残っていた文化的施設である映画館が休館になってしまう。いろんな意味で地方が衰退しているのは事実だと思う。しかし、日本はほとんどが地方なのだから、そこを何とかしないといけない。地方の衰退は日本の衰退。


●地域社会の衰退。

これは地方に限らず都心でも、たとえばマンションのなかで孤独死があるというように、地域社会の人間関係の希薄化に伴う衰退が問題になっている。「無縁社会」という言葉が数年前にはやったが、あの状況はいまも変わっていない。これをなんとかすることによって、実は日本全体の問題がいろいろ解決できるのではないかなと思っている。


●グローバル化の遅れ。

TPPの話題で、やはり日本というのはグローバルな問題になると弱い、内向きだという印象を持った人は多いだろう。
  大学改革。私は2011年度研究員としてプリンストン大学に行ったが、アジア人といえば、韓国人か中国人で、日本人にはなかなか出会わなかった。それぐらい、日本の学生たちは海外に出ない。では日本の大学が魅力的かというと、まったくそんなことはなくて、海外からの留学生も非常に少ない。最近秋入学や、英語で授業をするといった試みが始まってはいるが、教育のところでグローバル化しておかないと、社会に出てからグローバルな仕事をできる人が少なくなる。これは大変大きな問題だ。
  英語化。これも社内公用語を英語にするといった試みがなされつつあるが、それに対応できる英語教育が全くできていない。これも私は心配している。


●安全保障。

安全保障については、戦後半世紀以上たっても解決しない基地問題をなんとかしないといけない。
  先日アルジェリアで人質事件があったが、あのときも政府が情報を入手している感じが全然なかった。日本の外交をなんとかしないといけないと、改めて感じた。
  尖閣、竹島を中心とした、日本の領土問題。北方領土もそうだが、これを何とかしないことには、日本の国自体が海外から軽く見られてしまう。領土というのは、国家にとって、これもある意味では一番大事な要素なので、これを何とか考えないといけない。


●歴史問題。

これがあるばかりに、なかなかアジアで一つになれない。そろそろ決着をつけなければならないのではないか。

こういういろんな問題を乗り越えて、初めて日本という国は明るい希望のある未来を迎えることができるというのが私の認識。おそらく大体はみなさんも同じようなことを思ってくださるのではないか。


【2】なぜ日本はだめなのか

なぜ日本はだめなのか

では、なぜ日本はだめなのか、こういう問題をたくさん抱えているのか。その前段階として、日本の特徴、ほかの国と違うところはどこなのか。私は哲学や思想をやっているので、そういう視点から考えてみる。

日本の特徴は、「集団主義」と「形式主義」。よく海外から揶揄されるところだが、この2つの大きな特徴があると思っている。

集団主義というのは、「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉以来、和を重視する、そういう風土があるということ。これにはいろんな原因がある。まず風土が農業に適しているということ。農業では私たちは協力し合わなければいけないので、農業国である日本の一つの倫理として、「協力することが美徳である」というような共同体の倫理がはぐくまれてきた。それがいまだに続いている。いまでは農業は主産業ではなくなったが、一度培われた美徳というのはなかなか変わらない。日本社会というのは、同質性があるということもある。親から、あるいは学校教育において、協力することがいいことだという倫理観が伝えられてきた。

形式主義。これは、筋論や型にこだわるということ。このことにかけては、私がアメリカで出会った研究者にいわせると、日本は世界一らしい。たとえば日本に住んだことがあるアメリカ人のひとりは、あれほどなにかを申請するときの申請書に型がある国は見たことがないと言う。私もかつて役所に勤めていたので言いづらいが、確かに役所などでの書類は、非常に面倒くさい。
  筋を通すという考えからも形式主義。そんなことをしたら結果は悪くなるかもしれないのに、筋を通すということのほうを重視する面がある。義理人情というのも日本の伝統だが、そういうところにも表れている。
  どうしてそうなのかというと、まじめだからだ。まじめなのはどうしてかというと、やはり領土の狭さや季節の影響があるのだと思う。狭いところだときっちり分けないとなかなかうまくいかないし、季節の変化にあわせて生活も変えないといけない。そういうところから、まじめな性格になったのではないか、

