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いわき病院事件に関する意見募集
いわき病院側鑑定意見に反論を募集します


平成26年8月11日
矢野啓司・矢野千恵
(連絡先:inglecalder@gmail.com


1、精神医療専門家の意見を募集します

高松高等裁判所(平成25年(ネ)第175号損害賠償請求事件:以下「いわき病院事件」と称します)では平成26年5月20日の法廷で被控訴人(いわき病院)側から提案があり「鑑定意見書」論争が行われることになりました。いわき病院側は「一か月で鑑定意見書を提出する」と宣言したにもかかわらず、控訴人側(矢野及び野津)に鑑定意見書(琉球大学臨床薬理学教授作成:専門は精神医学ではなく内科の循環器系)が提示されたのは、8月1日の法廷の前日の午後でした。提出された文書の内容を十分に読みこなす時間的な余裕を控訴人側に与えないで法廷に臨ませて、その場の反論を封じる手法はいわき病院代理人弁護士の常套手段です。「法廷で強い批判が無いこと」は法廷の審議がいわき病院側に有利に進展したかのような外見的事実を形成するという、弁護士の法廷戦術です。

裁判の判決は「裁判官が理解した範囲内における決定」であり、学術的な真実や真理の追究とは必ずしも一致しません。鑑定意見書には「論理的要素」があり、裁判官が論理的に納得すれば、自信を持って真実と真理に基づいた判決を行うでしょう。しかしながら、いわき病院代理人は「裁判官が真実や真理の理解に到達していたとしても、突然、異論や目くらまし論を持ち出して、医療専門家ではない裁判官に過失責任ありの確信を失わせる」意表を突いた作戦の達人です。高松地裁は「千葉大学教授」の権威を判決のよりどころにしたために、事実認定で無理を重ねた判決論理となりました。今回は、精神薬理学者による鑑定意見書執筆ではなく、内科薬理学教授が権威者として精神医学に関する鑑定意見書を提出しました。高松地裁の判決で発生した、結審時に計画された裁判官の認識を混迷させる試みが効果を発揮することは高松高等裁判所判決でもあり得ます。

私ども控訴人矢野は精神医療専門家の意見を募集します。下記の第3章に高松高等裁判所にいわき病院側が提出した鑑定意見書の要約を記載します(今後連絡してこられた方には、鑑定意見書の全文を提示します)。この鑑定意見書の重要な問題点等に的を絞り、精神医療専門家として説得力あるご意見をいただきたく存じます。いただきたいご意見は、論理的な客観性と説得力です。日本の精神医学者としての誇りと尊厳を大切にしていただきたい。そして、日本の精神医療の発展を望み、精神科開放医療を日本に定着し、精神障害者の社会参加の促進に貢献することに、本当に繋がる意見を求めます。


2、いわき病院事件裁判を行う目的

いわき病院事件裁判は、平成17年12月6日に発生したいわき病院任意入院患者野津純一氏による矢野真木人通り魔殺人事件に基づいて、治療していたいわき病院と主治医の渡邊朋之医師の過失責任を問う、民事訴訟です。殺人事件に伴う刑事裁判では、平成18年6月に高松地方裁判所で慢性統合失調症の患者野津純一氏に殺意が認定されて、日本では極めて珍しい事例ですが懲役25年が確定し、現在医療刑務所で服役しております(民事裁判を提訴するため、捜査資料等の個人情報等を入手するには刑事裁判有罪が不可欠です。このため矢野夫妻は「有罪判決」を望み、被害者両親として可能な限りの努力を傾注しました)。民事裁判は刑事裁判判決と同日に矢野夫妻が高松地方裁判所に提訴し、平成20年11月に野津夫妻が提訴して、殺人事件の被害者側と加害者側が協力して精神障害者野津純一氏を治療していた、いわき病院の精神科臨床医療における治療責任を指摘しております。この様な、被害者側と加害者側が協力する民事裁判は世界でも極めて希な形態です。日本で、犯罪被害者であれ入院治療をうけた患者であれ、民間人が精神医療に法的に過失責任を確定するにはここまでしなければ困難であるという、日本の医療裁判の特殊事情がこの背景にあります。日本には民間人が提訴して、精神病院側の責任が認定された先例はありません。個人の権利と自由を守るという民主主義の基本理念が実現されているか否かが問われます。

