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いわき病院事件の高裁鑑定論争


平成27年1月21日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


2、高裁鑑定意見


【4】、デイビース医師団鑑定意見書


鑑定人:カナダ・トロント大学・サイモン デイビース(精神科医師)
オーストラリア・西オーストラリア大学教授・ショーン フッド(精神科医師)
英国・ケンブリッジ・デイビッド クリスマス(精神科医師)
英国・ロンドン・シーアン マクアイバー(精神科医師)
スペイン・ ブランカ ボリー・アラマナク(精神科医師)


(注:デイビース鑑定人とアラマナク鑑定人は、事前に西村鑑定人と意見交換を行い、日本国内の実情を確認した。)

いわき病院鑑定意見書に対する反論及びいわき病院の精神医学的かつ精神薬理学的に錯誤があり患者の顔面を見ない精神医療

■最初に

デイビース医師、フッド教授及びクリスマス医師は長年にわたり精神医学及び精神薬理学の研究に従事してきた。デイビース医師団鑑定人の3名は、精神薬理学の世界的権威であるブリストル大学デイビッド・ナット教授が指導する精神薬理学研究部門で研究を開始し、SSRI抗うつ薬の研究に従事し、同薬の作用機序、薬物動態学・臨床特性に関して膨大な研究報告を執筆してきた。例として「抗うつ薬誘導性イライラ(神経過敏)/不安症候群に関する総合的研究」がある。(Lindsey I. Sinclair, David M. Christmas, Sean D. Hood, John P. Potokar, Andrea Robertson, Andrew Isaac, Shrikant Srivastava, David J. Nutt, Simon J. C. Davies)この研究は2009年に英国精神医学誌(the British Journal of Psychiatry)にデイビース、クリスマス、フッド(Dr Davies with Dr Christmas and Professor Hood)が掲載した。この報告には49回の引用実績があり、この分野では国際的に最多の引用実績を有する業績である。また、フッド教授はトリプトファン枯渇研究に関する世界的権威であり、SSRI抗うつ薬の作用に重要な役割を果たす脳内伝達物質であるセロトニンをトリプトファンが操る影響を説明可能とした科学的手法を解明している。フッド教授が報告した「急性トリプトファン枯渇;第1部:原理及び方法論(Acute tryptophan depletion. Part I: rationale and methodology:Sean D Hood, Caroline J Bell, David J Nutt)は153回引用された。

(上記業績を達成した後、チームを解散し)デイビース鑑定医師団の3名はブリストル大学を去り、共に英語圏の有名研究機関で昇格した。デイビース医師はカナダ・トロント大学(カナダの最高学府であり、精神医学研究では世界の上位5大学である)、フッド教授は西オーストラリア大学教授(精神医学・臨床神経科学部門主任教授)に就任し、またクリスマス医師はケンブリッジに移籍した。デイビースとクリスマスは英国精神薬理ガイドライン協会(BAP)の不安障害治療(Baldwin et al 2014)に関する共同執筆者である。フッド教授は西オーストラリアにおける各種の精神障害治療ガイドラインの指導者〔e.g. Western Australian Psychotropic Drugs Committee(西オーストラリア向精神薬委員会). Antipsychotic Drug Guidelines Version 3 August 2006(抗精神病薬ガイドライン、第3版、2006年8月)and Anxiety Disorders Drug Treatment Guidelines August 2008(不安障害薬治療ガイドライン、2008年8月)〕である。デイビースとフッドは精神薬理学誌(Journal of Psychopharmacology)の編集委員でもある。私たち3名は研究実績を上げると共に臨床精神医療に従事している。

マクアイバー医師は司法精神医学専門医(Orchard Unit, West London Mental Health Trust;西ロンドン精神医療基金、オーチャード支部)で女性の司法精神医学地位確立に従事しており、標準的司法入院が不十分な段階にあり治療の必要性と危険性が亢進した状態にある女性患者の治療に関する課題の全国的先導者である。アラマナク医師は地裁初期の段階から精神科臨床及び精神薬理学に関して控訴人矢野を指導してきた。本人はBAP(英国精神薬理学ガイドライン協会)のADHD(注意欠如・多動性障害)担当の第1執筆者である。また、マクアイバー医師とアラマナク医師は共にブリストル大学ナット教授の指導を受けて精神薬理学研究を行ってきた。

