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いわき病院事件の高裁鑑定論争


平成27年1月21日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


1、高裁鑑定論争の概要


(5)、鑑定論争に関して

精神医学鑑定論争は、控訴人(原告)側及び被控訴人(被告)側の鑑定人の双方が推薦した鑑定人が、専門家としての知識に基づいて科学的に事実の解明と問題点のありかを明確にする論争です。学問的な認識の違いに関する指摘を行うことは当然ですが、事実を意図して言い換えたり、専門外の鑑定意見を述べたり、また学者としての良心に疑念を持たれるような鑑定意見を提出することは、学者としての品位を傷つけることになります。

本件裁判における鑑定論争には日本側で控訴人側及び被控訴人側から推薦された鑑定人の他に、控訴人が推薦した英国、カナダ、オーストラリア、スペインの鑑定人が参加しており国際化しております。控訴人は各鑑定人には、自らの尊厳に基づいた、名誉ある議論をしていただきたいと、希望しました。


(6)、精神科医療と賠償責任

控訴人矢野には精神障害者に家族を殺人された遺族から「民事裁判を提訴したい」という相談が時折舞い込んできます。しかしながら残念なことに、多くの場合裁判を提訴することは極めて困難です。先ず最初に、精神障害者による殺人事件被害者は病院から治療を受けた患者ではないので、医療事故の被害者ではないとして弁護士に拒否されて、受任する弁護士を探せません。また、弁護士の多くは「これから精神科医療を勉強するのは大変で、とてもできない」と尻込みします。そもそも、殺人した犯人は、既に「心神喪失者医療観察法で『心神喪失者等』」と認定されていて、個人情報である医療記録を入手することが困難です。また、精神科医療記録を入手できたとしても、その解読には多大の困難があります。現実に初期には何人かの精神科医師と相談し、助言を求めましたが、SSRI抗うつ薬パキシルの突然中止を明確に指摘する精神科医の出現は私たちが問題点を絞り込んだ後でした。精神科医師の多くは、自らは解っていても他の精神科医が不利になる情報を提供しようとはしない職業論理を持っています。このため、精神科医療に素人の精神障害者犯罪被害者が民事裁判を維持することは極めて困難です。この経験を踏まえて、日本の精神科医療制度には以下の制度的欠陥があると指摘します。


(1)、専門中立機関の原因調査が必要

  精神障害者による殺人事件被害者は年間120〜140人ぐらいですが、その原因や要因解析は体系的に行われておりません。特に精神科医療の専門的な視点から、問題点を解析と分析を行うことが行われません。精神医学界もしくは公的機関が精神障害者の原因者となる全ての殺人事件に関する調査を行い、報告書を公表することが望まれます。これにより、わが国の精神科医療が抱える問題点や改善を要するところを明らかにすることが可能となり、わが国の精神科医療の発展を促進する事になります。またひいては、精神科開放医療に対する国民の信頼を向上し、精神障害者の社会参加を欧米先進諸国並みに達成することが可能となります。

わが国では精神科医療で発生した重大事故に関連した調査や情報提供は行われていないことで、事件や事故に関する客観性を持った視点や世論が形成されないままで放置される結果となっています。情報に客観性がないところでは市民社会の安全と精神障害者の人権に配慮した精神科医療を期待することはできません。


(2)−1、精神障害者による殺人事件に対する賠償

  現在では犯罪被害者給付金制度があり、殺人事件被害者に対してわずかな金額で公的給付が行われています。しかしながら、わが国が国家の制度として精神科開放医療を促進するのであれば、第三者に対する全ての精神科医療事故に関して治療していた病院は医療過失証明の有無にかかわらず保険金賠償を支払うことを義務とすることが正当な社会制度です。これは交通事故では当然のことであり、保険金で賠償する体制を持たない運転手はそれだけで社会的制裁の対象となります。交通事故では運転者の過失の有無にかかわらず、被害者は保険金による損害賠償支払いが行われます。また、運転者の過失は公的機関により調査解明される事が、社会として当然の手続きです。これに対して、運転者の過失や事故原因を被害者側が調査と解明することが義務とされるならば、道路交通の安全を確保することはできるはずがありません。

精神科医療は精神科開放医療を促進することが責務です。この場合、社会の仕組みとして、先ずは、医療機関側の責任の有無にかかわらず、全ての第三者の被害者に対して保険金による十分な金額で損害賠償を行う事を義務とすることが、社会として備えるべき制度です。精神科医療の知識を持たない素人の被害者遺族に過失証明責任を課している現行の制度は、ある日突然前触れもなく命を奪われた被害者に対して極めて苛烈な制度です。この様な制度は改善されることが望まれます。全ての被害者に可能な現実的な制度を整備することが望まれます。


