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「理想国会」第3回勉強会では、参議院議員の江口克彦氏(みんなの党最高顧問・元PHP総合研究所社長)のもとをたずね、江口氏が提唱する「地域主権型道州制」について、いろんな質問をぶつけてきました。江口氏は、松下幸之助氏の側近で、松下氏が提唱した「廃県置州論」を引き継ぎ、長年「地域主権型道州制」についての研究をされています。党派を超え、「道州制」をめざす議員たちのリーダー的存在でもあります。

※江口氏が提唱する「地域主権型道州制」の概要はこちらでご覧ください。
  ■地域主権型道州制国民協議会HPに掲載されている資料
  http://www.dousyusei.jp/new_j/01.htm

地域主権型道州制は、都道府県を廃して、日本を10〜13ぐらいのブロックに分け、それぞれの道や州に大きな自治権を認めようというものです。
  メンバーとの質疑応答の要旨を掲載します。

(ロゼッタストーン編集部:弘中百合子)

第3回 「理想国会」勉強会 いまなぜ「道州制」なのか?


●道州制よりも、人口40万人くらいの基礎自治体に権限を集中する仕組みの方がよいのでは? なぜ道州制が必要なのか。

地域主権型道州制では、実際には基礎自治体に権限を与える形になっている。生活に密着した行政、個人の行動に密着した行政は、ほとんどすべて基礎自治体がやる。国の歳出予算の50%ぐらいは、基礎自治体にまわることになるだろう。つまり、基礎自治体が重点的に役割をはたしていくのが地域主権型道州制だ。
  ただし、人口40万人ぐらいの基礎自治体では、広域行政が扱いにくい。たとえば河川とか道路とか、港湾の問題などを取り扱うには狭すぎる。基礎自治体よりも大きな行政については、より大きな行政単位でまかなっていかないといけない。だが、一気に国ということになると、国では細やかな広域行政ができない。そういう意味で、基礎自治体に重点を置きながら、広域のものは道州で処理をしていこうという仕組みだ。

防衛とか外交とか、予想を超えるような自然災害とか、国でないと処理しきれないものについては、国が対応していく。東日本大震災のような災害は、いくら広域でも道州だけでは対応しきれないから、国をあげて対応しなければならない。また、国民の生活を最低限守るという意味では、社会保障のサービスというものは、全国一律、国民ひとりひとりが同じような受益にすべきであるから、これも国がやるべき仕事。

地域主権型道州制においては、基礎自治体に重きを置いているが、国がやるほどでもないけれども、基礎自治体では荷が重すぎるというようなことについては、道州という存在が必要になってくる。道州というワンクッションを置かないと、広域の行政ができず、中途半端になってしまう。


●現在の都道府県ではなぜだめなのか?

都道府県は百何十年か前に廃藩置県で決まったものだが、明治の頃は、移動手段が馬か歩くか、どちらかだった。事実かどうかわからないが、1日人間が歩いて日が暮れてたどりついた反対側、あるいは馬でポコポコ行ってたどりついた反対側を県の境界線にしたというエピソードも残っている。ところがいまや、自動車や新幹線、あるいは飛行機ということになると、1日どころか1時間で、関西だったら神戸から京都まで、兵庫、大阪、京都と3府県まで行けるようになった。そういう移動手段の発達や、インターネット、電話、携帯電話など情報網の発達を考えると、行政単位を県にしておくのは非常に狭すぎると言える。

日本の国土面積は38万平方キロ。北海道をのぞいて、46都府県は、細切れに日本の国土を刻んでしまっている。狭いがゆえに、非効率が生まれてくる。行政単位が47都道府県だと、47都道府県がそれぞれフルセット主義になる。たとえば、飛行場が日本にいくつあるかというと、98もある。ということは、平均して1県に2つ。空港がない県もあるし、離島の空港もあるから、必ずしも1県に2つとは言えないが、秋田県や福岡県など、1県に2つというところはある。北九州空港と福岡空港とか。それは、本当に必要なのだろうか。
  47都道府県すべてが、飛行場も欲しい、国際会議場も欲しい、競技場もほしいと何もかも揃えようとしているが、47都道府県全部にいちいち必要なのか。交通の発達から考えると非効率きわまりない。それが結局は、無駄な施設をつくるために無駄なお金を使うということになる。無駄なお金を使うということは、結局税金を高くしなければならなくなる。