デイビース鑑定医師団は、精神薬理学者かつ臨床精神医学者としていわき病院鑑定報告書にはいくつかの専門技術的な過誤があると考える。いわき病院鑑定人の過誤が、いわき病院の野津純一に対する治療行動と2005年12月6日における矢野真木人殺人に至ったことの解釈に大きく影響している。デイビース医師団鑑定人は以下の通り考えを述べるが、その前に、いわき病院鑑定意見書は臨床に従事する精神医学者であれば常識の現在の精神薬理学的知識を踏まえておらず、また用語の定義と薬物用量を錯誤していることを指摘する。


1)、いわき病院鑑定人は矢野側が主張しないことに反論している

いわき病院鑑定人(琉球大学教授)は、控訴人の主張として「パキシル離脱症状が発現し、イライラ・興奮が亢進して、約2週間後に殺人事件に至った」と述べた。これは、控訴人の見解を極端に歪曲した意見である。控訴人の指摘は「N氏が暴力行為を行う危険性は精神状態が関係し、本人が行った病院職員や第三者に対する放火暴行等の数々の触法行為歴が関連する」というものである。患者が過去の行った危険行動といわき病院の対応を考察すれば、適切な治療的対応を行えば不必要なまで危険性を亢進させない治療的対応が可能であったにもかかわらず、いわき病院は他害の危険性を耐え難い水準まで不必要に亢進させたのである。控訴人は「各種の要素が組み合わされて、原疾患の症状を原因とするよりは、N氏に遙かに大きな精神状態の悪化をもたらした」と指摘している。その要因としてパキシルと抗精神病薬プロピタンの2薬を同時かつ突然に中止したことがある。更に、処方変更の後で殺人行為を行うに至るまでの13日間に、医療スタッフと野津氏の間で顔と顔をつきあわせる接触が無く、病院が暴力行動の発現する危険性に対応する機会を失っていた。プロピタンとパキシルを同時に中止されて、N氏の精神状態に即時的な影響があることは当然予想されたことであるが、それでも、病院からの外出管理は本人が望めばいつでも自由に行える状況のままであった。

同様の論理でいわき病院鑑定人は「プロピタンとパキシルの中止と、原因と結果の相互作用により望ましからざる逆作用(殺人事件)が発生する関連はない」と結論づけた。いわき病院鑑定人は再び矢野側が質問しないことに回答した。いわき病院鑑定人は「控訴人は投薬管理だけで殺人事件を発生させるだけの力があると考えている」という質問を設定して自ら回答した。いわき病院鑑定人は「原疾患の継続症例」が根本原因であるが、「控訴人は「原疾患の継続症例」であることを無視して、投薬管理の変更だけを問題点としていわき病院を非難している」との論理である。しかしながらその論理は控訴人の見解を歪曲したものである。既に述べた通り、控訴人の主張は各種の要因を総合的に指摘しており、また関係する要因の幾つかはいわき病院の管理下にあり病院の努力で変更(介入)が可能であった。控訴人の治療薬剤の中止に関する論理は、「複数の治療薬剤の中止により、患者に精神症状の悪化に至る可能性が高くなる状況は容易に発生し得る」、そして「精神症状が混乱すれば危険行動履歴がある人物の場合には危険性が極めて亢進することになる」というものである。

デイビース医師団鑑定人は「精神科医師であれば誰であってもパキシル20mg/日とプロピタンを同時に突然中止するようなことは行わない」と確信する。そして、この様な適格性に欠ける処方は製薬会社提供の添付文書に明白な違反であると共に、各種の国際的ガイドライン違反でもある。仮に主治医が、N氏のような病状悪化時の暴行履歴を持つ患者に、2種類の薬剤を同時にしかも突然中止する決断をせざるを得ない状況になった場合は、デイビース医師団鑑定人は「精神科医師は患者の経過観察を頻繁に行い、同時に患者に対して病院からの外出許可を制限して、一般市民との交流を制限するべきである」と確信する。11月23日から12月6日までの期間に、精神科医師が継続的に診察し、N氏の精神症状が悪化した時には病院からの外出を制限する措置を取る等の治療的配慮が行われておれば、殺人事件が発生することは無かった。いわき病院鑑定人が「控訴人は治療薬剤の変更だけを殺人の原因とした」として鑑定したことは合理性を欠いた誤りである。更に、いわき病院鑑定人が「原疾患の継続症例」を殺人の原因としたことは単純に過ぎる無益な論理である。そもそも、統合失調症患者が殺人事件の原因者となる事例は極めて希である。統合失調症の治療は有効であり、また危険性が亢進する状況が予見される場合には、危機管理手法が功を奏し、患者に治療的介入が行われ、同時に患者が危害を加える可能性があれば他の人間との接触が制限されることになる。いわき病院鑑定人は精神科医師ではなく、高血圧症の専門家である。臨床精神科医師としてデイビース医師団鑑定人は、本件に関するいわき病院鑑定意見は失当と指摘する。治療薬剤の変更だけで、もしくは原疾患(統合失調症)だけで殺人事件が発生することはない。殺人事件は、単一の要因を原因として確定することは困難で、多数の要因が関係する錯綜した状況で発生する。それ故、患者に関係する治療的側面のいかなる要素が危険性を亢進したか、または低下したかを確認することが必要である。


