いわき病院事件の高裁鑑定論争
2、高裁鑑定意見
【1】、いわき病院高裁鑑定人の鑑定意見
琉球大学大学院医学研究科、臨床薬理学教授、医学博士
【鑑定意見書】
私は、被控訴人医療法人以和貴会及び同医療法人が開設するいわき病院長渡邊朋之医師の代理人より、「平成25年(ネ)第175号損害賠償控訴事件」に関し、患者Nに対する診療経過、特に薬物治療に関する意見を求められた。
よって、当損害賠償事件における裁判資料を参考にして、以下に、意見をまとめた。
【事件概要】
医療法人以和貴会が開設するいわき病院に任意入院していた患者Nが入院中に単独外出して、全く見ず知らずの第三者を、直前にスーパーで購入した包丁で、すれ違いざまに刺殺した事件に関する損害賠償請求事件である。被害者の遺族が医療法人以和貴会、W医師、Nの3名を被告として提起した損害賠償請求と、Nの両親が医療法人以和貴会を被告として提訴した損害賠償請求訴訟とが併合審議がなされ、第一審の高松地方裁判所では、被害者遺族からのNに対する請求のみが認められ、その他の請求はいずれも棄却となった。これに対し、被害者遺族及びNの両親が控訴し、現在高松高等裁判所で控訴審が審議されているところである。
【鑑定嘱託事項】
控訴審で争点となっている本件患者Nへの処方のうち、11月23日以降のパキシル、プロピタンの中止と本件殺人事件発生の関連について。
具体的には、平成17年11月1日から12月6日(事件当日)までの経過につき、控訴人側の主張は、概要、パキシル1日20mg、プロピタン1日150mgの継続処方が、11月23日に全て中止されたことにより、以下の機序により、本件殺人事件が発生したというものである。
- パキシルの離脱症状が発現し、イライラ・興奮が亢進して、約2週間後に殺人事件に至った。
- プロピタンの中止により定期処方の抗精神病薬がなくなったことにより、患者の幻覚妄想が抑制できなくなり、パキシルの離脱症状としての興奮等も抑制できず、中止から2週間後に殺人事件に至った。
そこで、本件について、主治医であるW医師が、患者Nに対する処方につき、パキシルとプロピタンを同時に全て中止し、他に定期的な抗精神病薬の処方をしなかったことが、本件殺人に関係したか否かを、臨床薬理学的見地から鑑定するように求められた。
【鑑定の前提資料について】
本件訴訟記録(証拠等)を全て鑑定資料として検討した。
【鑑定意見】
(鑑定事項)
控訴審で争点となっている本件患者Nへの処方のうち、11月23日以降のパキシル、プロピタンの中止と本件殺人事件発生の関連について。
(回答)
関連はない。
(理由)
一般に、薬物療法中に生じた好ましくない事象を「有害事象」と呼ぶが、それが薬剤の使用開始、あるいは中止に関連するか否かを判断する際に重要な点は、まず、その有害事象発生と薬剤投与の時系列である。
しかるに、本件においては原判決が認定した本件Nの精神症状の経過(甲A8,13〜16,19〜23、丙1)(控訴人矢野による注:鑑定人が引用した根拠は検察官、警察官による被告取り調べ調書であり、精神科医師が作成した報告書ではない)からは、パキシルやプロピタン、アキネトンの中止による著しい精神症状の悪化は認められない。殺人行為自体も幻覚・妄想などの病的体験に基づくものではなく、また、精神運動興奮状態や緊張病状態にもなかったと推定され、むしろ以前からの症状が継続しているものと考えられる。結局本件は、原疾患の症状の継続症例と考えるほうがより適切であり、時間的な関連性も少ないとなれば、本件は薬剤中止に起因する可能性は低くなると評価されるのが正当である。
以上より、本件の薬剤中止と有害事象発生(殺人事件)の間の因果関係は「疑わしい(doubtful)」と分類されることになる。
本件において主治医は、Nの症状の改善がなかなか認められないことから、薬剤の変更やアキネトンのプラセボへの変更を行ったと考えられる。近年、特に精神科領域における多剤併用が問題視されるが、本件では薬剤を増やさず、変更やプラセボを中止しての離脱を図るなど薬物療法の至適化への努力が率直に伺えるものである。
(1) パキシルの中止は本件における殺人事件と関連しない
臨床薬理額的な視点から説明する。
本件において、パキシルについては、鎮静を目的とした三環系抗うつ薬への変更を行っているのであり、突然の中止ではない。添付文書に記載されているように、パキシルは強迫性障害に適応を持つが、副作用として不安、焦燥、興奮、パニック発作、不眠、易刺激性、敵意、攻撃性、衝動性、アカシジア/精神運動興奮、軽躁、躁病等が出現することが警告されている。本件では、Nの症状がパキシルに関連するかどうかは不明であるものの、これらの報告に鑑み、症状改善のためにパキシルを中止し、症状を緩和する目的で鎮静作用の強い三環系抗うつ薬への変更を図ったものと推察される。確かに、パキシルの中止に関しては離脱症候群の発症が警告されているが、本件では、投与量が20mgとむしろ強迫性障害においては承認用量の半量という低用量であったことと、中止に際しては、"Cross tapering"の手法を用いていること等から、離脱症候群が発生した可能性は低いと考えるのが相当である。"Cross tapering"とは、選択的セロトニン再取り込み阻害薬SSRIの中止に際して、離脱症候群を予防するためにもしばしば用いられ、三環系抗うつ薬に変更されることが多い。本件の"Cross tapering"はパキシルも元々低用量であり、漸減はしていないものの最終用量としては適切であり、開始した三環系抗うつ薬アミトリプチリンもごく少量で開始していることから慎重に行われたと考えて良い。