たとえば京都と大阪と奈良の3つが接しているところに、見渡せば中学校が3つ見えるとか、小学校が4つ見えるようなところがある。そして、各学校に生徒がいっぱいかというとそうではなく、それぞれ教室が空いてしまっている…。そのような無駄が非常に多くなっている現状を見ると、やはり、47都道府県というのは、私は見直したほうがいいんじゃないかと思う。
 基礎自治体(平均して40万人ぐらいの人口)で、それぞれ必要な小学校・中学校・高校をつくればいいし、さらに道州制で10〜13に日本を分け、国立大学はやめて、全部州立大学にする、というようなことをすれば、非常に効率よくそれぞれの学校を配置できるし、スポーツ施設も教育施設も配置できるようになる。

現在の日本の国のかたち、統治機構は、中央集権体制だ。いま、日本全体の経済力も国力も学力も、何もかも下降線をたどっている理由は何かというと、中央集権体制が体制疲労を起こしているからだ。中央集権ができて明治から数えて140年、黄金の1980年代がピークで、その後は官僚制の弊害がものすごく出てきてしまった。中央集権体制と官僚制というのは裏表。中央集権の弊害が出てきたということは、官僚制の弊害が大きくなったということだ。
  いまや中央集権体制、官僚制では日本の国はよくなっていかないということが、目に見えてきた。これを何とかしなければならないというところから、我々は地域主権型道州制を提唱している。
  いまの中央主権体制は全国を北海道から沖縄まで、一本の法律で一律に統治していく。これがいいのかどうか。北海道であてはまる法律と、沖縄であてはまる法律、それを一つで整えてしまって、北海道の人は幸福なのか、沖縄の人は幸福なのか…。沖縄は沖縄、北海道は北海道というふうに、地域に合った、歴史、伝統、風土に合った行政の仕方や法律の制定をしていったほうがいいのではないか。

もう一つの問題は、中央集権は一極主義だということ。そうすると東京だけが元気になればいい、東京だけにモノが集まればいいということになる。中央集権というのは、東京に人を集める、モノを集める、情報を集める、カネを集める、そういうシステムだ。
  明治や戦後というのは、ヒトが100人いて、バラバラに1万円持っているよりも、1万円を100万円にして、大きな施設をつくったほうがよかった。そういう時代においては、一か所に人、物、金を集めるそれなりのメリットがあった。
  しかし、いま、それぞれが、ある程度豊かになってきているという状態で一か所に人、物、金を集めると、東京だけが繁栄するということになる。それもいままではよかった。東京の繁栄がすなわち、日本の繁栄だった。日本の繁栄の象徴が東京だった。
  ところが、東京の繁栄も限度が来てしまっている。これ以上人が集まってきたらどうするのか。都市の荒廃があるだけではなくて、水道の水が足りなくなるという問題もある。犯罪も東京に集中するようになる。これからは、日本の各地にある都市をそれぞれ発展させた集合体、その集計が日本の国力の大きさを決める、という時代になる。


●今の行政区は、江戸時代、明治維新により形つくられたもので、数百年の継続性がある。これは、地域風土とも結びついている。これを壊して「再編成」する意味はあるのか?

