いわき病院事件報告 日本の精神医療の改革と改善を目指して
1,次期会合の期日指定
いわき病院事件裁判はいわき病院側の回答書の提出を受けて、平成27年3月19日(木)の法廷で、7月23日(木)を次々回とし、中間の審議を6月2日(火)とすると指定されました。ところが、いわき病院側の文書提出は裁判期日後の4月2日(木)となり、予め申し出た期限より一週間遅れて(琉球大学)植田鑑定意見書等の提出が行われました。しかし、「控訴人(原告矢野)側は6月2日の法廷で中間の反論を行い、7月23日に法廷で、最終とりまとめの反論を行いなさい、但し、反論書の提出は法廷審議の都合で提出が遅れてはならず、裁判期日の2週間前には提出すること」、このような次第でした。
控訴人矢野は6月2日(火)の高松高裁法廷で「野津純一に対する犯行直前の医療(文量51頁)」及び「植田鑑定意見書の問題点(文量73頁)」を提出して、同時に次回の期日の7月23日(水)の2週間前までに、鑑定人の意見を取り纏めることが困難であるので、「期日を9月末まで延期して欲しい」と事前に願い出ました。これに対して高松高等裁判所は、期日の延期に否定的でした。またいわき病院代理人も否定的で、「既に定められた期日を守るように」と主張しました。
控訴人(矢野)側は、初めて矢野代理人として法廷に出廷した平岡秀夫弁護士が、「本件は単なる損害賠償訴訟ではなく、これからの日本の精神科医療に大きな影響を与えるものであり、(世界的な精神科医集団でもある)デイビース医師団による、十分に検討した鑑定意見書を書いてもらうことは、大変重要である」、その上で、「控訴人側の最終意見とりまとめには鑑定人の意見提出は必須であること」、「いわき病院側の意見提出が遅れたため、控訴人側は作業を開始できなかったこと」、「現在は英国、米国、オーストラリア、ケイマン諸島に散らばっているデイビース鑑定団のため、日本語→英語、英語→日本語、の翻訳作業に時間が取られること」、「次回審議が、高裁最終審議と心得るので、控訴人としては文書作成に完全を期したいこと」等を主張しました。この発言には、効果があり次回審議を9月末に行う事で、日程調整が行われ、結局当事者全員のスケジュール調整の問題で、次回の期日は10月6日(火)15時開催と決定しました。
矢野代理人の松本弁護士は引き続いて同じ裁判官の下で、別件の法廷審議がありました。その法廷審議の終了後、松本弁護士は高松高裁裁判長から声をかけられ、「矢野代理人に新たに加わった平岡弁護士」に関して、「元法務大臣と原告矢野との関係」について事実を確認する質問を受けたそうです。
2,平岡弁護士とインド時代
平岡秀夫弁護士は元民主党山口2区選出の衆議院議員(5期)で第88代の法務大臣(2011年9月2日〜2012年1月13日)でした。控訴人矢野啓司は農林水産省の出向者として1982年3月から1985年3月まで在インド日本国大使館に書記官として赴任しました。大蔵省出向者の平岡書記官とは、1983年4月から2年間、大使館の経済班で同僚として活動を共にしました。当時の私たちは共に新婚で、幼子を抱えたインド生活でした。大使館一等書記官の生活は、インド側の要人や主要機関と接する機会も多く、また日本から沢山の使節団や調査団の来訪があり、張りのある仕事でした。また、各種のレセプションに出席する機会も多く、夫婦で参加することが基本で、国内の公務員とは異なる別世界でした。
私たちのインド外交官時代の山は、中曽根首相訪印(1984年5月)と同年10月31日のインディラ・ガンディー首相暗殺事件です。総理大臣の訪問は大イベントで、大使館員は総動員で、事前に会合や各種のイベントを設定し、総理の訪問中は各種の会合に同席し、その状況を日本に報告し、目の回る忙しさでした。インディラ・ガンディー首相暗殺の時は、その日の午前中、私(矢野啓司)はインド政府と協議がありましたが、相手側が浮き足立っていて、会議になりませんでした。大使館に帰る道は、行きとはまるで違い、賑わっていた街の筈が、まるで人通りがない、異様な静けさでした。そして、日本大使館に帰ると「ガンジー首相が暗殺された」と大騒ぎでした。
日本大使館はその日の夜に緊急の対策会議を開催しましたが、その前の日中、一時的に自宅に帰宅する道は、騒然としておりました。ガンジー首相の暗殺者はシーク教徒で、ターバンを巻いたシーク教徒が車で走っておりましたが、交差点で停止したところを暴徒に狙われて、車から引き出されました。その日、街頭で撲死したシーク教徒は数えきれません。自宅に帰り、私は妻に「緊急事態が発生した、大使館員として非常時の勤務態勢になる、その間家族は安全でなければならない、絶対に外出してはいけない」と厳しく伝えました。私の大家はシーク教徒で、2階に住んでおりましたが、静まりかえっており、人の気配がありません。私は門票から大家の名前を外し、日本の国旗を掲示しました。
