いわき病院医療が引き起こした矢野真木人殺人事件
相当因果関係と高度の蓋然性
8、北陽病院事件に関する最高裁判例
(3)、最高裁判決を密かに否定したいわき病院
(1)、最高裁が棄却した北陽病院の上告理由
いわき病院代理人はKM弁護士であり、同弁護士は北陽病院事件でも代理人を務めていた。いわき病院第1準備書面(平成19年2月7日)と最高裁平六(オ)1130号、平8年9月3日、第三小法廷判決で上告棄却された北陽病院の上告代理人平沼高明、同野村弘、同堀井敬一、同KM、同加藤慎の上告理由は酷似している(【参考1】北陽病院といわき病院の主張を参考にしていただきたい)。これは、いわき病院代理人が北陽病院事件といわき病院事件に類似性があると認識していることを示す。北陽病院事件最高裁上告理由書は、病院外における入院患者による通り魔殺人事件の発生と病院側の過失責任を結ぶ、法的評価に関する病院の主張を述べたものであり、最高裁はこの上告理由を検討した結果「上告棄却」と判決した。
(2)、いわき病院代理人の裁判遅延戦略
いわき病院代理人は本件裁判においても、法的評価に基づいて過失責任の認定を行うことを強く求めてきた。そしていわき病院第1準備書面で北陽病院事件最高裁上告理由と同一内容の主張を行っていた。いわき病院代理人は地裁段階の審議でも、文書提出までに徒に時間を弄んだ事実がある。判明したことは、第1準備書面を提出する段階から無意味に時間を延長した後で、北陽病院事件の上告理由書を少し加工して、いわき病院の事例(語句)を当てはめるというだけの準備書面提出であった。そして、北陽病院事件裁判の上告理由の引用であることに付言するべきであった。そもそも前例の文書を借用するだけであるのであれば、作文に何ヶ月もの時間を要しない筈である。関係者に迷惑を押しつける行為である。
更に、裁判遅延戦略は、病院側鑑定人をして「事件当時と鑑定時点では医療水準が異なり、鑑定時点では大学病院などの高度な医療機関であれば問題となる医療であっても、当時の一般病院では過失とは言えない」として、客観的な根拠に基づかない(権威者の)鑑定意見を持ち出すための時間稼ぎであった。
(3)、いわき病院第1準備書面
本件裁判で、いわき病院側が最初に提出した第1準備書面は、北陽病院事件で病院側代理人が最高裁上告理由として、棄却された殆どの内容を同様に主張したことが判明した。いわき病院は、ほぼ同じ内容のままで主張を繰り返し、その上で、最高裁の判決で論理が否定されていたにも拘わらず、相当因果関係を北陽病院事件判決以上に詳細な条件を付して行うことを要求した。いわき病院代理人は北陽病院の代理人でもあったが、本件裁判で第1準備書面を提出するに当たって、既に最高裁で主張して棄却された論理であることに言及した事実は無い。あたかも、本件裁判で提出する独自で最初の主張であるかの如く主張した。
いわき病院代理人は日本精神病院協会の顧問であり、精神医療裁判をこなす熟練弁護士である。最高裁で棄却された主張を、そのことに言及せず使用して、しかも病院の過失に関する相当因果関係を認定する判断条件を困難な方向に転換することを意図していたとすれば、それは、最高裁判決を密かに否定する行為である。相当因果関係に関する最高裁判断を、それと言及することなく変更しようとする訴訟姿勢は公正ではない。
(4)、「高度の蓋然性」の過剰な要求
北陽病院事件判決で、最高裁は犯人の岩手県内の病院からの無断離院と4日後の横浜市内における殺人事件に対する病院の過失責任に関連して、弁護側が提出した無理難題論を棄却して、常識的で妥当性ある判決を行った。ところが本件裁判でいわき病院代理人は医療裁判における「高度の蓋然性」という言葉を持ち出して、言葉のイメージから殊更に困難で、現実的でない条件をいわき病院代理人の頭の中で創りあげて「原告は因果関係の高度の蓋然性を証明できていない」との主張を繰り返した。現実的でない証明を要求することは、殺人事件の原因究明と責任の解明を不可能にして、殺人事件に対策をとることを否定して、基本的人権である生存権をないがしろにする行為である。