私たち野津夫妻と矢野夫妻が、いわき病院と渡邊朋之医師が任意入院患者野津純一氏に対して行った精神科臨床医療の事実に基づいて指摘していることは、野津純一氏は入院患者でありながら適切な医療を受けていなかった事実です。いわき病院に入院していた野津純一氏は、任意入院患者で開放医療を行っていることを理由にして、文字通り「ほったらかし」の状況でした。慢性統合失調症であるという診断に自信を持っていなかった主治医は、ある日(平成17年11月23日)突然患者本人にも家族にも説明と同意を得ることなしに、統合失調症治療目的の抗精神病薬(プロピタン)を中止して、同時に薬剤添付文書で突然の中止を禁止されている抗うつ薬SSRIのパキシルを突然中止しました。その上で、中止後の2週間で患者が睡眠薬を服用後の夜間に1回(11月30日)しか診察せず、主治医による患者の経過観察が全く行われないおざなりの治療実態がありました。しかも、看護師は患者が顔面に自傷したタバコの火傷瘢痕(根性焼き)を発見できないほど杜撰な看護を行っておりました。入院患者の病状悪化がかえりみられることが無かったのです。この様な無責任な医療実態があったことは、慢性統合失調症患者の野津純一氏にとって極めて不幸なことでした。そして、その医療放棄の結果が殺人事件の被害者となった矢野真木人の悲劇です。

裁判で裁判官を説得するためには、素人ではなく、大学や病院で精神科医療に携わっている専門家の意見が必要です。このため、私たちの考えを精神医療の専門家の立場から補っていただきたく存じます。

私たち矢野夫妻は、「殺人事件被害者の立場」だけで裁判に臨めば、精神障害者閉じ込め論という誤解を払拭できないと予想しました。現実にいわき病院から「精神障害者を差別する者」と批判され、私たちは「為にする批判で、弁明するまでもない」と考えましたが、その言われ無き誹謗は地裁判決で有効で、裁判官に対して説得力がありました。私たちは、平成18年6月の提訴時点から、野津夫妻に裁判への参加を要請して、既に8年以上の協力関係を持続しております。私たちが「野津純一氏を批判するだけ、また精神障害者の閉じ込め論者」であれば、協力関係の維持は不可能です。私たちは「通り魔殺人をした精神障害者野津純一氏ができる最大の社会貢献は何か」を問い続けております。それは「精神病院入院患者として、医療の不備を世に問い、精神障害者が社会参加を達成する医療の改革と改善に貢献すること」と確信します。そして、その医療が日本で実現していたならば、矢野真木人はある日突然市中で理由もなく命を奪われることはなかった、と確信します。世の精神障害者はその治療効果により社会参加の道が確実となる真っ当な精神医療を受ける権利があります。また市民は安全な市民生活を享受することが約束される社会に住む権利があります。その権利を不勉強や怠慢及び不作為により侵害することは犯罪です。私たちは、いわき病院事件は本来刑事事件として裁かれることが当然だったと考えます。しかしながら、刑事訴追されなかったため、やむなく、民事裁判を提訴して過失損害賠償責任を追及しております。

私たちは人口当たりに日本の精神科入院患者数が欧米先進諸国の水準と比較して異常なほど多いという現実があることを残念に思います。いわき病院は精神科開放医療を促進していると自負しておりますが、その現実は、統合失調症の治療の基本を守らず、薬剤添付文書に記載された「禁止事項」を守らない基本的な精神医療知識の不足でした。それは複数の向精神薬を同時に突然中止するという普通ではない処方変更であり、それを本人と両親に説明と同意無しに主治医の独断で実行した後、患者を経過観察しない怠慢と不作為がありました。また看護師にも特別に指示と観察事項を伝えない漫然とした無責任な看護でした。いわき病院では精神科医療の実態が伴っておりません。また、そのような精神科臨床医療を放置することは人権に対する犯罪ではないでしょうか。日本の精神科医療は、欧米並みに改善することは可能であるはずです。いわき病院と渡邊医師には法的過失責任が認められることがその第一歩であると確信します。いわき病院の「精神科開放医療推進の言葉」は実態が伴わないまやかしです。精神医療機関の都合を優先してきた慣行を修正することは困難としてきた日本社会のあり方が市民社会における精神障害者の人権の観点から問われます。

