精神科医療と第三者殺人責任
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1、精神科医療と殺人事件
(1)、矢野真木人殺人事件
矢野真木人(享年28才)は、現高松市香川町のショッピングセンターの駐車場で、平成17年12月6日に通り魔殺人された。犯人の野津純一氏(当時36才)は近隣の精神科病院である医療法人社団以和貴会いわき病院で入院治療を受けていた、一級の障害者手帳を所持し一級の障害者年金を受給する、慢性統合失調症患者である。
事件は矢野真木人から見れば、直前まで致命的な危機の発生を予測することが不可能で、自分自身が殺される未来展開を予想した自己防衛行動を取ることはあり得ない。また、日本は安全な社会であり、市民がいつ何時不意に襲われるかも知れないと常に予測して対応しなければならない状況は許されない。いわき病院が主張した「外出許可者の10人中8〜9人以上が殺人する高度の蓋然性」という論理が通用するならば、日本の市民生活の安全性は医療といわき病院の論理を容認する司法の両面から崩れる。
(2)、野津純一氏の立場
野津純一氏の立場から見れば、主治医の渡邊朋之医師が行った精神科開放医療の治療の過程で、野津純一氏は徐々に深刻な自傷他害行為を実行する可能性が亢進していた。野津純一氏はある日突然に通り魔殺人行為が弾けたのではなく、徐々に状況が悪化して、主治医の渡邊朋之医師に本人が訴え続けた「イライラと手足の振戦」に苦しみ、結果として通り魔殺人を行った。放火暴行履歴がある慢性統合失調症の患者として入院治療を受けていた野津純一氏には、事件の発生は「ある日突然」ではなく、医療放棄された結果として、やむを得ず行った自傷他害行為で、その他害行為が極めて深刻な殺人であった。
野津純一氏が状況を正確に自己認識できていたかと言えば疑問である。主治医の渡邊朋之医師は野津純一氏の治療薬(抗精神病薬プロピタンとSSRI抗うつ薬パキシル)を同時に突然中止したが、その事を患者に事前に説明して同意を得ておらず、更には苦しんでいたアカシジアも、治療薬のアキネトンを薬効がない生理食塩水に代えるプラセボ試験(患者に試験目的を知らせない偽薬試験)を行い、野津純一氏は自分が置かれた状況を理解できない状態にあり、いわき病院には患者に対するより大きな観察と診察の義務があった。11月2日までは、FS薬剤師が薬の効能や副作用を説明して野津純一氏の理解を助けたが、向精神薬の薬効と処方変更に関して渡邊朋之医師とFS薬剤師は見解を異にして、11月23日から実行した複数の向精神薬の同時突然中止に関連して、患者野津純一氏に対するFS薬剤師の説明と病状の変化の聞き取りは行われていない。患者は激しいアカシジア「イライラ、ムズムズ、手足の振戦」等の症状が激化したことに困惑して、主治医の渡邊朋之医師に何回要請しても診察してもらえず、診察拒否されて絶望感を抱いた。チーム医療が破綻したいわき病院のアネックス棟では、野津純一氏の窮状に気付いた精神科看護師はおらず、看護師が患者の診察要請を取り次いでも渡邊朋之医師は拒否した。患者は激しいアカシジアの苦しみに耐えかねて、根性焼の自傷行為を繰り返してもイライラを解消できず、「誰でも良いので人を殺す」と決意して、いわき病院から許可による外出後のわずか14分で、偶々であった矢野真木人を刺殺した。
(3)、いわき病院と殺人事件
いわき病院長の立場から事件を見れば、渡邊朋之医師は野津純一氏が訴えていた「イライラ、ムズムズ、手足の振戦」の症状に有効に対応できず困惑して、主治医の判断で、平成17年11月23日から複数の向精神薬(プロピタンとパキシル)を同時に突然中止し、アカシジア緩和薬アキネトンを薬効がない生理食塩水に代えるプラセボ試験を計画した。これは、主治医として自らに細心の注意義務を課した状況で、その後に漫然と平常時の対応をしたことは医療義務違反である。渡邊朋之医師は「野津純一が『人を殺す』と直接言わないので、殺人することは知りようがない」と主張した。主治医は「重大な治療上の方針変更」を患者に事前の説明と同意を得ずに行い、同時に治療目的を秘匿する「プラセボ試験」を行い、その上で、患者を経過観察せず、診察したのは2週間で夜間に1回だけあった。渡邊朋之医師の「患者が事前に言葉で説明しなかった」という弁明は、主治医として患者に不可能な要求である。野津純一氏が置かれた状況は、医療側が義務として、細心の注意を払い、患者の状況の変化を把握すべき事態であった。