2)、いわき病院鑑定人は「パキシルは三環系抗うつ薬に変更して鎮静化されており突然の中止ではない」と主張した

いわき病院鑑定人の意見は薬理学的に非現実論である。このいわき病院鑑定人の主張は二要素に分割可能である。

  1. パキシルは鎮静化を目的として三環系抗うつ薬に置換された
  2. 突然の中止ではない

パキシルの基本的な薬理作用はセロトニン・トランスポーター阻害作用であり、化学物質であるセロトニンの可給性を増加させると考えられており、この選択的な効果を持つものとして1970年代に設計された薬剤である。これに対して、アミトリプチリンは1950年代に抗うつ薬として確認された初期の薬剤である。この薬は選択的化学的機能を持つようには設計されておらず、脳内で、ノルアドレナリン、セロトニン、アセチルコリンやヒスタミン等多数の化学系に影響を及ぼす薬剤である。

上記の1.のいわき病院鑑定人意見のように、パキシルからアミトリプチリンに変更することによって、アミトリプチリンが鎮静の主要な化学的作用を持つヒスタミンに影響を与えるために、鎮静化を期待できると主張することは可能ではある。しかしながら、いわき病院鑑定人意見2.は完全な間違いである。パキシルは主としてセロトニン系に影響を及ぼしており、セロトニン・トランスポーター阻害・平衡解離定数(equilibrium dissociation constant)は0.08単位である。パキシルはアミトリプチリンのセロトニン阻害・平衡解離定数3単位より極めて弱い親和性しか持たない。これはパキシルのセロトニン・トランスポーターとの結合力、すなわち化学物質セロトニン処理量はアミトリプチリンと比較すると、3/0.08=37.5倍であることを意味している。更に世界保健機関(WHO)の日量投薬量換算表(http://www.whocc.no/atc_ddd_index/)に基づけばパキシル20mg/日はアミトリプチリン75mg/日に相当する。それゆえ、パキシル20mg/日に対して用いられたアミトリプチリン10mgは換算量で1/7.5である。従って、パキシルに交換されたアミトリプチリンのセロトニン・トランスポーター機能は37.5分の1でしかなく、投与量は同等量の7.5分の1である。これに基づいて計算すれば、7.5×37.5=281となり、パキシル20mgはアミトリプチリン10mgと比して281倍のセロトニン・トランスポーター機能を持つことになる。本件のように、薬剤を他に置換する場合に影響度が0.004しかなければ、アミトリプチリンがパキシル中止の影響度を緩和する効果は無視できる水準であったと言える。

いわき病院鑑定人はアミトリプチリンを鎮静化目的に追加したと主張することは可能であるが、「突然の中止ではない」と主張したことは完全な間違いである。パキシルは突然中止されたが、添付文書と国際的に承認された手法から逸脱である。仮に、セロトニン・トランスポーター機能が同等量で置換されていたのであれば、突然の中止を問題にするところではない。しかしながら、アミトリプチリンがわずか1/281のセロトニン・トランスポーター機能しか持たないのであれば、処方変更は中断症候群に抑制効果を持たない。これまでもデイビース医師団は鑑定意見で述べたことであるが、国際的に承認・使用されているガイドラインに基づけば、パキシルの突然中止は避けるべきである。
〔e.g. Anderson IM, Nutt DJ, Deakin JFW et al (2000) Evidence-based guidelines for treating depressive disorders with antidepressants: a revision of the 1993(エビデンスに基づく抗うつ薬によるうつ障害治療ガイドライン、1993年版)British Association for Psychopharmacology guidelines. J Psychopharmacol 14:3-20.(英国薬物ガイドライン協会)〕


3)、パキシル処方量は少なかったは間違い

パキシル(製薬会社研究論文、P.30 http://www.gsk.ca/english/docs-pdf/product-monographs/Paxil.pdf)によれば、うつ症状に対して「成人常用量:パキシル(PAXIL®) は20mg/日から開始し、通常の場合、20mg/日量は最適水準」とある。強迫性障害(OCD)患者の場合は「パキシル(PAXIL®)は20mg/日量から始め、強迫性障害(OCD)ではパキシル(PAXIL®)40mg/日を推奨」とある。