いわき病院事件裁判で精神医学的な議論が行われるのは高等裁判所における鑑定意見交換が最後となるでしょう。裁判が最高裁に持ち上がったとしても、新たな精神学的な議論は行われません。精神医学的な議論の終結が「いわき病院が推薦した内科の薬理学者の鑑定意見書」では日本の精神医療の不幸です。精神医学に誠実に取り込んでこられた先生方の協力をお願いします。いわき病院側鑑定意見書に対して、精神医学のプライドを示していただきたく、希望します。


3、いわき病院側鑑定書の要旨

以下に、斜体字で琉球大学臨床薬理学教授が高松高等裁判所に提出した鑑定意見書の要旨(肝心な部分)を提示します。なお、本章内の「標準活字」部分は、矢野が加筆した説明箇所です。

【鑑定嘱託事項】
  控訴審で争点となっている本件患者野津純一への処方のうち、11月23日以降のパキシル、プロピタンの中止と本件殺人事件発生の関連について
  具体的には、平成17年11月1日から12月6日(事件当日)までの経過につき、控訴人側の主張は、概要、パキシル1日20mg、プロピタン1日150mgの継続処方が、11月23日に全て中止されたことにより、以下の機序により、本件殺人事件が発生したというものである。
  1. パキシルの離脱症状が発現し、イライラ・興奮が亢進して、約2週間後に殺人事件に至った。
  2. プロピタンの中止により定期処方の抗精神病薬がなくなったことにより、患者の幻覚妄想が抑制できなくなり、パキシルの離脱症状としての興奮等も抑制できず、中止から2週間後に殺人事件に至った。
  そこで、本件について、主治医である渡邊医師が、患者野津純一に対する処方につき、パキシルとプロピタンを同時に全て中止し、他に定期的な抗精神病薬の処方をしなかったことが、本件殺人に関係したか否かを、臨床薬理学的見地から鑑定するように求められた。

◎、いわき病院側鑑定人が鑑定を行った前提に異議あり

1)、 いわき病院側鑑定人は「具体的には、平成17年11月1日から12月6日(事件当日で、事件が発生する前の、朝10時)までの経過につき、控訴人側の主張は」と前提を置いたが、これはいわき病院控訴審第2準備書面の記述に基づく。これに対して控訴人(矢野)は「平成17年10月26日から平成18年1月10日までの経過に基づくべき」と指摘している。いわき病院側鑑定人は鑑定に当たって事実関係で以下の事実を見落としていた。
ア、 薬剤師と渡邊医師の間で診断・薬理論争があり薬剤師が離反した
イ、 純一が表現し、看護師が確認して記載した「イライラ」を、渡邊医師は「ムズムズ」と主張した、いわき病院では病状を表現する言葉の定義に混乱があった
ウ、 渡邊医師は11月30日の夜間(眠剤服用後)に1回しか純一を診察していない
エ、 最初のプラセボ筋注時に、あたかも渡邊医師がそばで付き添っていたかの様に、改変したが、看護師は「院長指示により」と、独自の判断でプラセボ試験を開始した
オ、 極めて珍しい薬事処方変更の治療を受けていた純一は、6日10時に診察希望を出したが、主治医の渡邊医師は7日14時までの間、野津純一を診察しなかった
カ、 野津純一は6日13時から7日14時まで25時間いわき病院内に居たが、医師も看護師も誰も顔面の根性焼き瘢痕を発見しなかった
キ、 渡邊医師は7日純一逮捕後に、11月22日以前の処方で28日分を警察に届けたパキシル再開(ノーマルン中止)、プロピタン再開、ドプス再開
ク、 1月10日のレセプトでパーキンソン病の診断をパーキンソン症候群に変更した
2)、 控訴人は「11月23日以降のパキシルの突然中止、プロピタンの同時中止、処方変更後の医師の経過観察が適切に行われず、看護観察に怠慢があったことと本件殺人事件発生の関連」を指摘している。)(赤字部分が欠落している。)
3)、 いわき病院の精神医療の怠慢と不作為、及び根性焼きなどの異常を観察しない看護が薬理学的な論理より過失性が高い。
【鑑定意見】
(鑑定事項)
  控訴審で争点となっている本件患者野津純一への処方のうち、11月23日以降のパキシル、プロピタンの中止と本件殺人事件発生の関連について