では、この2つの特徴が原因で日本はだめになったのか。私はそうは思わない。集団主義も形式主義にもそれ自体は悪いことではない。その中の悪い面だけを変えていけばいい。
  集団主義の反対の思想は個人主義。個人主義がいいかというと、決してそうではない。アメリカは個人主義の国だが、そのせいでいろんな矛盾も出ている。たとえば格差社会、自分さえよければいい、人を助けないなど。
  形式主義についても、筋や型にまったくこだわる必要がないのか、適当でいいのか、極端なことをいうと結果さえよければいいのか…。「功利主義」はそういう発想だが、はたしてそれでいいのか。私はそうは思わない。
  だから、形式主義を活かしつつ、負の部分をなんとか変えていきたい。


【3】何を変えればいいのか

何を変えればいいのか

では何を変えればいいのか。集団主義というのは、例であげると、震災のあとに言われた「絆」。本当にみんなで助け合った。『災害ユートピア』(ソルニット・レベッカ著)という西洋の本があるが、日本にはあてはまらない。私たちは災害だから助け合っているというわけではない。ずっとそうやってきた延長線上にたまたま災害があって、いつものように助け合ったということだと思う。これを世界が賞賛した。
  日本人の連帯というのは、基本的に評価が高い。アメリカのプリンストン大学でいろんな人と話をしたときに、私の専門はどちらかというと西洋の思想なのだが、「そんなことはやめて日本の連帯を論じてくれ」と言われたほどだ。

形式主義。結果がよければそれでいいというわけではない。プロセスも大事だし、日本の文化は型の美しさが人の心を魅了している。アメリカではいきあたりばったりでも、どんな事情があっても、とにかくいいものができたらそれでいいと言っているが、私はそうは思わない。やはり、いいものが生まれるにはプロセスが必要。そのプロセスを大事にしないと、それが受け継がれていかない。伝統産業というのは、まさにそういうものだと思う。
  ITの世界で、ぽんと偶然生れたようなものが永続するかというと、なかなかそうは思えない。伝統のなかではぐくまれてきた、技術や知恵が1つの形になっているということに意味がある。


【4】変えるべきは負の部分のみ

変えるべきは負の部分のみ

私は集団主義と形式主義を前提に、それを修正していくような思想をとなえたい。集団主義、形式主義の負の側面を変える。決して個人主義や、形式を無視した合理主義、結果主義に行こうというわけではない。

まず集団主義。閉鎖的な共同体主義ではなく、開かれた共同体主義の方向にいけば、集団主義で十分日本をよくしていけると思う。それを思想の用語でいうならば、「開かれたコミュニタリアニズム」。コミュニタリアニズムというのは、「共同体主義」と訳される。これはハーバード大学のマイケル・サンデル教授が80年代に中心となって唱えて、今も世界中で議論されている思想。
  もともとは、これに対極的なリベラリズムとか、あるいはリバタニアリズム、つまり共同体よりも個人の自由を重視するような思想が西洋では強かった。いまもアメリカではリベラリズム、あるいはリバタニアリズムというのが強いのだが、そういう個人主義的な社会をつくるのではなく、私たちは共同体のなかに生きているのだから、共同体を前提とした社会をつくろうというのが、コミュニタリアニズムの思想だ。サンデルは、「共通善」とか「道徳」についての議論をしようと言っているが、個人主義を中心にした社会ではそういうのがない、あるいは非常に軽視されている。そうすると自分さえよければいいという社会ができる。福祉を重視しないなど、政策にもそういうのがあらわれてくる。日常の人々の生活態度もそうなってくる。

