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いわき病院事件の持つ重要性と
いわき病院事件控訴審判決の問題点


(注:文中、敬称は省略してあります。)
矢野啓司・矢野千恵(代筆)


1、いわき病院事件のあらまし

 (1)矢野真木人の死

    矢野真木人は、平成17年12月6日の12時25分頃に高松市香川町のショッピングセンター駐車場で、近隣のレストランで昼食後に駐車場に止めてあった自車に乗り込もうとして、偶々接近してきた野津純一に、純一本人が直前に購入した万能包丁で、右胸下を刺されて死亡した。矢野真木人にとっては、全くの遭遇による突然の攻撃であり、「自分がこれから死ぬ」という事実も認識できなかったと思われた人生の結末である。

 (2)犯人・野津純一の状況

    本件殺人事件の犯人である純一は、20年来の慢性統合失調症患者であり、平成16年10月1日からいわき病院に任意入院をしていた。平成17年2月14日から純一の主治医に交替した「いわき病院長」渡邊朋之医師は、平成17年11月23日から、患者と両親の同意なく、抗精神病薬(プロピタン等)及びSSRI抗うつ薬(パキシル)の主剤2薬を突然に中断し、そのことをいわき病院の医師、看護師等にも知らせていなかった。そのため、病院として、純一に対する看護・観察も不十分な状況にあり、病院外への外出も事実上自由なままだった。

 (3)純一への刑事処分

    純一は、殺人事件を起こした翌日、現場を見ようとして病院を外出し現場近くまで来たところで逮捕され、殺人及び銃刀法違反で起訴された。平成18年6月23日、高松地方裁判所は、純一に対し、本件犯行当時その事理弁識能力や行動制御能力が著しく減弱していた心神耗弱の状態にあったと認定した上で、懲役25年に処する判決を下し、その判決は確定した。

2、いわき病院事件の持つ意味

  1. 矢野啓司と矢野千恵は、本件殺人事件に関し、いわき病院を経営する医療法人以和貴会(以下、単に「いわき病院」という。)と純一の主治医・渡邊に対し損害賠償請求事件として裁判を提起した。矢野らがこの精神科医療裁判を行う理由は、健全な精神科医療の促進である。精神障害を罹患することは、人間として生きる権利の制限を受けることを当然としたり、権利を失うことではない。精神科医療は、人間としての権利回復と拡大に貢献するべきものである。

  2. 矢野らが裁判を行う目的は、精神障害者を、精神障害に罹患しているという理由だけで、精神科病棟に閉じ込めることではない。精神障害者により良い精神科医療を確保して、健全な社会人として社会参加する道と可能性を拡大することである。特に、開放処遇を進めている現在の精神科医療においては、その開放処遇を一層進めていくためには、患者、家族、病院、医師、地域住民等の役割と責任が、開放処遇に適したものとして確立されていかなければならない。

  3. これまで、精神障害者の殺人事件に関しては、入院が強制された措置入院患者が病院の監視・管理を抜け出して病院外で起こした事件について、その病院の責任を認めたものがある(岩手北陽病院事件、静岡養心荘事件)が、患者の意思で入院する任意入院患者が病院外で起こした事件について、その病院の責任を認めたものはない。本件の損害賠償請求裁判は、精神科医療の開放処遇を進めていく中で起こり得る不幸な事件に関係者がどのように向き合うべきなのかについて、その指針を示すこととなることが期待される。

3、いわき病院事件控訴審判決の問題点

 (1)第1審・高松地裁判決の内容

    第1審である高松地裁判決は、平成25年3月27日、原告・矢野らのいわき病院及び主治医渡邊に対する損害賠償請求を棄却した。

 (2)控訴審・高松高裁判決の内容

  1. 控訴審である高松高裁判決は、平成28年2月26日、控訴人・矢野らのいわき病院及び主治医渡邊に対する損害賠償請求を棄却した。その判決の内容は、矢野らが裁判で期待する、健全な精神科医療の促進や、開放処遇推進のための関係者の役割と責任についての指針の提示を実現するものとはほど遠いものであった。