これまでパキシル20mg/日量は最も一般的な処方量であるとされてきた。〔Price, J.S., Waller, P. C., Wood, S.M., et al (1996)〕セロトニン再取り込み阻害剤4薬物は中止症状等に関連して比較安全試験が行われている。プライスらにより、1992-3年国際医療統計資料に基づいて、20mg/日量の処方が79%、30mg/日量処方が10%、40mg/日量処方がわずか7%であることが明らかになった。(British Journal of Clinical Pharmacology, 42, 757-763.)シンガポールで行われた調査によれば、第三次ヘルスケア施設(治療がより困難となり通常よりも多い薬物量が必要とされる患者が治療を受けている)では患者55人のパキシル平均投薬量は22.6mg/日であった。(Xie F, Tan CH, Li, SC, Human Psychopharmacology Clinical and Experimental 2005; 20; 459-6)従って、最も処方量が多くかつ平均薬物用量に近似しているパキシル20mg/日投薬量を、いわき病院鑑定人が投薬量としては少ない量で生物学的活性も低いと主張したことは、極めて滑稽である。

ところで、臨床精神医学誌(the Journal of Clinical Psychiatry:国際的に最高水準の精神医学誌)に「パキシルの最適処方量」(Dunner DL & Dunbar GC. J Clin Psychiatry. 1992 Feb;53 Suppl:21-6.)という高い信頼をおける論文が掲載されている。この論文では、うつ病治療目的のパキシルによる治療計画はいくつかの個別の投与研究と世界的な臨床治験データベースの解析を元に確立に至ったことが述べられている。パキシルの導入開始量は、同時に最低有効量でもあるが20mg/日である。同時にほとんどの患者の場合20mg/日量は最適量でもある。導入開始から1〜3週間で十分な効果が見られない患者の場合には、10mg量を1週間以上の期間を置いて50mg/日量を限度として増量できる。投薬は1日1回とし、通常は朝に服用する。高齢者の場合にはパキシル投薬量は20mg−40mgである。強迫性障害(OCD) 患者の場合には、58%の患者に20mg/日量で臨床的反応が見られ、70%の患者で40mg/日量で有効と報告されており、強迫性障害の場合は40mg/日量が投薬目標となる(Hollander et al, 2003)。

Ruheら(パキシル投薬量の増加が大うつ病性障害に効果的でない証拠:セロトニン・トランスポーター占有率の影響評価に関する無作為試験、精神神経薬理学誌、Neuropsychopharmacology.2009Mar;34(4):999-1010.doi: 10.1038/npp.2008.148.Epub 2008 Oct 1)の報告によれば、SPRCT(Single-photon emission computed tomography)スキャンに基づいて評価されたセロトニン・トランスポーター受容体占有率は20mg/日量の投薬量を増やしても増加せず、パキシルの増量とプラセボ導入に違いは見られなかった。従って、大多数の患者の場合には20mg/日量を増加することに生物的有利性はない(なお、少数の患者では投薬量の増加で効果が見られることがある)。パキシルは20mg量で、最大の生物学的効果を発現することが可能である。

デイビース医師団鑑定人は、強迫性障害(OCD)の場合はパキシル投薬量の増加が必要になる状況があると承知している。その上で、上述の研究報告に基づけば、パキシル20mgで十分な生物活性があり、薬量を増加しても必ずしも改善するとは限らないのである。従って、いわき病院高裁鑑定人が主張した「パキシル20mgは、中止時の中断症候群が発生するには至らないほど少ない投与量である」との見解は間違いである。一般的にパキシル20mg/日量はうつ症状に対する最適投薬量として広く認められており、パキシルを用いた治療において非常に一般的な投与量の指標でもある。仮に強迫性障害(OCD)に最適量でないとしても、十分なパキシル投薬量である。

いわき病院鑑定人に対する反論で最も重要な点は、パキシル中断症候群はパキシル20mg/日量の突然の中止に関して幅広い報告が行われているという事実である。前記のプライスらの報告では、主治医からパキシル中止後に中断症状が報告された患者430人を調査したところ、73%の患者は中止前に20mg/日量を最終投薬量としていたことが明らかになっている。残りの患者は最終投薬量が20mg/日より多いか少ないかであり、結果として83%の患者は最終投薬量が20mg/日かそれより少ない量で中断症状を呈していた。これらの事実(エビデンス)はいわき病院鑑定人の「20mg/日量は少ないので中断症状を引き起こすことはない」という鑑定意見に反している。