私はアメリカで2度ハリケーンにあったが、そのたびに停電になり、数日間続いた。あれだけの大国でハリケーンで2度停電になること自体がおかしい。住んでいたのはお金持ちも住んでいる地域だったが、インフラがもろいのですぐ停電になってしまう。結局、みんながそういうところにお金を出していないのだ。
  では、お金持ちはどうするのか。よくそれで我慢しているなと思ったら、みんな自家発電機を出して普通の生活を続けている。停電で困っている私たちには何もしてくれない。自助努力でなんとかしないといけないわけだ。どこに自家発電機を売っているということだけは教えてくれたが…。
  日本であればおそらく「うちにおいで」と言ってくれる人が現われると思う。私はそのとき冷たいシャワーを浴びながら、これがアメリカか…と感じたのを覚えている。そういうふうに、人々の性格というか、生活態度自体がそうなっている。はたしてそれでいいのか。

コミュニタリアニズム(共同体主義)はそれに対して問題提起をしている。ここでよく問われるのは、共同体を重視するということは個人がないがしろにされてしまうということで、それはよくないのではないかということ。これはサンデルも言っているが、「誰もその共同体の価値観にノーと言えないような、そういうものが共同体主義、コミュニタリアニズムなのであれば、自分はコミュニタリアンではない」。私もそうだ。あくまでも、開かれたコミュニタリアニズムでないと、共同体主義はただの保守主義になってしまう。どうすれば開かれたコミュニタリアニズムになるかというのは、あとで具体的にお話しするが、そういう思想を私は提示したい。

もう一つの形式主義についても、頑迷な形式主義、とにかく形式にこだわるというのでは、やはり問題がある。日本社会が柔軟性を持っていないというのはそこ。官僚組織というのはまさに形式主義で、理屈ではなくてフォームにあわないとだめだという非常に非合理的なシステム。そこをもっと柔軟性のある形式主義に変えていったらどうかというのが私の提案である。要は実践を重視するということ。
  実用的な思想というと、実用主義とも訳されるプラグマティズム。プラグマティズムはアメリカで生まれた思想で、プロセスはどうでもいい、うまくいったらそれが正しいんだ、簡単にいうとそういう思想。ただ、私はそういう偶然にゆだねたような、いきあたりばったりの考え方というのは好きではない。私は形式主義を修正するという意味でのプラグマティズムを取っている。それを名づけるなら、「理にかなったプラグマティズム」。

では具体的に「開かれたコミュニタリアニズム」「理にかなったプラグマティズム」というのはどういう思想なのか。


【5】開かれたコミュニタリアニズム

開かれたコミュニタリアニズム

コミュニタリアニズムであるかぎりは、「連帯」という価値は譲れない。「共通善」といわれる共通のいいもの、道徳を共有するためには、みんなで助け合わないといけない。連帯というのを私は最重要の価値としておきたい。

そのうえで、それ以下の5つの要素については、「開かれた」というのに関係する内容。どうすれば、コミュニティ、共同体を開いていけるのか。


●熟議を文化とする。

これは、コミュニティを開くために大事な手段。どうして共同体が閉鎖的になってしまうかというと、議論することを封じ込められてしまうから。たとえば村社会では若い人が意見を言おうとしても、「お前はまだ早い。黙っていろ」と言われる。そうなると、なかなか熟議を文化とする共同体、コミュニティというのは考えられない。
  熟議というのは、徹底的に話し合うということだが、徹底的に話し合うというのは個人が意見を出すことだから個人主義のようにも思えるが、そうではない。あくまでもみんなのために、一人一人が違う意見を出す。そして話し合って最終的にまとめていく。それはコミュニティのなかでも成り立つと思う。それを文化としていけばいいのではないか。私はまずは教育にそれを取り入れたい。


