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いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性


平成26年5月7日
矢野啓司・矢野千恵
inglecalder@gmail.com


9、いわき病院「精神科開放医療」の過失責任

(1)、精神科病院の過失免責論

(1)、精神科病院の免責は当然ではない

いわき病院の立場は「精神科開放医療が日本の国際公約に基づく基本的な政策であり、それに反対することは間違い」である。さらに、「精神科開放医療を行っている病院には過失責任を問えない」と主張した。これに対して、控訴人矢野は「精神科開放医療を促進するには、責任ある医療が行われることが条件であり、そのためには、錯誤や怠慢や不作為が事実として確認された場合には過失責任が問われることが、普遍的な原理である」との立場で控訴している。

精神科開放医療が導入されるまでの日本の精神科医療は、「危険な精神障害者を社会から隔離して収容する」ことが主目的で、社会防衛の役割と機能が重視された施設であった。このため、劣悪な精神科医療及び医師や看護師の医療水準のままで、精神障害者と診断できれば強制的に、またほぼ永久に収容する施設であることが一般的かつ普通であった。そのような日本の精神科医療機関は国際批判の的となり、反転して、開放医療を行うようになったが、一朝一夕に、人権を制限してきた医療が人権を尊重して、精神障害の治療効果を達成する良質な医療に転換することは困難であった。精神科臨床医療で不作為の過失を行ったいわき病院に責任を問わず、その状況が放置されることは、国際水準に遅れた日本の精神医療の発達を阻害し、荒廃を促進する結果になる。

いわき病院と渡邊朋之医師に過失責任を問わないならば、その判断は法的判断の論理と認定手続きに問題があり、通り魔殺人のような不特定個人の生命の安全を脅かす事件の背景に共通してある事象に責任を問わず、社会が対応しない不作為を許すことになる。市民社会の人命の安全に課題がある中で、これは法治社会の不作為となる。精神科開放医療では病院と主治医は客観的な事実に基づいて適切な医療を誠実に行うことが求められる。それが精神科医療と精神障害者に対する社会の信頼に繋がる。また、日本の精神科開放医療が人権の普遍性を尊重する実態を持つことになれば国際的信用も拡大する。外面だけの形式主義のいわき病院を擁護して、いわき病院が野津純一氏に行った無責任な精神医療を国内で持続することは、新たな国際批判を招く原因となる。


(2)、相当因果関係の認定は常識論に基づく

精神医療裁判における相当因果関係の法的認定論理を、必要以上に複雑化することは間違いである。基本は人道を尊重した論理の徹底である。精神科病院という機関の都合を優先することが人権の保全になるのではない。精神障害者及び事件の被害者という命ある人間の生命と生活を守り向上することが、人権の擁護という成果をもたらす。

放火暴行歴を持つ慢性統合失調症患者に、抗精神病薬定期処方を中止して治療を中断して同時にパキシル(抗うつ薬)を突然中断すれば、患者の自傷他害衝動は極めて亢進する。その予見可能な患者の病状の変化を経過観察せず、外出時の状況を確認せずに外出許可を出し続ければ、何れ、重大な人身事故が発生することを防止できず、結果回避可能性は無い。抗精神病薬は有効血中濃度維持により抗幻覚・抗妄想・異常行動抑制作用を発揮できる。「屯服を患者が欲しがる時だけ与える」のは、感染症に抗生物質を時々投与すると同じで効果がないばかりか有害でさえある。高松地裁判決(P.107)はこの状況を「当時における判断として不合理でない」としているが、当時でも不合理で、医学薬学的に誤りである。

野津純一氏はいわき病院の外出許可14分後に一直線に包丁を購入し殺人した。常識として、いわき病院が行った精神科医療と外出許可及び野津純一氏による矢野真木人殺人事件には、相当因果関係が成立する。相当因果関係の認定は常識論である。野津純一氏には放火暴力歴があり、攻撃性が表れる状況を本人は「25歳時の一大事」とか「再発時に一大事が起こった」(平成17年4月27日、退院に向けての教室参加記録)と認識し、いわき病院に伝えていた。この様な既往歴がある患者に、抗精神病薬を中止して統合失調症の治療を中断することは極めて危険である。その上で、攻撃性の亢進が指摘されていたパキシルを突然中止したことは極めて危険な精神科医療である。相当因果関係は普通に納得する常識論に基づいている。野津純一氏は普通の統合失調症患者ではなく暴行歴を有した患者であり、常識的に因果関係が成立する極めて危険な状況にあった。


(3)、高度の蓋然性の論理

高度の蓋然性に関して、いわき病院代理人は殊更に数値に置き換えて、科学的であるかの如く偽装したが、間違いで、殺人を許容する非人道的な論理である。外出許可者の80〜90%以上が殺人を行う高度の蓋然性の論理は前提として70%までの殺人率では法的責任は無いと容認しており、非常識でかつ反社会的である。野津純一氏が80〜90%の高度の確率で矢野真木人を殺人することは誰にも、おそらく神様にも、証明できない。また、外出許可者の内10人中7人までが殺人する水準では病院に過失責任を問えないとする「高度の蓋然性の主張」は間違いである。複数の向精神薬の同時突然中止で、野津純一氏が極めて危険な状態(病状)に至っていたことは、精神科医師であれば常識であり、それが「(精神科医療の)高度の蓋然性」である。渡邊朋之医師が精神科医療の常識を持たなかったことが、過失である。野津純一氏の殺人行動を誘発した事に関しては、高度の蓋然性があったと理解することが常識であり、それでこそ結果回避義務を全うできる責任ある精神科医療を期待できる。「いわき病院代理人の高度の蓋然性の論理」は、殺人事件の発生に無策であった病院と医師の責任をごまかす詭弁の論理である。

「高度の蓋然性」の「高度」とは、「難解」、「高級技術」または「巧みな論理」等を意味しない。いわき病院代理人は80〜90%以上の確率を持ち出したが、本来「高度の蓋然性」に数値概念を持ち込むことは間違いであり、70%までの殺人確率を容認する非常識きわまりない論理となった。現実にいわき病院は矢野真木人殺人事件を発生させたことに反省がない。「高度の蓋然性」とは数値では表現できない「常識があれば誰でも容易に納得できること」で「蓋然性が高い」という意味である。



   
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