いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性
【参考1】北陽病院といわき病院の主張
北陽病院事件上告理由書といわき病院第1準備書面を並列して、以下の別途PDFに記載する。文中の黄色マスキング部分が、双方の主張の相異カ所である。双方の主張の本質の部分は最高裁が棄却した論理であることが確認できる。なお、いわき病院代理人は第1準備書面が北陽病院事件上告理由書の写しである事実に言及したことはないが、北陽病院事件判決は参考にならないと否定し続けた事がある。
■【参考1】北陽病院といわき病院の主張(対照表/PDF)
【参考2】いわき病院の主張(第1準備書面)の論点
いわき病院第1準備書面の主張を逐次引用して、控訴人矢野の反論を記載する。いわき病院の主張は「善良な医療を行っていたにもかかわらず、理不尽な難癖を付けられて、迷惑をしている」との姿勢であるが、事実が伴っていないことが審議で明らかになった。
* * * * *
(二)(注:以下、いわき病院第1準備書面の項目番号に合わせてある)
(1)、治療を担当していた医師が、本件結果を予見することが可能であったか否か、本件結果を回避することが可能であったか否か
【反論】
渡邊朋之医師が、本件結果を予見する医療を行い、結果回避の努力を行った事実は無い。事実と反するいわき病院側の主張である。医師としての基本的な義務を行った事実が無い医療行為には過失責任を問うことがなければ、医療は腐敗する。
(2)、医師の治療行為及び看護師の看護行為と本件結果との間に相当因果関係が存在したか否か
【反論】
平成17年11月23日以降、渡邊朋之医師は経過観察と治療的介入を行わず、看護師は顔面の根性焼きを発見しておらず、そもそも、医療と看護が不適切であった。医師と看護師が経過観察を行い、状況に応じた治療的介入をしていれば、本件結果(殺人事件)は生じなかったのであり、相当因果関係が存在する。
(3)、今後の統合失調症をはじめとする精神障害者に対する精神医療の方向性に一定の基準を与えることになる事例
【反論】
いわき病院が適切な統合失調症治療を行って始めて可能な主張である。いわき病院の不適切で不誠実な医療行為を日本の標準的な医療とすることは間違いである。不誠実な医療行為を隠蔽することでは、日本の精神障害者に対する精神医療の方向性が停滞し、開放医療は促進されない。
(三)
(1)、発生した重大な結果からレトロスペクティブに条件関係を遡っていけば、そもそも入院中の精神障害者に対して外出許可を与えず、閉鎖処遇を続けていれば結果は発生しなかったという単純な思考が可能
【反論】
控訴人は閉鎖処遇の主張をしていない。いわき病院の治療的不作為を覆い隠す為にいわき病院代理人が持ち出した論理の偽装的転換である。
(2)、第三者の死という重大な結果による多額の損害賠償責任を、病院側が未然に回避しようとするならば、治療目的上院外散歩等の精神療法が必要あるいは有用であるとの医学的判断が導かれる場合と言えども、そのような患者を院外に出すことを一切断念あるいは躊躇せざるを得ないという状況が生まれやすい
【反論】
いわき病院は適切な精神科医療を行っておらす、主張の前提が成立しない。適切に精神科治療を行えば、また、誰かを付き添わせたならば、患者の院外外出は安全に行うことが可能である。「一切断念」や「躊躇」の言葉は暴論である。
(3)、院外における単独外出を許可しない場合であっても、医師の判断からして、幻覚・妄想等の症状が強く、医学的にもそのような単独外出が、症状を増悪させる具体的可能性を有していると判断される場合であれば、外出させないことは患者の保護になり精神医療の目的と合致することになるので格別問題はない
【反論】
渡邊朋之医師は、平成17年12月6日の事件前の2週間に、野津純一氏の外出許可に関する判断を行った事実が無い。外出許可は入院時から出しっぱなしで、毎日の運営に当たって患者の状況を確認して行う「医師の判断」をそもそも行っていない。
(4)、高額の損害賠償を請求されるかもしれないとの一種の危惧感から医学上必要かつ有用な院外への単独外出が事実上抑制される
【反論】