(回答)
  関連はない。

(理由)
  一般に、薬物療法中に生じた好ましくない事象を「有害事象」と呼ぶが、それが薬剤の使用開始、あるいは中止に関連するか否かを判断する際に重要な点は、まず、その有害事象発生と薬剤投与の時系列である。
  しかるに、本件においては原判決が認定した本件野津純一の精神症状の経過(甲A8,13〜16,19〜23、丙1)からは、パキシルやプロピタン、アキネトンの中止による著しい精神症状の悪化は認められない。殺人行為自体も幻覚・妄想などの病的体験に基づくものではなく、また、精神運動興奮状態や緊張病状態にもなかったと推定され、むしろ以前からの症状が継続しているものと考えられる。結局本件は、原疾患の症状の継続症例と考えるほうがより適切であり、時間的な関連性も少ないとなれば、本件は薬剤中止に起因する可能性は低くなると評価されるのが正当である。
  以上より、本件の薬剤中止と有害事象発生(殺人事件)の間の因果関係は「疑わしい(doubtful)」と分類されることになる。
  本件において主治医は、野津純一の症状の改善がなかなか認められないことから、薬剤の変更やアキネトンのプラセボへの変更を行ったと考えられる。近年、特に精神科領域における多剤併用が問題視されるが、本件では薬剤を増やさず、変更やプラセボを中止しての離脱を図るなど薬物療法の至適化への努力が率直に伺えるものである。

◎、いわき病院側鑑定人が記載した証拠文書を以下の通り確認した

証拠確認 -
甲A8 野津純一氏刑事事件被告人質問速記録
(平成18年5月24日 平成18年(わ)第79号第2回公判)
甲A13 野津純一警察官面前供述調書(平成17年12月9日高松北警察署)
甲A14 野津純一警察官面前供述調書(平成17年12月11日高松北警察署)
甲A15 野津純一警察官面前供述調書(平成17年12月14日高松北警察署)
甲A16 野津純一警察官面前供述調書(平成17年12月15日高松北警察署)
甲A19 野津純一検察官面前供述調書(平成17年12月9日高松地方検察庁)
甲A20 野津純一検察官面前供述調書(平成17年12月14日高松地方検察庁)
甲A21 野津純一検察官面前供述調書(平成17年12月16日高松北警察署)
甲A22 野津純一検察官面前供述調書(平成18年2月21日高松刑務所)
甲A23 野津純一検察官面前供述調書(平成18年2月23日高松刑務所)
丙1 野津純一氏刑事事件判決
(高松地方裁判所平成18年6月23日宣告 平成18年(わ)第79号判決)
【解説】
  上記は、高松地裁判決73頁「イ 本件犯行の動機」で引用されている証拠と同じであるが、医療専門家により「野津純一の精神症状の経過」として記録されたものではなく、警察官及び検察官が事件後の野津純一から聞き取った供述記録であり、刑事事件で鑑定した精神科医師の鑑定意見を不採用とするなど、殺人行為と幻覚・妄想などの病的体験の関連性を記録した医学的証拠ではない。
(1)パキシルの中止は本件における殺人事件と関連しない
  臨床薬理額的な視点から説明する。
  本件において、パキシルについては、鎮静を目的とした三環系抗うつ薬への変更を行っているのであり、突然の中止ではない。添付文書に記載されているように、パキシルは強迫性障害に適応を持つが、副作用として不安、焦燥、興奮、パニック発作、不眠、易刺激性、敵意、攻撃性、衝動性、アカシジア/精神運動興奮、軽躁、躁病等が出現することが警告されている。本件では、野津純一の症状がパキシルに関連するかどうかは不明であるものの、これらの報告に鑑み、症状改善のためにパキシルを中止し、症状を緩和する目的で鎮静作用の強い三環系抗うつ薬への変更を図ったものと推察される。確かに、パキシルの中止に関しては離脱症候群の発症が警告されているが、本件では、投与量が20mgとむしろ強迫性障害においては承認用量の半量という低用量であったことと、中止に際しては、"Cross tapering"の手法を用いていること等から、離脱症候群が発生した可能性は低いと考えるのが相当である。"Cross tapering"とは、選択的セロトニン再取り込み阻害薬SSRIの中止に際して、離脱症候群を予防するためにもしばしば用いられ、三環系抗うつ薬に変更されることが多い。本件の"Cross tapering"はパキシルも元々低用量であり、漸減はしていないものの最終用量としては適切であり、開始した三環系抗うつ薬アミトリプチリンもごく少量で開始していることから慎重に行われたと考えて良い。
  確かに、SSRI全般に離脱症候群は報告されており、突然の中止後数日以内で生じ、1〜2週間で消失するとされている。ただし、症状が出現するまでの期間は、薬物動態の違いが影響するとされている。症状は怠さや筋肉痛から、不安焦燥感まで多岐にわたり、はっきりと「原疾患の症状ではなく、離脱症候群である」と言えるような特異的なものではない。英国の調査では、パキシルの離脱症候群と思われる症状は平均して2日で出現し、ほぼ10日で消失すると報告されている。薬物動態学的には、パキシルの半減期は15時間程度であり、中止後に血中濃度がほぼ0になるには3日程度を要するため、この報告に矛盾しない。
  従って、本件では離脱症候群が生じたとしても低用量であることを考慮に入れれば、11月23日から同月25日の間であり、むしろ殺人事件が発生した12月6日の時点では離脱症状は消失していた可能性が高いのである。
  しかしながら、そもそも本件では、先述したように、三環系抗うつ薬への"Cross tapering"を適切に行っているため、離脱症候群が生じていた可能性自体が極めて低いと考えられるのである。