4)、パキシル中止に係る時間的な問題

臨床薬理学者であるいわき病院鑑定人はパキシル離脱症候群を半減期〔いわき病院鑑定人は半減期を15時間としたが、製薬会社は24時間としている(http://www.gsk.ca/english/docs-pdf/product-monographs/Paxil.pdf)〕から推定することを試みた。この論理はほぼ全ての薬剤に当てはまるが、パキシルには適応しない。パキシルに適応しないことはパキシル中止を特集した権威ある文献を検討すれば一目瞭然である。影響力が高い評論誌である英精神薬理学誌(British psychopharmacologists)でハダードらは「パキシル中断症状は通常の場合抗うつ薬中止後に数日で発現し、開始後1週間以上継続する」と述べている。(Haddad P, Anderson I, Recognising and managing antidepressant discontinuation symptoms. Advances in Psychiatric Treatment :抗うつ薬中断症状の診断と対処方法、精神医学治療の進歩(2007). 13: 447-457)。パキシル中止の悪影響に関する報告160件に基づけば、中断症状は通常2日後に発現し、4日以内の発現率は86%、また1週間以内では93%であった〔Price, J.S., Waller, P. C., Wood, S.M., et al (1996)〕。セロトニン選択的再取り込阻害薬4剤の使用比較研究事例として中断症状も報告されており、1週間以後の発現率は7%であった(British Journal of Clinical Pharmacology, 42, 757-763.)。

中断症状の持続時間に関してハダードらは「抗うつ薬中断反応の多くは、発現後1日から3週間で突然解消する」と述べている。プライスらの研究によれば、パキシル中断症状を治療されなかった71例の平均継続期間は8日であり、継続期間は1〜52日であった。

いわき病院鑑定人のパキシル中止後の後の経過に関する意見に対してデイビース医師団鑑定人は明確な間違いを2点指摘する。第1点は、いわき病院鑑定人は半減期を5回過ぎれば(製薬会社のデータに基づけば3日後から5日後となる)中断症候群の発現はないとしている点である。いわき病院鑑定人が日常的に取り扱う薬剤に関してはこの意見は正しいであろうが、前述のハダードらの意見及びプライスらが研究したエビデンスに基づけばパキシルには該当しない。プライスらの161例での調査では、4日後の時点で14%が、更に1週間後でも7%でパキシル中断症候群が始まっていなかった。第2点として、パキシル中断症状は平均持続期間が8日であり、多くの場合さらに長期間持続する。明らかにパキシルの突然中止は中断症状が発現するための必要条件である。しかし、一旦中断症状が起きた場合には、パキシルが3〜4日間で体内から排泄されることと中断症状の発現時期との関連性は限定的であり、さらに、中断症状の持続期間に関しては(パキシルの体外排泄に要する期間と)何の関連性もない。

N氏の事例に関連して、デイビース医師団鑑定人が推計したところ(プライスの報告の後の1996件のデータに基づく)、パキシル中断症状は中止後2日から5日後(11月25日〜28日)に発現する可能性が最も高く、12月6日(8〜12日後)の殺人事件日はプライスが報告した中断症状の継続中期に相当する。それ故、殺人事件の発生に蓋然性がある。また、N氏が失望した状況は必ずしも殺人事件の当日が最初であったと考える必然性もない。11月23日の処方変更後から12月6日までの間の医療的接触が少なかった事実があるため、デイビース医師団鑑定人はこの期間にどのようにN氏の状況変化があったかについて具体的に知ることができない。しかしながら、極めて強い水準のパキシル中断症状が12月6日に先だって発症していたことは確実であり、直前の状況が野津氏の精神症状の悪化を招いていたはずである。

抗うつ薬の中止は、(抗うつ薬に)特有の中断症候群に加えて、抗うつ薬で治療していた疾病の症状を再燃させる危険性があること忘れてはならない。パキシルはうつ病、全般性不安障害、パニック障害そして強迫性障害(OCD)に効果を持つが、中止後13日間を経過しており、抗うつ薬の中止が強迫性障害(OCD)の症状を再発させていた可能性がある。全般性不安障害、パニック障害やうつ病なども不安やうつ症状を付加するほど診断基準を満たすには至らないまでも、パキシルによる不安やうつ症状への治療効果も同時に消失していた可能性が高い。この現象は反跳現象(リバウンド)として知られている。反跳現象による症状群の発現はパキシル中断症状より遅れて生じるが、それはパキシル中止によって抗うつ薬要求性が逆転することにより複雑な分子的変化が引き起こされることに起因する。〔Bhanji NH, Chouinard G, Kolivakis T, Margolese HC (2006) "Persistent tardive rebound panic disorder, rebound anxiety and insomnia following paroxetine withdrawal(パキシル中止に起因するパニック障害の持続的遅発性反跳現象および不安、不眠の反跳現象について): a review of rebound-withdrawal phenomena:離脱と反跳現象に関する反跳現象評価報告書". Can J Clin Pharmacol 13 (1): e69-74.)〕