北陽病院事件でも同じ主張が行われた。賠償請求を禁じることは民事法治社会制度の基本を否定する。重要なことは、事故の原因者には過失責任を課すことである。そして、医師は医学上必要な医療を全うする義務がある。
(三−1)、院外への単独外出(外泊を含む)は統合失調症患者等の精神障害者の社会復帰を果たすために必要不可欠な処遇であるところ、この処遇になかなか踏み切れないがために、患者の寛解を遅延させ、あるいは逆に症状を増悪させ、治療という医療の目的が頓挫してしまう
【反論】
患者の症状を観察し、それに応じた適切な開放医療を行えば、この様な主張は不要である。この主張は、日本の精神医療界に特有の怠慢の主張で、開放医療を行うことで殺人が発生することを容認した姿勢で、腐敗して怠慢がある主張である。本項はいわき病院が患者の病状を増悪させてきたにもかかわらず、患者の診察要望さえも拒否して、何の対策も取らずに単独外出させた野津純一氏に対する精神医療の実態を病院代理人が認めていることを証言したものである。
(三−2)、患者を必要以上に長期に精神病院内に収容する結果となり、患者の自由を不当に拘束し基本的人権の侵害を生む
【反論】
日本の精神医療界の自らの怠慢と人権侵害が多発している事実の原因を他に転換した責任逃れで、事態の改善に背を向けた主張である。いわき病院の長期に患者を収容する安易な精神医療の実態を病院代理人が認めていることを証言したものである。
(三−3)、患者に対する過度の管理が強化され、不当に長期の施設内治療が実施される上に、病院内での患者の自主性も不当に軽視され、患者が完全に医療に隷属する関係となってしまう
【反論】
日本の精神医療が国際水準から遅れたままの状況から発した、人権侵害を容認する主張である。この様な弁明をして、精神障害者の抑圧を継続することは許されない。本項はいわき病院の患者の自主性を軽視した精神医療の実態を病院代理人が認めていることを証言したものである。すなわち、いわき病院と渡邊朋之医師は、間違った薬剤の処方をした後で経過観察を行わず、患者の自主的な診察請求を拒否し、渡邊朋之医師のやり方に隷属させていた事実があるが、それを覆い隠すために、控訴人が過度の管理を要求しているかのように言い立ている。控訴人は過度の管理強化を求めているのではなく、間違った医療とほったらかしの医療の改善を求めている。そのため責任ある精神科医療を求めて、いわき病院に対する過失責任の追及を行っている。
(四)
(1)、精神医療という分野は、医学の中でも比較的新しく、特に統合失調症については、その病名自体、1911年に初めてブロイラーによって命名された新しい疾病であり(当初は精神分裂病と呼ばれた)、その診断基準、病理、治療法等については未だ90年余りの歴史しか有していない。当初は精神分裂病の病理の解明が必ずしも十分ではなく、患者に対する過酷な治療法の試行錯誤の連続であり、患者がいわば人体実験の道具と化していたという歴史が存在し、また、統合失調症の治療目的および統合失調症患者を社会的にどのように据えるかによって、閉鎖療法と開放療法の選択等、治療内容が大きく異なるため、統合失調症患者が社会的に危険な存在であり、この危険な患者から社会を防衛しなければならないというような思想によって、精神医療が患者に対する社会的抑圧の目的に利用されたという不幸な時期も経験した。
【反論】
問題の本質は日本の精神医療の水準が現在の国際水準に到達しているか否かである。精神医学界の過去の不祥事を現在の不祥事の弁明理由に使う事はできない。「統合失調症患者が社会的に危険な存在であり、この危険な患者から社会を防衛しなければならないというような思想によって、精神医療が患者に対する社会的抑圧の目的に利用されたという不幸な時期も経験した」は、いわき病院の人権侵害に安易な精神医療の実態を病院代理人が認めていることを証言したものである。
なお、いわき病院代理人の「未だ90年余りの歴史しか有していない」という弁明には重大な疑問がある。現在は2014年であるが、弁護士として担当する最近の事件があれば「未だ100年余りの歴史しか有していない」と弁明するのであろうか。はたまた、北陽病院事件では最高裁で棄却された「上告理由」を、それとは明記しないで、あちらこちらの裁判で使用しているのであろうか?事実の裏付けがない主張を行い、精神医療が経験した非人道的な歴史を逆手に取った、過失免責論は詭弁である。