道州制にすると、都道府県の地域性や、歴史伝統がなくなるのではないかというご指摘だと思うが、そんなことはありえない。江戸時代の300何藩は、それぞれ藩でお祭りやその土地の行事をやっていた。都道府県になってお祭りや行事がなくなったのかというと、ほとんど残っている。秋田のお祭りも会津若松のお祭りもあるし、岩手のお祭りもある。京都だって延々と祇園祭りが続いている。四国でも阿波踊りが残っている。津軽藩が青森になっても、津軽藩のときのお祭りや行事はかたくなに守っている。
  都道府県がなくなって道州になったら、都道府県の歴史、伝統、祭り、行事がなくなるかというと、私はなくならないと思う。かえって、そういうものを残そうという意識が住民の人たちや、国民の間で強くなっていくのではないか。心配することはない。


●県域を超える広域的な行政課題については、広域連合や、自主的合併等の枠組みを導入して対応することも可能。広域課題を解決する上で、現行制度よりも道州制を導入するほうがより有効であるという理由は?

地域主権型道州制は、国のかたちを変え統治機構を変える、すなわち、中央集権体制を変えるということなので、中央集権体制のままで、県を合併したり、市を合併したりというようなことをやっても意味がない。私たちが主張しているのは、一律的な統治をやめよう、一極集中の統治をやめよう、中央集権というものを打破しよう、というものだから、中央集権という統治機構のままに、平成の市町村大合併のようなことをやってもうまくいかない。平成の大合併が失敗したのと同じように、単なる都道府県の合併ではだめ。中央集権から、地域主権型道州制に、あるいは地域分権型に変えなければいけない。国のかたちを変えないとだめ、というのが、地域主権型道州制の根本の理念。


●道州制移行コストをどう考えるのか。「今、考えるべきときか?」という思いがある。そのコストは、教育、資源開発などに向けるべきでは?

道州制のコストは、相当かかってくるだろう。だが、地名変更などの書類は、いっせいに切り替えるのではなく、落ち着くまで暫定的に既存のものを流用するというやり方もある。東海州になっても愛知県という書類が使える、南関東州になっても神奈川県の書類が通用するというように。だから、コストはかかるが、そんなに大きな負担を考えなくてもいいのではないか。また、かからないように対策を練っていけばいい。


●道州制になったところで、新たな権益を生むことになる。状況に差異は無いのではないか。

新たな権益を生む可能性が絶無とは言わないが、いまの中央集権の権益よりも、はるかに小さな利益や権益ということになる。どんな制度、体制も100点満点ということはない。政治は「ベスト」ではなく「ベター」の選択。いまの体制よりもいいだろうという選択をするべきだ。利権とかいろいろな問題も出てくるかもしれないが、規模が違う。
  都道府県や市町村にはオンブズマンがいる。あるいは、弁護士や関係者や税理士を中心にして、市の財政や都道府県の財政をチェックできる。ところが、国にはそんな制度はない。国の財政をチェックするのは会計検査院ぐらい。どうしてかというと、数字が大きすぎるし、分野も広すぎるからだ。道州制でも権益や利権的なものが出てくるかもしれないが、道州の単位であれば、オンブズマンが目を光らせることができる。国の規模とは桁違いに小さいし、対象も限られてくるので、市民、住民の監視の目が届きやすくなってくる。


●道州制が進んでいかない一番の障壁は何か。

これは、完全に政治家と官僚。道州制では国の役割が限定されてくる。一府六省(総理府、外務省、防衛省、財務省、法務省、生活環境省、総務省)で済んでしまう。それ以外の国土交通省とか、経済産業省とか、文科省とか、こういうものはいらなくなる。そうなると、いま霞ヶ関で4万人いる官僚が1万人か、1万5千人以下で済む。残りの2万5千人〜3万人がいらなくなる。正確にはいらなくなるわけではなく、道州に移っていけばいいだけだが、官僚の人たちは霞ヶ関から離れたくない。そこで反対するというのが一つ。
  もう一つは、官僚の利権、利得が極端に少なくなるか、ゼロになってしまう。今までの官僚にはいろいろな利益、権益、あるいは特権みたいなものがあった。たとえば、公務員宿舎とか、天下りとか、そういうものが、地域主権型道州制になったらなくなってしまう。そんなことされたらたまったもんじゃないというので、官僚は反対する。