更に、パキシル突然中止に伴う上述の問題の全ては、抗精神病薬の中止と同時であった。デイビース医師団は既にパキシルと抗精神病薬の同時中止で患者に対して2種類の薬剤の変更は累積的な影響を及ぼすと指摘した。総括すれば、この影響は以下の通りとなる。

    パキシル中止による中断症候群
    +パキシル治療中断による再燃症状
    +抗精神病薬の中止による統合失調症の再燃

デイビース医師団鑑定人が既に指摘したことであるが、抗精神病薬を中止する問題により興奮や他害攻撃性などを伴う精神病症状の再燃が起こり得ることである。私たちが指摘したとおり、複数の研究者により、抗精神病薬の突然中止で徐々に削減するよりは精神病症状の危険性が増加するという調査成績がいくつか報告されている。(Ref 1: Viguera AC, Baldessarini RJ, Hegarty JD, et al. Clinical risk following abrupt and gradual withdrawal of maintenance neuroleptic treatment. Archives of General Psychiatry. :抗精神病薬維持療法における突然中止と漸減の臨床的危険性、総合精神医学選集誌)1997;54:49-55, Ref 2: Moncrieff J, Does antipsychotic withdrawal provoke psychosis? Review of the literature on rapid onset psychosis (supersensitivity psychosis) and withdrawal-related relapse. Acta Psychiatr Scand.:抗精神病薬の中止は精神疾患の再燃を引き起こすか?精神疾患の急速な出現(過感受性精神病)と中止に伴う再燃、スカンジナビア精神医学誌 2006;114:3-13)。

プロピタンのような低力価の抗精神病薬も不安、静止不全やアカシジアのチョーナードら(Chouinard et al)(Withdrawal symptoms after long-term treatment with low-potency neuroleptics.低力価鎮静剤で長期間治療した後の離脱症状 Chouinard G, Bradwejn J, Annable L, Jones BD, Ross-Chouinard A. J Clin Psychiatry. 1984 Dec;45(12):500-2.)とダフレンスら(Dufrense and Wagne)(Antipsychotic-withdrawal akathisia versus antipsychotic-induced akathisia: further evidence for the existence of tardive akathisia.抗精神病薬の中止に伴うアカシジアと抗精神病薬によるアカシジア:遅発性アカシジアがある証拠、Dufresne RL1, Wagner RL. J Clin Psychiatry. 1988 Nov;49(11):435-8)が報告した中断症状を引き起こすことがある。しかしながらこの効果がある証拠は以下の理由で必ずしも広く認識されているわけではない。

    a)、パキシル中断症候群
    b)、パキシル中止による既存症状の再燃(リバウンド)
    c)、抗精神病薬の中止による精神症状の再発

それ故、抗精神病薬中止に関するデイビース医師団のコメントは治療の中断による精神症状の悪化による再燃(リバウンド)があったとなる。従っていわき病院鑑定人の「(プロピタンの)中断症状の報告はない」という見解は我々の意見と相容れない。我々は精神症状歴がある患者に抗精神病薬を中止すれば治療効果が失われるために精神症状が悪化することを指摘している。また、いわき病院鑑定意見のプロピタン150mg/日量は極めて少量の投薬量であるとする意見に同意しない(下記の第6項を参考のこと;WHO世界保健機関はプロピタン150mg/日量はハロペリドール6mg/日に相当し、薬理学的に非常に重要な投薬量であり、高いドパミンD2受容体占有率に基づく適正な生物学的効果を達成するに十分な量である)。

いわき病院鑑定人の決定的な問題はパキシルを中止することにより、中断症状と反跳・再燃症状の2つの機序により、治療中であった病状が悪化するという点である。パキシル中止と殺人事件の発生までの13日間は、上述の2つの機序によりN氏の精神症状に変化を引き起こすには十分な時間である。これらの機序が作用している時に、時を同じくして抗精神病薬も中止されると、患者が誰であっても、治療目的とは逆に精神状態の悪化が引き起こされる危険が高くなることを深慮するべきである。N氏が暴力的な手段で見知らぬ人を含む他者への危害行為を行った幅広い行為履歴を有している事実を同時に考慮すれば、N氏が13日間にわたり治療的介入を受けず、病院を出て自分の意のままに市民と関わることが出来る状況をいわき病院が許したことについて妥当性ある理由を見出せない。