(2)、「その精神病のために、自己または他人への即時のまたは差し迫った危害の大きな可能性のある」場合に限って許容されるとしており、強制入院治療の要件を厳格に解し、安易な精神病院への強制入院を許さないとの姿勢を鮮明に打ち出している
【反論】
本項はいわき病院の安易な精神医療の実態を病院代理人が認めていることを証言したものである。控訴人は、安易な強制入院を行わない精神医療改革をいわき病院と渡邊朋之医師の実例を示して、精神医療側が律すべき問題を指摘している。いわき病院代理人は、あたかも控訴人矢野が安易な強制入院を主張したかの如く論理を転換し、論点をすり替えて責任逃れをしてはならないのである。
いわき病院は、暴力履歴のある患者に対して、間違った薬剤の処方をした後で経過観察を行わず、患者からの度重なる診察要請を拒否し、根性焼きの自傷行為にも気が付かず、ほったらかしの状態で外出させた。まともな精神科医であれば、抗精神病薬(プロピタン)の中止を含む複数の向精神薬の処方変更後には必ず経過観察を行い、野津純一氏の診察要求にも応じたに違いなく、主治医として治療責任を持つ患者の自己又は他人への差し迫った危害の可能性が亢進していることを判別できた。
(3)、わが国の精神医療については、昭和40年代以降、その悲惨な状態を告発する報告が登場するようになり、強制入院の手続きの安易な発動、精神障害者でない者や自傷他害の危険のない者に対する強制入院の発動、強制入院下の患者に対する治療がないままでの拘禁の継続、入院患者に対する暴行強迫等の人権侵害、作業療法という名の強制労働の実施、患者を被験者とする人体実験の実施等の、ショッキングな実情が公にされ、ようやく昭和44年12月に日本精神神経学会が「精神病院に多発する不祥事に関連し全会員に訴える」と題する声明を出し、精神科医師の姿勢を正し、明治・大正に遡る汚辱の歴史に終止符を打つことが表明された。そしてその後、精神医療の現場では患者に対する十分かつ適切な医療を与える努力が積み重ねられてきているのである。
しかしながら、わが国の精神病院における人権侵害の現状は一朝一夕のうちに完全には解消されず、このことが国際的関心事となり、昭和59年8月に国際人権連盟は日本の精神医療を公に批判し、昭和60年には国際保健専門職委員会(ICHP)及び国際法律家委員会(ICJ)が日本に調査団を派遣したうえ、日本の精神医療の時代遅れを指摘するとともに、精神障害者の人権が保障されていないと批判し、精神保健サービスの改善等の勧告を日本に出している。すなわち、わが国の精神医療は世界的に見て、患者の自由、保護を守る側面において遅れているとの認識で一致している
【反論】
いわき病院の渡邊朋之医師が野津純一氏に対して行った精神科臨床医療は「患者の自由、保護を守る側面において遅れているとの認識で一致している」を追認する不適切で、日本の精神医療の時代遅れを象徴する実態があった。この様な事実と異なる弁明を、いわき病院と渡邊朋之医師の過失責任を免除する理由としてはならない。
(五)、本件のように精神医療の途上で発生した事故に対する医療側の責任をどのように判断するかという問題は、国際社会におけるわが国の精神医療をどのような位置に置くことになるかという問題と極めて強く結び付いている
【反論】
控訴人矢野は「国際社会におけるわが国の精神医療」という認識を有しているからこそ、英国側から3人の鑑定人を招聘した。いわき病院側は、代理人が建前では国際社会と言い、鑑定人が英国の事例を引用したが、控訴人側から「国際社会や英国の実情に関する認識の間違い」を指定されると「ここは、日本である」と強弁してきた。控訴人矢野は、いわき病院、いわき病院代理人及びいわき病院が推薦した鑑定人に一貫性を求めるものである。