●政治参加を重視する。

これも開かれたコミュリタニアリズムにとっては、重要な手段。開かれたコミュニタリアニズムの場合は、固定化された価値観がないので、みんなでそれをつくっていかないといけない。自分たちでつくりあげるコミュニティ、共同体というのが前提なので、政治に参加していくことが重要。
  そのためには、具体的に政治に参加できるだけのリテラシー能力を身に付けないといけない。
  あとは時間。どうして私たちが政治に参加できないかというと、とにかく時間がないというのが一番大きい。考えたくても考える時間がない、勉強したくても勉強する時間がないというのが一番の問題。その意味で、政治参加ができる社会制度というのを構築していかなければならない。


●横の公共性。

コミュニタリアンで批判されるのは、自分のコミュニティだけよければいいのではないかという批判がある。そこを開くためにはどうしたらいいかというと、コミュニティ同士のつながりが必要。その最たるものは、グローバルな視点。自分のコミュニティがグローバルなコミュニティ、地球とつながっているという、そういう発想をもたないといけない。それが横に広がる公共性という意味。
  「コミュニポリタン」というのがどういうことかというと、「コミュニ」は、もちろんコミュニタリアニズムの「コミュニ」。また、世界、地球全体を視野に入れて倫理、道徳を考えるという立場を「コスモポリタン」、世界市民主義という。私はその2つをくっつけて、「コミュニポリタン」と呼んでいる。


●縦の公共性。

私たちは自分たちの次の世代、また次の世代という、縦の時間軸のなかで、公共性を考えないといけない時代にさしかかっている。これは、いまあるコミュニティを、いま自分が住んでいる時代のものとしてとらえずに、永続化していくものとしてとらえる視点。それが開かれたコミュニタリアニズムにつながる。
  社会保障の問題も原発の問題も自分たちの時代だけで話が完結するようなものではないので、常に世代間の倫理というものを念頭において、制度設計をしていくということが求められる。そういう意味で、私は「縦の公共性」と呼んでいる。


●伝統文化を大切にして世界に発信する。

自分のコミュニティにある文化や伝統を世界に発信していくということができていない。それがゆえに誤解を生むこともあるし、コミュニティで完結してしまって世界とつながらないという面もある。
  ところが今、国家を介さずにある地域の伝統産業がそのまま世界のあるところで広がっていくというようなことも起こっている。そういうことを私たちはコミュニティの成員はやっていかなければならない。それが自分の住んでいるコミュニティを開くことになるのではないか。文化だけではなく、そのことによって、閉鎖性みたいなものも解消されていくのではないか。


【6】理にかなったプラグマティズム

理にかなったプラグマティズム

●「理にかなったプラグマティズム」。

上から2つめまでが従来のプラグマティズムの重視するところ。プラグマティズムというのは実用主義と訳されるように、実践を重視する。理論ではなく、結果が得られればそれでいいという思想。スティーブ・ジョブズなどがよく例にあげられるが、試行錯誤して「あ、できた」、ならばそれが正しかった、そこでイノベーションが生まれた、という考え方。イノベーションを偶然の産物として見ている。自然にやっているうちに偶然できたものがイノベーションだと思われている。私はそういういきあたりばったりのやり方ではなく、秩序、プロセスを重んじたい。そういうものを前提としたプラグマティズムを考えている。

イノベーションをめざすためのプロセスというのがあると思う。私がめざす「理にかなった」という部分は、どちらかというと、カントの倫理学に親和的で、どんな方法でもいいというわけではない。プラグマティズムは結果さえ出ればそれでいいということなので、場合によっては非倫理的な手段がとられても、結果がよければよかったんじゃないかとなりうる。そうならないようにしたいので、カントの定言命法、「正しいことは無条件に行わなければならない」、あるいは「人間を手段にしてはいけない」、そういうことを強調するようなプラグマティズムを追求していかなければならないと思っている。

こうした開かれたコミュニタリアニズム、あるいは理にかなったプラグマティズムという、集団主義、形式主義を修正するような思想を前提にして、日本の未来像を具体的に描いてみたい。


【7】個別の問題はどのように考えればいいのか?