(2)プロピタンの中止は本件における殺人事件と関連しない
  抗精神病薬のプロピタンであるが、これは、いわき病院側から証拠提出されたとおり、ハロペリドールに代表されるプチロフェノン系抗精神病薬に属するが、臨床において使用されている抗精神病薬の中でも、抗5−HT2A/抗D比(抗ドパミン/抗セロトニン比)が0.01と小さい薬剤であり、錐体外路症状は少なく、陰性症状の改善にも効果が期待できる抗精神病薬である。作用機序としては、黒色線条体路をはじめとするドパミン作動性中枢神経におけるドパミン受容体拮抗作用である。しかし、セロトニン5−HT受容体拮抗作用が著明である反面、抗ドパミンD効果はクロルプロマジン(コントミン)の5分の1程度で、通常の投与量でのドパミンD受容体拮抗作用は強くはない。よって、抗幻覚妄想作用はそれほど強くはない(乙B36号証
:精神科治療薬ハンドブック、上島国利、中外医学社)。
  また、プロピタンは低力価の抗精神病薬であり、その薬力価は、プロピタンを200とすると、クロルプロマジン100、ハロペリドール2である(乙B37、
第18回:2006年版向精神薬等価換算、稲垣 中、臨床精神薬理9:1443−1447)。本件で野津純一に対して11月23日に処方されていた"プロピタン1日150mg"はクロルプロマジンに換算すれば1日75mgであり、またハロペリドールに換算すれば1日1.5mgである。プロピタンの維持量(定常状態後の基本的処方量)としては、1日150mgは最低量である(適宜増減は可能であるものの、添付文書上の維持量の上限は600mgである)。クロルプロマジンの精神科での基本的な成人1日処方量は50〜450mg(適宜増減)、ハロペリドールの基本的維持量は1日3〜6mg(適宜増減)であることから考えても、本件で、11月23日まで処方されていたプロピタン1日150mgが極めて控えめな低用量であったことは敢えて付言するまでもない。プロピタン1日150mgというのは、抗精神病薬の代表格とされるハロペリドールの1日維持量の、更に半量である。
  以上より、もともと抗幻覚妄想作用が他の抗精神病薬よりも強くないプロピタンを、1日150mgという極めて低用量で処方していた本件では、このプロピタンがなければ野津純一の統合失調症の幻覚妄想症状を抑制できないといった、限界状態にあったという状況では到底あり得ない。
  これはパキシルを同時に中止したとしても同様である。プロピタンの薬理特性および処方量からすれば、本件プロピタンによってパキシルの離脱症状を抑制する効果を期待すること自体がそもそも正しくなく、プロピタン中止がパキシルの離脱症状を増悪させたことを示す臨床薬理学的証拠は全くない。
  以上、本件ではプロピタンは極めて低用量の使用であり、これまでの離脱症候群の報告は見当たらないことから、今回の中止により精神症状の急速な悪化が生じたとは考え難い。プロピタンの半減期に関する報告はないが、通常1日2、3回の服用が推奨されていることから、半減期は数時間程度と推定される。従って、本件において野津純一に処方されていたプロピタンは、中止から1、2日で体内から消失したと考えるのが妥当であり、中止後2週間で精神症状が悪化し、本件殺人に至ったとは到底考えられない。
  この点について控訴人からは、「プロピタンの半減期は約30時間であり、1週間で体内から完全に排出され、中止から2週間後が精神症状の増悪:再燃時期として最も危険である」などと主張されているが、あらためて指摘するとおり。これを示す客観的なデータは確認できない。