渡邊朋之医師は慢性統合失調症の患者の野津純一氏に抗精神病薬プロピタンを突然中止して統合失調症の治療を中断した。主治医は患者に異常行動が出やすい状況をもたらし、その上で、突然の中止を行えば患者に激越等の異常(離脱症状)が発現する可能性が極めて高いとして、添付文書で「突然の中止禁止」を指示されていたSSRI抗うつ薬パキシルをプロピタンと同時に突然中止した。この行動は精神科臨床医師として基本の、統合失調症治療ガイドライン違反であると共に、添付文書の重大な禁止事項から逸脱した治療である。基本的でかつ重大な治療指針から逸脱した医療を行う時には、主治医は通常の観察ではなく、経過観察頻度を上げて問診と診察を行い患者の病状の変化をきめ細かく掌握して、病状の悪化がある時には時を失わず治療的介入を行う義務がある。渡邊朋之医師はその認識を欠き、「純一の病状悪化は予想できなかった」という弁明は、精神科臨床医師として義務を果たした上の、精神医療の常識に基づいた弁明ではなく、非常識をあたかも常識として主張する詭弁である。精神科専門医には必要とされる義務的な精神医療知識があり、無知を装う弁明は許されない。
いわき病院長渡邊朋之医師は「矢野真木人を平成17年12月6日の昼過ぎに突然殺人することまでは予見できない」と主張した。いわき病院は、「野津純一は事前に渡邊朋之医師に対して殺人すると言わなかった」また「主治医は、殺人事件の発生を具体的に予見できないので責任は無い」と主張した。過失の構成要素として重要なことは「殺人事件に至らないまでも、他害行為を行う可能性を、主治医として予見せず、患者の診察を行わなかったこと」である。渡邊朋之医師は統合失調症の治療を中断してその上で添付文書に重大な禁止注意事項として明記されている「パキシルの突然中止」を行った。主治医として、患者に自傷他害行動の亢進という行動の異常が発現する可能性を予見して、その兆候を慎重に経過観察し、好ましくない病状の変化が現れた際には、直ちに治療的介入を行う義務があった。主治医の観察義務を履行しない治療放棄をして、「患者を診察していないので、患者の異常な兆候を発見していない、従って主治医として責任は無い」といういわき病院の無責任な論理は許されない。
(4)、可能だった治療的介入
いわき病院は「殺人を行う事までは予見できない、病院に責任は無い」と主張した。これはあり得ない事を主張して免責理由とする反社会的な主張である。治療方針を変更した後では病状悪化の兆候を見逃さず、治療的介入を行う事が医療者の義務である。現実に11月30日に渡邊朋之医師が1回だけ野津純一氏を診察した際には、治療目的であったアカシジアの再発と幻聴の異常体験(人の声、歌)に気付いており、12月1日以降の看護記録にもアカシジア症状の悪化に関連した観察記録が記載されている。その期間は主治医自らがプラセボ試験の効果確認を行なうべき正にその時である。主治医として渡邊朋之医師は「重大な処方変更を行い、プラセボ試験中の患者野津純一氏」にアカシジアの症状が悪化していることに、看護師の報告から気付くべき時であった。主治医は最初に設定したスケジュール通りにプラセボ試験効果判定の診察と問診を行えば、殺人に至った病状の極端な悪化を避けることができた。(いわき病院は「病状は悪化してなかった」と主張したが、主治医は診断していない。)
主治医が必要な患者の診察をせず、殺人を行うまで、何もしない精神科医療では、いかなる事故であれ、発生する可能性を察知する未然の対応は不可能である。経過観察は、義務として行うべき患者の病状変化の診察で、一見軽微な病状の悪化にきめ細かく対応する事で、重大な精神科医療事故である、第三者に対する殺人事件の発生は有効に防止することが可能となる。「殺人事件の発生を予見できないので、何もする必要がない」という渡邊朋之医師の抗弁は間違いで、医療者として義務違反である。平成17年11月23日以降にいわき病院が行わなかった精神科臨床医療的対応は、以下の通りである。
- プロピタンとパキシルを従前の投与量で再開する。
- 患者野津純一氏の病状が安定化するまで、一時的に単独では外出制限を行うか、付き添い付の外出に変更する。
