いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性
9、いわき病院「精神科開放医療」の過失責任
(4)、精神科開放医療の論理と倫理
(1)、精神科開放医療は殺人を減少する
デイビース鑑定人の情報に基づけば、英国の過去50年の経験を統計解析して、精神科開放医療を誠実に実行することで精神障害者による殺人数は減少していたことが判明した。精神科開放医療に伴う殺人事件の発生はゼロではない、しかしマクロのレベルで殺人数は減少した。このことはイタリアでも経験的事実があるとされる。良質な精神科医療と看護を実現するならば、精神科開放医療を促進することで、精神障害者による殺人と重大な人身傷害事件は減少する。更に、精神障害者の自殺件数の減少も期待できる。
重要なことは、責任感ある精神科医療を行うことである。いわき病院と渡邊朋之医師が行ったような、錯誤した医療知識と無責任でほったらかしの医療で重大事件が発生した場合には、事実を解明して、重大な過失がある場合には、責任を問う必要がある。精神科開放医療は単に精神障害者を無防備で病棟の外に出すことではない。精神障害の既往歴がある人間が、普通の人間として社会に受け入れられるための医療改革と社会の仕組み作りである。それは人間解放でもある。
(2)、客観的な事実の尊重
いわき病院代理人は日本の「閉じ込め型の精神科医療」から「精神科開放医療」への転換を「ポリスパワー:リーガルモデル」から「パレンスパトリエ:メディカルモデル」への転換と表現したが、日本語にならない議論である。また「パレンスパトリエ:メディカルモデル」を主張すれば、医療提供者は免罪となる論理はない。「パレンスパトリエ」の言葉の本質は、博愛の精神に基づいて、適切で良質な精神科医療を提供する義務が医療者にあることを意味している。自らも十分に理解しない言葉を用いて弁明しても実態が伴わなければ空論である。また、言葉を用いるだけで、その言葉の発言者が、人権を尊重した適切で優良な医療を実行していることにはならない。いわき病院が野津純一氏に行った治療的介入を行わないほったらかしが「メディカルモデル」であるはずがない。
日本では一般的に、精神科医師も、刑事・司法関係者も、「精神科開放医療で精神障害者による殺人事件数が増加することはやむを得ない。殺人数を削減することはできない」という認識と諦めの意識があると観察される。また「精神科開放医療を実行している間で発生した殺人事件に過失責任を問うことはできない」との意見が専門家に共有されていると思われる。そして精神障害者による重大な人身傷害及び殺人事件が発生しても、基本的に「心神喪失者等」として「心神喪失者等医療観察法の下で法的手続きが行われる」慣行が成立している。その現実的な波及効果として、いわき病院のような、任意入院患者であれば、放火暴行歴を調査解析しない、患者から申告があっても無視する「患者が自傷他害行為を行う可能性を無視した精神科開放医療」、「精神科薬物療法で最新の良質な知識を持たない医療」更には「患者の顔面を正面から正視しないおざなりの看護」などが行われても改善の方向性の力が働かない現実ができあがったと思われる。
いわき病院と渡邊朋之医師は、野津純一氏の両親から入院時に過去の放火暴行歴が申告されてもそれを積極的に調査解析していない。また野津純一氏は入院直後の平成16年10月21日の未明に看護師を背後から襲撃したが、いわき病院は暴行行動に関した調査をしていない。渡邊朋之医師は平成17年2月14日から主治医を交代したが、主治医交代時の問診で野津純一氏は過去の暴行歴を説明し、特に25歳時の一大事に関しては被害者の女医の名前を繰り返し発言した。しかし渡邊朋之医師は任意入院患者であることを理由にして野津純一氏の暴力行動や他害行為に関した調査と解析を行う必要はないと主張した。いわき病院と渡邊朋之医師が任意入院患者の自傷他害行動を行う可能性を無視したことは精神科専門病院及び精神保健指定医として義務違反である。ところが、地裁判決(P.105)は「被告渡邊が被告純一の過去の既往歴に無関心であったとはいえず、被告純一の過去の問題行動を聴取できなかったことに過失があるとまでは認められない」と結論した。地裁判決は、「被告渡邊が被告純一の過去の既往歴に無関心であったとはいえず」と免責の理由としたが間違いである。医師に関心があっても、情報を医療に活かさなければ、精神科医療行為ではない。精神保健指定医渡邊朋之医師の職務義務違反である「野津純一氏の問題行動歴無視」を判決が承認したことになる。
(3)、課題は、必要で十分な医療と公明公正な手続き
精神科医療は、司法手続きによらず、精神障害者の人権に介入できる権限が許されており、その判断が、精神科医師の専門的判断という、ブラックボックスの中にあることが、本質的な問題だと考えられる。このため、渡邊朋之医師の様な、不作為と怠慢があっても「医師の裁量権」を盾にした「何でもござれで不透明な弁明」を許してきたと考えられる。精神科医療の場合、ことの本質は医療という表面を装った人権手続きの問題であり、今日の社会では医師のパターナリズムに依存した透明性に欠ける運用を行い続けることには問題がある。日本的慣例や既判例なども、人権手続きの側面から、見直すべきは、見直す必要があると、指摘できる。