大使館の深夜の会議で、「中曽根首相がガンジー首領の弔問に再度訪印する、事前準備の時間が無いぶっつけ本番である、大使館員の役割は5月の総理訪問時と同じとする、自らの判断で、総理をデリーに出迎え、葬儀に出席していただき、無事に帰国を果たすよう、万全を尽くせ」と公使から命令が下った。その時、平岡書記官が手を仰げて、「インド大蔵省高官を日本に招待して、明朝未明(その日と同じ夜)にデリー空港に帰国する予定だ。彼はシーク教徒である。インド大蔵省が出迎えるはずであるが、この混乱の状況では不明で、確認できない。本人は既に東京を出立しており、東京に留めることもできない。日本に招待した担当官として、私が空港に出迎えたい」と発言した。その夜、平岡書記官はデリー空港で出迎えたが、インド側の出迎えは無く、日本の国旗を掲げた車で、政府高官を自宅まで送迎した。事件後、そのインド政府高官は「平岡氏のおかげで、命拾いした」と私に語った。
その夜、私たち日本大使館員は、深夜のデリーの街を走り回った。インド政府は各国の弔問団のホテル配置はインド政府が手配すると通達し、国営アショーカホテルに中曽根首相の滞在を指定した。首相の部屋と同行の安倍外相の部屋は離れており、また、部屋が小さい。インド側は「各国の要人が多数来訪するので、これが限度だ、随員の部屋までは手配できない」と説明した。私は、前回の総理訪印の時の宿泊先のマウリア・シェラトンホテル(前回の総理訪印の縁で、マネジャーと知己だった)と交渉して、最上階のフロアの全室を押さえた。総理がデリー空港に到着して弔問外交を行い、デリー空港から出発するまで、平岡書記官と私は、共に各々担当したグループの班長として、次から次へと発生し即断しなければならない問題に忙殺された。
この当時の模様を、平岡氏は「私は当時、配車係(車と運転手の手配、車での移動計画の作成・管理等)を担当しました。日本と違って、インドでは、時間通りに体制整備・移動することは困難を極めました。更に、その半年前の中曽根総理訪印時に比べて相当高い車の手配料金を提示されて、憤慨もしました。「需要が多い時に高い値段を提示して何が悪いの?」というインド人の感覚に付いていけなかった私の方が、国際感覚に欠けていたのかもしれません。」と振り返っている。
3,矢野真木人
デリー時代には矢野真木人は幼稚園から小学校に進む頃の年齢で、平岡氏の長男は乳離れして歩き始めた頃でした。大使館員の子供たちは大使館の行事に参加することも多く、大使館員は他の子供たちの顔をよく承知していた。なお、矢野真木人は出生が英国で、実は英国籍も有しており、日本国籍も所持する「二重国籍者」でした。このため、インドでは「英国人学校」に通学しておりました。
平岡書記官の前任者は「超エリート」を自認しており、冷たい感じがありました。これに対して、平岡書記官は親しみやすい雰囲気を維持して、好感度が高い好人物でした。生前の矢野真木人も「平岡さんは優しかった」と言っておりました。
4,代理人をお願い
矢野真木人が殺人された時(平成17年12月6日)、平岡氏は民主党衆議院議員で、わざわざ電話をかけてきて哀悼の言葉をいただきました。私たちは当時弁護士を探しておりましたが、まさか、忙しく多忙な国会議員に弁護人を依頼することはあり得ないことでした。平岡議員は、「精神障害者が犯人の事件で、病院はおろか犯人に罪と責任を問うことは、この日本では極めて難しい。優れた弁護人が必要だ。」と助言してくれました。
矢野真木人殺人事件は平成17年12月6日で、平岡氏はその後に法務大臣を経験されて、ずっと裁判の経過を見守ってこられました。慢性統合失調症で、心神耗弱と診断された犯人には、刑事裁判で懲役25年の実刑判決が下りました。更に、私たちは民事裁判を提訴して、いわき病院と病院長渡邊朋之医師の責任を追及しております。その目的は、市民社会の安全に貢献する精神科医療の確立と向上です。
それは、矢野真木人殺人犯人として刑に服している、野津純一本人とその両親の無念に答える事でもあると考えます。いわき病院は「入院治療を行っていた病院に責任を問うことは間違い」という主張です。しかしその本音の論理は、多数の精神障害者の抱え込みです。精神障害者の治療を促進して、社会参加を拡充することとは言い難い状況です。(日本では、精神障害者の入院病床数が人口1万人当たり28床を越えており、削減が困難で、精神障害者の閉じ込めと隔離が懸念されています。他方、欧米諸国では10床以下まで削減が進んでいる諸国があり、それは、精神科医療の放棄ではなく、精神障害者の社会参加の促進と考えられております。)
山口県の選挙区は熾烈であり、現在の平岡弁護士は国会議員ではありません。そして、「この事件に関して、将来的見通しとして、法律家にしかできないことがある。それをしたい。」と申し出てくれました。そして、矢野代理人を引き受けて下さることになりました。私たちは大変嬉しく思います。矢野代理人はこれまで高知在住の松本隆之弁護士と川竹佳子弁護士が行ってきましたが、この二人に合わせて平岡秀夫弁護士が矢野弁護団に新たに加わることとなりました。
私たち夫婦が平岡さんに弁護を依頼する理由は、矢野真木人の幼年時代を知る平岡弁護士に矢野真木人の無念を晴らしていただきたいという願いと、そして、平岡秀夫氏の元国会議員としての経験を元にして、「長期的な視点で、日本の精神科医療制度の改革と改善を促進して、健常者と精神障害者が共に生きる日本社会を造りあげてゆくことが、矢野真木人の無念に応えること」、と確信します。また、私たちは平岡弁護士と30数年ぶりに、再び共に仕事をする縁をいただき、光栄に覚えます。
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