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いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性


平成26年5月7日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


9、いわき病院「精神科開放医療」の過失責任

(3)、いわき病院の法的責任

静岡地裁昭和57年3月30日判決(昭和52年(ワ)第134号損害賠償事件)に関連して、飯塚和之氏の論文から以下を引用する。

院外作業中の精神障害者の殺人事件
別冊ジュリスト(1989年6月、No102)、P.99、飯塚和之

静岡地裁昭和57年3月30日判決(昭和52年(ワ)第134号損害賠償事件)
(判時1049号91頁、判タ471号158頁)

医療機関は、自傷他害のおそれある精神病患者に対する看護義務を負う。この看護義務は、更に患者自身を保護すべき義務(患者保護義務)と患者が第三者に加害行為をしないように監督する監督義務(患者監督義務)に分かれる。後者は保護の対象となる第三者に即して言えば、医療機関の第三者保護義務ということができる。この監督義務(=第三者保護義務)の発生根拠は、他害のおそれのある精神障害者の治療及び保護を引き受けたことであり、この引き受けを契機として一般第三者との関係で監督義務(=第三者保護義務)が生じる。その際の法的責任根拠は、医師、看護人等の過失責任を経由しての医療機関側の不法行為責任(民法第709条、715条)または国賠法1条の責任である。さらに、民法第714条第2項の代理監督者責任(医師または病院が代理監督者となる)もその根拠となる場合もある。そして、右の保護・監督義務における医療機関の注意義務の内容・程度は、精神障害者の治療上の処遇として要請されている開放治療政策との関連で定められなければならない。また、医師の専門的判断と裁量権をどこまで尊重するかが問題となる。


(1)、「自傷他害のおそれのない精神障害者」ではない

いわき病院は任意入院患者は「自傷他害のおそれのある精神障害者の治療及び保護を引き受けたことにはならない」との主張を行いたいようである。野津純一氏は平成13年に経験したいわき病院のアネックス棟の放任の管理を好み、平成16年にも任意入院を望んだ。平成13年に入院した際には、いわき病院は野津純一氏の治療の課題として攻撃性の発散を挙げていた事実がある。平成17年9月21日に野津純一氏の父親はいわき病院のHB医師から入院前問診を受けて、息子の家庭内暴力、近隣者とのトラブル及び街頭での暴行等の行状を説明していた。いわき病院はそれらの過去歴を承知して任意入院を許可したのであり、「野津純一に他害のおそれが無い」と主張することはできない。

いわき病院が「任意入院患者である野津純一氏は他害のおそれが無い」と主張するのは病院として承知した事実の否定である。患者に関する事実を認めないことでは、適切な精神科治療を行えるはずがない。また、事実を確認しなければ、結果予見可能性は無いし、それに基づく結果回避可能性も無い。事実を否定したり、確認を怠ったりした怠慢をいわき病院を免責する理由にしてはならない。


(2)、精神障害者による第三者加害行為

精神障害者による第三者加害行為としては「病院の看護体制に関わる場合」と「医師の治療行為に関わる場合」があるが、いわき病院の場合、アネックス棟における野津純一氏の治療ではその両方に問題があった。いわき病院はIG鑑定人の意見に基づき「医師の専門的判断・裁量権が尊重されるべき」で、医療機関の責任が否定されるべきとの主張である。しかし、主治医が行った医療行為が原因で患者の病状を悪化させた医療環境では、「専門的判断の尊重」は、医療側の原則的免責を意味しない。問題の本質は専門的判断の内容と、それに基づいて行われた医療行為が適切であったか否かである。

現実にいわき病院では渡邊朋之医師は統合失調症治療ガイドラインに従わないで慢性統合失調症患者に抗精神病薬を中止し病状を悪化させ、パキシルの薬剤添付文書をきちんと読まず、理解せずにパキシルを突然中止して、患者に危険性が亢進する状況を招いていた。また同時にプラセボテストを行いアカシジアが悪化した。これは医師の専門的判断にもとる行為であり、法的判断云々、裁量権云々の問題ではない。いわき病院と渡邊朋之医師は「医療機関の注意義務の内容・程度は、精神障害者の治療上の処遇として要請されている開放治療政策」の体を成していない。「医師の専門的判断と裁量権の尊重、更には法的判断で過失責任の否定」を主張できる要件が備わっていない。


