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いわき病院事件の高裁鑑定論争


平成27年1月21日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


2、高裁鑑定意見


【3】、西村鑑定意見書


医学博士(精神神経薬理)日本精神神経学会認定専門医
西村直之


(注:西村鑑定人は、事前にデイビース鑑定人及びアラマナク鑑定人と会合して意見調整を行った。)

1)、パキシルの用量が20㎎と低用量で、"Cross tapering"の手法を用いているため、離脱症状が発生した可能性が低いとのいわき病院鑑定意見について

高裁いわき病院鑑定人(琉球大教授)は、パキシルの用量が20㎎と低用量で、"Cross tapering"の手法を用いているため、離脱症状が発生した可能性が低いと断じている。しかし、いわき病院鑑定人の主張は、精神科臨床的にも臨床精神薬理学的にも以下の点において不適切である。


(1)、パキシルの処方量と減量時の注意事項

  パキシルの臨床上の治療容量は最大50mg (うつ病治療では40mg)であり、20mgは中等量である。2004年6月号のJAMA日本語版では「40mgのパロキセチンを投与している場合、1週間おきに10mgずつ薬を減らす」ことが推奨され、「減量から中止に至るまで最低1カ月を要する」とされている。20mgからの減量も1週間おきに10mgの減量を行うことが推奨されている。その後、2010年9月には、日本の精神医療の治療現場においては、パキシルの減薬・中止が10mg単位でも難しい症例が多数あり、漸減中止にのみ使用できる5mgという低用量の漸減用薬剤が発売されている。この発売にあたり発売元のグラクソ・スミスクライン社のフィリップ・フォシェ社長は「薬剤を減量・中止する際に、より漸減しやすい低含量製剤を求める臨床現場の声に応え、「パキシル®錠5mg」を日本独自の製剤として発売いたしました」と述べている。SSRIのなかで、このような漸減中止用の特殊な低用量剤型が存在するのはパキシルのみである。これらのパキシルを取り巻く状況を鑑みるに、20mgを低用量とし、漸減するほどの危険はないとして事件との因果関係を論じているいわき病院鑑定は臨床治療の実態を踏まえた内容とは言い難い。当然、パキシル20mgの中断にあたって慎重な減量と臨床的観察が不要である根拠とはならない。



(2)、"Cross tapering"手法によるパキシルの置換

  "Cross tapering"の手法を用いているために、離脱症状が発生した可能性が低いといういわき病院鑑定についても、精神科臨床および精神薬理学的見地から全く同意することはできない。"Cross tapering"は、前薬の漸減に合わせて、他の薬剤を漸増し置換する薬物療法の手技の一つであり、前薬の漸減なく、後薬の漸増が計画的に行われていない薬剤変更を"Cross tapering"と呼ぶことは精神臨床薬理では本邦内はもとより国際的にも許されるものではない。本件で行われたSSRIであるパキシルの中断と、三環系抗うつ薬の投与の関係を"Cross tapering"とみなすことは精神医学的臨床では認められない。

三環系抗うつ薬によるSSRIの"Cross tapering"の手技がどの程度離脱症状の発生を具体的にどの程度抑制できるのかについて書かれた論文が、事件発生当時には国内には存在しておらず、SSRIの"Cross tapering"の有効性や安全性については不明であった。例え、計画された三環系抗うつ薬を用いたSSRIの"Cross tapering"の手技を用いたとしても、その有効性や安全性は保証されたものではなく、いわき病院鑑定人が主張するような薬剤中断のリスク評価を行わなくて良いとする科学的な根拠には全く成り得ない。補足となるが、現在においても、SSRIの"Cross tapering"手技は、国内では臨床的に確立された方法として一般的に行われているものではなく、臨床的な有効性や安全性を国内で評価した論文は存在しない。SSRIの三環系抗うつ薬の置換に関する最初の臨床報告は2005年に行われているが、その報告「Paroxetine 10mgからの退薬で生じ, 診断や治療に難渋したSSRI退薬症候群の1例」ではパキシル10mgを4カ月間投薬後に三環系抗うつ薬へ変更したところ、パキシル中止3〜4日後より衝動性, 易刺激性, 激越などが出現したことが報告されるとともに、SSRIの投薬を中断する場合には, たとえ最低量の中断においても, 患者に予期される症状を十分に説明することが, 円滑な治療の継続のため重要であるとしている(野村恭子 心身医学 45(8), 619-625, 2005-08-01 日本心身医学会)。10mgという低用量でも離脱症候群が生じたこと、"Cross tapering"が必ずしも十分な効果をあげない場合があることが、国内で事件発生前に既に報告されていることは留意されるべきである。