  2. 以下に、高松控訴審判決の問題点を示したい。ただし、以下の問題点は、控訴審判決に対する上告が、憲法違反、最高裁判例と相反する判断、法令の解釈に関する重要な事項を含むと認められる事件などに限定される(事実認定の誤りを理由とする上告は認められない)ので、その観点から指摘するものであることを予めお断りしておきたい。

4、高松高裁判決の問題点

 (1)いわき病院・渡邉医師の過失

  1. 医師の裁量権:その1
    判決は、被控訴人渡邊医師の平成17年11月23日の処方変更について、「医師の裁量の範囲内の合理的選択というべく、被控訴人渡邊に過失は認められない」(判決32頁下から4・3行目)とする。
    →しかしながら、判決は、治療薬の主剤の2つ(パキシルとプロピタン)について、そもそも、パキシル投与の「突然の中止」は添付文書「重要な基本的注意」記載事項違反であることを看過し、プロピタンの投与中止は統合失調症治療ガイドライン違反であることを看過している上に、パキシルの「代替」としてのノーマルン(アミトリプチリン)10mgの投与について、被控訴人自身が「抗うつ薬としてではなく鎮静剤として使用した」としている(サイモン・デイビースら鑑定意見書(注:下記3.参照)でも、「抗うつ剤としては少量過ぎる」と指摘している。)にもかかわらず、「抗うつ薬として投与した」としている。このことは、証拠採用の法則に反するものである。

  2. 医師の裁量権:その2
    被控訴人渡邊医師の11月23日の処方変更後の投薬について、判決は、「医師の裁量の範囲内の合理的選択というべく、被控訴人渡邊に過失は認められない。」(判決32頁下から4・3行目)として、その処方の具体的内容とそれを支持するU教授の鑑定意見書を採用している(判決31頁下から6行目~32頁下から9行目)
    →しかしながら、判決は、U教授鑑定意見書の主張に対するデイビースら鑑定意見書での専門的かつ具体的な反論について全く考慮していない点で、証拠採用の法則に関する違法又は釈明義務違反がある。果たして、「医師の裁量の範囲内の合理的選択」と言えるのか大いに疑問である。

  3. 経過観察義務:その1
    控訴人矢野らが主張する「被控訴人が適切な経過観察をしなかったことによる過失」に関し、判決は、「パキシルの投薬中止により離脱症状等の具体的危険性が発生したことやプロピタンの投薬中止により統合失調症の再燃リスクの具体的危険性が生じたことの的確な立証がない」(判決33頁14~16行目)としている。
    →しかしながら、判決は「具体的危険性の的確な立証がないから経過観察義務を負わない」かのように論じているが、その論旨は、全く経験則に反する。離脱症状や再燃リスクは、医学的知見として一般的に周知されているのであって、抽象的危険性であってもそれが相当の確度で存在するのであれば(本件は、まさに存在していた。)、経過観察義務を負うべきと言うべきである。

  4. 経過観察義務:その2
    判決は、「控訴人らの主張は、抽象的危険性を根拠として結果責任を問うに等しい際限のない経過観察義務を課すことを求めるもので、失当である。」(同頁下から10・9行目)と批判する。
    →しかしながら、この判決部分は、控訴人らの主張を誤解・曲解するもので、審理不尽である。控訴人は、例えば「パキシルの投薬中止による離脱症状等の発生する期間として臨床的に指摘されている6週間程度の適切な経過観察が必要である」等合理的な期間の経過観察義務を主張してきたのであって、「際限のない経過観察義務を課すことを求めるもの」では全くない。