5)、Cross taperingに関する理解の間違い

いわき病院鑑定人の「Cross taperingは適切に行われた」という見解は間違いである。Cross taperingの定義に基づけな、以下の手順は間違いである。

    a)、パキシルの突然かつ完全な中止を行ったこと
    b)、少量のアミトリプチリンを導入したこと

Cross tapering手法を導入するには、最初の薬剤は緩徐か漸次的に中止されなければならない(それにより、一時的に1回以上の最初の20mg/日量より少ない中間的な段階がある)。モーズレー精神医学ガイドライン(Taylor, Paton and Kapur, Eleventh Edition, 2012)(英語圏諸国では臨床薬理学教科書として権威がある)に基づけば、

  • 抗うつ薬を6週間以上の期間投薬された患者には特段の重大な有害事象が発生しない限り突然中止してはならない
  • 抗うつ薬を変更する場合は、突然の中止を避けなければならない。Cross taperingを行う場合には、効果が低いか薬剤耐性が低い薬剤量を徐々に削減して、同時に代替え薬をゆるやかに増量する。

と定義と説明がある。

パキシル10mg錠は幅広く用いられている(パニック障害の開始量として用いられる)。また5mg錠の処方は10mg錠を分割することで、削減が困難な場合に一般的に行われる。W医師がCross taperingを本当に意図していたのであれば、薬用量を徐々に削減することが可能であった。アミトリプチリンを小量で開始したことは理解できるし、これはモーズレーの第2定義に当てはまる。しかしながらアミトリプチリンの処方量10mgは承認された最低処方量75mg/日の1/7.5である。この様な少量ではパキシル中断症状を軽快する効果を期待できない(既に述べたとおり、アミトリプチリンはセロトニン・トランスポーターとの親和性が37.5/1である)、しかもWHOデータ(http://www.whocc.no/atc_ddd_index/)に基づけば、パキシルの薬量の7分の1程度(WHOによればパキシル20mgはアミトリプチリン75mgに相当する)であるため、アミトリプチリンのセロトニン再取り込み阻害効果(定常状態に達した後)はパキシルの1/280程度である。これほどの低用量のアミトリプチリンでは再燃に対応できない(アミトリプチリン10mgは抗ヒスタミン効果で鎮静効果を期待できるが、最低治療薬用量75mg/日と、標準量150mg/日から遙かに低い投薬量である)。更に、N氏が全般性不安障害や強迫性障害で苦しんでいたのであればアミトリプチリンの効果を期待できるが、他の障害に対して有効であるというエビデンスは存在しない。

アミトリプチリンの導入が本当にCross taperingを目的として行われたのであれば、アミトリプチリンを10mg(パキシルの7分の1の効果であり)から治療効果がある75mg以上に速やかに増量するべきであった。しかし、殺人事件に至るまでアミトリプチリンの増量は試みられた形跡はない。アミトリプチリンの導入はパキシルに無い鎮静化を目的としていたが、アミトリプチリンではパキシルの強迫症状、不安症状及びうつに対する効果は期待できない。Cross taperingの第1定義(突然中止せず、漸減する)は明らかに無視されていたし、アミトリプチリン投与は第2定義(緩やかに開始し、徐々に増量して中止を行う薬剤の治療薬用量に見合う量にまで到達させる)に適合しない。従って、いわき病院が行った手法はCross taperingの定義から逸脱したものである。

いわき病院鑑定人がCross taperingがパキシル20mg(第3項で論じたとおり、一般的には最適量であり、生物学的活性も最大である)から0mgへの突然削減に関連して適切に行われたと確信するのであれば、いわき病院鑑定人はCross taperingの定義を自らの都合で改変したことになる。英語の「cross」は第1薬を初期量から徐々に削減し、同時に第2薬を徐々に増量して治療効果のある水準にまで高めることであり、その過程で投与薬用量の「交差」が行われることである。パキシルは突然中止されており、N氏に対する治療はCross taperingと言えないものである。


6)、抗精神病薬の基本薬用量に関する理解間違い

いわき病院鑑定人はプロピタン(ピパンペロン)(150mg/日量)は、ハロペリドールの最低薬用量3mgの半量であり、極めて少量の投薬量であると主張したが、デイビース医師団鑑定人はいわき病院鑑定人の投薬量換算を認めない。いわき病院鑑定人は換算係数を間違えている。