(2)−2、ロゼッタストーン編集長の疑問

  上述の「第三者の被害者に対して保険金による十分な金額で損害賠償を行う事を義務とすることが、社会として備えるべき制度です」に関連して、ロゼッタストーン社編集長から「この主張は、ちょっと一般の共感を得にくい気がします。病院に多くを求めすぎているような印象を受けました。交通事故と殺人事件を同一視するのもなんとなく違和感を感じました。」という疑問提出がありました。

ここで明らかにしたいポイントは経済的な損失回復に限るという視点で、病院の責任追及とは全く別の問題として、取り組む必要性があるという主張です。精神障害者を治療して精神科開放医療を促進していた病院に過失があったか否かの問題と切り離して、ともかく事故が発生した後では、被害者の経済的損失に社会として対応する事が求められる。それは犯罪被害者給付金のようなわずかな一時金ではなく、被害者が生きていた時の経済的価値に見合うものである必要があるという視点です。

私たちが提訴して、矢野真木人の死後9年以上継続して戦っている民事裁判は「損害賠償請求事件」です。沢山の精神障害者による殺人事件被害者が「訴えること」を希望しますが、現実には民事裁判提訴にすら至りません。病院が行った過失を証明する事を被害者が証明する事を要件とすれば、実質的に、殺人されたほぼ全員が命の代償を賠償されないことになります。私たちは、法廷で戦えておりますが、他の方は、戦えません。実質的に不可能なのです。貴重な命の損失があったにもかかわらず、賠償責任を議論する前に法廷から排除されるのが今日の日本です。一般市民である第三者の死は無駄死です。少なくとも、「損害賠償請求」の部分は、保険金で対応すれば、殺人事件後に多くの被害者が持つ満たされない心が緩和されるでしょう。なお、私たちが裁判を行う本来の目的は、いわき病院医療の錯誤と怠慢及び医療拒否を指摘して、そして、日本の精神科医療を改革することです。この様な裁判は、今後も提訴され続けることが重要です。

日本では刑法第39条で心神喪失者の法的無責任能力が規定されておりますが、現実には「心神喪失者」の法的適用は拡大的な運用が行われております。日本では「心神喪失者等」として「心神喪失でない者」も「心神喪失と同等」にして、幅広く心神喪失の法適用が行われております。特に、犯行時点に一時的に心神喪失であったと認定される場合、精神鑑定医は、心神喪失ではない犯罪者の作為や嘘をどこまで精神鑑定で見抜くことが可能でしょうか、はなはだ疑問です。英国では心神喪失として認定される者は日本より二桁少ないオーダーと聞きます。心神喪失者と認定される事は、高度保安病院に残る一生涯の間強制入院される事を意味します。ところが、心神喪失と認定されなければ、死刑のない英国では殺人事件の犯罪者はいずれ開放される期待を持つことができます。わが国で、殺人者が心神喪失者等として罪に問われない場合、市民である第三者の殺人被害者には、命の代償がありません。また病院の過失責任を証明する事は、99%不可能です。それは、私たちが体験している、本件裁判の経過を見ても明らかです。

精神科開放医療の促進と実現は日本社会が国連などの国際社会から課せられた政策課題です。しかしながら日本では精神科病床数は人口1万人あたり30床程度で、これを下げることは実現しておりません。他方眼を欧米諸国に転じれば、多数の諸国が日本の3分の1以下の水準まで引き下げを達成しています。英国で解析された事例では、精神科開放医療を促進して、精神障害者による殺人数は減少しました。日本も「精神障害者は危険」という「思い込み」から社会が認識を転換する必要があります、またそのために精神科医療は医療技術の改善が求められ、看護体制も充実する必要があります。しかしながら、現実に目を向ければ、精神障害者の社会参加を拡大する過程で、矢野真木人の死のような不慮の事故は必ず発生します(それは、統計的な現実です)。その時に、国家政策だからとして、命の代償を賠償しないのは、制度として片手落ちです。また、日本が「心神喪失者等」として心神喪失の認定範囲を国際的な水準より拡大するのであれば、「心神喪失者等」による殺人事件被害者の権利回復を行わない事は、健常者の人権を無視することです。精神障害者の人権問題は、健常者の人権問題でもあり、日本における人権認識と制度運用の普遍性が問われます。