(五−1)、具体的に治療を担当していた医師が、当該患者を院外散歩に参加させたことの判断において、単独外出中に患者が包丁という非常に危険な本来的凶器を購入し、さらに通行人を待ち伏せして突然刺殺するであろうとの、具体的予見可能性および回避可能性が存在し、医師としての注意を払ったならば殺人を具体的に予見し、殺人を具体的に回避することができたと法的に判断できなければ、当該患者に外出許可を与えた医師の判断において、本件殺人事件発生に対する注意義務違反は認められない
【反論】
北陽病院最高裁判決ではここまでの具体性を予見可能性及び回避可能性の要件としていない。包丁の購入や待ち伏せなどして突然刺殺するなどの具体性を要求することは間違いである。また、そもそもいわき病院と渡邊朋之医師は「医師としての注意」を払った事実が無いので、弁明として成立していない。
いわき病院の事実は、放火暴力歴のある患者に対して、間違った薬剤の処方をした後で経過観察を行わず、患者からの診察請求を拒否し、根性焼きの自傷行為にも気が付かず、ほったらかしの状態で外出させたことである。普通の資質の医師が、常識ある一般の医師としての注意を払い観察と診断を行っていたならば、患者の状態が自傷他害の恐れがあると判断できたが、渡邊朋之医師はそれを怠った。
(五−2)、本件患者である被告野津に対する1年以上に亘る入院加療中、担当医師が患者に対する診断、治療方針の決定、投薬等の具体的治療行為の過程において、他の治療方法等を選択しなければ、当該患者が外出中に他人を刺殺するとの具体的危険性が存在し、そのような具体的結果を予見することが可能であり、かつ結果を回避することが可能であると法的に判断できなければ、担当医師の当該患者に対する本件医療行為には、本件殺人事件発生についての注意義務違反の存在は認められない
【反論】
過失の対象期間は平成17年11月23日以降で、渡邊朋之医師が実行した複数の向精神薬の同時突然中断は、医師の裁量権を逸脱した不適切な医療である。また、渡邊朋之医師は患者に関して放火暴行履歴の調査解析をしておらず、本件殺人事件発生についての注意義務違反が存在する。自らの業務不履行を覆い隠す詭弁の論理である。
いわき病院の主張は「あたかも重大な人身事故を引き起こした運転手が、「自分は10年以上無事故無違反だったから、今回の事故には責任が無い」と主張しているようなものである。責任は個別の事故に関して、厳密に原因究明が行われるべきである。なお、渡邊朋之医師は複数の向精神薬の同時突然中止に関して具体的な危険性を考えもせず、結果を予見していない。
(五−3)
(1)、本件は精神障害者という歴史的にその人権保障が図られるべき人間の処遇を考えなければならない場面に直面しており、結果回避方法として当該患者を隔離拘束して社会から遮断することをもって法的因果関係を安易に肯定するという手法は、無意味かつ危険であるという点に注目する必要がある
【反論】
控訴人は野津純一氏を隔離拘束すべきであったという主張をしていない。いわき病院が結果回避方法として患者を隔離して社会から遮断する対応しかないと認識しているのであれば、いわき病院の安易な対応は、無意味かつ危険である。自らの責任を回避する事を狙った悪質な論理転換である。
(2)、当該精神障害者を絶対に病院の外に出さなければ確かに本件殺人事件が発生することはなかったのであるから、自然的因果関係において単純に考えれば外出許可と本件殺人との間に「AなければBなし」という条件関係が存在することとなる
【反論】
これは、いわき病院代理人が持ちだした論理であり、控訴人矢野の主張ではない。いわき病院は、開放医療という錦の御旗があれば患者が外出先で事件を起こしても病院には何ら責任がないという認識でいるからこそ、自傷他害の恐れがある場合にも看護師の付き添いを条件にするなどの対応を考えない、無責任な開放医療を行った。
「AなければBなし」という単純な考え方を持ち出しているのは、いわき病院代理人のレトリックである。また、論理を必要以上に単純化して相手を攻撃するアジテータの戦術で、法廷に適した論法ではない。外出許可と本件殺人の関係では、いわき病院と渡邊朋之医師の間違った医療と患者を経過観察しない不作為があったことが事件を誘発した。いわき病院代理人は必要な条件を考慮せず、図式を必要以上に単純化して判断の間違いを誘導している。本件では、外出許可と殺人を直結する「AなければBなし」という論理は存在しない。殺人事件を発生させた問題の本質は、いわき病院と渡邊朋之医師の治療義務違反である。