政治家が反対するというのはどうしてかというと、衆議院議員がいま480名いるが、それが道州制では300名ぐらいに減る。242名の参議院議員は100名ぐらいになる。そうすると、いま政治家でメシ食ってるのに、食えなくなるんじゃないか、落選しちゃうんじゃないかと恐れている。
  いまは非常に多くの政治家が、使命感ではなく、職業で生活費を得るために議員をやっている。それで自分の生活費が稼げなくなるんじゃないかと反対する。政治家は、真正面から私がこうして話をすると、必ず「その通りだ」と返事をする。「大事なことだ。中央集権、官僚制はなんとしても打破しなきゃいけない」と。だが、そう言いながら、後ろを向いて「嫌だよね」と…。

政治家と官僚が反対すると、なかなか前に進んでいかない。そういう意味で、国民の人達、国民のみなさん、助けてよ、っていうのが私の思い。地域主権型道州制をやれば、確実に官僚の数が減るし、確実に税金が減るのだから。
  私はいま、「地域主権型道州制国民協議会」の会長もやっている。ここでは、地方の政治家を集めて、政治家連盟をつくり、一般の人たちの参加も呼び掛けている。現在、一般の会員の人たちが3000名から5000名。地方の政治家の人たちが1500名。この活動を徐々に広げていこうと思っているが、やっぱり、3000名とか5000名では少ない。なんとしても、1万人〜3万人ぐらいの運動にしたいと思って、一生懸命全国を講演してまわっている。


●日本では知事から首相になったのは、細川首相だけ。アメリカにしろ、ドイツにしろ、州政府の知事から国の首相や大統領に上がっていくことが多い。道州制になると、日本でもそうなっていく?

州という大きな広域行政の経験がある人が、首相や大統領候補になっていく、そういうふうな形に日本もなればいい。最終的には首相公選だと思う。そうすれば、首相を自分たちが選んだという気持ちになり、日本人の意識も変わる。国民が責任を持つという意味においても、州知事を経験した人を首相にする、そして首相公選論というところまで考えを及ぼすというのは大事なことかもしれない。


●教員として考えると、地方には不正採用の問題がある。各都道府県に教員養成大学があって、そこを出ないと地元で教員になれないとか、他府県からだと教員の口がないとか、そういうことも解体していかないといけないのでは?

学校の先生方は、道州制にしたほうが職場のエリアも広がるし、自由にいろいろ交流も重ねることができる。いまだと、たとえば、同じ市のなかでしか教員の採用ができない、他のところに応募するといくら成績がよくても落とされる。だが、道州ということになってくれば、道州の知事が教育方針をつくりだすので、基礎自治体という枠はありながらも、自由に他の基礎自治体の採用試験を受けることもできるようになる。そうするとチャンスが広がってくるし、もっと言うなら、過疎的な地域で教員をしたいというような人は、その広域の道州のなかで奉職できるということにもなる。私は教員の方々は、エリアを広げる、自分の希望をかなえるという意味でも、道州制を歓迎していただきたい。


●道州制になると、教育も州ごとに変わるのか?

小中学校は、それぞれの基礎自治体ということになる。大学は全部州立大学。あるいは私立大学。大きな教育基本方針というのは、州知事が出して、それを基礎自治体の首長が、小中高の教育方針を収れんさせて、まとめて広げていく。州知事が教員採用試験で、各基礎自治体ごとに採用しないようにするとか、本人の希望をききながら決めるとか、過疎地の経験をした人は30歳になったら故郷や都会に戻すとか、そういうことを決めてもいい。
  北海道はいま、道州制特区。札幌医科大学は道が主にお金を出して運営しているが、東京とか仙台とか、本州から学生がやってくる。それで、高橋知事は札幌医科大学を卒業したら、何年間は北海道で勤務することを義務づけたいと言った。ところが、文科省が職業選択の自由、就職の自由があるからとはねつけてしまった。それはおかしい。北海道のお金で医科大学ができているなら、そこで学んだら地元で就職するという義務を課してもいいと思う。…というようなことが、道州制になったらできるようになる。