デイビース医師団鑑定人はWHOのデータ(http://www.whocc.no/atc_ddd_index/)に基づくが、これは国際的に承認された数値であり、WHOの薬剤統計協力センターのウエブからデータを容易に入手可能である。WHOデータベースに基づけば、全ての薬品のDDD値(確定日薬量)を公開しおり、「DDDは各薬剤当たりの平均日維持量であり、成人に対する至適用量として用いられる」ものである。WHOデータベースはハロペリドールの経口薬用量DDDを8mg、対するプロピタンのDDDを200mgと明確に定義している(http://www.whocc.no/atc_ddd_index/?code=N05AD05)。従って、プロピタン150mg/日量はハロペリドール6mg/日量と同一である。これは、いわき病院鑑定人が主張したハロペリドールの最大量と同量である(いわき病院鑑定人はハロペリドールの適用範囲を3mg−6mg/日とした)。

生物学的にハロペリドールの日量4mgはドパミンD2受容体拮抗作用の最適量を達成する値である(Exploration of Optimal Dosing Regimens of Haloperidol, a D2 Antagonist, via Modeling and Simulation Analysis in a D2 Receptor Occupancy Study:ハロペリドールの最適量探索、D2阻害剤対D2受容体拮抗作用分析, Hyeong-Seok Lim et al, Biological Pharm Res (2013) 30:683-693)。従って国際的に承認された基準に基づけば、プロピタン150mg/日は比較的高い投薬量であり、同等の換算値となるハロペリドール6mgはドパミン受容体拮抗作用最適量よりは過剰な値である。国際基準に従うにせよ、従わないにせよ、いわき病院鑑定人が11月23日までのプロピタン投薬量150mg/日は極めて少量であると主張したことは、法廷を欺くものである。


7)、いわき病院鑑定人のコメントに反論:「プロピタンの薬理特性および処方量からすれば、本件プロピタンによってパキシルの離脱症状を抑制する効果を期待すること自体がそもそも正しくなく、プロピタン中止がパキシルの離脱症状を増悪させたことを示す臨床薬理学的証拠は全くない。」

不幸なことに精神医学が専門ではない薬理学者のいわき病院鑑定人は議論の本質を見失っている。ここではN氏の精神状態をより不安定化させる要素が問題である。

デイビース医師団鑑定人は(訳者付記:また、控訴人矢野もそのような主張をした事実はない)「パキシルの中断症状に対して抗精神病薬が制御機序を働かす」ことに全く期待を持っていない。我々はプロピタンの中止が、共有する薬理学的機序によってパキシルの中断症状を直接的に悪化させるという可能性についても想定していない。この点では、いわき病院鑑定人に同意する。しかしながら、私たちは、神経症状をより不安定にさせることにつながる独立した個々の要素が、暴力的行為発現の危険性の増大に加算的に働くことを強調したい。事件に関連した2要素もしくはそれ以上の要素は、生物学的にも、薬理学的にも関連性を持たないが、暴力行動の危険性は累積的に亢進することがある。従って、抗精神病薬の中止により精神病症状を制御できる可能性が低下して、それにより危険性が累積的に拡大する。パキシルの中止による中断症候群の危険性と、それとは別に独立して再燃の危険性、強迫症状と不安症状の増大、また、同時にうつ症状が再燃する等の危険性が増大する。プロピタンとパキシルの両方を同時に中止したことで、双方の危険性が同時に発現したのである。複合的な暴力行動の危険性は個別の要因が薬理学的に重複するしないにかかわらず増大する。精神疾患が他者を巻き込んだ激しい暴力行為の履歴は、当該患者の暴力行為の危険を増大させる要因である。

  1. パキシルの突然中止(中断症状が発現する危険性を高めた)
  2. パキシル中止により反跳(再燃)症候群の緩和に失敗した可能性がある
  3. プロピタン中止により反跳(再燃)症候群の緩和に失敗した可能性がある
  4. 患者と精神科医の間で顔を見る交流が不足した
  5. 危険性が増大したことに連動して患者の外出許可が見直されず、患者は自分が望んだ時にはいつでも病院から外出し、市民と交わることが可能だった

(訳者注)
  中断症状(discontinuation symptom)及び中断症候群(discontinuation syndrome)は、近年、抗うつ薬の中断時に出現する症状の説明において英国でよく使われる用語である。離脱症候群・退薬症候群(withdrawal syndrome)は、主にアルコールや麻薬などの依存性薬物の禁断症状を指す用語として使われてきた歴史がある。このため、治療薬の中断(医学的行為)によるものは、中断症状と別に表現されてきている。しかしながら、日本国内では、中断、離脱、退薬の使い分けは、このようなニュアンスではほとんど行われておらず、同義ととらえて問題はないと考えられる。
  従って、「中断症状、中断症候群、離脱症候群、退薬症候群」などの用語は、同義的に読み替え可能である。



   
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