(3)、パキシルの退薬症候群

  いわき病院鑑定人は、英国の調査を根拠に「離脱症候群が生じても、11月23日から同月25日の間」と断定しているが、薬物動態については人種差、個体差が大きいことが知られており、パキシルについてもその主効果のみでなく退薬症候群(離脱症状)の出現においても、単に投与量や薬理学的な推測値では予測できないことは臨床治療での前提となることがらであり、実際の臨床現場においては、このような理論的断言は不可能である。あくまでも離脱症状出現リスクが高い期間の理論的推測にすぎない。一旦出現した離脱症状が遷延することも精神科の臨床現場では日常的に経験することであり、この理論的主張も臨床治療の実態とは乖離した乱暴なものである。離脱症状の発現に関しては、「パロキセチンによる 中断時発現症状の発現率の個人差に関する臨床的・薬理遺伝学的検討」(村田雄介 福岡大学薬学集報 14(0), 55-60, 2014-03)等の検討が現在でも続けられており、単純化した理論で断定的な結論を導くことは適切ではない。退薬症候群の出現リスクに関する意見についても、およそ精神科臨床現場で生じる現状とはかけ離れた机上の理論に過ぎない。精神医学的には臨床的客観性と普遍性が求められ、慎重な減量と臨床的観察が不要であるとする根拠に、このような非臨床的な暴論が本裁判で採用されることは許されない。



(4)、臨床的観察の重要性

  以上、いわき病院鑑定人がパキシルの離脱症状と事件発生との因果関係に関する結論を提示する根拠としているパキシルの薬理学的特性や"Cross tapering"について、実験薬理的な知見としての価値はともかくとしても、臨床をあまりにも単純化しており、臨床治療上の実際とはあまりにも乖離している。また、いわき病院鑑定人の主張からは、慎重な減量と臨床的観察が不要である根拠は一切見出すことはできない。

本裁判は、臨床現場で生じうるリスク配慮の問題が議論されるべきで、机上の期待的推測は裁判の真摯な議論を阻害するため排除されるべきであると考える。このような精神医学の臨床と乖離した鑑定意見を、精神科臨床医である被控訴人が採用し、反論根拠としたことに驚きを隠しえない。


2)、プロピタン中止の影響が本件に与えた影響に対するいわき病院鑑定意見について

プロピタンの中止は本件の殺人事件と関連しないとしていわき病院鑑定人は断定している。いわき病院鑑定人の鑑定意見は、一見合理的な説明のように見えるが、その断定根拠とする理論展開においては、臨床治療上に観察し得る薬理学的現実を踏まえず実験薬理的理論を短絡的につなぎあわせた粗雑なものである。いわき病院鑑定人の理論を根拠にプロピタン中止と殺人の関連を否定することはできない。


(1)、抗精神病薬と効果の個人差

  プロピタン等の統合失調症の治療に用いられる薬剤は、抗精神病薬と総称されている。抗精神病薬が作用する場所が脳であり、そのためには脳血液関門を薬剤が通過する必要がある。このため、投与量と脳内薬剤濃度は用量的な正の相関関係は有するものの、個人差が大きいことが知られている。また、プロピタンは、肝臓にて代謝・分解を受けるが、その過程に関与する分解酵素にも個人差があり、投与量と薬剤血中濃度の相関にも個人差があることが知られている。さらに、抗精神病薬の治療効果は、必ずしも投与量に相関せず、ごく少量の抗精神病薬の投与によって、激しい精神症状が劇的に改善する症例もあれば、理論的には有効量をはるかに超えた用量を用いても全く治療上の反応が認められない症例もあり、むしろ実験薬理学的推測と臨床的な反応が一致する症例と出会うことは少ない。抗精神病薬の副作用についても同様であり、極めて個人差が大きいことは周知の事実である。薬物療法とは、実験医学的な推論と異なる事象の出現を前提とした高度の人体実験に外ならず、被験者である患者を危険に晒すものである。このため、薬物療法を行う医師は、慎重かつ綿密に臨床的観察を行う責務があり、実験室レベルの基礎データを根拠に楽観的な観察放棄を許されるものではない。



