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いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性


平成26年5月7日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


【後記】

(1)、精神科開放医療と過失責任

控訴人矢野は、平成18年4月の刑事裁判第1回法廷で野津純一代理人TD弁護士が平成17年12月6日のいわき病院看護記録から、「先生にあえんのやけど、もう前から言ってるんやけど、咽の痛みと頭痛が続いとんや」という被告人の事件直前の言葉を抜き出して「いわき病院の医療がもっとしっかりしていたら、殺人事件は発生しなかった」と発言した時から「民事裁判では、野津夫妻と協力して共同戦線を張ることができる」と確信した。そして、野津夫妻に協力関係を結ぶ提案をした。被害者と加害者が協力関係を結んだ民事訴訟は、おそらく、世界でも唯一の事例であるはずである。その背景に、日本国民が一市民の立場で精神科医療の過失を問う面前に立ちはだかる、「理不尽な障害」がある。私たちは、本件裁判が「人間としての普遍性の課題に対面している」ことを証明するためにも、協力関係を模索して維持する必要があった。

野津純一氏の過去の履歴を調査しておれば普通の医師であれば、第三者に対しての暴力傾向、包丁の使用など、何かの際には他害に及ぶことは容易に想像できた。いわき病院と渡邊朋之医師は「(任意入院患者だから)暴力行動歴を調べなかった、知らなかったから過失がない」と主張したが、逆立ちした議論である。「勉強してないから、知らなかったから」といって「過失を問われない」と主張するのは子どもの論理である。

渡邊朋之医師は精神科専門医師で、精神保健指定医で、大学病院の外来担当医で、病院長である。渡邉朋之医師に世間の期待は大きなものがある。ところがその実態は、自らの診療ミス、薬剤使用のミス、経過観察をしないミス、患者の診療請求に応えなかったミスなど、ミスと怠慢の連続であった。患者を激昂状態に追い込んだのに気がつかず、放ったらかしの状態で外出させ、帰院してからも患者を観察せず、事件の翌日に野津純一氏が逮捕されてから事件を知ったほどの恐るべき放任と無策だった。「まさかそんな馬鹿なことがあるはずは無いだろう」という信じがたい状態が、いわき病院と渡邉朋之医師に野津純一氏に対する医療で起きていた。このあまりのギャップに、根拠もなく「いくらなんでもそこまでひどくは無いだろう」として許してしまうことは間違いである。

いわき病院は「『精神科開放医療を推進している』という大義名分を主張できれば、どのような間違いがある精神科医療を行っても責任を問われてはならない。精神科病院と精神科医師の過失責任を問題の俎上に挙げることは、精神科開放医療に反対することで、過去の閉鎖処遇の時代に戻すこと」と主張したが、それは間違いである。いわき病院では時代の水準に適合した精神科医療を誠実に行うという現実が伴っていなかったが、そのことが過失を導いた要因である。

いわき病院代理人が主張した、相当因果関係を認定するための「(数量化した)高度の蓋然性」の論理は、市民の生命の安全を損なう自傷他害行為が発生することを容認する論理であり、現実に矢野真木人は殺人された。本音に精神医療提供者の慢心があり、自らは特別の立場にあるとして怠慢が容認されるべきとする傲慢な論理がある。精神科医療界でこのような論理が蔓延することがあってはならない。

精神科開放医療であれば、10人中7人までの犠牲者は許容されるとする「相当因果関係と高度の蓋然性」の論理は間違いである。精神科開放医療は必然的に市民の犠牲拡大を伴うものではない。医療者側の無為無策と怠慢を容認する論理を放置してはならない。日本の精神科医療が10人中7人までの殺人を容認するような、人命を尊重しない医療であるならば、それだけで、社会的大問題である。控訴人矢野はいわき病院代理人の主張は代理人一人が空想した、現実を伴わない、非常識な主張であることを願うのみである。

「自由は放縦ではない。自由には責任が伴う」これは、市民が自由を享受するための基本原則である。精神科開放医療は放ったらかしの医療ではない。精神科開放医療は実がある誠実な医療が背景になければならない。精神科開放医療には責任が伴う。その責任は精神科医師の患者に対する責任と市民に対する責任である。共に、人権が尊重される責任である。医療の責任は人命の尊重であり、基本的人権に貢献することである。

精神科開放医療は精神障害で人権を損なわれてきた人間に対する光明である。精神科医療は向精神薬が開発されて大きく進歩し、化学療法とリハビリテーション手法の導入で、精神障害者が社会参加する道が開けてきた。多くの精神障害者は自らの意思に反して精神科病棟という狭い世界に閉じこめられる必然性がなくなってきている。精神障害者は市民社会に参加して人生に希望を持つことができる。それは全ての人間が市民としての権利と義務を全うする社会を私たちが創りあげることでもある。

日本の精神科医療会には精神障害者を不必要に病棟に閉じこめた過去に対する反省があることを承知する。更に、国連等の国際社会から精神科開放医療の導入を迫られた事情も承知する。しかしそれは、精神医療の放棄と責任回避を行うことを容認して達成できる社会政策及び精神医療政策ではない。野津純一氏は精神科開放医療の名目で、合理的な医療を受けられず、ほったらかしの状態で病院外の行動を行っていた。それは、患者に積極的な社会参加を促進する道ではない。結果的に、いわき病院に入院して14ヶ月後に、小さな危険が積もり積もって、殺人という取り返しの付かない犯罪を行うに至った。野津純一氏は、渡邊朋之医師により、人生を破滅させられたのである。

精神科開放医療は無為無策を旨とするほったらかしの医療ではない。それは、薬物療法の進歩を背景にして、同時に、心理学的理解の促進、看護手法の向上、並びに、作業療法などのリハビリテーションの向上、更には、社会の受け入れ体制の整備などがあって実現可能な、精神障害者に希望を与える医療である。そして、精神科開放医療が適切に推進される場合には、社会防衛を目指さなくても、結果的に精神傷害者による殺人事件件数を削減することは可能である。

いわき病院と渡邊朋之医師のような錯誤と無為無策と怠慢の医療に過失責任を問わないことが、精神科開放医療を促進する事ではない。過失責任を問うことで健全な精神科医療は可能となる。矢野真木人は、外出許可者の10人中7人までが殺人することを容認したいわき病院医療が必然として発生させた殺人事件の犠牲者である。矢野真木人のような犠牲者の発生を抑制する安全な市民社会に貢献する精神科開放医療は可能である。



   
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