●教育を全国一律ではなく、道州ごとにやるメリットはどこにあるのか。

そのことによって、教育方法の競争が行われる。あそこはあんな教育の仕方をやって、子どもが成績を伸ばしているじゃないか、あそこはあんな教育をして、生徒の質が低下しているじゃないかと。日本のなかで教育のやり方を違えることによって差ができてくる。そうなると、成功したやり方を他の地域も取り入れようということになり、良き政治の競争、善政競争があらゆるところで行われるようになるだろう。企業はベンチマーキング経営でそれをやっている。1つの業界でいちばんいい成績をあげている、その会社のまねをするというのが、ベンチマーキング経営だ。
  いま、日本のなかのいろんなところで競争が行われている。個人でも、入学試験でも、会社でも。競争がないのは政治だけ。全国一律に規則で決められ、競争がない。クレヨンでいうなら、緑色のクレヨン一色とか。でも、緑色一色では、いい絵が描けない。ここは赤で、ここは黄色で、ここに緑、ここに黒、ここに茶色、ここにピンク…と、クレヨンが12色、24色揃って、いい絵が描ける。つまり、いい日本が描けるということになる。そんな日本にするというのが、地域主権型道州制だというふうに、ご理解いただきたい。
  高速道路のパーキングエリアも、民営化されたためにずいぶん変わった。わざわざパーキングエリアに行くために高速道路に乗るというような…。道州制も同じ。一律の規制がなくなるので、それぞれの地域の住民が納得する規則、法律、条例をつくることができる。住民の声、市民の声が大きく反映されることになる。


●道州制で、東京の一極集中というものが解消されるのか。

道州ごとに拠点拠点ができるから、東京の繁栄が分散される。人、物、金が分散される。誤解を恐れずに言えば、都道府県を道州制にすれば、各道州にそれぞれの「東京」が、拠点拠点にできあがっていく。では、道州のなかに小さな一極集中ができるのかというと、そうではない。道州のなかの拠点の多極化というようなものを考えている。
  関西でいえば、商都は大阪、国際首都は神戸、文化首都は京都、歴史首都は奈良、滋賀県は憩の首都、和歌山はシニア首都(高齢者には和歌山の気候は非常にいいので)…というように、それぞれの州のなかで、拠点拠点をつくっていけばいい。

州都は新たに、8万人から10万人の街をつくったらいいと思う。それ以上の規模は必要ない。政治首都は、たとえば九州だったら、鳥栖あたりに州都をつくったらいい。あそこは人口6万人ぐらい。関西だったら、大山崎、島本町あたりとか。州都というのは、政治都市。政治都市に赤坂や神楽坂は必要ない。
  政治をやるのに、なぜ料亭や飲み屋が必要なのか。会議をやるなら、立派なものである必要はない。地域主権型道州制になって、州都、政治をやる場を新たにつくるなら、遊び場所をつくらずに、マンションと事務所をつくって、議員宿舎も廃止すればいい。


●『国民を元気にする国のかたち』(江口克彦著・PHP研究所発行・2009年)によれば、47都道府県の知事のうち、23人が賛成。国会議員の約4割が地域主権型道州制の導入に積極的と書いてある。2012年のいまの状況は?

いま47都道府県で熱心なのは、15人ぐらい。大阪の橋下市長、岡山の石井知事、宮城の村井知事、新潟の泉田知事など。「どちらかというと賛成」という人を入れると、22、23人ぐらいになるのではないか。「絶対反対」は3人ぐらい。「どちらかというと反対」が15人ぐらいいる。
  国会議員は真正面から聞いたら6割、7割が賛成。本音でも賛成なのは、まあ3割か4割。


●東日本大震災で、一極集中の危うさを感じた。道州制は危機管理の面からも有効か?