(2)、いわき病院鑑定意見と地裁いわき病院鑑定意見の矛盾

  高裁いわき病院鑑定人(琉球大学教授)は「プロピタンは、中止から1、2日で体内から消失したと考えるのが妥当であり、中止後2週間で精神症状が悪化し、本件殺人に至ったとは到底考えられない。」としているが、地裁時の地裁いわき病院鑑定人(千葉大学教授)は「プロピタンは服用が中止されて2週間後の時点は薬効が残存していた可能性がある」従って「プロピタン中止から2週間後の統合失調症悪化による事件発生はない」と意見を述べている。また、高裁いわき病院鑑定人は「プロピタン投与は効果がないほどの低用量だった。」とし、地裁いわき病院鑑定人は「プロピタンは中止後2週間も体内残存して効果を発揮するほどだった」と相反する鑑定意見を述べている。この点について、理論的に全く相反する鑑定意見を同じ医療者(W医師)が、自身の臨床行為の妥当性を主張する根拠と提示していることは理解に苦しむものである。



(3)、慢性的アカシジア患者の薬物感受性の臨床的特徴

  そもそも、これらの薬剤変更が行われた背景に、加害者でありW医師の患者であるN氏が、慢性的なアカシジアに苦しんでいたとことがある。慢性的なアカシジアが存在し、そのことに患者が苦痛を感じていたこと、またその事実を主治医であるW医師が認識していたことは、一審の審理の中でも事実として認められていることである。アカシジアは、抗精神病薬の副作用として生じやすく、SSRIの減量・中断後の離脱期にも認められやすいことは一般的な精神科臨床医の常識である。本来、投与薬剤の副作用であるアカシジアは、薬理学的理論上は薬剤の影響が消失した後に、アカシジアもまた自然に消失することになる。しかし、実際の臨床においてはN氏のように、薬剤の変更や中止、精神症状の悪化の危険性があるドパミン製剤の投与を以てもアカシジアをコントロールすることができていない。慢性的なアカシジアが存在する患者では、薬剤への感受性の変化が生じている可能性が高く、向精神薬全般への反応性が薬理学的推測と食い違い、時に予想を超えた過敏な反応や全く反応しない無反応などが治療上観察される。時には、原因薬剤の減薬や中断でも、アカシジアの出現や増悪が生じることさえもある。向精神薬の長期的投与や多剤併用の影響と個体要因によって、脳内での薬物感受性が変化を起こすことがその原因ではないかと言われている。このようなアカシジアに関する知見は、1980年代には多数の論文が国内でも報告されており、事件当時の臨床的な常識であった。いわき病院鑑定意見書は、これらの臨床的な前提を無視したものである。



(4)、アカシジアによる自殺や不穏、衝動的な行為の誘因と経過観察

  また、アカシジアは、自殺や不穏、衝動的な行為の誘因となることはよく知られており、アカシジアのある患者の薬剤変更時にはより慎重な臨床的観察が必要であったことは言うまでもない。プロピタンが少量であっても、どのような臨床的有効性を有していたかは机上理論では評価はできず、アカシジアの原因薬剤となり得るプロピタンを中止することは、アカシジアの改善への期待と同時に、抗精神病薬によって抑制されていた不穏や衝動的な行為の発現の抑止力を放棄することでもあり、より慎重で綿密な注意が必要であったことは明らかである。このように一つの薬剤変更でのみ薬理学的な推測が難しい状況に加え、SSRIの中断というさらに脳内での薬理学的反応(SSRIによる離脱、SSRIの中断によるアカシジアの悪化の危険性)の混乱が引き起こされる危険が高い行為が付加されており、臨床的な経過観察の必要性は一層増していたと考えるべきである。

このような初歩的な臨床的知識に基づいた配慮が行われていれば、主治医は患者の精神状態の変化に気づき、殺人事件の発生を未然に防ぐ可能性をはるかに高くすることができたと考えられる。



   
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