(3)、精神科病院は犯罪者(未決・既決)を社会から隔離収容する拘置所・刑務所等の施設とは異なり、精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである
【反論】
本項は控訴人矢野が主張したことではない。なお、いわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に行った入院治療の実態は「精神病を有する精神障害者に対する治療を行い患者の社会復帰を図る医療施設なのである」という主張を否定する現実があった。
(4)、池田小学校児童殺傷事件を始めとする精神科受診歴を有する犯罪者による悲惨な事件により、理由もなく命を落とす被害者が存在する一方で、不当な差別・偏見に悩む多くの精神障害者が存在するという現実
【反論】
不当な差別や偏見があることを理由にして殺人を合理化することはできない。この論理は、いわき病院代理人の加筆であるが、法曹資格所持者にあるまじき、殺人の論理を容認した主張である。渡邊朋之医師と同じく、職責の本分を逸脱している。
(5)、平成17年から施行されるに至っている心神喪失者医療観察法の適用範囲・具体的運用等の中で、精神障害者に対する処遇の程度が法的に検討されることが重要であり、そのような法的評価を通じて導かれた相当な処遇を出発点として、法的因果関係の有無が判断されるべきなのである
【反論】
心神喪失者等医療観察法の施行は民事訴訟を行うことを制限するものではなく、失当の主張である。また、野津純一氏に対する刑事裁判判決は本件裁判の争点ではない。裁判の争点は、北陽病院事件の最高裁判決を出発点として、いわき病院でなされた事実(暴力履歴のある患者に対して、間違った薬剤の処方をした後で経過観察を行わず、患者の自主的な診察請求を拒否し、根性焼きの自傷にも気が付かず、ほったらかしの状態で外出させたこと)が、事件と相当因果関係があるか否かである。
刑事裁判で、野津純一氏は慢性統合失調症患者であることが確認された上で、限定責任能力と判断されて、刑罰が求刑時と判決時の2回の軽減が行われ懲役25年が確定した。判決の論理からも、完全責任能力と完全な自由意思は否定されていた。野津純一氏が心神喪失者等医療観察法の手続きに乗せられていないのは、有期刑が確定して医療刑務所で医療及び観察等を受けるので、あえて医療観察法の手続きによる必要がないからである。
(6)、本件の入院形態が「自傷他害のおそれのある精神障害者」に対する社会防衛的要素の含まれる「措置入院」ではなく、自傷他害のおそれなど認められない患者本人の意思による「任意入院」である点は重要な判断要素とされるべきである
【反論】
任意入院であれば自傷他害のおそれなど認められないとした主張は何らの根拠もなく、間違いである。任意入院患者であっても、放火暴行履歴を調査解析して、病状の変化に対応して自傷他害行為が発言する可能性を予見して回避する義務が精神医療提供者に存在する。精神保健福祉法(第37条第2項及び第37条の2)では、任意入院患者に自傷他害行為があることを想定しており、精神科病院の管理者及び指定医に厚生労働大臣による基準(任意入院患者の開放処遇の制限)に従うよう求めている。
(7)、被告野津が起こした本件殺人事件は、被告野津に責任能力が存在することを前提として刑事事件として正式起訴され、限定責任能力との認定のもと殺人罪と銃刀法違反の併合罪の罪責を問われ、宣告刑としては極めて重い懲役20年(控訴人注:判決は懲役25年である)という判決言渡しによって確定し、現在被告野津は刑務所に服役しているという事実は軽視されてはならない
【反論】
北陽病院事件でも犯人に懲役13年が確定したが、最高裁は懲役刑が確定したことを理由にして病院の過失責任を減免していない。