(3)、義務を果たしていない医師にまで過失が免責されてはならない

精神病院においては、その業務の性質上、精神病患者が入院中に自殺等不慮の事故を起こさないように、危険を防止する義務がある。医師が患者の病状を注意深く観察し、自殺念慮が軽減し、開放的処遇によって改善を期待しうるものと判断して治療的方法を選択した場合、必要な要件に対応しており、この判断に医学上不合理な点が認められないときには、たとえ医師の見込みに反して不幸な結果を招いたとしても、そのことの故に医師の過失を問うことは難しいと考えられる。しかしながら、いわき病院では上述の医師の過失を免責する論理を自分に都合よく解釈して、精神科医師は医療過誤の責任を簡単に回避できると慢心して、無責任な精神科臨床医療を行った。

いわき病院には、入院患者野津純一氏の病状の把握と、適切な薬物療法の実施を前提に、患者の過去の暴行歴を調査分析して、第三者への加害行為の予見可能性を持つ必要があった。いわき病院は患者野津純一氏の病状の変化を適切に診察して誠実に把握することが求められた。いわき病院と渡邊朋之医師は法的に過失が免責されてはならない。


(4)、精神科開放医療と第三者加害行為

精神科開放医療を行えば、「拘禁している場合に比較して精神障害者が他害行為に及ぶ事故を増加させる一面がある」と、精神科開放医療は第三者加害行為を増加させることを容認する施策と認識することは間違いである。精神障害者は拘禁されて自由を失い、人生に可能性と明るい未来を期待できない状況を強制される場合には、自暴自棄の念を抱き他害行為を起こしやすい気持ちを抱く場合が多い。しかしながら、誠実に行われる開放医療で精神障害者の心を解きほぐし、社会復帰と社会参加の道が拡大する場合には、より良い未来に期待することが可能となる。

精神科開放医療は患者の病状や適性を配慮することなく行うものではない。患者の病状と行動歴を慎重に考慮して着実に実施される必要がある。精神科開放医療は医療の無策と放棄ではない。また患者に準備もなく、適切な受け入れ体制も確立せず、いきなり世間に放り出すものでもない。良質な精神科医療があってこそ、建設的な精神科開放医療は実現する。医師には精神科開放医療を行うに当たって、患者が自傷他害行為を行う可能性に十分な対応を行ったことを示す説明責任がある。また説明責任を果たすことで、万一の自傷他害事故の発生に際しても医師は法的責任から免責される。そのことで精神科開放医療が社会から支持される根拠ともなる。精神科開放医療を日本の国際公約として行っているのであるから、第三者加害行為が発生しても病院や医師に過失責任を問うことがあってはならないとする主張は間違いである。


(5)、いわき病院の法的責任

いわき病院の渡邊朋之医師が野津純一氏に対して行った精神科薬物療法は病状の安定化と改善に貢献せず、むしろ病状を悪化させた。その事実は野津純一氏を精神鑑定したSG医師が確認した。原因は渡邊朋之医師の統合失調症の治療に関する精神科専門医としては許されないレベルの知識不足、及び向精神薬の薬剤添付文書を読まずまた読んでも理解を間違えて行った薬剤の処方にある。更にその上で、渡邊朋之医師は処方変更後の経過観察を適切に行わず、病状の悪化に対応した治療的介入を行っていない。

いわき病院と渡邊朋之医師は当時でも現在でも精神科医療を行う医師としての最低限の医療水準を満たしておらず、主治医として責任ある医療を患者野津純一氏に対して行っていない。野津純一氏はいわき病院と渡邊朋之医師が行った医療の被害者である。そして矢野真木人はいわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に対して行った医療錯誤と怠慢により命を奪われた犠牲者である。渡邊朋之医師の野津純一氏に対する精神科医療には、不特定の人間に生命に危害を与える可能性を極度に亢進した高度の蓋然性があった。

渡邊朋之医師が事実に基づいて適切な治療行為を行っておれば、結果予見性と結果回避可能性は当然あった。しかし、患者の状態に関する事実を適切に評価しない医療行為では結果予見可能性はあり得ず、結果回避可能性も無い。この様な、ほったらかしの医療行為は法的責任を回避することができない。



   
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