ところで、私は山林を所有しており、その伐採を平成27年1月5日から、山林職人の親方に依頼して3人の木こり仕事として開始しました。山林職人集団に木こり仕事を依頼して作業を任せることは、普通の手順です。翌6日は雨で仕事休止、7日の作業2日目で、なんと、その請負人の木こりの親方が自ら伐採した樹木の下敷きになり死亡しました。雨の翌日の作業で、足場が悪かった可能性があります。この死亡事故に、木こり作業は専門職である亡くなられた木こりの親方本人の采配であり、私は全く責任がありません。しかし、仕事の発注者として、保険金で死亡賠償手続きをしております。私が、主張しているのは、精神科開放医療を業務で行う以上は、関連した事故に対して、責任の有無にかかわらず、また責任を認める・認めないにかかわらず、発生した人命の損失には賠償を行うという潔さです。業務上過失致死でなくても、事故責任が証明されていなくても、命の損失に対しては相応の負担を行う体制造りは必要です。それは、交通事故では社会が認知して制度化しており、精神障害者による殺人事件等の人命損耗事案の前例となります。

私たちはいわき病院を相手にして民事裁判で戦えております。しかし被害者の大多数は、被害者側に過失を証明させる現在の体制では戦えません、泣き寝入りです。私たちは矢野真木人の死後9年以上継続して法廷に望んでいますが、多くの人はその経済的負担に耐えられません。また、私たちは、外国の世界的な権威者を持つ学者集団の助けがあるので戦えています。この様な人脈を持てる精神障害者殺人事件被害者は今後出現することはまずないでしょう。被害者遺族に病院の過失責任を証明させる現在の法廷手続きは、余りもむごたらしい制度です。「精神科病院の過失を、交通事故と殺人事件を同一視するもので違和感がある」という特別であるという認識は、いわき病院で発生した主治医の不勉強と怠慢と治療放棄及び看護師が患者の顔を正視しない看護の怠慢をのさばらせてきた原因ではないでしょうか。交通事故であれ、精神障害者の殺人であれ、第三者の市民に対して発生した人命の損耗に社会が対応するという視点では同一です。


(3)、いわき病院の場合

  矢野真木人が殺人された直後に、控訴人矢野は検察官に「いわき病院を起訴していただきたい」とお願いしましたが、検察官から「証拠不十分で、事件として起訴できない」と言われました。当時の私たちは医療記録を見ることができず、証拠を持たず外面的な蓋然性からでは、いわき病院の刑事事件性を主張することはできませんでした。また、医療記録を見ることができたとしても、直ちに問題点の箇所を指摘することは困難だったでしょう。当時捜査していた検察官にしても、仮に医療記録から抗精神病薬プロピタンとSSRI抗うつ薬パキシルの突然中断の事実をつかんだとしても、精神科医療知識が不足しており確信を持って医療放棄を主張することは困難だったと思われます。そもそも検察官の専門は刑法であり、精神科臨床医療ではありません。

私たちは本件を平成18年6月に提訴してから、次期法廷で8年9ヶ月を経過します。その間に行った精神医学や精神薬理学の勉強の成果として、今日ではいわき病院の精神科医療を正当に行ったとは言えない精神薬理学の錯誤、看護師の怠慢、そして医師の知識不足、不勉強及び治療放棄を指摘できます。また、矢野千惠が薬剤師であることも幸いしました。更に、控訴人矢野はデイビース医師を中心とする英国側の精神科医師5名の協力を得られたからこそ、ここまで解明することできたと言えます。デイビース医師団は日本の精神医学界の国内事情に左右されることがなかったことは、強みでした。しかしながら、これらの状況はほとんどの精神障害者による通り魔殺人事件被害者には可能なことではありません。すなわち泣き寝入りするしかないのです。

いわき病院が野津純一氏に対して行った精神科医療は、精神障害者に心神喪失が安易に認められるという現実に安住した、恐ろしいまでの医療の退廃です。これが、いわき病院が野津純一氏個人に対してたまたま行った特殊事例であれば未だ救われるところがあります。しかしながら、いわき病院代理人が弁明する論理の背景には、一いわき病院の特殊事例とすることができない、日本における普遍的な事実や事例が沢山ある、実態が推察できます。そもそも、精神科開放医療を推進していた病院に責任を問うことが間違いという論理、及び、10人中8〜9人以上が殺人するのでなければ責任を問われないとした高度の蓋然性の論旨の背景には、多数の責任を問われなかった殺人事件が埋没していると見ることが可能です。

私たちは、重大な社会問題を認識しています。しかしながら、私たちが行い得る事は、本件裁判でいわき病院に民事過失責任を求めさせることです。そして、日本の精神科医療の改革は、私たちの後に始まると確信します。なお、私たちは民事裁判を提訴するに当たって、最初から「原告勝訴で決着」という甘い展望を抱いておりません。日本の法廷の現実は厳しいと想定しました。このために、デイビース医師団に参加を求めたのです。日本の精神医療の改革には、持続的な国際的な批判の眼が必要であると確信しました。日本人として、日本の自己改革、自己改善能力に限界があるかも知れないと認識することは悲しいことですが、現段階における、私たちの宿命として対応するだけです。



   
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