(3)アキネトンの中止は本件における殺人事件と関連しない
  アキネトンは抗コリン薬であり、アカシジアにも用いられるが、抗コリン作用自体が精神症状を引き起こすことがあり、本件では依存も疑われ、症状の改善がなかなか得られなかったことから、偽薬を用いた離脱を図ったと考えられるところである。これは適切な薬物療法であり、しかも、本件での殺人事件との関連はないと考えられる。

付記1:控訴人(原告)側の視点

パキシルを取り巻く状況は、「20mgは低用量で、漸減するほどの危険はない」として事件との因果関係を論じているいわき病院側の鑑定は臨床治療の実態を踏まえた内容とは言い難い。慎重な減量と臨床的観察が不要である根拠とはならない。英国の調査を根拠に「離脱症候群が生じても、11月23日から同月25日の間」と断定しているが、薬物動態については人種差、個体差が大きいことが知られており、パキシルについてもその主効果のみでなく退薬症候群の出現においても、単に投与量や薬理学的な推測値では予測できないことは臨床治療での前提となることがらであり、実際の臨床現場においては、このような理論的断言は不可能である。あくまでも離脱症状出現リスクが高い理論的推測にすぎない。また、一旦出現した離脱症状が遷延することもしばしば経験することであり、この理論的主張も臨床治療の実態とは乖離した乱暴なものである。離脱症状の発現に関して単純化した理論で断定的な結論を導くことは適切ではない。"Cross tapering"を行ったとしても、慎重な減量と臨床的観察が不要である根拠とはならない。いわき病院側鑑定人がパキシルの離脱症状と事件発生との因果関係に関する結論を提示する根拠としているパキシルの薬理学的特性や"Cross tapering"について、臨床をあまりにも単純化しており、臨床治療上の実際とは乖離する点が多い。

この鑑定意見書で重要なことは、「離脱症状ではなく原疾患(統合失調症)によって生じた」と書いていることである。「離脱症状は殺人事件と関係ない。プロピタンもそもそも大した効果がないので切っても大した変化がないはずだから問題ない」というのが鑑定意見である。さらに、その状態での臨床的な観察の必要性にはまったく触れておらず、今回の争点である「臨床的になすべきことは何だったのか?」という、臨床の議論とは全くかみ合っていない。

鑑定人の主張からは、慎重な減量と臨床的観察が不要である根拠は一切見出すことはできない。本裁判は、臨床現場で生じうるリスク配慮の問題が議論されるべきで、机上の期待的推測は裁判の真摯な議論を阻害するため排除されるべきであると考える。


付記2:お願い

いわき病院事件に精神医学的な立場からご意見をいただける場合には矢野夫妻に直接連絡をお願いいたします。連絡先は(矢野啓司:inglecalder@gmail.com)です。また、ロゼッタストーン編集部を経由することも可能です。

ご意見は私たち矢野夫妻に対する批判であっても、裁判の参考となるため、かまいません。ただ、一般的なアンケートや投書ではなく、裁判の参考として社会的な実現性や現実性、更には人権判断の基準等としての適合性などが関係しますので、氏名、資格、(現・元)所属など、自らの社会的立場を客観的に示す、必要最小限の情報はいただきたく存じます。いただいたご意見から内容を精査して、控訴人(原告)側の鑑定人として改めてご意見をお願いすることもあります。その場合は、謝礼についても相談いたします。



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