個別の問題はどのように考えればいいのか?

最初にあげた問題。政治の不安定さから歴史問題まで、これを私が掲げる思想で考えると、どのように解決していけるか、あるいはどういう方向に持っていけばいいか。そういう提案をしてみる。

●政治の不安定。

私は常々、二大政党制でいいと思っている。
  議論はだいたい大きく「自由」と「平等」の二つに分かれる。その価値観がぶつかってしまうと決められない政治になるが、それは二大政党制が問題なのではない。なんのために二大政党制があるのか。いままでの二大政党制は、相手を全否定する二大政党制だった。だから決められない政治になってしまう。私は本来二大政党制というのは、相補いあって、よりよい形にもっていくためにあると思っている。お互いの問題点を全否定するのではなく、弁証法的に克服して一つになっていく、そういう二大政党制の政治文化、政治制度をつくれないだろうか。ここでまた二大政党制はやめようとなると、それこそ本当に政治が迷走してしまう。総理大臣が毎年変わるのと同じで、政治制度まで毎年変えるのかと私は訴えている。


●経済の低迷。

これについては、アベノミクスというのがいまやられているが、どうしてもお金をばらまくほうが先行してしまっていて、本来の経済を立て直すという成長戦略のところが最後になっている。が、本当はそこが大事なのではないか。
  私は経済大国がいいとは思っていない。ただし、最低限のパイは必要だ。そうしたときに、成長戦略という意味で、イノベーションプラグマティズムというものを私は唱える。教育の現場も企業においても、これを文化にしてほしい。つまり、イノベーションを生むための方法をとるということ。偶然性にゆだねるイノベーションではなく、方法論があると思う。ハーバード大学ではイノベーションの理論を唱えている著名な先生もいる。
  教育現場においても、イノベーションを生みだす教育のありかたというのがある。少なくともいまのような、先生が喋っているのを一方的に聞いて、ノートを書いて、暗記したものをテストではきだすだけの教育では、決してイノベーションはうまれない。


●財政難。

やはり「MOTTAINAI精神」。これは、ケニアのノーベル賞受賞者、故マータイさんが提唱した言葉。英語のwasteful(むだの多い、浪費的な)ではない、日本人の、ものを大切にする「もったいない」文化。これに私たちは目を向けなければならないのではないか。財政難を解消するのは、まずこういうところから。私たちの日常生活でも無駄なものがたくさんある。ひとりひとりの国民がこういう意識をもたないかぎり、財政難が解消されるとは思えない。


●少子高齢化。

日本の未来を考えるうえでは非常に大事なことだが、これは、さきほども話した縦の公共性。これを考えていかないといけない。いま世代間でパイの取り合いをしている。若い人は高齢者をどうして支えないといけないんだと言い、高齢者は私たちは今まで頑張ってきたんだからと言う。世代間で対立が起こってしまっている。つまり、社会保障費のパイを取り合ってしまっている。ここは、世代間競争ではなくて世代間共闘が必要。敵は違う世代ではなくて、少子高齢化問題。これを一緒に乗り越えるための共闘が必要。それは縦の公共性という視点からも考えることができる。互いに譲り合うという発想がないといけない。
  この問題は社会保障費の問題なので、全員参加型社会になれば、社会保障費を削れるところはたくさん出て来る。自分のおじいちゃん、おばあちゃんでなくても、近所のおじいちゃん、おばあちゃんが子どもの面倒をみてくれれば、子どもを預けるお金が節約できる。男女共同参画が推進すれば、これも少子化対策になる。その意味で私は全員参加型社会、男女共同参画、そして高齢者も社会に参加できる、そういう状況をつくっていくことが大事だと思う。


●エネルギー政策。

これも縦の公共性。いま自分たちがよければいいというのが前提だと、原発でいいじゃないかということになる。私は脱原発を前提に、どのようにすれば安心して、持続性のあるエネルギーのある環境を整えることができるか、これを考えていかないといけないと思う。いまの自分たちのことだけを考えてやってはいけない。