もちろんそうだ。東日本大震災も、あれが東北州で、東北6県が一つのブロックだったら、もっと強烈に菅さんと対峙することができた。ところが、6県に分かれていると福島県知事、宮城県の知事、岩手県の知事…とバラバラに総理官邸や国土交通省や文科省に行く。バラバラだから、受けるほうもまたかと思うし、来るほうも力が弱くなって、いまだにがれきの処理一つできない。原発の処理も遅々として進まない。
  あれが東北州だったら、道州制になれば文科省も国交省もなくなっているので、州知事が総務省や首相と対等にわたりあいながら、迅速に震災処理を進めているし、もう終わっているだろう。もう1年半も経ってるのだから。被災した人たちは気の毒だ。
  いまは臨機応変に何も対応できない。塩をかぶった農地にコンビニでもつくってあげようとコンビニの会社の人が考えても、「農地だからだめだ」という。未来永劫そこにつくるってわけじゃないのだから、期限を決めて建てさせてあげたらいいのに。
  また、フォークリフトは公道を走ってはいけない、必ずトラックに積んで運ばなきゃいけないという決まりがある。だから、100m先の被災地までフォークリフトを動かそうとしても、トラックがないから動けない。
  これが州知事だったら、100m先ならフォークリフトで行け、被災地の人が便利になるのなら農地にコンビニを建てよう…と、そういう決断ができる。

東北の冬は寒いから、仮設住宅に寒さの対策をしないといけないのに、寒さ対策も遅れた。窓に段ボールを工面して貼ったりして…、被災地の人はかわいそうだ。 どうしてできなかったかといったら、霞ヶ関から被災地が見えないから。しかし、東北州の州知事だったら、岩手と宮城、あるいは宮城と福島の間に州都があったら、そこから被災地が見える。被災した人たちの苦しみがわかる。実際に余震や夜の不安も経験できる。いまだと首相が行って、日中2〜3時間いて帰ってくる。復興担当大臣も、昼間行って意見を聞いて、夜帰って来てしまう。
  州知事なら、夜こうだからこうしようとか、あそこはこうだからこういう手を打とうとか、臨機応変にこうしようとか、条例でこう決めようといったことができる。


●なぜ国会議員になったのか。国会議員になることで、道州制は進んだのか?

私は「地域主権型道州制」というものに30〜40年取り組んできている。地域主権型道州制は、中央集権と比べた場合には、少なくともベターであり、国民のため、地方のためになる。それが日本をよくしていくということの原点、出発点になる、そして、国民の幸せに絶対つながると信じている。だから、なんとしてもこの地域主権型道州制というものを実現したいという切なる思いで国会議員になった。ただ単に政治家になりたいからなったわけでもないし、頼まれたから政治家になったわけでもない。

国会議員になったので、参議院に道州制移行基本法案というのを初めて提出することができた。超党派で160名もの国会議員を集めて「超党派道州制議連」もつくった。それから橋下徹さんが出てきた。あの人に大阪特別州か、関西州か、その方向で考えたほうがいいとアドバイスをしたのは私。それから彼は、大阪都構想というものを持ち出して、「大阪都は道州制への一里塚」だと記者会見で言った。
  国会議員ひとりひとりと話をすると、他の政党の人でも、話をすれば納得してくれる。面と向かうと「ああ、いいですね」、後ろを向いて「まあ、どうでもいいや」という、そういう人もいるが、だんだん少なくなってきている。後ろを向いてもやっぱり必要だという人が増えている。だから他党からの講演依頼が多い。今度、民主党の参議院議員講演会、自民党の衆議院議員講演会でも、講演をすることになっている。みんなの党は数が少ないから、他党からの講演依頼が増えているというのは、私としては一つの成果だと思う。
  ゆっくりではあるが、着々と道州制に近づいている気はする。



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