確かに、SSRI全般に離脱症候群は報告されており、突然の中止後数日以内で生じ、1〜2週間で消失するとされている。ただし、症状が出現するまでの期間は、薬物動態の違いが影響するとされている。症状は怠さや筋肉痛から、不安焦燥感まで多岐にわたり、はっきりと「原疾患の症状ではなく、離脱症候群である」と言えるような特異的なものではない。英国の調査では、パキシルの離脱症候群と思われる症状は平均して2日で出現し、ほぼ10日で消失すると報告されている。薬物動態学的には、パキシルの半減期は15時間程度であり、中止後に血中濃度がほぼ0になるには3日程度を要するため、この報告に矛盾しない。
従って、本件では離脱症候群が生じたとしても低用量であることを考慮に入れれば、11月23日から同月25日の間であり、むしろ殺人事件が発生した12月6日の時点では離脱症状は消失していた可能性が高いのである。
しかしながら、そもそも本件では、先述したように、三環系抗うつ薬への"Cross tapering"を適切に行っているため、離脱症候群が生じていた可能性自体が極めて低いと考えられるのである。
(2) プロピタンの中止は本件における殺人事件と関連しない
抗精神病薬のプロピタンであるが、これは、いわき病院側から証拠提出されたとおり、ハロペリドールに代表されるプチロフェノン系抗精神病薬に属するが、臨床において使用されている抗精神病薬の中でも、抗5−HT2A/抗D2比(抗ドパミン/抗セロトニン比)が0.01と小さい薬剤であり、錐体外路症状は少なく、陰性症状の改善にも効果が期待できる抗精神病薬である。作用機序としては、黒色線条体路をはじめとするドパミン作動性中枢神経におけるドパミン受容体拮抗作用である。しかし、セロトニン5−HT2受容体拮抗作用が著明である反面、抗ドパミンD2効果はクロルプロマジン(コントミン)の5分の1程度で、通常の投与量でのドパミンD2受容体拮抗作用は強くはない。よって、抗幻覚妄想作用はそれほど強くはない(乙B36号証:精神科治療薬ハンドブック、上島国利、中外医学社)。
また、プロピタンは低力価の抗精神病薬であり、その薬力価は、プロピタンを200とすると、クロルプロマジン100、ハロペリドール2である(乙B37、第18回:2006年版向精神薬等価換算、稲垣 中、臨床精神薬理9:1443−1447)。本件でNに対して11月23日に処方されていた"プロピタン1日150mg"はプロルプロマジンに換算すれば1日75mgであり、またハロペリドールに換算すれば1日1.5mgである。プロピタンの維持量(定常状態後の基本的処方量)としては、1日150mgは最低量である(適宜増減は可能であるものの、添付文書上の維持量の上限は600mgである)。クロルプロマジンの精神科での基本的な成人1日処方量は50〜450mg(適宜増減)、ハロペリドールの基本的維持量は1日3〜6mg(適宜増減)であることから考えても、本件で、11月23日まで処方されていたプロピタン1日150mgが極めて控えめな低用量であったことは敢えて付言するまでもない。プロピタン1日150mgというのは、抗精神病薬の代表格とされるハロペリドールの1日維持量の、更に半量である。
以上より、もともと抗幻覚妄想作用が他の抗精神病薬よりも強くないプロピタンを、1日150mgという極めて低用量で処方していた本件では、このプロピタンがなければNの統合失調症の幻覚妄想症状を抑制できないといった、限界状態にあったという状況では到底あり得ない。
これはパキシルを同時に中止したとしても同様である。プロピタンの薬理特性および処方量からすれば、本件プロピタンによってパキシルの離脱症状を抑制する効果を期待すること自体がそもそも正しくなく、プロピタン中止がパキシルの離脱症状を増悪させたことを示す臨床薬理学的証拠は全くない。
以上、本件ではプロピタンは極めて低用量の使用であり、これまでの離脱症候群の報告は見当たらないことから、今回の中止により精神症状の急速な悪化が生じたとは考え難い。プロピタンの半減期に関する報告はないが、通常1日2、3回の服用が推奨されていることから、半減期は数時間程度と推定される。従って、本件においてNに処方されていたプロピタンは、中止から1、2日で体内から消失したと考えるのが妥当であり、中止後2週間で精神症状が悪化し、本件殺人に至ったとは到底考えられない。
この点について控訴人からは、「プロピタンの半減期は約30時間であり、1週間で体内から完全に排出され、中止から2週間後が精神症状の増悪:再燃時期として最も危険である」などと主張されているが、あらためて指摘するとおり。これを示す客観的なデータは確認できない。
(3) アキネトンの中止は本件における殺人事件と関連しない
アキネトンは抗コリン薬であり、アカシジアにも用いられるが、抗コリン作用自体が精神症状を引き起こすことがあり、本件では依存も疑われ、症状の改善がなかなか得られなかったことから、偽薬を用いた離脱を図ったと考えられるところである。これは適切な薬物療法であり、しかも、本件での殺人事件との関連はないと考えられる。
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