(8)、心神喪失者医療観察法施行下にあって、患者の精神障害から重大犯罪を起こす懸念のある触法精神障害者は、通常人と同様に単純に有罪判決を受けて刑務所に服役という流れに乗るのではなく、鑑定入院を経て治療反応性が認められれば指定医療機関に審判入院して精神科医療を受けることになる。つまり、被告野津が医療観察法の手続に一切乗せられなかったということは、すなわち、被告野津の本件重大犯罪は自らの自由意思により惹き起こされたものであって、被告野津の精神疾患罹患とは直接の関連性はないと法的に判断されたということになるのである。この点は、本件における因果関係のみならず注意義務違反を論ずる場合に極めて重要な要素となるところである
【反論】
刑事裁判で、野津純一氏は慢性統合失調症患者であることが確認された上で、限定責任能力で刑罰が求刑時と判決時の2回の軽減が行われた上で、懲役25年が確定した。完全責任能力と完全な自由意志が認められたのではない。
(六)
(1)、上記法的判断はあくまで事実関係を分析して、事実に則って行わなければならないが、もし、裁判所が事実の認定及び事実に対する法的評価を誤り、精神科医が具体的に予見できないことについてまで、予見が可能であったと公権的に判断してしまうような事態に至れば
【反論】
本件の事実関係は、いわき病院と渡邊朋之医師の、医療知識の錯誤と入院医療契約の債務不履行である。また、予見可能性と結果回避可能性があったにもかかわらず、経過観察の不履行と診断拒否という渡邊朋之医師の怠慢により予見できず、その結果の回避もできないほったらかしの状況で開放医療を行った過失である。いわき病院代理人は、裁判所の判断の方向性を誤らせることを意図している。
(2)、精神科医が具体的に予見できないことについてまで、予見が可能であったと公権的に判断してしまうような事態に至れば、精神科医は、具体的治療行為の過程において、自らの医学的判断に疑心暗鬼となり、精神科医としては仮に重大な結果を全く予見できない場合や、また予見できても具体的にではなく危惧感の程度であるに過ぎない場合であっても、結果に対する責任追及を回避するために、いかに国際的批判の対象となろうとも、また、患者の社会復帰にいかにマイナスであろうとも、患者に対する管理を強化し、閉鎖的な病棟内治療を中心とし、開放療法を控え、精神科病院に患者を拘束することが適当であるとの判断に傾かざるを得ないことを銘記されるべきである
【反論】
この論理は北陽病院事件でも上告理由で病院代理人によって主張されたが、最高裁は棄却した。北陽病院代理人といわき病院代理人は同一人であるが、「具体的な予見」と殊更に拘った主張をして、「具体性=微に入り細に入った事実の予見可能性」が無いと主張して、精神医学的な妥当性を殊更に問題視しないことで、精神医学的に可能な危険性の予見及び結果回避を行い、建設的に精神医学的な対応を行う可能性を否定した。その上で、「精神科開放医療を行えない」と裁判官を恫喝して、適切な判断を行えないように誘導している。日本の精神科医療は、国際的水準に適合する精神科開放医療を行えば、患者管理強化の方向ではなく、患者の人権を束縛して拘束などの手段を取らず、精神科開放医療を実現することが可能である。「開放療法を控え、精神科病院に患者を拘束することが適当であるとの判断に傾かざるを得ないことを銘記されるべきである」との主張は、国際的批判を招く精神医療を自ら行いなから、責任を裁判官の判決が悪いと押しつける、極めて無責任な行為である。
(3)、このような状況に精神科医療の現場が置かれることになれば、わが国の精神科医療は、患者の社会復帰という目的を大きく損ない、昭和40年代に既に解消されるべきことが宣言された、明治・大正の汚辱の時代に逆戻りし、さらに厳しい国際的批判に晒されることは必至である
【反論】
これは、恫喝である。精神医療界が自らの責任を放棄した宣言を行うに等しい。また、いわき病院代理人がこの主張を繰り返しているとしたら、法曹資格者としては不適切な行為である可能性が指摘できる。
(4)、本件において裁判所は、医師の結果に対する具体的予見可能性、回避可能性の有無、医療行為と結果との間の因果関係の有無等の判断について、充分に審議を尽くし、当該患者(被告野津)の入院期間中の具体的経過を中心に証拠を慎重に検討し、さらに経験則に照らして、適切妥当な結論を導かなければならない重大な責務を負っているのである
【反論】