この対応は、普通で一般的な医療手段で、患者が精神科開放医療の処遇を受ける権利を制限しない。また、患者に対する閉じ込め要求でもない。渡邊朋之医師は控訴人(原告)の指摘に対して突然極論を持ち出して、控訴人があたかも精神科開放医療を全面否定したかのような反論を行い、地裁は主張に乗せられた。しかし、高裁法廷にはいわき病院の主張の本質を見破っていただきたい。基本は精神疾患を持つ患者に、最低限必要な精神科臨床医療を実行することである。主治医の渡邊朋之医師は野津純一氏のアカシジア治療で、抗精神病薬プロピタンを突然中止して慢性統合失調症の治療を中断して、その上で、添付文書の記載に違反してSSRI抗うつ薬パキシルを突然中止した。この状況では、主治医はきめ細かく経過観察、診察と問診して記録を残す義務があり、義務さえ果たせば、高度の蓋然性以上の可能性で殺人事件の発生を防止可能であった。
(5)、精神障害者は危険という認識の誤り
日本では「精神障害者が殺人行為をすることは避けられない」、「精神障害者が殺人行為を行う事を止められない」、「そもそも精神障害者は危険な存在である」そして、「精神障害者が危険であることは変えられない」という思い込みが社会通念としてあるように思われる。その上で、精神科病院は本来的に危険な精神障害者の収容施設となっているので、精神障害者による第三者殺人という危険性には眼をつむることが、社会として公序良俗を尊重することになる、という視点は正しくない。
いわき病院はこの一般的な認識を、自らの免責理由にしている。また、いわき病院は控訴人(原告)が誤った偏見を持っているとして、控訴人が行った主張を正しく引用せず、自らの空想と推察で控訴人を決めつけて批判した。いわき病院が無力感を利用した主張をすることは、精神科専門医療機関の責任放棄である。
今日では精神障害は治療が不可能な疾病ではない。向精神薬の開発で、多くの精神疾患で寛解を期待できるようになり、将来的には治癒することも想定可能である。また精神障害者の行動も予見可能であり、「精神障害者は誰でも殺人を行う可能性があり危険」ではない。野津純一氏は、過去に放火暴行履歴があり、病状が悪化した際には自傷他害の危険性が高くなることが予想可能な患者であるが、野津純一氏は闇雲に自傷他害行為を行うのではない。病状の変化を観察し、病状が悪化した際には向精神薬を調整し、同時に一時的な行動制限を行う事で、自傷他害行動を抑制することは可能である。野津純一氏が良き社会の一員として社会生活を行う事を可能とする、精神科医療は存在する。論理として、いわき病院はそれが可能であると確信したからこそ、放火暴行履歴を自己申告した野津純一氏を開放病棟で入院治療して、退院を目指した治療を行っていたことになる。しかし、その前提としていわき病院が10人中7人までの第三者殺人には責任を取る必要は無いと考えて、精神科開放医療を実行したとしたら、市民に生命の犠牲を押しつける極めて深刻な反社会行為である。
渡邊朋之医師は精神障害者に自傷他害の行動が発現する可能性の程度を予測することができる法的資格を持った精神保健指定医である。また、精神科医療の改善(プライマリーケアの拡充と医療関係者の精神医療知識の普及等)により、患者の攻撃性を発散することも治療課題である。現在の精神医学は、自傷他害行為に対して全く無力ではない。多くの精神障害者が社会の一員として、良き市民として参加することを可能にする水準を達成している。いわき病院長渡邊朋之医師が、統合失調症治療ガイドラインを誠実に勉強して、薬剤添付文書の指示に従う精神科薬物療法を行い、患者の病状の変化に対応した治療的介入を行えば、野津純一氏が殺人事件を引き起こすことはなかった。
(6)、いわき病院の無責任論
渡邊朋之医師は「野津純一の病状悪化は予想できない」また「野津純一の病状は悪化してなかった」と主張した。その根拠は「渡邊朋之医師自身が野津純一氏の病状悪化していた状況を確認していない」ところにある。そもそも主治医は必要な時に行うべき経過観察の診察をしておらず主治医が行った医療記録がない。知識不足で不勉強の渡邊朋之医師が「野津純一の病状悪化を予想しない」ことはあり得る。しかしそれは、複数の向精神薬を同時に突然中止した主治医として、統合失調症治療ガイドラインとパキシル添付文書に違反した過失を証明する。「控訴人は不可能を主張している」としたいわき病院側の認識と弁明は間違いで、精神科臨床医師が当然持つべき資質と能力が欠如している。自らの不勉強を隠して、司法に対して「精神科開放医療には大義名分があるから過失責任を負わすべきではない、いわき病院の現実を見ずに判断しなさい」という押しつけである。精神科医療は実証科学であり、事実の判断は、医療の進歩で変わる。渡邊朋之医師は精神科臨床医師として行うべき当然の義務を果たしていない。慢性統合失調症患者を治療する医師として、当然認識しておくべき「統合失調症治療ガイドラインとパキシル添付文書」の知識を持たなかったのであり、医師の怠慢は過失である。