相当因果関係が認定される「高度の蓋然性」とは、一般人が常識的に理解できる起承転結の論理である。「高度」という言葉が示唆することがある「高級技術」とか「難解な論理」を意味しない。「誰でも、普通に、理解できる」、また「高度=殆どの人間が納得する」という程度の「高度」の意味である。現実にあり得ない「高度の蓋然性=高度の特殊性」を殊更に要求することは、発生した殺人事件の原因解明と、より良い精神科開放医療の実現を願う社会の要請を否定する。実現性が無いことを要求することは、何もやらない、もしくは、非道なことでも何をしても良いという論理である。それは、精神科医療という社会事業の担い手として、極めて反社会的な見識である。
(5)、渡邊朋之医師の医療水準と過失免責の歴史
日本の精神医療の水準が世界的標準から比較すれば遅れていることは明らかである。本件裁判を通して、日本の精神医療の発展を阻害する医療側及び司法側の課題が浮き上がりつつある。精神医療の水準にも達しない医師が精神保健指定医の資格を与えられ、正確な向精神薬の知識を持たないで治療を行う、いわき病院の渡辺朋之医師のようなレベルの診療が誰からも批判もされず、その結果何が起こっても責任も問われず、精神病院協会お抱えの弁護士や司法精神医学の権威までにも「無責任に」擁護してもらえる実態が明らかになった。自らは適切でない医療を不誠実な態度で行っているにも拘わらず、いわき病院の医療に過失を認定することがあたかも日本の精神科開放医療を破壊する事と主張する姿勢と論理は公正ではない。
(6)、「開放医療」は免罪符ではない
いわき病院代理人は「開放医療」を免罪符のキーワードにしているが、「開放医療は入院形態や病状に関係なく、患者の好き放題に自由に行動できる」というものではない。野津純一氏は任意入院であっても、入院(治療)している以上は「何らかの(行動)制限」、例えば「院内諸規則を順守すること」を含め、「自宅とは異なる」環境に置かれていたことは明白である。いわき病院と渡邊朋之医師が野津純一氏に単独外出を許可したという事実は「それが可能である」、すなわち「自傷他害の恐れがないという予見性」という精神科医療機関・精神医療専門家として判断した合理的な理由が存在していなければならない。その前提を元にすれば「殺人を行うなど予見できなかった」という言葉は出るはずがない。いわき病院の弁明で、いわき病院の「杜撰さ」が浮き彫りになったのであり、精神医療のアンタッチャブルを巧みに利用した不誠実な弁明である。この様な不誠実な弁明を容認する事から、日本の精神医療の荒廃が事実となったと言える。
いわき病院の渡邊医師は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)に基づく精神保健指定医である。同法第36条に基づけば、精神科病院の管理者は任意入院者を含めて指定医が開放処遇の制限を行うことができるが、いわき病院と渡邊朋之医師は向精神薬の突然の同時中止という重大な誤りを犯したまま経過観察をせず、患者の診察要請も拒否し、ほったらかしの状態で外出させた。予見可能性があるかどうかを論じる以前に、病院として予見可能性を持たない恐るべき過失である。
(7)、法廷は日本の精神科開放医療を促進できる
いわき病院の渡邊朋之医師のような、ほったらかしの医療でも責任が問われない構造があってこそ、日本の精神医療の改善が遅々としているのである。本件裁判では、その遅れを生み出している当事者本人および代理人と鑑定人が、「日本の精神科開放医療の遅れが裁判によって生じる」と主張している。これは医師、弁護士、大学教授として、職務の本分に照らして公正でない。卑しく、また、たちの悪い冗談である。精神科開放医療の基本は事実に基づいた普遍的な人権擁護である。日本の精神医療の遅れは、精神障害者の人権を尊重しているとは国際的に認められない、入院医療の実態にある。精神科開放医療の理念ではなく、いわき病院で発生した事実に基づいて過失認定を行うことで、日本の開放医療は実現する。
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