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いわき病院代理人は「1.ないし9.として原告が主張する過失は、仮にそれらの点において落ち度があるとしても(これは全くあり得ないので、あくまでも議論のための過程である。)、それによって本件犯罪行為(殺人行為)という因果関係は認められない。1.ないし9.の過失がなければそれによって亡矢野真木人の死亡を回避できたとの法的因果関係は否定される。」(第11準備書面、P.2)と述べていた。この、いわき病院代理人の主張の内で、「1.ないし9.の過失がない」は否定された。また、3.、5.、7.、8.、9.の過失と矢野真木人殺人の間には因果関係が存在する。 (2)、野津の外出といういわき病院代理人の主張 いわき病院代理人は「野津が病院外に出ていなければ、野津が本件犯行時刻に犯行現場に所在することもなかったであろうから、レトロスペクティブに見て本件事件が発生しなかった」(第11準備書面、P.2)と述べたが、この主張は正しくない。 控訴人矢野は「野津を本件犯行時刻に犯行現場に所在させたことが間違い」と主張していない。いわき病院は外出許可を出して外出させるのであれば、病状が安定していることを確認すべきだったが、当日の野津純一氏は病状が悪化していた。それでも、いわき病院が外出許可を出すのであれば、看護師か親の付き添い付きで外出させることは可能であったと指摘している。その場合、野津純一氏は、凶器の包丁を買うことはあり得ず、誰かを殺傷することもなかったことは容易に想像できるし、矢野真木人は現在でも100%生存していると断言できる。従って、いわき病院代理人の主張は間違いである。 精神科開放医療では可能な限り多数の患者の社会参加の達成が目標であり、控訴人矢野はその課題の達成を願っている。しかしそのことは、患者の治療を誠実に行わず、患者の病状の変化を観察せず、治療中の患者を無制限に市中に出すことを意味しない。精神科病院が患者の病状を改善し安定化する、現実の医療が伴わなければならないのである。いわき病院と渡邊朋之医師の間違いと無責任な、医療とは言えない医療行為には過失責任が課されなければならない。 (3)、「高度の蓋然性」といういわき病院代理人の主張 いわき病院代理人は「単独でなければ「高度の蓋然性」をもって本件犯行を回避できたかは議論の余地があり、少なくともこの点については原告からは具体的立証はなされていない」(第11準備書面、P.2)と主張した。この、「高度の蓋然性」をいわき病院代理人が主張する根拠は以下の通りである。 いわき病院代理人は「「因果関係」とは、事実としてのレベルにおいて「あれなけばこれなし」の関係が存在する事が必要である」((第11準備書面、P.3))と主張したが、他の局面では「AなければBなし」とも論じており、同じことである。また、この表現は上述の「野津が病院外に出ていなければ、野津が本件犯行時刻に犯行現場に所在することもなかったであろうから、レトロスペクティブに見て本件事件が発生しなかった」と述べたが、いわき病院代理人の意識において同一の主張を言い換えただけである。しかし、それは全ての場合を言い当てておらず、正しくない主張である。いわき病院代理人の場合、「AなければBなし」の基本原理とする主張を言い換える時に、「大いなる作為(誤謬)を持ち込む手段を用いた」のである。 いわき病院代理人が用いる「高度の蓋然性」とは(第11準備書面、P.6)に記述した最高裁判例の「「経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明する事であり、その判定は、通常人が疑いを差し挟はさまない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とする。」というものである(最判昭和50年10月24日民集29巻1417頁)」。これに基づけば、「高度の蓋然性」を証明する手続きは一見難しいことのように見えるが、読み砕けば「通常人が疑いを差し挟はさまない程度に真実性の確信を持ち得るものであること」が基本的な要件であり、要するに「一般人が納得する常識が判断基準」と言う意味である。 いわき病院代理人は、続いて「「医師が注意義務に従って行うべき診療行為を行わなかった不作為と患者の死亡との間の因果関係が肯定されるためには、経験則に照らして統計資料その他の医学的知見に関するものを含む全証拠を総合的に検討し、医師が診療行為を行っていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性が証明される必要があるものというべきである。」と近時の最高裁判決で判示されたところである。(最判平成11年2月25日民集53巻235頁)」(第11準備書面、P.6)と述べた。ところで、矢野真木人はいわき病院の患者ではないため、本件判例をそのままでは適用できない。また本件で渡邊朋之医師は「医師が診療行為を行っていたならば」の条件には当てはまらない。渡邊朋之医師は野津純一氏に対して「必要とされる診療行為を行った事実が無い」。しかしながら、「渡邊朋之医師が野津純一氏に対して必要な診療行為を行っていたならば、矢野真木人は今日100%生存していることは明白」である。 いわき病院代理人は「高度の蓋然性」という言葉を弄ぶが、北陽病院事件(最判平成8年9月3日)でも病院の過失責任と通り魔殺人事件の相当因果関係の認定では「普通人の常識の範囲内の合理性」があれば、「高度の蓋然性」は証明された。「高度の蓋然性」という言葉が持つ「難しそう」という言葉のイメージを利用した法廷弁論を行うことは間違いである。いわき病院代理人は言葉の遊びを行ってはならない。最高裁は、「普通人の常識で納得できる合理性」を求めているのである。高度とは、「大多数の常識人が納得する」という、「高度な理解」である。 (4)、いわき病院代理人が主張する「高度の蓋然性」 いわき病院代理人はいわき病院第11準備書面の「4 結論:P.28」で次の通り述べた。