いわき病院と渡邊朋之医師は、現実としてあり得ない極論を持ち出して、「控訴人が無謀な主張をしている」と偽装した。いわき病院は「野津純一が、外出して包丁を購入して、通行人の胸を突然刺して殺人することまでは予見できない、したがって、予見できなかったいわき病院には責任は無い」という論理である。そして過失責任が問われる殺人の予見性とは、「外出許可者の10人中8〜9人以上が殺人する比率」である。そもそも、「10人中8〜9人以上が殺人する比率」は異常事態で、そのような状況が病院に発生することは許されない。また、「そのような異常事態が発生するまで、患者の病状を経過観察する診察をしなくても良い」という医療放棄も許されない。いわき病院の主張は、「真面目に日常の精神科臨床医療を行わない」、「患者を観察しない」、「患者を診察しない」、「患者に問診しない」従って「患者の病状悪化は知ることができない」また、「患者の状態に関する医師の医療記録は存在しない」、「医師の医療記録という証拠が存在しないので、病院の責任は無い」である。そして、「仮に何らかの記録があっても『10人中8〜9人以上が殺人する比率』を被害者側が証明できなければいわき病院に責任を問うことはできない」という論理である。この論理は公序良俗に適合しない。精神科病院が患者を守っていない。また、「10人中7人までの比率」で市民の生命に犠牲があることを容認し、国民の生存権を否定する反社会的な意見である。
野津純一氏は渡邊朋之医師の精神科医療で統合失調症治療薬の抗精神病薬処方変更が繰り返されて副作用として発症したアカシジア(イライラ、ムズムズ、手足の振戦)が悪化した。何しろ渡邊朋之医師は野津純一氏が症状として訴えたアカシジアを「アカシジア(パーキンソン症候群)ではないパーキンソン病」と誤診していたが、事件後に、渡邊朋之医師は平成18年1月10日のレセプト申告で診断名をパーキンソン病からパーキンソン症候群に変更して、診断間違いを認めた事実がある。野津純一氏を苦しめたアカシジアを適切に診断できない渡邊朋之医師は、精神薬理学の薬事処方で混迷して平成17年11月23日から複数の向精神薬を同時に突然中止した処方変更を行った。しかしながら、その後に主治医は義務として行うべき経過観察をせず、問診せず、診察は2週間で夜中に1回だけであった。これは主治医として責任を放棄した状況で、渡邊朋之医師は、重大な向精神薬を同時に中止した処方変更の事実を周知されず、観察の注意事項を指示されていない看護師の一般的な観察に頼り、自らは患者を診察しない医療放棄を行った。主治医として野津純一氏の病状悪化に気付かなかったが、それでも、看護記録では病状が悪化していた兆候は顕著であった。これは、主治医として患者の病状の変化を見守り、必要なら治療的介入(中止薬剤の再投与)をする意思を持たない医療放棄であった。
渡邊朋之医師は診察してなかったから知らなかった。知らなかったので、医師には責任は無いという論理である。この無責任論を放置してはならない。これは、破廉恥なほったらかしの医療放棄で、臨床医療の常識ではあり得ない事である。
(7)、精神科開放医療は安全
統計的に精神障害者による殺人率は精神障害を持たない者より高い数値であることは確かである。しかし、精神障害を罹患すれば、全員が高い殺人危険率を持つという単純な事実はない。精神障害を罹患しても、殺人を行う危険性を持つ患者はごく希で、ほとんどの患者は適切な精神科医療で治療を受けて、人権を尊重した処遇が行われるならば、極端な自傷他害行為を行わない。また、病状が悪化(リスクアセスメント)した際に医療側が適切に治療的介入や病状が悪化して行動に不安が生じる際に患者を一時的に保護する等の対応(リスクマネジメント)を行うならば、殺人という極端な行動を行うことはほとんどの場合回避できる。それが、今日では世界標準の精神科医療である。