●地方の衰退。

これは、地方自治体にとにかくエンパワーメント(権限)を与えていくということが大前提。地方自治法も改正されて変わってきてはいるが、まだまだ地方が国の下請けになっているという部分がある。地方の衰退をなんとかするためには、エンパワーメントしかない。道州制という人もいるが、道州制かどうかは大きな問題ではない。基礎自治体をどうやってエンパワーメントしていくかということだと思う。


●地域社会の衰退。

これは「シェア文化」と私は本にも書いたが、とにかくみんなで共有するという発想をもっと広げていかないといけない。「OTAGAISAMA」(お互い様)を「MOTTAINAI」(もったいない)に並んで書いたが、ここでは日本の「お互い様」という言葉が非常に有効だと思う。

「お互い様」という言葉はなかなか海外の人には理解してもらえない。お互い様というのは、互恵といった打算的なものではない。英語でいうと、「互恵」、reciprocityという言葉になってしまうが、そうではない。これは一語で表せる語がなく、説明になってしまう。ということは、「お互い様」というのは、日本の非常にすばらしい倫理なのだ。だから「OTAGAISAMA」という言葉を広げていきたい。自分もそうなるかもしれないし、そうなったときはお互い様と、それで必ずしも、自分が助けてもらおうと思っているわけではない、でも助ける。それは同じところに過ごし、同じ環境で生きているからというのが前提になっているのだと思う。まさに共同体の倫理。


●グローバル化の遅れ。

これは発信するという視点がないのが問題。私たちはグローバルというのは、向こう側からやってくるものだと常に思っている。だから遅れてしまう。グローバル化はいいことだが、どうしていつも受け身なのか。ここを変えていきたい。

安全保障については、国連中心主義によって解決すべき問題だと思っている。日本の領土が脅かされているとか、外交が下手だとか、あるいは外国の軍隊に駐留されているという人もいるが、だからといって、自前の軍隊をもって自分たちの軍隊で国を守って…とするのが本当に正しい姿だとは思わない。各共同体が協力しあって、グローバルな共同体をつくっていくなかで解決していくべきだと思っている。


●歴史問題。

歴史というのはそれぞれの国の物語である。物語が違うと、当然事実認識も変わってくる。これは共通教科書を熟議によってつくっていくことによって、進めていくしかない。共通の物語ができたときに初めて解決するのではないか。


需要も少なくなってきたいまの日本で、経済が成長していくことを前提として考えることには疑問がある。どういう社会がいいのか、何が幸福なのかというのを考えるときに、みんながお金持ちになるとか、出世するとかいうことではなくて、みんなで助け合い、そのなかで自己実現をしていけるような社会をめざしたい。
  「共同体主義」と聞いて社会主義を思い浮かべる人もいるが、社会主義の失敗は、どこも独裁国家のようになってしまったこと。それを防ぐためにも、言論の自由を確保し、「開かれた共同体」でなければならない。また、経済的にモラルハザードが起きて、みんなさぼり出すのではないかと心配する人もいる。労働の価値を生産性や経済的成長に置けば、そういうことも起きるかもしれないが、生きがいや自己実現といったものを重視して労働する文化をつくっていけばうまくいくと思う。
  命を守る自治会として知られる立川市の大山団地では、お隣に異変があればただちに自治会に伝えるということで、死後24時間以上経過して発見される孤立者は、この9年間ゼロ。それ以外にも、50代から60代の女性が一時保育を引き受けるサポートセンターや、パソコンや着付けなどが得意な住民が登録し、実費のみで手助けしてくれる人材バンクなどもあるという。
  ここなどは、まさにコミュニタリアニズムを実際の生活に生かしているところだと言える。
  実はこれを国家規模でやりたいというのが私の提案。日本はそういう国をめざすべきではないだろうか。



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