本件裁判は平成17年11月23日以降に、いわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に対して行った精神科医療の事実関係を確認することが求められる。渡邊朋之医師には統合失調症の治療に関する知識の錯誤、使用した向精神薬の添付文書を読まず、または注意事項を誤読した医師としての資質不足があった。複数の向精神薬を同時に突然中断した無謀な処方変更を行い、その後の患者の病状変化が確実に予想される時期に患者の病状を確認する経過観察を行わず、発生した病状悪化に対して適切な治療的介入を行わず、結果回避の義務を尽くしていない。このような、破天荒で呆れた医療には、過失責任を課すことが、社会運営の基本である。
いわき病院と渡邊朋之医師が精神科専門医として常識的な精神医療の基本を行っておれば、結果予見可能性と結果回避可能性は自ずとあった。精神科医師は不確実な未来予想を期待されているのではない。精神科医師として当然の基本を忠実かつ誠実に行えば、予想可能な患者の行動の危険性に予め気付く。問われているのは、精神医療専門家として、専門家の常識と義務に基づいて、結果予見性と結果回避可能性と持ち、未然の対処を行う誠実な医療と看護を実行したか否かである。
(七)
(1)、精神科医療は患者に対する治療、患者の社会復帰が第一義的目標なのであり、常に医療者に対しては、患者に対する治療の義務が課せられていることを忘れてはならない。医療の具体的現場においては、精神科医が日々、担当する患者の自殺のおそれ、または他害のおそれについて悩みながらも、漠然とした不安だけで治療を拒否し患者を社会復帰から遠避けてはならないという使命を背負い、日々治療に当たっているのである。仮に医師が患者の精神症状が万全でなく単独外出中に何らかのトラブルが発生する抽象的な可能性を意識したとしても、一方で患者に対する治療義務も医師に課せられた重大な義務なのであり、このような二律背反的な判断の中で患者と対峙する医師は、非常に悩み苦しみながら専門的知見と臨床経験を駆使して、一つの結論を下さなければならないのである。
【反論】
いわき病院と渡邊朋之医師は、野津純一氏に対して治療義務を果たさなかったことが過失であり、殺人事件の発生を予見しようとすれば可能であったにもかかわらず、予見しようともせず、結果の回避をしなかった。
いわき病院代理人の弁論は、一般的にまじめな精神科医が治療に苦労している話と、いわき病院で起きたことをすり替えた詭弁であり、事実の裏付けがない。まじめな精神科医ならば、仮に患者の精神状態が万全でないと判断し、外出中のトラブルの不安を感じたとすれば、診察を行い、必要な場合は、付き添いを付けるなどの方策をとる。
渡邊朋之医師の場合は、誤った薬剤処方をした後で経過観察をせず、患者の診察要求も拒否し、自傷の根性焼きにも気がつかず、ほったらかしにして外出させた。錯誤と怠慢の行為をあたかも誠実な医療であるかの如く事実を改変した。
(2)、本件原告の請求原因事実の主張は、このような医療現場における苦悩に対する考慮が全く欠落し、精神障害者は完治しない限り、精神科病院の壁の内に取り逃がさないように隔絶しておくべきであるとの法的根拠のない社会防衛義務を精神科病院に負担させようとするものに等しい。精神障害者に対する不当な予断と偏見を助長し、わが国の精神科医療を破壊しようとするものに他ならないと言って過言ではない。
【反論】
いわき病院と渡邊朋之医師は、精神科医療機関及び精神科医師として自らの治療義務違反をさておいて、問題の関心と焦点を「社会防衛義務を精神科病院に負担させようとする」とか「精神障害者に対する不当な予断と偏見を助長し、わが国の精神科医療を破壊しようとする」と主張して控訴人を根拠なく非難してきた。自らの不正を指摘する者に対して言論を抑圧する姿勢がある。
この様な事実を歪曲する姿勢で、精神科医療を行えば、精神科医師に対して極めて弱い立場にある精神障害者の人権を尊重せず抑圧する結果になることは容易に予見可能である。また、野津純一氏が経験した不幸や悲劇が繰り返される、という悲惨な状況に関する結果予見可能性もある。
(3)、原告が、インターネットあるいはマスコミ等を利用して本件に関する偏向的かつ虚構に基づく悪意に満ちた情報を一方的かつ大量に垂れ流している行動には応分の非難がなされるべきものと思科する