「精神障害者は危険」という考え方は誤りである。また、精神障害者が社会の一員として参加することを可能とする精神科医療技術や手法も発達している。精神障害がない健常者の中にも殺人者はいる。精神障害者の中にも殺人者は発生する。ただ、精神障害者の場合には、過去の行動履歴及び病状の変化、そして野津純一氏の場合のような治療の状況に基づいて、自傷他害の危険性が亢進する可能性を予見可能な場合が存在する。患者が他害行動をする可能性を検討してはならないという渡邊朋之医師の主張は間違いで責任放棄である。精神科開放医療を行う主治医は、患者の行動履歴の確認を行い、患者の社会参加を達成する可能性を向上する、慎重な治療的対応を継続する事が求められる。精神科医療は患者の社会参加を促進することが可能である。
英国の経験〔Lange M他の英国医学界誌報告(2008 (193:130-133):Homicide due to mental disorder in England and Wales over 50 years〕は以下の通りであり、精神科開放医療の優れた教訓となる。
英国では人口10万人当たりの精神障害者の年間殺人率が1970年代まで増加して1973年には0.245人/年を記録したが、2000年以降は0.07人/年(3分の1)まで低下した。精神障害者による殺人総数は人口5千万人余の英国(イングランドとウエールズ)で1950年の50人/年から1970年代には100人/年まで増加したが、2000年以降は40人/年の程度となった。英国の経験を元にすれば、精神障害者による殺人比率は一定不変ではなく、社会的な努力で削減することが可能であることが判明した。特に、英国全体では移民の受け入れなど社会構造の変化に伴い殺人総数は増加傾向がある中で、精神障害者による殺人数が減少した事実は重要である。
- 英国では精神障害者による殺人比率が10万人当たり0.245人/年の最高値を1973年に記録した
- 2000年に上記の数値は0.07人/年まで低下した
- 英国では1950年以降は上記の数値は増加して、1970年代中期がピークで、その後低下した。
- 社会的背景として一般殺人数は増加のままだった
- 英国で精神障害者による殺人総数(及び比率)が減少した要因として、抗精神病薬の普及と、精神医療施設の拡充、プライマリーケア等の社会復帰施設の整備及び精神医療知識の普及がある。論文報告者のMatthew Large, FRANZCPは、以下の精神医療関係の改善と改革の効果を特筆した。
1)、抗精神病薬の開発と普及促進
2)、精神科医療でプライマリーケアの拡充と医療関係者の精神医療知識の普及
精神科開放医療が着実に実行される場合には、精神科開放医療で精神障害者による重大犯罪は増加せず、むしろ減少した。これは「社会の安全確保のため一律的に精神障害者を精神科病棟に閉じ込める必要があるとする考え方」は適切ではなかったと指摘できる事実である。精神科医療を適切に行い、治療効果を上げて、精神障害者の社会参加を促進することは、全ての市民の生活の向上と安定をもたらすことになる可能性を拡大する。
(8)、事件の本質は怠慢と医療放棄
野津純一氏による矢野真木人殺人事件を引き起こさせた本質は、いわき病院長の精神医療知識の錯誤、精神薬理学の不勉強、看護の怠慢、主治医の治療義務違反という医療放棄である。渡邊朋之医師が行った、責任逃れの不真面目な弁明を許してはならない。無責任な精神科医療の事実を放置して、日本で精神障害者の社会参加の拡大が実現することは困難である。精神科医療を改善するには、法的過失責任を確定する事が第一歩となる。本件裁判を開始した当時にはEC諸国の人口あたりの精神科病床数はわが国の約半数であったたが、今日では1/3以下の水準まで低下した。日本で精神科開放医療が促進されない現実を重く受け止めて、法的責任感のある精神科医療を促進することが求められる。日本は良い国であると信じたい。また、日本は精神障害者の人権を尊重する国であると世界に誇る国でありたい。控訴人が本件裁判を行う動機である。
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