本件裁判は8年以上の長期間に渡る審議を行ってきて、いわき病院の医療といわき病院代理人の弁護論理を通して、日本の精神科医療にかかわる重大な問題点が明らかになりつつある。いわき病院と渡邊朋之医師が行った精神科医療的事実から、精神医療にかかわる人権問題を、客観的な事実を基にして論じることが可能となったと考えられる。
(4)、精神医療の法的な過失責任の免責
英国では、ラボーン事件で「5%の自殺危険率でも、外出許可を出して、自殺を防がなかった病院の過失責任」を認めた、病院側の医療判断と行動を極めて厳密に審査して、責任を認定した事実がある。しかし、いわき病院の主張は、「精神科医療行為に過失責任が認められるようでは、精神科開放医療を推進し得ず、結果的に、精神科開放医療を行うことが適当な患者の社会参加の道を閉ざすことになる」である。これは英国で発生した社会的事実とは異なる。英国では精神医療者に厳しい法的責任を問うことで、精神科開放医療が促進されて、国民の信頼を獲得した事実がある。いわき病院が主張する、「精神科開放医療に法的責任を負わせてはならないという(原則的な)法的無責任論」は、病院と医師の「(精神科)特例を期待した」ご都合主義である。無責任論からは、精神障害者の人権を尊重する精神科開放医療は促進されない。
マクロの社会現象として、精神科開放医療を推進すれば、精神障害者による殺人や自殺の実数が低下する可能性が英国の事例から示唆される。しかしながらミクロに見れば、「適切と思われる精神科開放医療を行っていたが、開放医療を実施している間に結果的に殺人事件が発生した」という不幸な事例は発生し得る。その場合、医療側に法的責任が問われてはならないとして過剰反応してきたのが日本の現実である。しかし、医療側に錯誤や怠慢があっても、全ての精神科医療事故に過失責任を負わせてはならないと原則論を主張することは行き過ぎである。また、反対に殺人事件が発生すれば、問答無用に医療側の責任を問うことも間違いである。精神科医療機関の過失責任論で、建設的で透明性がある対応を行うことが、日本の課題と言える。精神科医療機関が、適切に医療を行っていたと証明できれば、過失責任は問われてはならない。しかし、「適切な医療行為を証明する手続き」は精神科医療(精神科開放医療を含む)では、全ての重大事件で行われ、かつ透明性を持った手続きが公正公明に行われる必要がある。
いわき病院事件裁判でわかったことは
- 警察が押収していた資料でも「存在しない」と白を切る証拠隠し(刑事裁判で有罪判決がなければ、被害者側は法廷に提出できる証拠を入手できない現実)
- 医師の独断を裁量権だから過失責任は無いという、非公開・無原則の弁明
- 裁判を引き延ばした上で「当時の医療水準では過失を問えない」とした主張
- 相手は素人と見くびって、問題点を言い換えて逸らした詭弁の論理
- 権威者を表明する鑑定人の「お言葉」によるもみ消し
などの、手段が常習的な精神科医療側の法廷対応である。これでは、公明・公正とは言えない。本件裁判で、控訴人側が勝訴すれば、将来的には、精神科医療紛争が増加する可能性がある。そのような状況下でも、精神医療の健全な発展が促進されるためには、問われる問題の本質は、透明性を持って公明・公正に説明する、必要かつ十分な精神科医療を行った事実である。また、精神医療の人道の普遍性に対する責任感である。
(5)、精神障害者の社会参加
精神薬物療法が開発される前は、精神障害は治癒不可能な運命であり、多くの者が閉鎖的処遇の中で人生を終えることを強制された。しかし、薬物療法が可能となった現在では、治癒と軽減が可能な普通の疾病となりつつある。今後も薬物療法は進歩するであろう。そして精神障害者の多くは社会の一員として社会参加を行い、より充実した人生を全うすることが可能となると予想する。しかし、それに至る現実は必ずしも容易ではなく、いわき病院と渡邊朋之医師のように、形式だけで内容と実質が伴わない精神科医療を行う者の出現を許すことになったと思われる。精神薬物療法の基本は向精神薬の使用であるが、薬剤添付文書を読まず、正確に理解しない治療者が精神障害者の社会参加の助けになる筈もない。精神科開放医療にかこつけて、怠慢と不勉強によって患者に深刻な自傷他害を惹起させるような退廃の道に進んだ者には、それだけの責任を課すことが、社会の基本である。退廃者がのさばる状況は精神障害者の解放を阻害する。
(6)、精神科医療の健全な発展を期待する
控訴人矢野は精神科医療の健全な発展を希望しており、それは控訴人野津も同様の願いであると確信する。矢野真木人は命を奪われたため、意見を言うことはできないが、本人が自らの意思で社会貢献を行う前に、精神科医療の不始末で命を奪われたことは極めて残念である。他方、野津純一氏は「(刑期を満了すれば)気楽に生きられる自由な生活」を希望するであろう。それを実現できるのは日本の精神科医療者の誠実な努力と働きである。日本の精神医療を荒廃させてはならない。日本の精神科医療は無責任であってはならない。いわき病院の医療は、精神障害者の人権を尊重しない行為であり、精神障害者により市民への他害行為に無策で容認していた。精神科医療は決して過去の「社会防衛政策の道具」になってはならない。精神科開放医療は、建設的な努力で達成されるものであり、決してほったらかしの医療ではない。
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