【反論】
控訴人矢野はインターネット及びマスコミに意見を述べてきたことは事実である。しかしながら、証拠と事実の裏付けがない発言を行った事実は無い。全て、客観的な事実に基づいており、基本的に、法廷で主張した意見を述べてきた。
マスコミの場合は、報道機関が取材と報道の権利を有しており、控訴人矢野が報道内容を左右することはできない。また、インターネット情報は、すべて出版社ロゼッタストーンのホームページ上の公表であり、全ての意見はロゼッタストーンの審査を通過した文章である。いわき病院代理人は弁護士であるが、マスコミの報道や出版社の記事掲載を非難して制限しようとする試みは、言論の自由及び報道の自由という、日本国憲法の根幹に拘わる制限であり、弁護士の行為として、不適切であることを認識すべきである。
(4)、今日、精神科医療は、過去の患者に対する人権侵害行為を克服して、精神病に対するケア—を中心に治療を実施し、国民衛生の実現のためにあるべき、まさに医療なのであって、社会防衛の手段ではないという国際的コンセンサスが形成されていることは疑いがない。
【反論】
これは控訴人矢野の主張である。いわき病院と渡邊朋之医師は「まさに医療を行っていない」のであり、不誠実ないわき病院を防衛する手段として、精神障害者を人質にして、国際的コンセンサスという虚像を主張して、責任逃れを画策してきた。
(5)、精神病患者に対する強制医療の根拠が「ポリスパワー」から「パレンスパトリエ」に求められているのである。また、本件は、医師の裁量とこれに対する法的評価の判断の問題であり、「メディカルモデル」と「リーガルモデル」との対立、調整の事例なのであるが、国際的には、メディカルモデルを中心としつつ、適正手続きの保障という視点からリーガルモデルの導入という調整が図られつつあるというのが特にアメリカ合衆国をはじめとする先進諸国における趨勢である。
【反論】
精神医療として治療の具体的かつ実質的な内容がなく、措置入院であれ、任意入院であれ、患者をむやみに入院させ続けるいわき病院は、精神科医療の根拠が無い強制を行っているに等しい行為である。野津純一氏に対する医療的事実から判明したことは、患者に対する「ポリスパワー(病院の権威に基づく錯誤・怠慢・無責任の押しつけ)」の強制であり、「パレンスパトリエ(誠実で適切な医療と看護の提供)」に基づいた博愛の精神による庇護と精神障害者の病状の改善ではない。
更に、いわき病院と渡邊朋之医師は、今日の日本の精神医療の標準の精神科医療の水準すら達成できない、極めて錯誤と間違いが多くかつ患者を顧みず無視した、「医療とは言えない医療」である。いわき病院と渡邊朋之医師は「メディカルモデル」を主張することができない。「アメリカ合衆国をはじめとする先進諸国における趨勢である」と主張しても、いわき病院と渡邊朋之医師を擁護することにはならない。
(結論部分)
(1)、本件におけるわが国の司法判断は、患者の保護という側面から特にその遅れを国際的に指摘されているわが国の精神医療の前進度がどの程度であるかを、国際社会から注目される重大な事案となり得るものである。従って、より慎重に、事実関係及び証拠を検討し、わが国の精神科医療者ならびに精神病患者、さらには、国連人権連盟、国際保健専門職委員会、国際法律家委員会等の国際機関に対しても、十分な説得力を持つ判断を示さなければならないのである。
【反論】
この結論部分の主張に基づくならば、いわき病院に過失責任を確定して、日本の精神医療は国際的に信頼できるものに改革を行わなければならない。精神科医療の責任を回避する判決を繰りかえすことでは法的責任意識が育たない。そのような条件では、日本で精神科開放医療が国際的な信頼を獲得することは極めて困難であろう。
(2)、安易に事実認定及び法律評価は絶対に回避されなければならない。
【反論】
いわき病院代理人の本音である。いわき病院と渡邊朋之医師の医療としての実質が無い精神科医療を行っている事実を覆い隠す事が目的である。
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