 (2)予見可能性

  1. 「根性焼き」からの他害行為の予見可能性:その1
    純一の「根性焼き」について、判決は、「純一は、平成17年12月6日午前10時以降にタバコの火を左手や左頬に押し付ける自傷行為を行ったものと認められ(る)」(判決24頁下から7・6行目)とする。
    →しかしながら、判決は、同時に「逮捕時及び逮捕後に撮影された写真では、純一の左頬に赤黒い火傷状態の瘢痕が数か所、左手人差し指の付け根に火傷痕が確認できる」(同頁11~13行目)と認定しているが、数か所の瘢痕のできた時期は、それらの瘢痕の状況〔赤色が上下に2か所、黒色が右下に1か所、左上の赤色は中央部分が白色化(→2日後には瘡蓋化)、瘡蓋(→2日後には瘡蓋が取れて赤い皮膚が露出)〕から見れば、それぞれ違った時期であることが判るにもかかわらず、判決では無視している。同日午前10時よりも前に根性焼きが行われていたことが認定されれば、純一が「精神運動興奮状態や緊張病状態にあって誰が見ても自傷他害のおそれが明らかなような精神状況下」(判決29頁下から12~10行目)にあったこと、いわき病院の患者看護が根性焼きを見逃すほど杜撰であったことを示すとともに、「パキシルの投薬中止により離脱症状等の具体的危険性が発生したことやプロピタンの投薬中止により統合失調症の再燃リスクの具体的危険性が生じたことの的確な立証」(判決33頁14~16行目)となり得るのである。

  2. 「根性焼き」からの他害行為の予見可能性:その2
    被控訴人病院の内科医M医師の診察について、判決は、「平成17年12月5日に松岡医師が純一を診察したり」(判決24頁13・14行目)、「同年12月5日、純一が風邪症状を訴えたことから、内科医のM医師が純一を診察した。体温が37,4度あり、感冒薬を処方した。」(判決25頁8・9行目)とする。判決は、「M医師が12月5日に診察をしていたが、その時にM医師は、純一の根性焼きを見ていないのだから、根性焼きはその後にできたもの」と言おうとしているのである。
    →しかしながら、控訴人は、M医師の12月5日の「診察」について、準備書面(5)(38頁、70頁)において、実際は「診察」がなかったことを詳細かつ具体的に反論しているにもかかわらず、判決は、何ら理由を述べることなく経験則に反した認定を行っている。

  3. 過去の暴行歴からの予見可能性
    純一の他害行為のエピソードについて、判決は、「既に10年以上前の出来事である」(判決33頁下から2・1行目)、「さほど深刻なエピソードとは考え難い」(判決34頁2・3行目)、「素手の喧嘩をしたという類である」(同頁4行目)、「相手に傷害を加えるようなものではない」(同頁7行目)として、「本件殺人事件は、いずれのエピソードとも隔絶した出来事と言わざるを得ない」として、これらの「過去の粗暴な履歴等があったからといって、いわき病院においては、純一が本件殺人事件のような重篤な他害行為を行うことを予見し得たということはできない」(同頁下から10行目~7行目)と認定している。
    →しかしながら、デイビースら鑑定意見書では、精神医学の専門家として、これらのエピソードをもって「純一が広範にわたる他害行為履歴を有した患者」と評価している。にもかかわらず、判決は、被控訴人が主張もしていない事実評価を行うと共に、「他害行為履歴の程度が軽いから重篤な他害行為をする可能性がない」という医学的に根拠のない過小な評価をしており、証拠採用の法則に反している。

 (3)いわき病院・渡邊医師の過失と殺人事件との因果関係

  • デイビースら鑑定意見書の評価
    サイモン・デイビースら作成の鑑定意見書について、判決は、「本件殺人事件という重大な結果が発生したことから出発して抽象的可能性のレベルでの因果の仮説を展開するに過ぎず、いずれも直ちに採用できない」(判決31頁下から12行目~9行目)としている。
    →しかしながら、サイモン・デイビースらは、鑑定人全員で合計70年以上の精神医学の経験と研究履歴に基づいて、被控訴人が鑑定依頼をしたI教授やU教授と同じ資料を提供されて、具体的な鑑定意見を述べているのである。その具体的な鑑定意見においては、I教授とU教授の意見について具体的な問題点を指摘している外に、純一の病状やその病状発生の因果関係を合理的に説明している。にもかかわらず、控訴審判決が「抽象的可能性のレベルでの因果の仮説を展開するものに過ぎない」としているのは、証拠採用の法則に反するものである。

5、いわき病院事件の上告に向けて

    上告理由書及び上告受理申立て理由書の提出期限は、上告人が上告提起通知書・上告受理申立通知書の送達を受けた日から50日であり、その日は4月30日となっている。
    上告が認められる条件は大変厳しいが、鋭意、上告が認められることを目指している。

    (了)


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