いわき病院代理人は上記の主張が「普通の人の常識からとんでもなく逸脱していること」に気付いていないようである。そもそも、厚生労働省が認可して入院患者のみならず通院患者に大量に使用している医薬は安全である。いわき病院代理人の主張に基づけば、「服薬すれば10人中7人までが殺人行為に至る、客観的かつ科学的根拠が存在する薬剤を処方した医師には過失責任を問えない」ことになる。 また、薬を突然中止することで、10人中1人が殺人を行うことが確実な客観的かつ科学的データがある薬剤を厚生労働省が認可して市中に出回り、医師がその薬剤を処方してその後突然中止すれば、精神科病院の周りでは殺人事件が頻発することになる。当然、そのような危険な薬剤は医薬品として承認されるはずがない。常識観の欠如とは恐ろしいものである。いわき病院代理人の主張は間違いである。 (5)、いわき病院代理人の「AなければBなし」論の暴走 本件裁判の目的の一つは、「日本における精神科開放医療の実現と促進」である。従って、いわき病院代理人が「AなければBなし」の論理を用いるときに「外出許可なければ殺人なし」と論じることは、間違いである。「精神科開放医療を行う病院が、入院患者に外出許可を行っても、殺人事件は発生しない、精神科医療」が課題であり、それは諸外国の事例から可能であるからである。 いわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に対して行った精神科医療は、医療とは言えない不真面目なものであった。常識はずれの薬事処方を行い、その上で経過観察も行わないことでは、何れ重大事故が発生することは止められない。それでも10人中8人から9人の患者が殺人事件を引き起こすのではない。ごく少数の患者が希に殺人を行うような条件でも、殺人事件の発生を容認すれば、社会的に重大かつ深刻である。いわき病院の渡邊朋之医師が行う精神科開放医療で結果予見性と結果回避可能性を持たず発生した矢野真木人殺人事件に関して、非常識な「AなければBなし」論を展開した。いわき病院の渡邊朋之医師は、普通の医師であれば誰でも行うことを行わなかった過失がある。以下の諸点が実行されておれば、矢野真木人は現在でも100%生きている。
(6)、主治医が普通の医師なら殺人事件はなかった=AならばBなし いわき病院の渡邊朋之医師が、精神科医療を真面目に勉強して、薬剤の副作用などの重大な注意事項に従った処方を行い、受け持った患者の病状の変化を診察して、病状の悪化に対して時を置かず対応する医師であれば、矢野真木人殺人事件は発生しなかった。「AなければBなし」の論理は、逆転して表現することができる。「いわき病院と渡邊朋之医師が、今日の常識の医療水準を満たして、誠実に普通の医療を行っておれば、矢野真木人殺人はなかった」という常識論である。「AならばBなし」である。 いわき病院の高度の蓋然性の論理は「外出許可者の10人中7人までが行う殺人」には過失責任を問えないとして「社会として容認すべき」という主張である。現に矢野真木人殺人事件の発生に責任は無いと主張している。現実に矢野真木人は「10人中7人までが行う殺人は許容される」という認識がいわき病院と渡辺朋之医師にある中で殺人された。現実の社会では殺人事件があればその背景では桁違いに多い人身傷害事件が発生することが統計的な事実である。仮に「外出許可者の10人中7人までが行う人身傷害」であったとしても、いわき病院の周辺では人身傷害事件が頻発することになり社会は震撼する。その様な事態は容認されるはずがない。いわき病院代理人はそのことに気付かずに、十中八九の殺人を主張したが、いわき病院はその主張を訂正することがない。重大な人権上の問題を認識していない。 福島の原子力災害では東電福島第一原子力発電所近傍の住民が、ふるさとを捨て、自宅を捨てて避難している。原発事故で避難している住民は、将来がんの危険性が高まる恐れと健康に被害がある恐れがあるために避難しているのである。その恐れは、現時点で生命の維持に差し迫ったものではなく、数年後から数十年後に発病する危険性である。原子力発電事故避難者は、短期間の内に10人中8〜9人が死亡するから避難しているわけではない。いわき病院の主張は、「差し迫った生命への危機があっても、殺人事件の発生確率が10人中7人以下の頻度であれば、その危機を発生させた病院に責任は無い」と主張しているのである。現実に10人中1人が死亡するような状況が発生した場合、社会はその異常な高率の死亡率に騒然となることは間違いない。100人中1人であっても同様である。精神医療の議論では、命を守ることに関してもっと慎重であるべきである。健康な生命を維持することはそれ程重要である。 いわき病院の主張は、相手が健常者であれ精神障害者であれ、生命の安全と維持に無関心で、本質的に反社会的である。いわき病院代理人は日本精神科病院協会の顧問弁護士を務める精神医療事故裁判の専門家であり、繰り返し共通して同じ論理を用いている可能性があり、いわき病院代理人の弁論活動を体系的に検討してみる必要があることを指摘する。精神科開放医療は日本が国際公約として実行している政策であるならば、その推進を願う観点からみると、いわき病院代理人がこれまで果たしてきた役割は、病院に不作為と怠慢を許し、院外の一般市民に被害を甘受させようとする、およそ精神科開放医療の促進とは逆行する、極めて反社会的なものである。国際公約は口先で大義名分を主張すれば実現するものではない。現実に誠実に行われる医療が伴わなければならない。口先だけの弁明を過失責任を問わない理由として許していては、精神科開放医療が日本社会から信頼を得て定着して発展し、精神障害者の社会参加を拡大することにはならない。 |
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